無人航空機斯く戦えり・その4

10年前に引っ越してから放ったらかしになっていた棚を整理していたら、まだドラゴンボールを連載していたころの週刊少年ジャンプが出てきて連載陣の豪華さに驚愕すると共に、なんでそんなものが大事にしまい込まれていたのかとんと見当がつかずに困惑している筆者のお送りする無人航空機(巡航ミサイル)開発史。今回からは第一次大戦前後のアメリカにおける無人航空機開発について。

イギリスでアーチボルド・ロウのAT機が空を飛んだり、飛ばなかったりしていたころ、海を挟んだ反対側でも同様の試みにどっぷりとはまりこんで抜け出せなくなった技術者達がいた。
アメリカ海軍が支援した、ヒューイット・スペリー自動飛行機(Hewitt-Sperry Automatic Airplane)である。
開発したエルマー・アンブローズ・スペリー(Elmer Ambrose Sperry)は1860年、ニューヨーク生まれの発明家。早くから電気に興味を示し、1880年台に「スペリー電気会社(Sperry Electric Company)」を立ち上げている。

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Wiipediaからの引用(この項の写真全て同様)で、エルマー・スペリー。横に置いてあるサーチライトはスペリー電気会社の商品だろうか。
スペリーは1900年ごろから高速で回転させたコマが重力の垂線に沿って立ち上がろうとする性質、また水平にぶん回したコマが地球の自転の影響で軸が南北方向に向こうとする性質を応用した「ジャイロコンパス」を開発。これはそれまでの羅針盤に取って変わる大発明であり、その功績ゆえにスペリーは「交通輸送界のノーベル賞」とも言われる「エルマー・A・スペリー賞」にその名前を残している。ちなみに「スペリー」+「ぐるぐる廻る」でピンと来た読者もいるかも知れないが、スペリーの会社は後に、B-17機体下部に装備するスペリー球形銃塔も開発している。
なお、英語の資料には「スペリーは日本政府から旭日章を送られている」と書かれているが、これははっきりした情報源が見つからなかったので話半分としておこう。

1910年に「スペリー・ジャイロスコープ社(Sperry Gyroscope Company)」を立ち上げて海軍の艦船、魚雷に積むジャイロスをバリバリ開発していたスペリーが、次に注目したのが当時急速に性能を向上させていた航空機の部門であった。
航空機の水平計にジャイロを積むのは当然として、スペリーはどういうわけか急に「そうだ、飛行機を無線で操縦しよう」と思い立った。なぜ思い立ったのかはよくわからない。あるいは、「ジャイロで水平を保てば、ぶっちゃけ飛行機の操縦士さえいらないぐらいっすよ」というデモンストレーションだったのかもしれない。
このアイデアに興味を感じた海軍は1913年、「おもしろそうだし、まぁやってみたまえ」と飛行艇(機種不明。第一次大戦前の米海軍が持ってた水上機ってなんだろう)を1機貸してくれた。
エルマー・スペリーは、この挑戦に優秀な若き技術者でもあった1892年生まれの息子、ローレンス・スペリー(Lawrence Burst Sperry)と共に取り組む。

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息子ローレンス・スペリーの写真はブロマイド風。ローレンスのミドルネーム、「バースト(爆裂)」というのはあだ名にしか聞こえないが、どうやら本名らしい。

ローレンスは1914年、第一次大戦が勃発するとヨーロッパへ渡り、新しい戦争での航空機の役割を現地でつぶさに観察してきた。
1916年、ジャイロで得られる自動操縦を機体に伝えるため(当時の飛行機はケーブルを引っ張って動翼を操縦するので、操縦にはそれなりの腕力が必要だった)プロジェクトに著名な電気技術者であるピーター・ヒューイット(Peter Cooper Hewitt)が加わる。ちなみにヒューイットは水銀灯の発明者でもあった。誇り高き第一ドールの開発者ではない。

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水銀灯を手にしたヒューイット。1861年生まれなのでパパ・スペリーとほとんど同い年なのだが、写真は19世紀風。

ほどなくしてスペリー親子とヒューイットがまとめた無人操縦装置の仕様が海軍に提出された。
これは安定装置と操向装置、2系統のジャイロ、高度を制御する高度計、それらの判断を動翼に伝えるサーボモーター、そして距離を計るためのカウンターから成り立っていた。
これらが積み込まれた機体はカタパルト、もしくは水面から飛び立ち約100マイル(160キロ)先の目標に対して自動的に爆弾を投下するという見積もりであった。
しかし、海軍は仕様書に記載された命中制度見込みの数字を見て「これ、艦船に爆弾当てられないじゃん」と当然の問題を指摘してきた。でもまぁ、おもしろそうだし、陸軍ならこれぐらいの精度でも目標(要塞とか)でっかいから、まぁ、陸軍に持ち込んでみれば? という結論であった。

ところが、どういうわけかスペリーは「いや、海軍にこそこれは必要でしょう。絶対必要でしょう。誰がなんと言おうと必要でしょう」と、海軍に繰り返し無人飛行機案を売り込んだ。陸軍はジャイロあんまり必要ないから、スペリー社にはコネがなくって話持ってくのが面倒だったのかもしれない。
「まぁ、そんなに言うのなら……」と海軍は政府に無人機プロジェクトの予算として5万ドルを計上。議会は「自動操縦機と無線操縦機、2系統の開発を行うこと」という条件のもとに予算を承認。
1917年5月、海軍は5機(後に7機に増やされた)のカーティスN - 9水上飛行機(一次大戦前後の米軍機の定番、カーティス「ジェニー」の水上機型)を提供し、6セットの自動操縦装置を受け取る契約を結んだ。

なぜ上院が「無線操縦機も作ってよ!」と言い出したのかわからないが、たぶんアーチボルド・ロウのAT機が念頭にあったのだろう。しかし、スペリーは準備していなかったラジコン機の開発のためにいろいろと技術を開発しなければならず、ラジコン機の開発は遅れた(結局、ラジコン機は大戦中に完成しなかった)。
一方、無人操縦機はすでに完成の域に達していたので1917年9月には早くも初の無人飛行試験が行われている。とは言っても、この時は離陸は人の手によるもので、そのために操縦士が同乗していた。
飛行試験のたびにシステムは精度を増し、11月には離陸した後は操縦士が寝ていても30マイル(48キロ)を飛行して爆弾に見立てた砂袋を自動的に投下、その範囲は目標地点から3キロ以内におさまっていた。
海軍はこの結果を見て、「艦船にぶつけるのは無理だけど、あの鬱陶しいドイツ軍のUボートの基地を叩くのになら使えそうだ」と判断した。

(その4に続く)

参考リンクはその5にまとめて記載予定。

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無人航空機斯く戦えり・その3.5

前回(その3)では肝心のAT機の写真が「ここに行けばあるから見てね」みたいな無愛想な対応だったのは出所がわからないために引用を避けていたのだが、この「ロウのAT機」とされる写真の出所が判明したので、前回紹介できなかったAT機の写真について今回解説しておこう。

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公式に「ロウのAT機」とされる写真。なんのことはない、Imperial War Museumsのサイトで「LOW ARCHIBALD MONTGOMERY」で検索かけたら普通に出てきた。
ネット上でよく引用されている写真は上下がトリミングされている上になぜか左右反転しており、おそらくなんかの書籍からの引用だと思われる。よく見ると右側に複座の複葉機(Royal Aircraft Factory S.E.5か?)が置いてあり、左側にはその機の翼を思われるものが吊るされている。なお、この写真のキャプションではこの機は「1917年3月21日の試験に使用された機体」。また、「設計は de Havilland による」と書かれており、ヘンリー・フォランドが設計したとする他の資料とは異なる。
全体の印象しては、なめらかな機首カバーなど意外なほど仕上げの丁寧な機体だ。

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なんとなくヤラセっぽい雰囲気もあるが、AT機製作中の風景。主翼桁はこのあと穴を開けて通すのだろうか。さきほどの写真と映っているのは逆サイドだが、同一機っぽい。

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キャプションでは「製造中の試作機」となっているが、これまた形が違う。上のAT機は上下に垂直尾翼のある十字尾翼だが、ここでは上半分しかない。機首カバーもなく、そもそもヘッドレストと操縦席らしいものがある。あるいは空力特性確認用のグライダーか。

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こちらはキャプション通りなら最初の無線操縦テスト機。手前が送信機だ。
テスト機は明らかに大きすぎるプロペラとロータリー(回転)エンジンを装備しているが、この60馬力エンジンはやっぱり大きすぎたようで試作AT機では水平対向35馬力エンジンに変更されている。このころには珍しい水平対向という形式を選んだのは、トルクで機体が回転するのを少しでも防ぎたかったためだろうか。

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イギリス空軍では他にも無人機を試作していたようで、これは尾翼の文字でもわかるようにソッピース社の製作した機体。ただし、完成しなかったらしい。他の機と違い複葉だが、翼の端が複数箇所で破損している。翼が破損したために製作が破棄されたのか、徹夜で作ってたのに製作中止になったんでムカついて蹴っ飛ばしたら倒れて翼が壊れたのかは資料からは読み取れない。
胴体に3つも描かれている円型は国籍マークではなくて空中での姿勢を觀測するためのマーカーだろう。

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ロウ(前列真ん中)と仲間達。前列向かって左側は空軍の士官、右側は陸軍の士官だろうか。せっかくの集合写真だってのに、なんだかみんなお疲れの様子だ。
前列3人の士官の後ろに女性隊員が立っているが、彼女の担当は何だったのだろう。

一周置いて前回のフォローだけで申し訳ないと思いつつも、その4へ続く。

写真は全てImperial War Museumsからの引用。

*よく考えたら、このブログって無人航空機のブログじゃなくてカードモデルのブログなので、あと2回ぐらいで第一次大戦ネタを使い切ったら一旦休止して新製品情報やります。

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無人航空機斯く戦えり・その3

勤務地の移転に伴い、どこの駅で何時何分発にどの路線に乗った時、自宅最寄り駅に到着するのがいつになるのか、完璧な自分用ダイヤグラムを書き上げてご満悦だったのに、わずか一週間で常磐線がダイヤ改正して全てご破産になった筆者のお送りする無人航空機(巡航ミサイル)開発史。今回はイギリスの生んだ偉大な天才電気技師、アーチボルド・ロウが任せられた第一次大戦イギリスの無人航空機の話の続きから。

ロウが任されたイギリスの無人航空機開発プロジェクトはツェッペリン飛行船の迎撃と敵陣突入を目的としたものだったが、ドイツ軍スパイを欺くために、あえて「航空標的(Aerial Target)」という本来の目的とは関係ない名称が与えられた。
当初、軍のお偉方は「無線で? 飛行機を? 飛ばす??(半笑い)」とプロジェクトには懐疑的だったが、ロウは「できると思いますよ」と模型飛行機を無線で操縦するデモンストレーションを行ってみせる(これが世界初のラジコン飛行機であると思われる)。
この実験を見た軍用航空機部門長官、デイビッド・ヘンダーソン将軍(Sir David Henderson)は「こら、とんでもない新兵器が登場したわい!」と感銘を受け、直ちに軍の工廠で弾頭を装備したエアリアル・ターゲット(以下「AT機」と略)の試作機の製作を命じ、ロウには大工や飛行機設計技師やついでに宝石職人など、総勢30人が部下としてつけられた。ちなみに機体設計を受け持ったヘンリー・フォランド(Henry Philip Folland)は後にグロスター社でグラディエイターを設計している。

6機の試作機が作られたAT機は35馬力空冷2気筒エンジンを積んだ肩翼式の単葉機で、まぁ、なんというかコクピットをつけるのを忘れた飛行機みたいな形をしていた。
1917年3月21日、試作機は初の飛行実験を行う。この時は圧搾空気で走るドリーから飛び立ち、エンジントラブルによって不時着するまで無線操縦に成功したらしい。
「らしい」というのは、この3月の実験については書かれていない資料も多いからだ。
1917年7月、AT機は正式に採用するかのトライアルにかけられる。
7月6日、AT機は堂々発進したが、即座にほとんど垂直まで立ち上がってしまい、当然失速して墜落。これでは無線操縦もなんもあったもんじゃない。
続いて7月25日、2度目のトライアルが行われたが、どういうわけか今度は離陸せずにゴトゴトと走り続け、ドリーが壊れて止まった。この2度の失敗は、どうやら尾翼の取り付け角度が間違っていたようだ。
7月28日、今度は尾翼取り付け角度もバッチリ正確でAT機はドリーから飛び立ったが、短時間の飛行でエンジンが故障して墜落した(この3回目の試験と3月の実験飛行は同じものが誤って伝わっているのかも知れない)。

試験飛行がガッカリな結果に終わり、また航空機の性能向上に伴いツェッペリン飛行船の脅威が薄れたこともあってAT機のプロジェクトはその後縮小され、最終的に破棄されたようだが、AT機とは別にロウは1917年に世界初の無線誘導ミサイルを開発している。
ロウの研究は結果的には戦争に貢献せず、また軍の上の方からも「電気じかけのオモチャでなんかやってる連中がいるな」程度に見られてあまり注目もされていなかった。
しかし、科学オタクのドイツ人からは「あのテレ・ビスタのロウ博士がイギリス軍に協力するらしいぞ」と警戒され、一説には1915年に2度、命を狙われているらしい。なんでも、1回目は窓越しに研究所に銃弾が打ち込まれ、2回目は「ドイツ訛りの訪問客が置いていったタバコを怪しく思い分析してみたところ、なんと! 致死量のストリキニーネが含まれていたではありませんか!」という、なんというか、スパイ小説の読み過ぎじゃないんですか的な暗殺未遂があったそうだ。

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この写真はイギリスの帝国戦争博物館(Imperial War Museums)のサイトで公開されている写真だが、他のサイト(例えばここ)で見つけられるAT機の画像とは明らかに機体形状が異なる。写真のキャプションも単に「無人機、航空標的(aerial target) Mk.II」としか書かれておらず、これがなんなのかわからない。撮影時期の分類も「1914年以前(Pre-1914)」となっているが、いくらなんでも第一次大戦前ということはないだろう。ロウが最初に作った無線操縦デモンストレーション用の試作機か、それとも他サイトで見るのがMk.Iで、こっちが改良型なのか……それにしちゃ、こっちの方がいろいろと作りが雑に見える。

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細部ディティール。左がジャイロ、右がエンジン。ジャイロを衝撃から守るためにゴム紐で宙吊りになっているのが面白い。もう一種類のAT機とエンジンは共通っぽいから、やはり何か関係があるのかないのか……謎である。

余談となるが、「無人航空機で飛行船を撃ち落とす」という発想には実は元ネタがあって、1909年にワルター・ブース(Walter R. Booth、1970年の西ドイツ映画「女子学生(秘)レポート」を撮った人(Walter Boos)とはもちろん別人)が撮影した映画黎明期の特撮フィルム「飛行船駆逐機(The Airship Destroyer)」のあらすじが、「イギリスを襲う国籍不明の飛行船艦隊を、愛国的発明家が作った無人航空機で撃墜する」というものであった。「国籍不明」とは言っているものの、このフィルムイギリス製なのに冒頭にドイツ語で「Der Luftkrieg Der Zukunft(未来の空中戦争)」と字幕がドーンと出て、まぁ、どこの国なんだかは誰にでもわかってしまう。ちなみにこのドイツ語字幕が正式なタイトルで、それじゃわかりにくいから便宜的につけたタイトルが「The Airship Destroyer」のようだ。そのため、他にも「空中魚雷(The Aerial Torpedo)」とか「雲中の戦い(The Battle of the Clouds)」など、複数の名前で呼ばれている。
この映画は1915年にツェッペリン飛行船の空襲が始まった時にイギリスでは再上映されており、「ツェッペリン飛行船をやっつけるには、映画みたいに無人航空機を突っ込ませるしか無い!」という共通イメージがイギリス人の間にはあったのかもしれない。
もう100年以上前の映画で、すでにパブリックドメインとなっているのでせっかくだから見どころを少し紹介しておこう。

Airship Destroyer1

某国の飛行船艦隊だ! もうこのころから、双眼鏡を覗いてる時ってこのヒョウタン型の枠で表現してたんですね。

Airship Destroyer2

イギリスを攻撃する飛行船乗組員たち。爆弾ではなくて、わざわざ下向きのロケットの尻にチャッカマンで火をつけてる。

Airship Destroyer3

後ろにある煙突みたいな高射砲(たぶん)で飛行船と戦う(たぶん)装甲車(たぶん)。この直後、飛行船からの攻撃が直撃して爆散してしまう。

Airship Destroyer4

飛行船の攻撃に太刀打ちできず、炎上するイギリスの市街。大惨事だ。このシーンはミニチュアに直接火をつけちゃってる。

Airship Destroyer5

全イギリスの期待を担い、打ち出される空中魚雷! プロペラは推進式だ。

残っているフィルム全編(公開時は20分あったが現存しているのは7分弱だけのようだ)はこちらから見られる(インターネットアーカイブの保存ページ。Youtubeでも「The Airship Destroyer」で検索かければたくさん見つかる)。
こうやって止め絵で見るとそれなりっぽいが、なにしろ映画黎明期の特撮なんで、この時代の映画(メリエスの「月世界旅行」とか)を見慣れてないと、相当ツライ、とだけ言っておこう。

(その4に続く)

今回は文中にリンク貼ってしまったので参考ページは省略。

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無人航空機斯く戦えり・その2

引き続き無人航空機の歴史を辿る旅。終着地点は決めてるものの、そこへ辿りつくのに何回費やすかは未定。なので、おもしろ新商品きたら一時中断しますんであらかじめ御了承くださいな。

前回は無人航空機の誕生ということで、まさかの気球から話がスタートしたが、今回も前回に負けず劣らずプリミティブな飛行デバイスの話から。
動力飛行機の発明以前に人類が保有していた飛行技術には、気球以外に「凧」がある。お正月に上げるあれだ。凧はもともと無人なんで改て「無人航空機」って言うのも変だが、無人航空機の軍事利用、つまり凧の軍事利用というのもあながち無関係ではないので一応触れておきたい。とは言っても、巡航ミサイル方面に進んでいくつもりである当記事では、糸で繋がれている凧はあまり本筋ではないので簡単に済まそう。もちろん、凧で爆撃したらよっぽど長い糸じゃないとあげてる自分が吹っ飛んじゃうんで、凧の軍事利用ってのは偵察用だ。

忍者が大凧に乗って敵の城に忍び込み、無音のうちに大名の首を掻き切る……タツジン! なんてのはさすがに講談かニンジャ・スレイヤーでしかありえないんで割愛。
ちゃんとした記録に残っている凧の軍事利用に道を開いたのは、気象学者で、凧の権威でもあったウィリアム・エディー(William Abner Eddy)。「エディー」というのはなんかエドワードの愛称のようだが本名だ。
エディーは十文字に組み合わせた骨と、変形四角形の布で作る「ダイヤ凧」(お線香の「青雲」のCMでおなじみのやつ)の改善策の考案者(ダイヤ凧そのものは以前からあったが、ダイヤ凧同士のつなぎ方を工夫することによって長い尻尾を省き「連凧」として上げることを容易とした)で、この改良で特許を取得している(US646375)。
この改良により多数の凧をつないでより高高度まで上げることが可能となり、エディーの死の翌年のことではあるが、このダイヤ凧を10枚つなげた連凧で高度7,128 mという当時の凧の高度記録が作られている。

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Wikipediaにはウィリアム・エディー本人のいい写真がなかったんで、御令嬢のマーガレット・エディー嬢とダイヤ凧の写真(1895年撮影)を引用。いかにも19世紀のお嬢様らしい白いドレスとブーツ。凧が意外なほど大きいことがわかる。

エディーは1895年、機械的なタイマーでシャッターが落ちるようにしたカメラを凧に積み、アメリカ初の空中写真の撮影に成功している。なお、世界初の空中写真は1858年にフランスの写真家ナダール(Nadar)が気球から撮影、また、凧からの空中写真は、これまたフランスの写真家アルトゥール・バトゥ(Arthur Batut)が1889年に成功している。
1898年、米西戦争に従軍したエディーは多数の偵察写真を撮影しており、これは戦史上最も初期の空中偵察写真ということができるだろう。
ちなみにエディーは後(1908年)に、買い置きのアイスがたびたびなくなってしまう怪現象を解決するために自宅上空に凧を上げて写真を撮ったところ、勝手口からアイスを失敬しに上がり込んでいる二人組がバッチリ写真に収められていたという。なんだか、凧を上げるよりも先にすべきことがあったような気もするがそれはさておき、これは世界でもおそらく初めての「空から撮られた証拠写真」と言えるだろう。

さて、エディーが凧あげして写真をパチリという、なんだかのんびりしたことをしている間にライト兄弟は動力飛行を成功させ、時代は飛行機全盛期へと突入していく。
1914年、第一次大戦勃発。いよいよ戦場では風船や凧ではなく飛行機が用いられることとなるが、記録に残る限りでは、無人航空機の軍事活用を最初に思いついたのは英国空軍だった。
イギリス空軍は1916年、英国本土へと高高度侵入してくるツェッペリン飛行船に対し、地上から無線誘導で体当たりを仕掛ける無人航空機の開発を開始した。また、この機体は随伴機からの無線操縦で敵陣に突っ込ませる飛行爆弾としての運用も考えられていた。なんだか急に一気に本格的になったぞ。
このプロジェクトを率いたのが後に「無線誘導技術の父」と呼ばれることになるアーチボルド・ロウ(Archibald Montgomery Low)だった。

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「いかにも」といった感じのロウの写真(Wikipediaより引用)。出典は1920年のイギリスの科学雑誌らしい。

ロウは1888年生まれなので、プロジェクトを任された時はまだ30歳にもなっていない。
幼少のころロウは両親の都合で一時オーストラリアへ渡っており、そこでは各家庭に電話が備え付けられていることに大きな衝撃を受けたという。成長してからは10歳にもならないうちに自宅の実験室で発明、実験に打ち込み、悪臭やら爆発音やら煙やらが出るたびに両親は御近所の苦情に謝って回っていたようだ。偉大な科学者には偉大な両親が必要なのである。
11歳でロウはロンドンの名門、セント・ポールズ・スクールに入学するが、本人に言わせると「あんまりにも人がたくさんいて」うまく馴染めなかった。ロウの同級生に、後にイギリス軍機甲師団を率いてロンメルと戦うことになるバーナード・モントゴメリーがいたが、将軍の回想によると、「なんだかボンヤリしたやつ(rather dull)」だったらしい。
16歳でロウは中央技術学院(Central Technical College)へ進学。こちらはロウにとって本領を発揮できる場所で、在学中に様々なことに挑戦したロウは新型の製図板を開発し、これは商品化されている。

卒業したロウは叔父(あるいは伯父)の経営する「ロウ装飾・点火社(The Low Accessories and Ignition Company)」に入社した。この会社はエンジニア系の会社としては当時ロンドン市内で2番目に古い会社だったが、すでに運営は火の車だった。
だが、経営者のエドワードはロウ青年を規定の業務に縛り付けず、その奔放な発想・発明を支援し自由に開発をさせるという道を選んだ。その結果、ロウが次々に生み出す新しい機械、既存メカニズムの改善は会社の経営を次第に上向かせていったという。偉大な科学者には偉大な経営者も必要だ。
1914年には、ロウは電気信号で画像を転送する「テレ・ビスタ」の実験を公開している。言うまでもなく、これは後のテレビジョンへとつながっていく発明だが、使用したセレン受光器(写真機の露出計と同じ原理)は動画を電気信号に変換するにはあまりに感度が低く、あまりうまくいかなかったようだ。

第一次大戦の勃発でロウは軍に入隊、すでにテレ・ビスタの実験などで名前が知れていた彼は渡りに船とばかり、英国空軍の無線誘導無人機の開発部門へと送られた。

(その3に続く)

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Abner_Eddy
https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Low
その1との重複は省略。

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無人航空機斯く戦えり・その1

開発室の引っ越しで、来週から勤務地が田町になる筆者のお送りする、カードモデルに関係あったりなかったりする情報。今回から数回は、とあるキットについて確認しようとしてすっかり泥沼にはまった無人航空機開発史について、ネット上で拾い集めてきたにわか知識で語ろうという趣向だ。

いろいろと定義はあるが、軍用の無人航空機で最初に実用化に達したのは第2次大戦中にドイツが実戦で使用したフィーゼラー Fi103、別名V1飛行爆弾であったと言えるだろう。
では、実用化に達しなかった無人航空機には、どんなもんがあったんだろう。
記録に残っている最初の軍用無人航空機は、おそらく1863年2月24日に米国特許(US 37771 A)が取得されたチャールズ・パーリーの「風船爆弾」だろう。

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画像はGoogleの特許検索から(データ提供: IFI CLAIMS Patent Services)。

1863年……1863年!? 日本で言えば文久年間、ペリーが浦賀に来てまだ10年の1863年???
そう、タイプミスではなく、本当に1863年である。
映画「SF巨大生物の島」は南軍に囚われた北軍兵士が気球で脱出するシーンから始まるが、アメリカでは1861年から始まった南北戦争で、北軍が「陸軍気球軍団(Union Army Balloon Corps)」というのを編成し、敵情や弾着を觀測するのに用いていた(気球が軍事用に使用されたのは1794年、フランス革命中にフランス陸軍が弾着觀測に用いたのが最初)。
これに目をつけたのがニューヨーク在住の発明家、チャールズ・パーリー(Charles Perley)だ。
当時の火砲は平射する野砲だと射程だいたい1.5キロ、山なりの弾道で砲弾を放り込む迫撃砲だともっと短くなる。
射程がこれしかないんでは、守りを固めた要塞に砲弾が届くまで火砲を引っ張っていこうとすれば目標まで1キロぐらいまで近づかなければならず、当然防御側の砲火、さらに一部の腕の良い狙撃手が装備していたライフル銃の狙撃に晒されることとなる。
そこで、パーリーは気球で目標を爆撃することを思いついた。
すなわち、攻撃側はまず目標の風上に陣取り、そこで爆弾を積んだ無人の気球をふくらませる。気球には時計仕掛けで底が開くバスケットが吊るされており、その中に積まれた爆弾がふわふわ~~~~ひゅー、どかん、と目標を破壊するというわけだ。やったぜ。
なぜ、人が乗った気球で敵の上まで行って爆弾を投げ落とすのではいけないのかと言うと、当時の気球は水素で浮力を得ているために当然被弾に弱く、敵の真上まで行っては到底生還は望めない。しかし、無人なら撃ち落としたところでやっぱり爆弾は爆発し、結局は敵に損害を与えるのだからどんどん撃ち落としてくださいな、というわけだ。
もちろん、過去にも似たようなことを思いついた発明家はいただろうが、きちんと文書に残っているのは、このチャールズ・パーリーの特許が最初だと思われる。

なお、このチャールズ・パーリーという人物、1840年台中盤から1860年台中盤にかけていくつか特許を取得しているが、詳しい人物伝は見つけられなかった。風船爆弾以外の特許には船舶関係の機器の改良が多く、港湾関係者だったのかもしれない。
スミソニアンのアメリカ・ナショナル・ミュージアムにはチャールズ・パーリーの「教会・学校用折りたたみ椅子」の特許模型が収められている。

リンク

「特許模型」というのは、アメリカ特許庁が特許申請の際に提出を義務付けていた縮小模型だが、後に特許の出願が多くなると特許庁の倉庫が大変なことになったので1880年に廃止された。
ちなみにアメリカの特許で検索をかけると1870年台にもチャールズ・A・パーリーという人物がいくつか特許を取っている。こちらの人物は特許取得時にはマサチューセッツ在住だが、上記の折りたたみ椅子に”C. Perely and Sons”と刻んであるので、おそらく息子なのだろう。

さて、パーリーの「風船爆弾」は戦争の様相を一変させ、空をふわふわと埋め尽くす無人気球からの爆撃で南部の都市は軒並み焼け野原となり、南部連邦大統領ジェファーソン・デイヴィスも「ほんとすんませんでした」と謝った、のかと言えばもちろんそんなことはなくて、「SF巨大生物の島」でも気球が嵐で流されてでっかいカニがいる島に漂着したことでもわかる通り、パーリーの風船爆弾は文字通り「風まかせ」という大きな欠点があった。
時計仕掛けの投下装置も、そのタイミングで敵上空に差し掛かっている保証はなく、ヘタすりゃ上げた途端に風がなくなってどうしようかと見上げてるうちに気球から爆弾がコンニチワ!することになる。それでも、風船爆弾は特許が取得された北軍、またそれを模倣した南軍によって少量が実戦で投入されたようだが、あまりはっきりとした資料はない。

(その2に続く)

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/北軍気球司令部

http://www.pbs.org/wgbh/nova/spiesfly/uavs.html
https://sites.google.com/site/uavuni/
無人航空機の歴史。今回の記事のネタ元。

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