Murph's Models アメリカ 試作汎用輸送機 Burnelli UB-14・後編

先日の大雪で出社を一時間遅らせ、わっしょいわっしょいと家の前を雪かきをしたら2日ほど腰と膝が痛くてしかたなかった筆者のお送りする世界のカードモデル情報(しかもその夜にはほとんど雪溶けてた)。
ウィリアム・クリスマスの激ヤバ飛行機のことは早く忘れて、それよりも極厚の翼をぶった切って胴体にしたような「リフティングボディ機」で一世を風靡しようと航空業界に打って出たヴィンセント・ブルネリの飛行機列伝、いよいよ変な胴体の飛行機がぞろぞろ列をなしてやってくる後編。

レミントン・ブルネリRB-1が乗客30人とか、車そのままとかを飛行機の中に積んで当時としては桁外れの積載量を発揮したことで手応えを感じたブルネリは1928年、さらに洗練されたリフティング・ボディ機として、CB-16を設計する(RB-3でないのは、出資者が変わったかららしい)。

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写真はWikipediaからの引用(この項、全て同じ)。
CB-16は単葉引き込み脚の双発機(アメリカで初めて多発機で引き込み脚を装備した機体)で、尾翼はそれ以降の機体と同様、ブームの後ろに尾翼がつくようになっている。これは以前の形式では上下左右方向への操縦性に難があったためらしい。
キャビンの広さは長さ5.5メートル、幅3.5メートルと相変わらず圧倒的で、さらにキャビン内には小さなキッチンとトイレまで備え付けられていたというから、こりゃすごい。あとはシャワーがついてれば空飛ぶホテルだ。
キッチン・トイレ付きということもあり、どうやらブルネリはこの機体をRB-2のように「空飛ぶオフィス」としてエグゼクティブ層に使ってもらうことを想定していたようだが、折り悪くアメリカは大恐慌に突入してしまい、エグゼクティブ達もそれどころではなくなってしまった。なお、1930年にブルネリは別の会社でほぼ同型のUB-20を設計している。

大恐慌から世界が立ち直りつつある1934年、ブルネリは次なるリフティングボディ機として、Murph's Modelsからキット化されている当記事の主役、UB-14を完成させる。

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この機は1934年末に完成したが、1935年1月に早くも墜落事故を起こしてしまう。これはどうやら整備不良が原因だったようだが、着陸に入ろうとした際に大きく傾き片翼の先端が地面に接触、時速200キロで地面に叩きつけられるひどいクラッシュの仕方をしたが、乗員全員が大きな負傷をしなかった。これは、従来形式の機体胴体ができるだけ軽くしようと作られているのに対し、リフティング・ボディ機の胴体は浮力を受け止めるために頑丈に作られていたためだと考えられている。
2機目がすぐに建造されヨーロッパで売り込みが行われたが、結果は芳しくなかった。アメリカに戻ったUB-14は、デモンストレーションとして世界一周飛行が計画され機体も真っ赤に塗られ、太平洋無着陸横断飛行で有名なクライド・パングボーン(Clyde Edward Pangborn)がパイロットを務める予定だったが、これも戦争勃発で中止となってしまった。

アメリカで2機だけ生産されたUB-14だったが、イギリスのカンリフ・オーウェン航空機(Cunliffe-Owen Aircraft Ltd.)というところがライセンスを購入し、ほぼ同型機(機内レイアウトとエンジンが異なる)の製造を試みている。こちらも戦争勃発でゆったりスペースの高級輸送機を作ってる場合じゃなくなって、完成したのは1機だけだったが、この1機は英国空軍に徴用された後で自由フランス軍に譲渡され、最終的にはシャルル・ド・ゴール将軍の専用機となっているので、やっぱり偉い人のための特別機としては抜群のキャパシティを持っていたのだろう。
なお、前編冒頭のキット写真でUB-14はインベイジョン・ストライプが塗られていかにも戦争後期に活躍したような塗装になっているが、これはあくまでの実戦配備された時を想定した「架空塗装」だ。

その後、ブルネリは1943年に米陸軍のためにリフティング・ボディのグライダーXCG-16を設計している。
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特異な機体形状がよくわかる素晴らしい写真。
XCG-16は1機目が乱気流による荷崩れ(砂袋のダミーウェイト)が原因で失われたが、2機目は50回34時間の飛行を行っている。特異なスタイルの割に飛行特性は良好だったそうだが、軍の評価は「軍用に適さず」という理由で不採用だった。しかし、比較対象となったウェイコCG-13と比較してもスペック表上では大きな差がなく、なにがそんなに嫌がられたのかははっきりしない。もっとも、ウェイコの方は量産機のスペック、ブルネリの方は試作機のスペックなのでブルネリの試作機に防弾装備など実戦装備をしたら性能ガタ落ちになるのが目に見えているということなのかも知れない。
ところで似たような形状のグライダーとして、ドイツ軍が試作したユンカース Ju 322 「マムート」があるが、あちらの方が倍以上大きい(ブルネリ25メートル、マムート60メートル)機体だ。

ブルネリはこの後、リフティング・ボディ機CBY-3をカナダ・カー&ファウンドリー(Canadian Car and Foundry)のために設計している。
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この機体も良好な性能だったが、なぜか、と言うかやっぱり、どこからも追加発注はなかった。
その後CBY-3はカナダでさまざまな輸送業務に従事し1964年にリタイヤ。機体はアメリカのコネチカット州ニューイングランド航空博物館に引き取られた。

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ブルネリご本人。1940年ごろ撮影。
ヴィンセント・ブルネリは1964年、68歳で亡くなった。
最後までリフティング・ボディ機の利点を説き続けたブルネリの設計した機体は1機種たりとも大量生産はされなかった。
特に機体に不都合な点は見当たらず(タイミングが悪かったという問題はあったにせよ)、評価も悪くなかったにも関わらずブルネリの機体が大量受注に至らなかった理由はよくわからない。単に奇っ怪すぎる形状が嫌われた、というのもなんだか苦しい理由付けだ。リフティング・ボディ機は特に低速で従来機と操縦特性が大きく異なるといい、それが採用を妨げたのかも知れない。
今に至るまで、リフティング・ボディ、ワイドキャビンの実用旅客機というのは登場していないが、前述の通りに胴体の構造が強く、クラッシュに強いリフティング・ボディ機はコンピューター制御に期待できる今こそ完成させるべきだ、というムーブメントもあるそうだ。
ブルネリは未来を100年ほど先取りしてしまっていたのかもしれない。

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ニューイングランド航空博物館のCBY-3。野ざらしの状態展示されているために損傷がひどく(1979年に竜巻の直撃を受け、多くの展示機が損傷した)ほとんど残骸状態だが、ニューイングランド航空博物館では現在、ブルネリのリフティング・ボディ機最後の現存機であるCBY-3のレストアが進んでいる。まだまだ先は長そうだが、この特徴的な機体が空を舞う姿を将来また見ることができるようになるかもしれない。

Murph's ModelsのUB-14は太っ腹、無料での提供。無料キットのページから、各キットの写真をクリックでそれぞれのページへ飛び、「FREE」のボタンを押すと展開図のPDF(Googleドライブの共有ページ)が開く。
カラーリングは旅客タイプと架空の軍用塗装の2種類。スケールはどこにも見当たらないが、展開図を見る限りかなり大柄な仕上がりとなりそうだ。
Murph's Modelsの無料キットのページには単発複葉ジェット農業用機という、なにがなんだかわからないPZL M-15”ベルフェゴル”や、ブガッティの未完成レーサー機”モデル100”など、どうかしてるスタイルの機体ファンのモデラーにとって嬉しい機体がならんでいる。これらの機体を無料で机上に飾れる機会を提供してくれたMurph's Modelsから、これからも目を離すことはできなさそうだ。


*キットのダウンロードはフリーですが作者は著作権を放棄していません。データは個人での利用のみが認められており、販売などはできません。


参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ビンセント・ブルネリ
各機体のページは省略。英語、日本語の双方を参照とした。
ブルネリの各機体については、なぜかドイツ語版が詳しい。

http://www.aircrash.org/
機体の安全性の面からリフティング・ボディを推す団体のページ。
ブルネリについての情報が非常に多い。
http://www.aircrash.org/burnelli/chrono1.htm
上記ページからブルネリ設計のリフティング・ボディ機一覧。
各機のリンクから、自動車を積んだRB-2など貴重な写真が多数見られる。

https://www.neam.org/restoration-cby3.php
ニューイングランド航空博物館内、CBY-3レストアのページ

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Murph's Models アメリカ 試作汎用輸送機 Burnelli UB-14・前編

最近、暗くなってくると電気スタンドを点けても手元が暗く、これが目が衰えてくるということなのか、としみじみと思っていたのだが、良く見たら電気スタンドの光量調節がいつのまにかとってもマイナスになっており、今は明るい手元で陽気に模型を作ってる筆者のお送りする世界のカードモデル情報。
今回も前回に引き続き新年を祝しての無料キット特集。本日紹介するのはアメリカはアリゾナ州のブランド、Murph's Modelsから、アメリカの試作汎用輸送機 Burnelli UB-14 だ。

UB14sm.jpg

ん? ん? ん? なにがどうなってんの?、この飛行機。
キットの写真がこれしかない(Murph's Modelsはダウンロード販売しかしておらず、表紙もない)ので、ここは素直にWikipediaの力を借りよう。

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と、いうわけでWikipediaからの引用(この項、キット写真以外全て同じ)。 わーお。
この画像はUB-14よりも後の機体、CBY-3のモックアップモデルだが、だいたいのレイアウトはUB-14と変わりはない(UB-14は中央の短い機首部分がなく、胴体中央に操縦席風防が直接載っている)。
2本の胴体の間にある扁平な胴体なんだか内翼なんだかよくわからない部分は断面が翼型となっており、この胴体も浮力を発生する、いわゆる「リフティング・ボディ」機だ。
この機体を設計したのは、アメリカの航空エンジニア、ヴィンセント・ブルネリ(Vincent Justus Burnelli)。「ブルネリ」と言っても、「スターオーシャン5」に登場する嬉しけしからん衣装のフィオーレ・ブルネリとは関係ない。あと、イタリアのファッションブランド(マタニティーウェアで有名)に「Pietro Brunelli」というのがあるが、あちらのカナ表記は「ピエトロ・ブルネリ」が一般的だ。

名前からして、いかにもイタリア系のブルネリは1895年テキサスの生まれ。若いうちに東海岸へ引っ越したようで、アメリカ北東部のニュージャージーの大学で学んだあと、生活の場をニューヨークへと移している。
1915年に友人ジョン・カリシー(John Carisi )と協力して最初の飛行機「ブルネリ=カリシー複葉機(Burnelli-Carisi Biplane)」を制作。この機は複葉推進式で、短い胴体の後ろにプロペラがあり左右の細いブームが尾翼で一つにまとまる、Airco DH.2と似たスタイリングだった。まだプロペラ同調装置が一般的に採用されていないのこの時期に機首に武装を集中するのに有利だったこの形式を取ったということは、ヨーロッパで進展中の第一次大戦にアメリカが参戦する時に備えたものなのだろう。

翌年、1916年にブルネリはコンチネンタル航空機(Continental Aircraft Corporation。旅客会社のコンチネンタル航空(Continental Airlines)とは別)で「KB-1」という、なんか重戦車みたいな名前の複葉機を設計している。Bはたぶんブルネリの「B」だが、「K」はなんなのかわからない。このコンチネンタル航空機という会社はメチャクチャ資料が少なくて経営者も誰なんだか良くわからないんで、経営者の頭文字が「K」だったのかもしれない(ブルネリはここのチーフデザイナーだった)。KB-1は米軍航空隊での採用を目指した機体で、ブルネリ=カリシーと同じ複葉推進式だがブルネリ=カリシーで単尾翼にまとめられていた胴体後部がブームがそのまま真っすぐ後ろに伸びて双尾翼となり、胴体(タンデム2座)も短い魚雷型になるなど細かい変更が加えられていた。
KB-1はそれなりの性能だったが、当時ヨーロッパで戦っていた最新鋭の機体に比べると見劣りしたこともあり、不採用に終わっている。資料によっては完成したKB-1はなぜかニューヨーク市警が買っていった、と書かれているが、この話は出典がはっきりしない。
なお、本筋とはあんまり関係ないが、コンチネンタル航空機はKB-1の次に「クリスマス・バレット(Christmas Bullet)」という飛行機を制作したが、これが見るからにヤバいシロモノだった。

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これはヤバい。いままでいろいろとヤバい航空機を紹介してきた当コーナーだが、翼のペラペラ感といい、足回りの手作り感といい、変なスタイリングといい、こいつはどう見てもヤバさが半端ない。この写真ではわかりにくいが、この飛行機一見単葉のように見えて実は複葉機である。なんで単葉に見えるのかというと、翼間支柱が全く無いからで、この機体を設計したウィリアム・クリスマス(William Whitney Christmas)は「翼間支柱なんて飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」と豪語したが、この人物、「おれが作った飛行機でドイツまで飛んで、ドイツ皇帝ヴィルヘルムを誘拐してくる計画だ」と語るなど、なんというか、ヤバい人だった。
ブルネリはなんとかヤバい設計をまともなものにしようと努力したが機体は当初の設計通り完成してしまい、試験機2機が2機とも最初のフライトで空中分解(翼が吹っ飛んだ)してパイロットが死亡するというアメリカ航空史上に残る最悪の結果に終わった。だめだよ、こんな飛行機で飛んだら。せめて離陸できなきゃよかったのに。ちなみにクリスマスは1機目が空中分解した後に「最高時速197マイル(約320キロ)を達成!」という広告を出したり、マジソン・スクエア・ガーデンに2機目を飾って「世界初の翼間支柱のない飛行機!」と宣伝していたというから、ヤバすぎる。

クリスマス・バレットの予想された大失敗の後、コンチネンタル航空機は「レミントン・ブルネリ航空機(Remington-Burnelli Aircraft )」に名前を変えてるので、たぶんブルネリ自身が社主になったのだろう。
このころから、ブルネリはあるアイデアへと全力を傾注することになる。胴体も翼の役割を果たす「リフティング・ボディ」だ。
これは、飛行中は抵抗でしかない胴体が翼の役割を果たすことで航空機の性能、特に搭載量の増大を狙うアイデアであった。ブルネリ自身はこのスタイルについて「フライング・ウィング」という表現を使っていたが、現在は「フライング・ウィング」といえば尾翼もない全翼機を指すことが多い。
このコンセプトに沿って設計された最初の飛行機がレミントン・ブルネリRB-1であった。

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写真が小さい上に状態も良くないのでわかりづらいが、よく見ると胴体は機体左右方向にビローンと幅が広くて、胴体というよりも分厚い主翼の真ん中部分をぶった切ったような形をしている。翼型胴体の後ろに細い胴体がある後の機体とは違い、胴体の末尾左右に直接垂直尾翼がついているのが特徴だ。なるほど、たしかにこれは「空飛ぶ翼」だ。
胴体の幅は4メートル以上(14フィート)もあり、その中には30人の乗客が乗ることができた。同時期の通常形式の旅客機、例えばフォード・トライモーターが座席数12だから、これは格段に多い(ただし、巡航速度はRB-1の方が30キロほど遅い)。
さらに、2番機の「RB-2」はハドソン・モーター・カー・カンパニー(Hudson Motor Car Company)という自動車会社が買い上げ「空飛ぶショールーム」として運用しており、この機はなんと機内に自動車をそのまま搭載することが可能であった。当時、こんな芸当ができる飛行機はRB-2しか存在しなかった。

(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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高高度観測気球 ”ポーランドの星”

長過ぎる無人機の歴史を一旦忘れて新製品紹介に戻ってきたと思ったのに、あっという間にネットの海に漂うオモシロ情報に搦め捕られてすっかり溺れてしまった筆者のお送りする、筆者以外の読者にとっておもしろいんだかどうなんだかさっぱり見当がつかないマイナーアイテム紹介コーナー。今回紹介するのはポーランドの高高度観測気球 ”ポーランドの星”。
まずは1938年にポーランドで撮影されたこの写真(Wikipediaから引用。この項の写真全て同様)を見ていただこう。

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なんだこれは! ポーランドにミステリアン来襲か! ぐるぐるまわるぞ! 光線出すぞ!
エントリのタイトルの時点ですでにネタバレしてるのであんまり引っ張らないでおくが、これは宇宙人が建造した地下要塞ではなく、気球である。まだ中途半端にしか膨らんでないのでドーム型に見えるだけだ。

1930年代、ポーランドではスポーツとしての気球がブームとなっていた。例えばポーランドの気球チームは世界で最も歴史が古く権威ある気球レース「ゴードン・ベネット杯気球レース」で1933年から1938年までの間に4度も優勝している。ちなみに使用した気球は1922年に創業した「アヴィオテックス気球・パラシュート工場」(Wytwornia Balonow i Spadochronow Aviotex)の製品で、アヴィオテックスは戦後名前を「Aviotex」と短縮し現在も営業している。最近は気球だけではなく、イベントなどでエアーで膨らませるドームも製造しているようだ。アヴィオテックスのギャラリーページを見てると楽しくなってくる。

そんな気球大国ポーランドと競り合い、一歩出し抜いたのがアメリカだった。アメリカ陸軍航空隊はナショナル・ジオグラフィック財団の出資を受けて気球「エクスプローラーII」(Explorer II)をグッドイヤー・ツェッペリンで製造。エクスプローラーIIはアルバート・ウィリアム・スティーブンス(Albert William Stevens)とオービル・A・アンダーソン(Orvil A. Anderson)の2名を乗せ、1935年11月11日、高度2万2千メートルに到達し世界記録を打ち立てた。この2名は、人類で初めて地球の地平線が弧になっているのを肉眼で見たと考えられている。なお、二人が日付を意識して飛行中にポッキーゲームを行ったかどうかは残念ながらさだかではない。

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無事に着地したエクスプローラーIIのゴンドラ部分。上半分が白、下半分が黒という塗装については特に説明が見つからなかったが、上からの紫外線を反射し、なおかつできるだけ下(地上)から目視できるように、という意図だろうか。このゴンドラは現在アメリカ国立航空宇宙博物館に展示されているが、気球部分は細かく裁断してナショジオ会員に記念品として配ってしまった。

このニュースを聞き奮い立ったポーランド軍はエクスプローラーIIの記録を超える高度挑戦を立案し、時のポーランド大統領イグナツィ・モシチツキ(Ignacy Mościcki)も超乗り気だった。ちなみにモシチツキ大統領は安価な硝酸製造法の特許を持っている化学者でもあった。
一応、ただ飛ぶだけじゃアレなんで、「高高度での宇宙線観測」という名目も後からつけたした。

1938年9月。ポーランド南部、スロバキアとの国境近いタトラ山脈西部で高高度挑戦気球「ポーランドの星(Gwiazda Polski)」が準備を終えようとしていた。Gwiazda Polskiは高さ120メートル(便宜上「気球」と書いているが、正しくは半球の下に逆さの円錐が繋がる『コーンに乗ったアイス型』である)、ガス容量124,700立法メートル、重さ1.5トンの堂々たるもの。気嚢は日本製の絹にゴムを塗ったものだったそうだ。制作のためにアメリカ在住のポーランド移民会などから寄付が行われたが、さらにポーランド郵便では「気球切手」を発行。この切手は額面は75グロシュ(1グロシュは100分の1ズロチ)だが、2ズロチで販売され差額の1.25ズロチが気球制作のための寄付金となった。今で言うクラウドファンディングである。気球を応援したいからって何万枚も気球切手を買って、切手を捨ててしまうのは迷惑だからやってはいけない。

気球に乗り込む乗員はエクスプローラーIIと一緒で2人。まず、ズビグニェフ・ブルジンスキ大尉(Zbigniew Burzyński)。大尉はゴードン・ベネット杯で2度勝利したことがあり、当時ポーランド最高の気球パイロットの一人であった。続いてもう一人は物理学者のコンスタンティ・ジョドコ=ナルキェヴィツ博士(Konstanty Jodko-Narkiewicz)。博士は宇宙線の専門家だったが、ポーランド初の本格的アンデス山脈探検隊のリーダーでもあり(たぶん、高標高の希薄な大気下で宇宙線を観測する目的だったのだろう)、決して研究所に篭っているタイプではなかった。

当初の離陸予定は9月15日だったが、あいにくと天候に恵まれず挑戦は延期となった。しかし、タトラ山脈に冬が訪れる前に飛行は行わなければならず、そのデッドラインは10月14日とされた。
1938年10月14日午前1時。やまない強風の中、気球が膨らみ始めた。周囲にはポーランドはもとより、世界中から集まった報道社の数々。その中にはアメリカのナショナル・ジオグラフィック誌のチームもいる。アメリカからはエクスプローラーIIで高度記録を作った乗員の一人、アルバート・スティーブンスも助言のために駆けつけてくれた。
高高度の過酷な環境に耐えるための防護服を着て、不測の事態に供えパラシュートを身に着けた2人の乗員がゴンドラへ入る。
午前4時にはほぼ気球は満杯となっていた。水素で。

目撃者によれば、炎は最初に「ポーランドの星」の天辺あたりで発生したという。気球はあっという間に炎に包まれた。
幸いなことに、ゴンドラは延焼を免れ、また見物人も含め負傷者は一人もいなかった。
発火の原因はわからなかったが、燃えた理由は誰の目にも明らかだった。気球に可燃性の気体、水素が詰まっていたからだ。
これを防ぐ方法は簡単で、やや水素よりも浮力は劣るものの、可燃性ではないヘリウムで気球を飛ばせば絶対に燃え上がることはない。しかし、当時ヘリウムの生産はほぼアメリカが独占しておりパーティグッズのコーナーに置いてあるようなものではなかったので、アメリカ以外はどこの国でも飛行船、気球には危険を承知で水素を使用していた。
ちなみにアメリカも実は同じ失敗をしており、エクスプローラーが「II」なのは、初代エクスプローラーが高度1万8千メートルで水素に引火して大炎上したからだ(乗員は辛くもパラシュート脱出に成功した)。なので、エクスプローラーIIではヘリウムを使用している。

ポーランドはこの失敗にめげず、再度の挑戦を計画した。今度はアメリカもヘリウムを提供。記録を破られるかもしれないのにヘリウムを送ってくれるなんて、アメリカ政府はなかなかイキなはからいをしてくださる。「敵にヘリウムを送る」とはこのことか。
二回目の挑戦の準備には丸一年が費やされた。二回目の飛行予定は9月15日。
ポーランドの新聞、Ilustrowany Kuryer Codziennyは8月30日、このように書いている。
「ヘリウム、ボトル1015本もアメリカから届き準備はほぼ完了している」
その2日後1939年9月1日午前4時40分、ドイツ軍がポーランドに侵攻し全てが御破算になった。

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1938年の打ち上げ地点に設置された記念碑。ただの気球の絵ではなく、「気球切手」がモチーフとなっていることが「ポーランドの星」がポーランド国民一丸となっての挑戦であったことを象徴していると言えるだろう。

最後に、気球に乗るはずだった2人のその後。ズビグニェフ・ブルジンスキ大尉はドイツ軍侵攻でドイツ軍捕虜となったが、1939年10月から1945年4月までの長い長い捕虜生活を生き延びた。戦後は気球関係の団体の顧問などを努め、ポーランドと隣国チェコスロバキアで気球スポーツの振興に力を注ぎ、1971年にワルシャワで亡くなった。
コンスタンティ・ジョドコ=ナルキェヴィツ博士の方は、あまり詳しいことが伝わっていない。戦争は生き抜いたが、どうやら健康を害してしまったようで、戦後はタトラ山脈で山岳ガイドのようなことをしていたようだ。博士は1963年に亡くなっている。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Gwiazda_Polski
https://en.wikipedia.org/wiki/Explorer_II
https://en.wikipedia.org/wiki/Zbigniew_Burzyński
https://en.wikipedia.org/wiki/Konstanty_Jodko-Narkiewicz
それぞれ、存在する場合には日本語、ポーランド語のページも参考とした。

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無人航空機斯く戦えり・その5

ファンタジー世界観のとあるソーシャルゲームに登場する「パーシヴァル」というキャラを、「なんでシンガポールで日本軍に降伏した将軍の名前がついてるんだろう」とわりかしマジで思っていた筆者のお送りする無人航空機開発史。円卓の騎士のパーシヴァル卿が元ネタだったのね……

前回はスペリー親子とヒューイット博士の開発した無線操縦機を積んだカーティスN-9水上飛行機が、見事な無人飛行をしてみせたところまで。
無人N-9はちゃんと飛んだが、それを見た海軍はある事に気がついた。
「ぶっちゃけ、これって直進するだけで帰ってこれない片道飛行なんだから、そのためにわざわざ自動操縦積んだN-9水上飛行機1機つぶすのって、もったいなくね?」
こういう発言を、専門用語で「フラグ」という。
海軍はカーティスに「無人飛行機用の安上がりな機体作ってよ、6機。大急ぎで」と発注し、既存機の生産で忙しいカーティスは「はいよ」と操縦席のない飛行機6機をちゃっちゃと仕上げて納入した。

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Wikipediaより、カーチス・スペリー飛行爆弾(Curtiss-Sperry Flying Bomb)
なんか、素人目にも羽の感じが雑に見えるけど大丈夫なんだろうか、と思ったら、大丈夫じゃなかった。
機体は11月10日にスペリーの元へ届けられ、さっそく無人操縦装置が積み込まれ試験飛行が始まったが、結果はさんざんだった。
1機目は滑走中に翼が破損、2機目は離陸した直後に墜落。3機目はカタパルト射出したら、機体が浮き上がった瞬間に台車が機体を追い抜いて前に吹っ飛んでいく時にプロペラぶっ壊したもんだから頭から地面に突っ込んだ。
4機目、5機めは離陸に成功したが、その結果わかったのはカーチス・スペリー飛行爆弾(以下「CS飛行爆弾」に略)はどうにも重心計算がおかしくって、尻尾が重すぎるために離陸しても機首が上がって立ち上がってしまい、失速して墜落するということだった。実はカーチスは納品を急ぐあまり、風洞実験を行っていなかった。マジすか。

これって飛行機としてどうなのよ、と思ったスペリーはCS飛行爆弾1機に操縦席と降着装置を付け足し、息子ローレンス・スペリー自らが操縦桿を握って試験飛行を行うこととした。が、この機は付け足した降着装置が不適切だったようで、滑走中にプロペラが地面の雪を引っ掻いて機体が破損(操縦者は無事)。
仕方ないんで、もう一機にスペリーは同様の改造を施す。この時点で、カーチスが納入した6機と数が合わないんで、多分破損機をつなぎ合わせてやりくりしているんだろう。
優秀なパイロットでもあったローレンス・スペリーの操縦でこの2機目の有人CS飛行爆弾は初飛行に成功した。が、操縦を無人操縦装置に切り替えた途端に制御を失った。慌ててスペリーは手動操作に切り替え、なんとか無事着陸に成功したが、スペリーが立て直すまでに「完全に2回転ほどした(two complete rolls)」とWikipediaに書いてあるので、たぶん機首が上がりすぎて宙返りをしたのだろう。

こりゃ自動操縦がどうとかこうとか言う前に、まずまともに飛ぶようにしなければならない。
とりあえずスペリーはこの危険な飛行機の飛行特性を確認するために自動車を購入すると、屋根にCS飛行爆弾を固定して自動車コースを時速130キロですっ飛ばした。
このワイルドな実験を経て、スペリーはCS飛行爆弾の胴体を2フィート(約60センチ)延長。自動操縦装置もこの厄介な機体に併せて調整を行った。この時代の小柄な飛行機の60センチはデカいぞ。こりゃそうとうヤバいぞ。
ついでにこの実験の結果、自動車の屋根が飛行爆弾の離陸装置としてなかなか都合がいいことが判明した。
1918年3月6日、自動車の屋根から離陸したCS飛行爆弾は無人のまま安定した飛行をし、距離カウンターに設定した約1キロ先に軟着陸した。
これは完全な成功だったが、こうもうまく行ったのはこの一回だけで、その後は繰り返してもなかなか離陸に成功しなかった。
理由は単純で、自動車では路面の状態が影響してなかなか安定した離陸速度を出すことができないのだ。
そこで、今度は車に鉄道車輪を取り付け、長さ6キロの鉄道引き込み線を借りて飛行に挑んだが、今度は離陸速度が出る前に機首が上がって機体が転落した。そもそもの重心計算がおかしいから、ちょっとやそっとじゃ安定しないんだな。
もはや泥縄もいいとこだが、今度は適切に飛行機をリリースする新しい離陸システムを開発することとなり、若いエンジニア、カール・ノルデン(Carl Lucas Norden)がチームに加わった。ノルデンは優秀な技術者で、離陸システムをテキパキと修正してみせた。ちなみに、このノルデンこそが後にアメリカ軍重爆隊の価値を飛躍的に高めることとなる「ノルデン照準器」の開発者である。
1918年8月、新しい離陸システムで試験は再開されたが、飛び立ったCS飛行爆弾はやっぱり墜落。
9月26日、飛行可能な最後の一機が離陸後一直線に上昇した後でスピンに入って墜落し、全てのCS飛行爆弾は失われた。

その後、スペリーは機体をN - 9水上飛行機に戻して10月17日に試験を行っている。
この機体はノルデンの設計したカタパルトから飛び立ち、予定した方角へ安定した飛行をして見せたが、どういうわけか距離カウンターだけが正常に働かず、皆が見守るなか東の空へ向かってどこまでも飛んでいってしまって、行方不明となった。まだ飛んでるのを見かけた読者がいたら米軍に教えてあげると喜ばれるだろう。
スペリーはこの成功に力を得て、海軍に「無人飛行機は『未来の火砲(gun of the future)』です!」と熱弁を奮ったが、海軍はすでに冷めきっていた。
1918年11月11日の第一次大戦休戦に伴い、プロジェクトはスペリーの手を離れ海軍の主導となったが、ラジコン飛行の試験を何度か行っただけでプロジェクトは終了した。
1930年、父エルマー・スペリーは胆石を除去する手術がもとで合併症を起こしニューヨークで死亡。
また、それに先立つこと7年、息子ローレンス・スペリーは自社で生産したヴァーヴィル・スペリー M-1「メッセンジャー」連絡機を操縦してイギリスからフランスへ向かう途上で事故死している。

(その6へ続く)
*長くなりすぎたんでしばらく間あけます。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Hewitt-Sperry_Automatic_Airplane
https://en.wikipedia.org/wiki/Elmer_Ambrose_Sperry
https://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Sperry
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Cooper_Hewitt
https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Norden

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無人航空機斯く戦えり・その4

10年前に引っ越してから放ったらかしになっていた棚を整理していたら、まだドラゴンボールを連載していたころの週刊少年ジャンプが出てきて連載陣の豪華さに驚愕すると共に、なんでそんなものが大事にしまい込まれていたのかとんと見当がつかずに困惑している筆者のお送りする無人航空機(巡航ミサイル)開発史。今回からは第一次大戦前後のアメリカにおける無人航空機開発について。

イギリスでアーチボルド・ロウのAT機が空を飛んだり、飛ばなかったりしていたころ、海を挟んだ反対側でも同様の試みにどっぷりとはまりこんで抜け出せなくなった技術者達がいた。
アメリカ海軍が支援した、ヒューイット・スペリー自動飛行機(Hewitt-Sperry Automatic Airplane)である。
開発したエルマー・アンブローズ・スペリー(Elmer Ambrose Sperry)は1860年、ニューヨーク生まれの発明家。早くから電気に興味を示し、1880年台に「スペリー電気会社(Sperry Electric Company)」を立ち上げている。

Elmer_Ambrose_Sperry2.jpg

Wiipediaからの引用(この項の写真全て同様)で、エルマー・スペリー。横に置いてあるサーチライトはスペリー電気会社の商品だろうか。
スペリーは1900年ごろから高速で回転させたコマが重力の垂線に沿って立ち上がろうとする性質、また水平にぶん回したコマが地球の自転の影響で軸が南北方向に向こうとする性質を応用した「ジャイロコンパス」を開発。これはそれまでの羅針盤に取って変わる大発明であり、その功績ゆえにスペリーは「交通輸送界のノーベル賞」とも言われる「エルマー・A・スペリー賞」にその名前を残している。ちなみに「スペリー」+「ぐるぐる廻る」でピンと来た読者もいるかも知れないが、スペリーの会社は後に、B-17機体下部に装備するスペリー球形銃塔も開発している。
なお、英語の資料には「スペリーは日本政府から旭日章を送られている」と書かれているが、これははっきりした情報源が見つからなかったので話半分としておこう。

1910年に「スペリー・ジャイロスコープ社(Sperry Gyroscope Company)」を立ち上げて海軍の艦船、魚雷に積むジャイロスをバリバリ開発していたスペリーが、次に注目したのが当時急速に性能を向上させていた航空機の部門であった。
航空機の水平計にジャイロを積むのは当然として、スペリーはどういうわけか急に「そうだ、飛行機を無線で操縦しよう」と思い立った。なぜ思い立ったのかはよくわからない。あるいは、「ジャイロで水平を保てば、ぶっちゃけ飛行機の操縦士さえいらないぐらいっすよ」というデモンストレーションだったのかもしれない。
このアイデアに興味を感じた海軍は1913年、「おもしろそうだし、まぁやってみたまえ」と飛行艇(機種不明。第一次大戦前の米海軍が持ってた水上機ってなんだろう)を1機貸してくれた。
エルマー・スペリーは、この挑戦に優秀な若き技術者でもあった1892年生まれの息子、ローレンス・スペリー(Lawrence Burst Sperry)と共に取り組む。

LawrenceSperry.jpg
息子ローレンス・スペリーの写真はブロマイド風。ローレンスのミドルネーム、「バースト(爆裂)」というのはあだ名にしか聞こえないが、どうやら本名らしい。

ローレンスは1914年、第一次大戦が勃発するとヨーロッパへ渡り、新しい戦争での航空機の役割を現地でつぶさに観察してきた。
1916年、ジャイロで得られる自動操縦を機体に伝えるため(当時の飛行機はケーブルを引っ張って動翼を操縦するので、操縦にはそれなりの腕力が必要だった)プロジェクトに著名な電気技術者であるピーター・ヒューイット(Peter Cooper Hewitt)が加わる。ちなみにヒューイットは水銀灯の発明者でもあった。誇り高き第一ドールの開発者ではない。

800px-Peter_Cooper_Hewitt.jpg
水銀灯を手にしたヒューイット。1861年生まれなのでパパ・スペリーとほとんど同い年なのだが、写真は19世紀風。

ほどなくしてスペリー親子とヒューイットがまとめた無人操縦装置の仕様が海軍に提出された。
これは安定装置と操向装置、2系統のジャイロ、高度を制御する高度計、それらの判断を動翼に伝えるサーボモーター、そして距離を計るためのカウンターから成り立っていた。
これらが積み込まれた機体はカタパルト、もしくは水面から飛び立ち約100マイル(160キロ)先の目標に対して自動的に爆弾を投下するという見積もりであった。
しかし、海軍は仕様書に記載された命中制度見込みの数字を見て「これ、艦船に爆弾当てられないじゃん」と当然の問題を指摘してきた。でもまぁ、おもしろそうだし、陸軍ならこれぐらいの精度でも目標(要塞とか)でっかいから、まぁ、陸軍に持ち込んでみれば? という結論であった。

ところが、どういうわけかスペリーは「いや、海軍にこそこれは必要でしょう。絶対必要でしょう。誰がなんと言おうと必要でしょう」と、海軍に繰り返し無人飛行機案を売り込んだ。陸軍はジャイロあんまり必要ないから、スペリー社にはコネがなくって話持ってくのが面倒だったのかもしれない。
「まぁ、そんなに言うのなら……」と海軍は政府に無人機プロジェクトの予算として5万ドルを計上。議会は「自動操縦機と無線操縦機、2系統の開発を行うこと」という条件のもとに予算を承認。
1917年5月、海軍は5機(後に7機に増やされた)のカーティスN - 9水上飛行機(一次大戦前後の米軍機の定番、カーティス「ジェニー」の水上機型)を提供し、6セットの自動操縦装置を受け取る契約を結んだ。

なぜ上院が「無線操縦機も作ってよ!」と言い出したのかわからないが、たぶんアーチボルド・ロウのAT機が念頭にあったのだろう。しかし、スペリーは準備していなかったラジコン機の開発のためにいろいろと技術を開発しなければならず、ラジコン機の開発は遅れた(結局、ラジコン機は大戦中に完成しなかった)。
一方、無人操縦機はすでに完成の域に達していたので1917年9月には早くも初の無人飛行試験が行われている。とは言っても、この時は離陸は人の手によるもので、そのために操縦士が同乗していた。
飛行試験のたびにシステムは精度を増し、11月には離陸した後は操縦士が寝ていても30マイル(48キロ)を飛行して爆弾に見立てた砂袋を自動的に投下、その範囲は目標地点から3キロ以内におさまっていた。
海軍はこの結果を見て、「艦船にぶつけるのは無理だけど、あの鬱陶しいドイツ軍のUボートの基地を叩くのになら使えそうだ」と判断した。

(その4に続く)

参考リンクはその5にまとめて記載予定。

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