Murph's Models カナダ 汎用機 Noorduyn "Norseman"・前編

久々3連休が取れたので月曜更新。だってのに、いきなりの猛暑でややグロッキー気味の筆者がお送りする世界のカードモデル情報。本日紹介するのはアメリカはアリゾナ州のブランド、Murph's Modelsからの新製品、カナダ 汎用機 Noorduyn "Norseman"だ。

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「ノールダイン」というのはちょっと聞かない名前だが、この名前を聞いて即座に回転機能を大胆に用いたナムコの横スクロールシューティングを思い出した読者はナムコ好きとして胸を張っていいだろう。
「はて、ノールダイン……この会社、他にどんな飛行機作ってたっけ?」と思わず首をかしげたくなるマイナーメーカーだが、それもそのはず、ノールダインが開発・製造した機種はこの「ノースマン」ただ一機種しかない。

ロバート・B・C・ノールダイン(Robert B.C. Noorduyn)は1893年4月6日、オランダ人の父親とイギリス人の母親の間に生まれた。幼少期をオランダで過ごした彼はオランダ、ついでドイツで技術を学び1913年にイギリスへ渡る。イギリスでは名機「キャメル」を産んだソッピース社の設計技師として働いた。
第一次大戦中の1917年、ノールダインは新しく立ち上げられたBritish Aerial Transport(英国航空輸送)、略してBATの製図チーフとして抜擢される。BATの設計主任は同じくオランダ人のフレデリック・コールホーフェン(Frederick Koolhoven)が努めており、敵であるドイツでもオランダ人アントニー・フォッカー(Anton Herman Gerard Fokker)が傑作機をどんどん生み出していたのだから、この当時の航空業界におけるオランダ人の活躍というのは決して無視できないものがあると言えるだろう(第一次大戦ではオランダは中立)。
BATは名前の割にはなぜか戦闘機ばかり設計しており、500機も生産されたソッピース・スナイプの後継機を狙ったF.K.25「バジリスク」なんていう超カッコイイ名前の戦闘機なんかも開発したが、第一次大戦の終結でどの機も数機から十数機の少数生産に終わり、BATは1919年に解散した。

BATがなくなってノールダインがオランダへ帰ると、オランダでは先にドイツから帰っていたフォッカーが工場を建てて新しい会社「オランダ航空機工場(Nederlandse Vliegtuigenfabriek )」を立ち上げていた。先述の通り、ノールダインとフォッカーは第一次大戦では「敵同士」ではあったが、フォッカーは高待遇でノールダインを会社へ迎え入れた。
ちなみに、もう一人のオランダ人、コールホーフェンも戦後オランダに戻っているが、彼はフォッカーと手を組まずに自分の会社を起こそうとしたがうまくいかず、自動車会社の設計技師などを転々とした後に1930年台に念願叶って会社を設立。堅実な複葉練習機で実績を重ねる傍ら、100トン飛行艇とか二重反転プロペラの超戦闘機とかおもしろおかしい設計を考えてたらドイツ軍の侵攻で国がなくなって、会社は再建されなかった。

1920年台フォッカーの会社は作る旅客機がどれも大当たりで業績好調、名前も堂々「フォッカー」に変更した。フォッカーはさらなる業績拡大のためにアメリカに工場を建設することとし、現地支社の責任者として送られたのがノールダインだった。
ニュージャージー州テターボロに派遣されたノールダインはここでフォッカーのヒット作の一つ、高翼単葉単発の汎用機、「フォッカー・ユニバーサル」を設計・開発している。
この間、フォッカーのアメリカ支社は「アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカ」という会社に成長し、フォッカー自身もアメリカに渡りアメリカ国籍を取得するなど着々と業績を重ねていたが、1929年、ノールダインはフォッカーを退社してしまった。
ノールダインがフォッカーを辞めた理由ははっきりしない。しかし、当時フォッカーは3発のF.VII、双発のF.VIIIなど多発の大型旅客機を得意としており、フォッカー・ユニバーサル、後のノールダイン・ノースマンと小型単発機を得意としていたノールダインとは意見の相違があったのかもしれない。この推測を裏付けるように、フォッカーを辞めたノールダインは超長距離飛行向け単発機の製造に定評のあった「ベランカ」へ再就職している。

ノールダインはベランカで個人向け単発汎用機、CH-400「スカイロケット」(犬がフリスビーくわえて帰ってきたみたいなレイアウトで有名なグラマンXF5F「スカイロケット」とは関係ない)の設計を行っている。また、傑作単発機CH-300「ペースメーカー」の局地向けカスタム機の開発も行っていた。
しかし、ベランカもノールダインの目指す方向性とは違ったようで、ノールダインはわずかな年数努めただけでベランカを退社。今度は「ピトケアン オートジャイロ」なんていう聞いたこともない会社で4座席のPA-19オートジャイロなんてのを設計したが、やっぱりこれもなんか違うな、ということでここも早々にやめてしまった。
意中の機体を設計できずに航空会社を転々としていたノールダインは1933年、ついにウォルター・クレイトン(Walter Clayton)と共同で自身の会社「Noorduyn Aircraft Limited」(1935年に「Noorduyn Aviation」に社名変更)をカナダで立ち上げる。ちなみにこの「ウォルター・クレイトン」という人物、この一瞬しか名前が出てこない。詳細な情報も一切見当たらず、単に共同出資者として資金提供をしただけだったのかもしれない。

ノールダインの作りたい飛行機は、不整地や局地での運用に強く場合によっては水上、雪上でも運用が可能。荷の積み下ろしが容易で、高価ではなく、複雑ではなく、同等の飛行機よりも優秀でなければならない、というコンセプトだった。
そんな夢のような飛行機がほいほいできたら苦労せんわ……と思わずにはいられないが、ノールダインはこの時までずっとアイデアを温めていたのだろう、1935年11月14日に最初の「ノースマン」がほいほいと初飛行を果たした。

それでは、ここでやっとこ完成したノースマンの姿をEcardmodelsの商品ページの完成見本写真で見てみよう。

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ぶっちゃけ、ちょっとヘニョい作例だが、まぁそれはいいとして、広く短い踏ん張るようなスタイルの着陸脚がノールダインの想定した不整地での運用を保証している。ここでは車輪を取り付けているが、わずかボルト2本の着脱で降着装置は車輪、スキー、フロートを取り替えることができた。おもしろいことに、ノースマンは一般的なこのスタイルの飛行機とは逆に、最初にフロートで設計され、オプションとしてスキーが、そして最後に車輪がサポートされたそうだ。

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太く短い胴体は容量も十分。脚が短いために積み下ろしのためのハッチが高くなりすぎていないこともよく分かる。
キットの塗装は米軍向けC-64(後にUC-64にカテゴリが変更された)。ノースマンの機体基本構造は鋼管帆布張りなのでグレー部分はギンギラのベアメタルではなく、実機でもこんな感じの色調のシルバードープ塗装だ。ド派手な赤い翼と尾部は雪上に不時着した時に発見を容易とするため。

(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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アメリカ 軽戦車 Ford 3-Ton M1918 2種(後編)

この歳にもなって下り坂で脚を取られて前につんのめって転び、両手のひらに擦り傷を負った筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。まぁ、とっさに手が前に出ただけいいとするか。
今回も前回に続き、ポーランドModel-KOMの新製品、アメリカ軽戦車 Ford 3-Ton M1918の紹介。

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キットの表紙。よく見ると、なんか履帯の下部が地面に埋もれてたり機関銃から妙に弱々しげな銃火がポフっと出ていたり、色々と味のある絵だ

1918年、戦車を持ってないアメリカ軍のためにフォードが開発した新型戦車は、おそらく軍からルノーFTの資料供与があったのだろう、各所にルノーの影響が見て取れるものであったが、砲塔を廃止し、車体に直接機関銃(ブローニング7.92ミリ機関銃、銃弾数550発)をマウントするという思い切った変更が加えられていた。
注目すべきはエンジンで、ルノーの39馬力エンジンに対して、24馬力エンジン2基を搭載していた。このエンジンはフォードがすでに飽きるほど生産しているT型フォードのエンジンで、その気になればちょっと表に出て通りかかったフォードT型を買い取ればいくらでも手に入るという利点があった。
「え、乗用車のエンジン2つで戦車って動くの?」と心配になるが、新型戦車はその名の通り自重が3トンしかない(フォードT型は700キロ程度)上に、T型のエンジンは排気量約3リットル、最大トルクが回転数1000rpmで11.3キロという、ちょっと信じられないような数字(うちの駐車場に停まってるダイハツ・タントと比べると、タントは排気量660cc、最大トルク3200rpmで10.5キロ、車重890キロ)の、低速域で粘りのあるエンジンなので問題ないとされた。この、現在の目で見ると異様とも思えるエンジンスペックは全米の道路がまだ十分に舗装されていなかった時代の悪路に対応するためのもので、道路が整備されていくと共に低速重視のフォードT型は時代遅れな車となっていく。
装甲についてははっきりした数字が記されていないが、おそらくルノーFTと同程度で15ミリから22ミリ程度ではないだろうか。
最高速度は時速約13キロ(8マイル)。整地/不整地の記述がないが、ルノーが整地で20キロだから、おそらくフォードも条件が良い場合の速度だろう。燃料タンクは64リットル(17ガロン)。作戦行動距離は54キロ、と資料にあるが、これがどういう条件の数字なのかはちょっとわからない(ちなみにフォードT型の燃費はリッター約10キロだった)。

それではここで公式サイトの完成見本写真を……といきたいところだが、なぜか中途半端に組み立て途中の写真しかなかったのでそれを見ていただこう。

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足回りがまだ組み立てられていないお陰で、車体形状が良く分かる。一見不思議な形をしているように見えるが、ルノーが前に操縦士、後ろに砲手という縦の乗員配置だったのに対してフォードは車内から見て右に操縦士、左に砲手という横配置にしたお陰で乗員スペースが前後に詰まっており、またエンジンスペースもエンジンが前後に長いルノーに対してT型用エンジン2基を横に並べているために前後が詰まっており、全体的に前後を潰したディフォルメ・ルノーと言えるスタイルとなっている。
なお、2基のエンジンは右履帯、左履帯と独立していたわけではなく、同期して一本のシャフトを回しているようだがちょっと確証はない。

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正面から。車体の前の棒は車外装備品ではなく、なんと誘導輪のシャフト。ここは一番攻撃が集中する場所なんで、ちょっとぐらい車体が重くなっても車内に収めるべきだったではないかと思うのだがどうだろうか。
また、向かって左側、操縦士全面の装甲は一枚板の大きなハッチになっており、基本的に乗降はここから行う(砲手席天井も開くことはできる)。これまた、攻撃が集中する場所にこんな大きなハッチはいかんだろう、と思うがどうなんだろうか。第一、このレイアウトじゃ敵の前で故障したら脱出できないじゃないか(ルノーは砲塔背面にもハッチがある)。せめて操縦席前面は固定にして、天井を(必要ならキューポラごと)前開きで盾にできるようにすれば良かったんじゃないかと思うのだが、これまたどうなんだろうか。
他にも、操縦席前面で跳弾した銃弾が思いっきりキューポラに直撃するぞとか、ベンチレーターがないけど換気どうするんだ(これは第一次大戦型戦車のほとんどが抱えていた問題)とか、いろいろと不思議な戦車だ。
ちなみに、戦闘室背面、機関室の斜め左右上砲にピストルポートらしきものがあるので、背後から敵が迫った時にはここからコルトM1911でガバガバと敵を射つのだろう。

フォード3トン戦車の試作が進んでいた1918年11月、不意に全てがご破産になった。
第一次大戦が終結したのである。
完成した試作15輌のうち1輌、もしくは2輌がフランスに送られ性能を試験された(時期ははっきりしない)が、試験結果についても述べられている資料を見つけることができなかった。しかし、残されている映像を見る限りではフォード3トン戦車はやや起伏に弱く、アンダーパワーであるように感じる。また、塹壕戦で使用するには尾橇を入れても全長が少し足りないようだ。
問題は、ほぼ同時期により本格的な戦車であるルノーコピーのM1917が試作を完了していることである。戦時なら、すぐに数を揃えられるフォードを大量生産し、急いでフランスに送るという選択肢もあった。だが、戦争は終わった。
結局、1万5千輌の大量発注は全てキャンセルされ、フォード3トン戦車の生産は試作15輌で終わった。
かなり多数のフォード3トンが一斉に行動するフィルムが残っているので、フォード3トンはしばらく演習などで使用されたようだが、最終的には950輌が生産されたM1917に置き換えられている。
現在は2輌が現存しており、1輌がジョージア州フォート・ベニング基地の装甲・騎兵博物館に、もう1輌がヴァージニア州フォート・リー基地の収蔵品となっている。

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展開図と組み立て説明書のサンプル。テクスチャは弱い汚しが入っているようだ。

さて、今回は関連商品をもう一点。
併せて紹介させていただくのはポーランドのブランドSZKからの新製品、アメリカ軽戦車 Ford 3-Ton M1918だ。

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同じじゃねーか!
なんでこんなアイテムがバッティングするんだ。わからぬ。日本人の筆者にはとんとわからぬ。たぶん、ポーランド人にもわからない。
あるいはどちらかの美女スパイがお色気で現在製作中のキット情報を盗み出したのか。それにしても同じものをぶつける意味がわからん。それともポーランドではポーランド版ガールズ&パンツァーが放映中で、人気大爆発中のまま第一次大戦編に突入したのか。

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写真はSZK版の展開図見本。テープで留めてあるのは筆者が落っこちてた写真を貼って画像を作ったわけではなく、公式でもとからの演出。最初、あまりのタイミングの良さにModel-KOM版とSZK版、中身が同一なのかと思ったが、展開図が異なるので全くの別設計のようだ。

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こちらは組み立て説明書。
SZK版の特徴は、表紙にも小さな写真が載っているがなんと内部再現キットであること。ツインエンジンの様子や、前後にオフセットされた乗員配置などがわかって興味深い。必然的にSZK版の方が「上級者向け」と言えるだろう。
また、よくみると機銃周りのディティールが異なっており、SZK版は初期に装備していた液冷型ブローニング機関銃、Model-KOM版は戦後に換装された空冷型ブローニングを装備しているようだ。

なにがどうなったのか、なぜかバッティングしたアメリカ軽戦車 Ford 3-Ton M1918、2種。2キットとももちろん陸戦標準スケール25分の1でのリリースで完成全長約16センチというお手軽サイズ。難易度はModel-KOM版が4段階評価の「2」(やや易しい)、内部再現キットのSZK版が5段階評価の「5」(とても難しい)となっているので自身のテクニック、フォード3トンへの愛情と相談してキットを選びたい。定価はModel-KOM版が29ポーランドズロチ(約950円)、SZK版が39ズロチ(約1300円)となっている。
第一次大戦の戦車ファンなら、珍しい車輌を机上に飾れるこの機会を見逃すべきではないだろう。また、フォードファンなら2キットとも購入し、作り比べてみるのもいいだろう。



写真はそれぞれModel-KOM、SZKのサイトからの引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Ford_3-Ton_M1918
https://ja.wikipedia.org/wiki/フォード・モデルT
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー・フォード
https://ja.wikipedia.org/wiki/M1917軽戦車
https://en.wikipedia.org/wiki/Tank_Mark_VIII
それぞれの英語版も参考とした。

https://www.militaryfactory.com/armor/detail.asp?armor_id=679
フォード3トン戦車についてはこちらの方がやや詳しい。

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アメリカ 軽戦車 Ford 3-Ton M1918 2種(前編)

ここしばらく続いてい0たひどい咳がやっとおさまってきて、さーてそろそろ紙工作も再開させようか、と企む筆者のお送りする世界の最新カードモデル情報。本日紹介するのはポーランドModel-KOMの新製品、アメリカ軽戦車 Ford 3-Ton M1918だ。

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冷戦期の、割りとどうでもいい試作機やあんまり主流じゃない装甲車輌を素晴らしいクオリティで提供し続けているModel-KOMから、まさかの第一次大戦車輌のリリース。これはやはり大戦100週年を記念してのことなのか。ちなみに今から100年前の1917年9月は第十一次イゾンツォ戦の戦いの最中。イタリア軍がオモシロ砲艦ファー・ディ・ブルーノとか38センチ列車砲を投入して頑張ってたころだ。

「フォード3トン戦車」は以前にNHKの「映像の世紀」(旧シリーズ)で鉄条網を踏み越えようとしたら車重が軽すぎて鉄条網が潰れず、勢いで華麗な後転を決める斬新な挙動が日本中のお茶の間に放映されたことで、この手の戦車の歴史からこぼれ落ちてどっか行った車輌の中では比較的メジャーな車輌ということができるだろう。しかし、実際に生産された車輌としては意外なほど資料が少なく、その生産に至る経緯などはいまいちはっきりしない。
なお、表紙画像では、背後の木の大きさが怪しいせいで大柄な車輌に見えるが、実際には全長4.3メートル、幅1.8メートル、高さ1.8メートルしかない、かなり小柄な車輌だ。これは同時期のフランス軽戦車ルノーFT-17が全長5メートル、幅1.7メートルだから幅でほぼ同じ、全長で70センチ短い。逆に言うと、ルノーに比べてそれだけしか差がなく、登場時期はもっと後になるがポーランドのTKS(全長2.6メートル)など、いわゆる「豆戦車」に比べると意外なほどの大きさがある。これは、おそらくこの時期には機関の小型化が進んでいなかったからであろう(ただし、ルノー、フォードは全長を稼ぐための尾橇を入れた長さである)。
ちなみに小さい車輌と言えばソビエトにはППГ(PPG)という、乗員2名が寝そべって乗る戦車的な何かがあって、こいつは全長2.5メートル、幅1.7メートル、そして高さたったの86センチというヤケクソ気味な大きさだが、まだカードモデル化はされていないようだ。

1917年、ルシタニア号は撃沈されるわ、メキシコには「アメリカを南から奇襲攻撃してくれたら、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの三州をメキシコ君にあげちゃってもいいかなー☆」なんていう不埒な電報が送られるわで、堪忍袋の尾が切れたアメリカは4月に対独宣戦布告を行う。
しかし、宣戦布告したはいいがアメリカは戦争準備を全く行っていなかった。兵力は豊富な人口と整備された鉄道網、州兵システムなどを活用してそれなりの数を集めたが、武器はそうやすやすと揃えることはできない。ソーシャルゲームならここで潤沢に課金して生産時間をキャンセルしてあっという間に軍備を整えるところだが、さすがのアメリカも現実にそれはできなかった。
なによりも不足しているのが、飛行機、戦車といった第一次大戦の新兵器で、参戦時のアメリカの戦力は軍用機50~60機(確定的資料なし)、戦車ゼロ、という冬戦争のフィンランド軍の方が強そうな数字だった。
戦車が本格的に大量投入される「カンブレーの戦い(11月から)」はまだだったが、機械化大好きアメリカ軍は参戦の時点で陸戦を決するのは戦車であると見抜いており、陸軍は5月には早くも「勝利するためには戦車が必要! 戦車戦車戦車!」と言い出していた。

イギリス軍は以前からアメリカ参戦時にアメリカの工業力を戦争に役立てるために米英共通仕様の戦車を一緒にドンドコ生産するというアイデアを持っており、これに従い「マーク8(Mark VIII)」という、なんかインディ・ジョーンズの映画で見たような薄ら長い菱形戦車の究極進化形の開発が始まったが、こいつはなにしろデカいし、長いし、で完成まではまだ時間のかかることが予想された。
そこで、マーク8登場までの「つなぎ」としてアメリカは軽戦車を先に生産することとして、軽戦車といえばルノーFTだよねー、というわけで、「アメリカ製ルノーFT、期待してるザンスよ」とフランスからルノーFTの実車サンプル、設計図などの資料がどっさりとアメリカに送られた。
うふふー、新兵器の設計図もらっちゃったぞー、と届いた荷物の梱包を解いてワクワクしながら設計図を読み始めた担当者だったが、すぐにとんでもないことに気がついた。
そう、フランスはメートル法、アメリカはヤード・ポンド法だからネジ1本の製造にいたるまで、現在アメリカにある工作機械が全く使えないのだ。
これは大問題だった。工作機械が全て使えないのでは、「アメリカの豊富な工業力で」という前提が全て崩れてしまう。
やむを得ず、アメリカではルノーFT戦車の設計図を1からヤード・ポンド法で引き直し、「M1917軽戦車」という、間違い探し級にクリソツな戦車を開発・生産することとなった。ちなみに最も簡単な識別ポイントは、M1917は砲塔前面に外装防盾が追加されている点だ。
こんなことをやっていて予定に間に合ったら世界からブラック企業は消えてなくなるわけで、案の定生産は遅れに遅れた。フランス軍では1918年の春にはアメリカから300両程度のアメリカ製ルノーFTが届くよ! やったね! 戦車が増えるよ! と思っていたのに、最初のM1917が完成したのが10月。最初の2輌がフランスに到着したのは戦争が終わってからだった。
結局、フランスは逆に100輌以上のルノーFTを大陸に派遣されたアメリカ軍に供与する羽目になった。

生産が間に合いそうにないマーク8、それを補うつもりだったのにやっぱり生産が間に合いそうにないM1917、とツーアウトに追い込まれたアメリカ陸軍が次に立てた計画が、「もっと安価で、ドカドカ作れる戦車を手っ取り早く開発してドカドカ作ってドカドカ大陸に送り込もう」というものだった。
この、安い、早い、そこそこ強い、の三拍子揃った戦車の開発はアメリカ工業界の巨人であり、同時に世界屈指の巨大工業メーカーであるフォード・モータースが請け負うことになるのだが、どういうわけか、資料ではこのへんから開発経緯がひどく不明瞭になる。それが明らかになるとまずい連中がいたのだろうか。
なにしろ製作が軍からの依頼だったのか、それともヘンリー・フォードが見るに見かねて言い出したのか、それさえはっきりしない。
とにかく、フォードはまず試作15輌、そのテスト結果が良好なら続いて1万5千輌を1日100輌のペースで大量生産するという取り決めを行った。

(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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Heinkel Models アメリカ装甲艦 USS Lafayette(後編)

先日開発室にカンヅメになった時に、朝食として「ジャンボどら焼き」を食べたらこれがまたヘビーで、いよいよ寄る年波を思い知らされた筆者がお送りする世界のカードモデル最新情報。
今回もアメリカ装甲艦 USS Lafayette、いよいよ北軍のヴィックスバーグの突破作戦が始まるというクライマックスからのスタート。

1863年4月16日。北軍ミシシッピ艦隊のラファイエットを含む装甲艦7隻は増加装甲として丸太と濡らした干し草の束を船体に積み上げ、空の輸送船3隻と共にヴィックスバーグへと接近しつつあった。北軍による突破作戦の開始である。
当初はできるだけ物音を立てず、できれば気付かれずにヴィックスバーグの前を通過するつもりだったが、もちろんそんなことはできずに北軍艦隊はただちに発見された。
たちまち川岸に無数のかがり火が焚かれ、照らし出された艦隊にヴィックスバーグ砲台からの集中砲火が始まる。
砲弾が次々に飛来する中、冷静に戦況を見ていたミシッピ艦隊司令官デイビッド・ディクソン・ポーターは南軍砲台の砲弾が北軍艦隊の高い位置にばかり命中していることに気がついた。ポーターは川幅の広いミシシッピ川で少しでも砲台から距離を取ろうとする艦隊に、逆に砲台へ突っ込み東岸沿いに航行することを命令する。
この判断は正しかった。高い位置からミシシッピ川を見下ろすヴィックスバーグ砲台は、その足元が死角となっていたのだ。
北軍ミシシッピ艦隊は2時間半かけてヴィックスバーグ砲台の前を通過、全艦が下流への突破に成功した。
ラファイエットはこの戦いで少なくとも砲弾9発が船内に飛び込み、曳航していた輸送用のハシケは撃沈されていたが大きな損傷は被っておらず、またしても装甲艦の堅牢さを証明することとなった。
22日にはさらに6隻が砲台を突破、北軍艦隊は着実にミシシッピ川下流を制圧しつつあった。

ミシシッピ川を北上してきたファラガット提督の艦隊と合流したミシシッピ艦隊は集中砲火で南軍の小砲台を一つづつ潰していき、陸軍は次々にミシシッピ川を越えてミシシッピ州内へと前進していく。
ポーターは海軍長官ギデオン・ウェルズに「海軍はヴィックスバーグへの入り口を保持してる」と書き送った。
5月、ヴィックスバーグ東方のミシシッピ州州都、ジャクソンを北軍が占領。ヴィックスバーグは孤立する。
追い詰められた南軍はヴィックスバーグでよく戦ったが、すでに命運は決していた。
東からは陸軍の野砲が、西からはミシシッピ艦隊の艦砲が昼夜を分かたず砲撃を続け、食糧が尽き救援の見込みもなくなったヴィックスバーグは1863年7月4日、ついに降伏した。南北戦争開戦から2年、ついに北軍のアナコンダはヴィックスバーグを飲み込み包囲を完成させたのである。
この戦いでは南軍兵士3万が捕虜となった。市街への砲撃は激しかったが、まだ榴弾が実用化される前だったために市民の死傷者は意外なほど少なかったという。
ちなみに7月4日はアメリカの独立記念日だが、ヴィックスバーグではこの敗北のために長らく独立記念日を祝うことがなかった、という伝説があるが、これはやや誇張されたものらしい。

ヴィックスバーグが降伏する前日、1863年7月3日に東海岸では南軍の猛将、ロバート・E・リーの北部侵攻軍がゲティスバーグで北軍と激突し大損害を被っていた。この手痛い敗北により南軍は一気に北軍首都ワシントンを突く決戦を行うことが不可能となった。そして、西部ではアナコンダが物流を遮断し南部の経済を長期的に破綻させつつあった。
ヴィックスバーグとゲティスバーグ。1863年7月のこの2つの敗北によって南軍勝利の可能性は潰え去ったのである。

ミシシッピ川制圧後、ミシシッピ艦隊はフランスのナポレオン三世が送った義勇軍とメキシコ軍が攻めてくるのを防ぐために、その足がかりとなるテキサス州を包囲する「レッド川作戦」に参加したが、その時はミシシッピ川の支流レッド川の水位が低かった上に南軍は上流に関を築いてレッド川へ流れ込む水の量を制限したために艦隊は身動きがとれず、大した活躍もないままにミシシッピ川へと帰還した。レッド川作戦はほとんど成果を上げずに失敗に終わり、そもそもフランスが義勇軍を送ったとか、メキシコ軍が攻めてくるとか、そういうのが全部ただの噂だった。
外洋には出られない河川砲艦からなるミシシッピ艦隊はその後は川を渡ろうとする南軍がいないか見張る以外には別段やることもなく、そのまま1865年5月に南北戦争は北軍の勝利で終わった。
戦後、だぶついた軍艦が整理されることとなりラファイエットは1865年7月23日に除籍となった。しばらく、そのままニューオリンズに係留されていたが、もとの貨客船に逆改造しようにも取っ払った上部建造物を全部作り直すのなら、いっそ使える部品を使って新しい船を建造したほうが早いということで最終的に1866年年3月28日、ラファイエットはスクラップとして売却された。

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ラファイエットの展開図、組み立て説明書サンプル。甲板などの木目表現はされているが全体的にはあっさりしたテクスチャ表現のようだ。手間をかけられるなら、装甲板一枚づつに調子をつけて質感をアップしてみるのもいいだろう。

Heinkel Modelsからリリースされた、アメリカ南北戦争の勝敗を決したミシシッピ川の戦いに参加した装甲艦「ラファイエット」は海モノ標準スケール200分の1で完成全長約43センチ。艦底付きのフルハルモデルとウォーターラインモデルの選択式で定価は13.75ドル。
Heinkel Modelsは以前にもミシシッピ艦隊の装甲艦”USS Choctaw”もリリースしている。

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ラファイエットと同様に、他の惑星からふらっとミシシッピ川に遊びにきたようなチョクトーは定価8.75ドル。ミシシッピ艦隊ファンのモデラーなら、是非とも2隻とも購入し机上にミシシッピ艦隊の勇姿を蘇らせたいところだ。



写真はecardmodelsから引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Lafayette_(1848)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビックスバーグ方面作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビックスバーグの包囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/デイビッド・ディクソン・ポーター
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィンフィールド・スコット
それぞれの英語版も参考とした。

https://www.militaryfactory.com/ships/detail.asp?ship_id=USS-Lafayette-1863
古今東西、ありとあらゆる武器の情報まとめサイトからラファイエットのページ。

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Heinkel Models アメリカ装甲艦 USS Lafayette(中編)

この一週間ほどで歯の詰め物が取れたかと思ったら、全然関係ない歯が突然欠けて、ついでに扇風機の電源が入らなくなり、さらにモバイルルーターの電源まで入らなくなってほとほと困り果てた筆者のお送りする世界のカードモデル情報。ツイてない時ってのは重なるもんだ。
今回は前回に続きアメリカ装甲艦 USS Lafayette。話は北軍がニューオリンズを攻め落とした続きから。

1862年夏、北軍はミシシッピ川河口部のニューオリンズを占領、大西洋からメキシコ湾に至る南部諸州の海岸線全域の封鎖を完了した。
しかし北軍はミシシッピ川下流に有力な河川艦隊を持たず、南部の商人達は北軍舟艇が少ない地域でミシッピ川を越えて行き来しており、これを塞がなければ「アナコンダのように南部を締め上げ、その国力を削ぐ」という北軍基本方針の達成はできない(当時の陸軍の規模では陸上を封鎖することは難しい)。
これをどうにかしようとミシシッピ川上流、北部州で建造した艦隊を下流に持ってこようとした北軍の前に立ちはだかったのが、ミシシッピ州のヴィックスバーグ要塞の砲列であった。
リンカーン大統領もこの状況を憂慮しており、「我々はヴィックスバーグという鍵をポッケトに入れることができなければ、この戦争に勝利することはできない」と書き残している。

1862年の夏から秋にかけて、北軍は各方面からミシシッピ州を攻略しようといろいろと試したが、まぁいろいろ、って言ってもまだ爆撃とか超長距離砲とかない時代なんで、結局は「ちょっと変わった方から攻撃する」って程度で、防備を固めた南軍は一歩も引かなかった。
試行錯誤の末、アメリカ合衆国(北軍)司令官ユリシーズ・グラントは1862年の秋に新たな方針を立案する。
それは、上流にいるミシシッピ艦隊の一部にヴィックスバーグの眼前を強行突破させ、下流にミシシッピ艦隊別働隊を編成するというものだった。
北軍が下流に河川艦隊を保有すれば、北軍は下流で自由にミシッピ川を渡ることができるようになり、現在は比較的手薄なミシシッピ州南部からも侵攻できる。
そもそもミシシッピ川を制圧すればアナコンダプランは完成したも同然で、ミシシッピ州、ヴィックスバーグ要塞の戦略的価値そのものが大きく低下するので、ぶっちゃけ放っておいても構わなくなる。

1862年秋、ミシシッピ川上流セントルイスで要塞突破艦隊の建造が始まった。
とは言っても、一から新しい船を建造するわけではない。開戦と同時に北軍はミシシッピ川を航行する多くの汽船を徴用して兵員や物資の輸送に利用していたが、そのうちの何隻かを1862年の春にハンプトン・ローズの戦いでその防御力の高さを認められた装甲艦に改造するのである。
そんなわけで徴用船舶の中の一隻、「フォート・ヘンリー」も装甲艦に改造されることとなった。
ヘンリー・フォートはもともと1848年に建造された外輪汽船で、徴用前の名前はアレック・スコット(Aleck Scott)だった(資料によってはアリック・スコット(Alick Scott)になっている)。「ミシシッピ川の外輪船」というと、船尾で大型のドラム型外輪がバタバタ回ってる船を想像しがちだが、フォート・ヘンリーは舷側型。なので頭の中で観光用のミシシッピ川船尾型外輪船のお尻を普通の船に変更して、舷側に日本に来た「黒船」みたいな車輪型外輪を取り付ければだいたい、フォート・ヘンリーの姿となる。
さて、それを装甲するとどうなるか。
こうなる。

hnkl_uss_lafayette_1200_1.jpg hnkl_uss_lafayette_1200_2.jpg

なんだこりゃ
なんというか、「船」というものの形を超越した何かになっている。宇宙戦艦か、これは。
いや、外輪もカバーしなきゃいけないし、重量を抑えるために上部建造物は絞らなきゃいけないし、言いたいことはわかるんだ。決して理解不能じゃないんだ。それにしてもこれはなんとも画期的なスタイルで……

hnkl_uss_lafayette_1200_3.jpg

この、船体から外輪カバーに繋がる線をこんなきれいな曲線にする必要はあったのか。艦首と艦尾の天井部分を凝った2段テーパーにしてる必然性もよくわからない。外輪カバーの上にある囲みは舷側方向を監視するための設備だろう。装甲バードウォッチング小屋みたいな監視塔も、もうちょっとなんとかならなかったんだろうか感に溢れていて素晴らしい。

装甲艦となったフォート・ヘンリーは独立戦争でアメリカのために駆けつけてくれたフランス軍人、マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ、すなわちラファイエット侯爵から名前を頂戴して「ラファイエット」に名前が変更された。
ラファイエットは見た目はイカツイが水深の浅いミシシッピ川で運用するので全長85メートル、排水量1200トンとそれほど大きい船ではない。南軍の装甲艦「バージニア」が全長84メートル排水量約3000トンだから、それに比べると装甲はかなり薄かったようだ。
武装は艦首方向に28センチダールグレン前装滑腔砲2門、舷側に23センチダールグレン前装滑腔砲4門、あと、後ろ向きに100ポンド(口径約16センチ)パロット砲2門。パロット砲というのは極初期のライフル砲(前装)で、砲尾部分に分厚く鉄のベルトを巻いて補強しているのが外見上の特徴だが、せっかく補強したのに砲尾が破裂することが多く兵士には嫌われていたらしい。
砲の数がキットと合わないが、本当は舷側の4門は艦内で向きを変えて左右どちらかに突き出すようになっていたんだろうか。
速力は最初っから期待できない外輪船な上に装甲までしちゃったんで最高4ノット(時速約7.4キロ)しか出ない。
この速力で、装甲を頼みにヴィックスバーグ砲台の射界内をのっそりとダッシュで突破しようという作戦だ。

(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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