中華民国空軍 王牌飛行員 黄新瑞・5

途中にキット紹介なんかも挟みつつも5回も続いた本項、今回が最終回となります。

1938年春の空戦で撃墜数を「7」まで伸ばしたものの負傷した黄新瑞氏が、再び戦列に復帰するのは1940年冬のことでした。
彼が復帰のために療養している間に、日中の航空戦力は大きく変化していました。まず、中華民国空軍にはソビエトからの支援が入り、大量のポリカリポフI-15とそのバリエーション、それからI-16が供与されます。あれ? 中華民国って、反共政権だからソビエトとは敵対関係のはずでは? みたいな細かい事を気にしていてはいけない。ソビエトは必要とあればファシスト・ドイツとだって同盟組んじゃう国だ。
黄新瑞氏も1940年11月にポリカリポフI-15部隊へ転属となりますが、この部隊の装備機はすぐに脚を引き込み式としたI-153に転換されます。
また、戦場も中国の海岸部から内陸へと移っていました。

1941年3月14日、かつての蜀の都、四川省成都へ移動していた黄新瑞氏の部隊は日本軍航空隊来襲の警報に接し、迎撃に向かいます。
迎撃隊の陣容は堂々31機のI-153。黄新瑞氏はそのうちの9機を率いていました。
しかし、果たして彼は知っていたのでしょうか。今、向かっている相手が日本海軍最新鋭機、零式艦上戦闘機を装備した第12航空隊だということを。第12航空隊は前年9月13日、I-16、I-15の混成部隊30機に対し零戦13機で奇襲を仕掛け、損失ゼロでほぼ全機撃墜という凄まじい戦果を挙げていました(この空戦については渡辺洋二氏の「大空の戦士たち」に詳しい)。

12機の零戦からなる第12航空隊に対し、迎撃隊は果敢に襲い掛かりましたが戦闘は一方的なものでした。
I-153は次々に撃墜され、黄新瑞氏も頭部に負傷します。
空戦の結果、I-153は11機が撃墜され7機が損傷、零戦隊に損害はありませんでした。
この結果を聞き、中華民国空軍最高司令官”周至柔”将軍は号泣したといいます。

黄新瑞氏は病院に収容されたものの、二日後に死亡しました。
零戦の登場により、中国空軍は一方的な敗退を重ねるようになり、中国軍パイロットが撃墜を記録することはほとんどなくなりました。
そして1941年末、日本海軍は零戦をもって太平洋戦争へと突入します。
中国空軍が零戦に対し再び優位に立つのは終戦間近の1945年、アメリカからP-51ムスタングが供与されてからのことでした。
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