SZK ドイツ製旅客機 Junkers F-13

あいにくの天気となった連休、日曜日は久々に東京国立科学博物館に出かけたらお目当ての「発見の森」が改装工事中でしょんぼりした上に更新が一日遅れた筆者の紹介する東欧最新カードモデル情報、本日紹介するのはしばらく公式ページが行方不明で新製品の溜まっていたポーランドのブランドSZKからの新製品、ドイツ製旅客機 Junkers F-13 だ。

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相変わらず画像はこれ一枚。
映画「プレーンズ」を彷彿とさせる左右別の正面開口部が特徴的なF-13だが、一見、密閉キャビンに見えるこの操縦席、窓がなくって筒抜けで、その前に小さな風防ガラスが立っているという「プレーンズ」に老眼鏡をかけて登場しそうな面構え。表紙では開口部の縁に窓枠のような茶色い部分が見えるが、これは身を乗り出して周囲の様子を見ていた操縦士が急な乱気流で枠に叩きつけられて怪我をしないように取り付けられているクッション。
わざわざこのスタイリングで窓を塞いでいないのは当時のパイロットが「密閉キャビンは風を感じられなくて速度がわからない」と、精度の低かった速度計を信用しなかったためだろう。ただし、そのままじゃ4人乗りの客室内に時速200キロの暴風が吹き荒れてお客様が客室の後ろに吹き寄せられてしまうので、操縦席と客室の間は完全に区切られていた。また、一部の機体では機内から見て右側の副操縦士席側の開口部は窓ガラスが嵌めこまれていたようだ。
F-13はユンカース社にとって初の商用機で、世界初の全金属製旅客機だった。初飛行はなんと1919年6月。第一次大戦が停戦となってからたったの半年だ。もちろん、停戦だ! さぁ、商用機を作ろう! で半年でこの傑作機が完成するわけないんで、おそらく戦時中から軽爆撃機あたりを見込んで設計は進んでいたのだろう。

ユンカース社を設立したHugo Junkers(ヒューゴ・ユンカース、あるいはフーゴ)は1859年生まれ。第二次大戦で乱舞した数々のドイツ機を生み出した天才、もしくはそこから一歩踏み出しちゃった博士達と比べると、エルンスト・ハインケルが1888年生、ウィリー・メッサーシュミット1898年、クラウディウス・ドルニエ1884年と、ユンカース一人飛び抜けて年季が入っている。ちなみに「ドイツ航空業界の父」とも言うべきフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵は1838年生まれだ。
裕福な実業家の息子として生まれたユンカースは大学で工学を学び、19世紀末にはすでに熱量計、浴室ボイラーなどで特許を持つ技術者であった。
1895年、特許を商用化するためにユンカース社を設立。アーヘンの大学で工学の教授として教鞭を取る傍ら、ユンカース社はファンヒーター、ガスストーブ、圧力調整計、内燃機関などの販売で成功を収める。
熱関係の設備がメインのユンカース社は、ついでにいわゆる「トタン」(波板)の生産も行っていた(波板自体はユンカースの発明ではない)が、アーヘン工科大学教授でツェッペリン飛行船の構造計算なども行っていたハンス・ライスナーがこれに目をつけ、当時まだ布張りが当たり前だった飛行機を金属で作るというアイデアのためにユンカースの波板を使用したいと申し出た。
金属板なら布よりも強いし、ドープでコテコテに塗らないでいいから熱・炎にも強い。強度が強いということは骨組みが少なくなるんで、結果的に軽くなる、はず、と金属製飛行機の利点はいろいろあったが、もちろん欠点もあって、薄く加工した金属は面にそって引っ張ると強いが、面に垂直の法線方向の引っ張りには弱かった。これじゃあ機体上面の負圧に引っ張られて翼の表面が全部吹っ飛んでしまう。そこで、薄い鉄板を波型にすることで垂直方向の強度を増したのが波板である。簡単に言うと。

この一件で航空機に興味を持ったユンカースはわざわざ風洞を建設。いろいろと実験をして「金属製全翼機こそ究極の飛行機」と結論づけて、準備万端、さぁ、完全金属製の全翼機を作っちゃうぞ! と意気込んだが、1914年に第一次大戦が勃発。ユンカース社も軍用機の生産を行うこととなる。
ユンカース社は1915年には全金属機「J1」を完成させるが、この機体はアルミ合金ではなく鉄を使っていたために、普通の布張り飛行機の重さが500~600キログラムに対して機体のみの重量約1トンと滅茶苦茶に重かった。
それでもJ1はちゃんと飛んだし、最高速度も時速170キロとそんなに悪い数字ではなかったが、ユンカースはこれに満足しなかった。
1917年にはアルミ合金のジェラルミンの波板を用いた「J4」が完成。この機体は軽いアルミ合金を使ったのに重量が1.7トン、最高速度150キロと、なんかむしろいろいろ悪化していたが、それもそのはず、なんとJ4の機首はエンジン、操縦席をまとめて厚さ5ミリの装甲板で囲っていた。さらに被弾に弱いケーブル式の操縦装置の代わりに金属ロッドで操縦桿と動翼をつなぎ、燃料タンクは燃料ポンプがやられても大丈夫なように重力式の予備タンクを備えるという念の入れよう。イリューシンもびっくりな元祖「シュトゥルモヴィーク」だ。
ドイツ帝国軍はこのやたら頑丈な機体に関心を示し、「J.I」として採用する。なんか数字が巻き戻ったように見えるが、第一次大戦中のドイツ軍命名規則は「カテゴリ+ローマ数字」となっており、この「J」は地上襲撃機を意味しておりユンカース社の頭文字とは関係ない。
ユンカースJ.Iは227機が生産され、1918年のドイツ軍大攻勢、いわゆる「カイゼル攻勢」に投入された。が、地上の敵をなぎ払うために下向きに装備した2門の機関銃は狙ったところに向けるのが当然のごとく困難で、実際には襲撃機ではなく偵察機や積載量の余裕と頑丈さを活かして最前線への物資輸送などに使われた。
とにかく頑丈なJ.Iの戦闘での損失で確実なのは地上からの機関銃火で徹甲弾が貫通した1機のみ。もう1機、空中戦で失われた機体があるとも言われるが、こちらは確証がない。

戦後、ドイツは軍用機の研究を禁じられたがユンカースはホイホイっと商用機の世界に飛び込み、傑作F-13(社内名称「J-13」)を完成させる。ユンカースは商才もあったようで、安価なリース料で世界中の航空会社にF-13を売り込むという方法で戦間期の旅客機業界をユンカース機一色に塗りつぶしていく。アフガニスタン、ボリビア、フィンランド、スイスなど世界中でF-13が飛び回り、生産が追いつかないユンカース社はソビエトでのライセンス生産までした(デザインセンスのよく似た波板巨人機で有名なアンドレイ・ツポレフがユンカース機に影響されていることは疑いようがないだろう)。
F-13は総計300機以上が生産される大ヒットとなり、1932年には戦前最大の傑作旅客機となるJu-52が登場する。

しかし、時代はユンカースの好まない方向へと進んでいた。
ナチ党が政権を取ると社会主義寄りの姿勢を取っていたユンカースはドイツ航空業界で冷遇されるようになる。一説にはナチ党航空相ヘルマン・ゲーリングは第一次戦後すぐ、ユンカース社にテストパイロットとして就職活動を行ったがそれを断られた事を根に持っていたとも言う。
1933年にはユンカースは自身が所持していたユンカース社の大量の株券と特許を脅迫じみた方法でナチ党に譲渡せざるを得なかった。ユンカースは投獄こそされなかったものの自宅軟禁状態に置かれ、1935年2月3日、失意の内に76歳で死去した。
従って、第二次大戦序盤に戦場を支配し、「いかにもユンカース」と言った無骨なスタイルのJu-87「スツーカ」に、ヒューゴ・ユンカースは一切関わっていない。

戦間期初頭の世界航空業界を席捲した傑作機、ドイツ製旅客機 Junkers F-13は今回、HOスケール(87分の1)でのリリース。完成サイズは全幅約20センチ。難易度は書いてない。そして定価は6.9ポーランドズロチ(約250円)となっている。
重要な機体の割に、戦間期の旅客機というマイナージャンルのためにキットに恵まれなかったF-13。過去にはドイツの老舗シュライバー・ボーゲンから50分の1でキットが出ているが、これは設計年度が古いので今風に仕上げるのはなかなか難しいだろう。同社からは100分の1でもリリースされていた、という情報があるが、そっちにいたっては見たこともない。
このキットは戦間期旅客機ファンのモデラー、ヒューゴ・ユンカース教授ファンのモデラーにとっては見逃すことのできない一品と言えるだろう。また、HOスケールというスケールを活かして鉄道模型の情景に組み込むのもおもしろいかもしれない。



画像はSZKサイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。
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