GPM ユーゴスラビア軍戦闘機 IKARUS IK-2

ミルキー食って歯の詰め物が取れたんで歯医者に行ったら「詰めた下が虫歯になってるんでこの際根治しましょう」ということで少し歯を削られ、新しい詰め物ができるまで樹脂の仮詰め物を入れてもらったのに、うっかりガム噛んで仮詰め物もオサラバ。その結果、会社の親睦会で皆がビールで乾杯している中、一人冷たいものが飲めなくてホットコーヒーで乾杯していた筆者がお送りする東欧最新カードモデル情報。今回紹介するのはポーランドの老舗、GPM社からリリースされた新キット、ユーゴスラビア軍戦闘機 IKARUS IK-2 だ。

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まさかのユーゴスラビア国産機である。この機体を見て、「あぁ、アドバンスド大戦略でユニット化されてたな」と思うモデラーはかなりヘビーなゲーマーだと言えよう。
この機体を製作したのはユーゴスラビアのイカルス社。設立は1923年。設立メンバーの一人、Dimitrije Konjovićは第一次大戦中はオーストリア=ハンガリー海軍の飛行艇乗りで、1916年9月15日に浮上航行中のフランス軍潜水艦「フーコー」(Foucault、Q70)を僚機と共に爆撃、損傷を与えた。航行不能となったフーコーの乗組員は艦を遺棄(オーストリア=ハンガリー軍水雷艇と水上機によって全員が捕虜となった)、これは世界初の航空機による潜水艦撃破であった。
イカルス社は当初フランスのポテ25、チェコスロバキアのアヴィアBH-33、イギリスのホーカー・フューリー、ブリストル・ブレニムのライセンス生産などを行っていた。第二次大戦後は共産政権下で国有企業となり、1960年台以降は航空産業から撤退、バス製造業として現在も年間1000輌前後を生産している。
なお、ハンガリーにも「イカルス」というバスメーカーがあるため、ユーゴスラビアのイカルスは1992年に社名をイカルバス(Ikarbus)に変更した。
それにしても、航空機会社の名前が「イカルス」って、あんまり縁起が良くないと思うのだが、どうなんだろう。

大戦前のセルビア軍航空隊(たぶん、観測気球部隊)から発展したユーゴスラビア王立空軍(Vazduhoplovstvo vojske Kraljevine Jugoslavije 、略称「VVKJ」)は空軍の近代化のために1920年台、技術者をフランスへ派遣した。よりにもよって空軍が大迷走したフランスなんかに派遣しなきゃいいのに、と思うが、してしまったものはしょうがない。
若き技術者、Ljubomir Ilić と Kosta Sivčev もフランスで最新航空機のモードを学習してきたが、帰ってきたころにはユーゴスラビア空軍の熱意はどっかいってしまって、二人は管理部門に配属されてしまう。
これにガッカリした二人は1931年、もう勝手にやってしまいましょう、と自分たちでユーゴスラビア空軍の新戦闘機の設計に乗り出した。斬新だな。
当時、ユーゴスラビア空軍に配備されていたのはユーゴスラビアでもライセンス生産していたアヴィアBH-33と、イギリスのホーカー・フューリー。これらは当時の新鋭機だったが、どちらも複葉固定脚の第一次大戦機の発展型に過ぎなかった。
二人は最初、低翼単葉引き込み脚の戦闘機を構想していたが、さすがにこれは先進的すぎて技術的にも困難ということで、最終的にデザインは高翼単葉ガルウィング固定脚という形にまとまる。
エンジンは世界中どこでも手に入ったフランス製イスパノ・スイザ水冷12気筒エンジン(860馬力)。これを買うともれなく軸内発射の20ミリ機関砲がついてくるお得セットでもあった。もちろん、武装がそれだけじゃ敵に弾が当たらないんで胴体前部にはプロペラ同調機構つきのフランス製ダルヌ7.9ミリ機銃2丁が装備される。ただし、この機銃はエンジンサイズの関係で機首下面に装備されていた。
二人はそれぞれの頭文字(Ljubomir Ilić、Kosta Sivčev)をとり、この新型機を「IK-1」と名付けたが、どうして片方が苗字で片方が名前なのかはよくわからない。それともKosta Sivčevはハンガリー系でKostaが苗字なの?
そんな疑問はさておき、二人はIlićの家の地下室でIK-1の木製モックアップの製作までこぎつけたが、飛行機の設計はともかく製作なんて二人でホイホイとできるもんではなかった。適当な風洞が使えなかったために旧知を頼ってフランスまで行って風洞実験を行ったことなどもあり、モックアップを作っただけで資金は底をつき、二人は家族に借金までしていた。

1933年、ついに完全に行き詰まってしまった二人は空軍技術部門にIK-1のデザインを持込む。担当したSrbobran Stanojević中佐はIK-1に深い感銘を受けた。これぞ、ユーゴスラビアの次世代戦闘機! Stanojević中佐は支援を約束し、すぐさまIK-1について上層部へ報告したが、反応は芳しいものではなかった。
中でもIK-1に強い拒否感を示したのが空軍の Leonid Bajdak 大佐だった。ロシアのオデッサで生まれた Bajdak 大佐はロシア帝国で操縦を学び、ロシア内戦が勃発すると白軍のパイロットとして従軍。白軍総司令官アレクサンドル・コルチャークから一級聖ジョージ勲章も授与された英雄だったが、ロシア内戦の終結と共にユーゴスラビアに亡命していた。
Bajdak 大佐の主張は、「最良の戦闘機は600馬力の複葉機である! 異論は認めない!」というものだった。なぜ600馬力でなければいけないのか良くわからないが、どうも当時ユーゴスラビア空軍に配備されていたホーカー・フューリー戦闘機(ロールスロイス ケストレルエンジン525馬力)がいたく気に入っていたようだ。
しかし、1894年生まれのBajdak 大佐に対し、新たに育っていた若い士官達は「より早い戦闘機が必要だ」と主張。両者の意見は激しく激突したが、最終的には航空機生産能力のあるイカルス社の工場でIK-1の試作機1機が製作されることとなった。

試作機は1934年9月に完成した。ところが、空軍はなにを思ったのか、フューリー大好きBajdak 大佐をIK-1のテストパイロットに任命する。大佐は「IK-1の主翼は強度不足。飛んだら壊れる。だから飛びたくない」と主張。大丈夫、ダメ、直せ、直さない。でも直せ、少し直した。まだダメ、と延々とグダグダのやり取りが繰り返され、なんと初飛行は1935年4月までずれこむ。
1935年4月22日、IK-1はついに初飛行を果たす。
しかし、翌23日、2度目のテスト飛行で大佐は飛行計画にないアクロバット飛行を行い、IK-1をぶんぶんとぶん回した。
そして、降りてくるなり「見て! 見て! この主翼! 布たるんでる! 見て! 危ない! 壊れる! この飛行機超壊れる!」と主張。確かに見てみると、帆布張りが一部たるんでいる。しかし、イカルス社の技術者は「表面に塗ったニスが半乾きなんすね。乾けばピンと張りますよ」と取り合わなかった。
そして4月24日、大佐は三度目のテスト飛行を行う。
この日、大佐は前日よりもさらに激しく、もちろん予定にないアクロバット飛行でIK-1をメチャクチャに振り回した。そして、緩降下に入れて十分に速度を出したところで思い切り引き起こす。その途端、主翼の帆布が縫い目から裂けた。
大佐はすぐに機体を捨て脱出、IK-1はスピンに入り墜落した。

「ほらー、言ったよね? 事前に言ったよね? ね? ね? IK-1は超~あぶない~♪ 超~あぶない~♪」とドヤ顔のBajdak 大佐だったが、誰がどう見ても大佐の操縦そのものが原因だし、3回飛んだだけじゃ性能評価もできないので、IK-1は空気取り入れ口の修正、ブローニング機銃への交換などの小修正を加えてIK-2として再度試作機が製作されることとなった。
無茶な操縦が原因とは言え、帆布が裂けたのは事実なのでIK-2は10ヶ月をかけて丁寧に製作され、完成したIK-2は今度はテストパイロットPoručnik Janko Dobnikarの手で初飛行を行う。Dobnikarはイカルスの工場でIK-2の製作から立ち会っており、パイロット目線での助言も行っていた。
この飛行でIK-2は極めて良好な操縦性を示し、速度性能も当時のユーゴスラビア最速の最高時速435キロ(ホーカー・フューリーの最高時速約は330キロ)を記録した。
Dobnikarのレポートを受けとった空軍は最終トライアルとして、他の機体との模擬空戦を行ったが、ほとんどの戦闘でIK-2は勝利をおさめた。それらの模擬空戦の中には、あのフューリー厨のBajdak 大佐が搭乗したホーカー・フューリーとの一戦も含まれていたが、100キロも遅い複葉機で勝てるはずもなく大佐は敗退した。その時にどんな顔してたか見てやりたい。

1937年、ついにユーゴスラビア空軍はIK-2を制式採用し、最初の生産分12機をイカルスに発注する。
しかし、それはあまりにも遅すぎた。すでに1935年に初飛行した低翼単葉引き込み脚のホーカー・ハリケーンは最高時速520キロを記録していた。
結局、2次生産分は発注されず、IK-2の生産は12機で終わる。
1941年4月6日のドイツ軍侵攻のさいには4機が修理中でIK-2は8機だけが飛行可能だった(試作機がどこに行ったのかはわからない)。
ユーゴスラビア降伏時にはまだ3機から4機が残存しており、機体は新たにユーゴスラビアから分離独立したクロアチア空軍に引き渡された。クロアチア空軍では1944年末頃まで地上攻撃などにIK-2を使用していたようだが、終戦まで全機が失われている。

それでは、知られざるユーゴスラビア国産戦闘機、IK-2の姿を公式ページの完成見本写真で見てみよう。

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ホーカー・フューリーとPZL.P11を足して2で割ったような独特なスタイリング。イスパノ・スイザエンジンを装備していることもあり、どことなくフランス機的でもある。胴体に埋没したような背の低いキャノピーもおもしろい。
ユーゴスラビアの国籍マークの青はもっと濃いイメージがあるが、この写真でシアンに写っているのはテストプリントだからか、キットでもこうなっているのかはわからない。

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この角度からだと脚の間の馬鹿でかいラジエターや、複雑な支柱などが単葉に脱しきれていないことがよくわかる。
胴体に小窓があるのは、見ての通り下方視界が全くないのを補うためだろう。


GPMからリリースされたユーゴスラビア軍戦闘機 IKARUS IK-2は空モノ標準スケール33分の1で完成全長約24センチ。難易度は3段階評価の「2」(普通)、そして定価は45ポーランドズロチ(約1500円)となっている。レーザーカット済みの芯材用厚紙は20ズロチ(約650円)で同時発売となる。
ユーゴスラビア空軍ファンのモデラーなら、IK-2をビッグスケールで手に入れられるこの機会を逃すべきではないだろう。

なお余談だが、IK-2の採用を全力で邪魔し続けたLeonid Bajdak 大佐はユーゴスラビア降伏後、ドイツ軍のロシア人軍団に参加、ソビエト軍と戦ったが終戦後はアメリカに脱出。1970年9月16日にサンフランシスコで死亡したという。
もちろん、大佐の妨害がなかったところでIK-2が何百機も作られてドイツ軍のメッサーシュミットを圧倒してユーゴスラビアが占領を逃れられるようなことはなかっただろうが、それにしても、なんというか、妙な徒労感だけが残る話である。



画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。
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