FC2ブログ

Z-Art スロバキア古城 Čachtický hrad・前編

更新が遅れて日付が変わってしまったが、昨日11月11日は第一次世界大戦休戦100周年であった。100年前のこの日午前11時に休戦が発効、敵対していた各陣営の兵士達は塹壕を飛び出し互いに持っていたポッキーを相手の口に咥えさせると歓喜のあまり反対側に自らが食らいついたという。これこそが現在も行われている「ポッキーゲーム」の由来であり、これを記念してこの日は「ポッキーの日」となった。
と、いうネタを思いついたがどこにも書く場所がないのでここにメモしておく筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。
本日紹介するのは全然前振りにも第一次世界大戦にも関係ないチェコ Z-Art ブランドの新商品、スロバキア古城 Čachtický hradだ。

ob_cachtice01.png

相変わらず子音ばっかりで読み方の全然わからないチェコ語だが、タイトルの「Čachtický hrad」は代表的なカナ表記では「チェイテ城」となる。「hrad」というのが「城」を意味するチェコ語なので、もし読者がなんかのはずみで中世のチェコに転生した場合は出会った人に「hrad」と伝えれば城へ連れて行ってもらえると思うので、あとはトンチでなんとかしてチート主人公人生を満喫しよう。

Z-Artが当ブログに登場したのは過去に2回、2015年10月のスクールバスと2013年3月のオラヴァ城。このブランドのメインコンテンツは東欧の古城なのでどうしても紹介が少なくなってしまうが、定期的に新商品を出しており東欧古城ファンのモデラーにとっては見逃すことのできないブランドとなっている。
以前に紹介したオラヴァ城は映画「ノスフェラトゥ」のロケで使用された、いわば「恐怖映画の聖地」だが、今回リリースされたチェイテ城も別の意味で恐怖の舞台となった場所。
城の名前を聞いてもピンとこないかもしれないが、最後の城主の名前は有名なので知っている読者も多いだろう。
1575年から1614年までこの城の城主だったのはバートリ・エルジェーベト。これは当時この一帯を治めていたハンガリー王国風の表記(日本と同じで、姓・名の順になる)で、日本でも馴染みのあるドイツ語表記ではエリザベート・バートリとなる。いわゆる「血の伯爵夫人」と悪名高い人物だ。

チェイテ城が建っているのはスロバキアの首都、ブラチスラバから北東へ50キロほど行った場所にある「Čachtice」(チャフティツェ)という小さな村の丘の上。チャフティツェ村は現在でも人口は約4千人程度の小さな村だ。
古代からの遺跡が見つかっているので古くから住んでいた人がいたようだが、村として名前が記録に初めて登場するのは1263年。名前の由来は古いスラブ語で「陽気な男たち」という意味だそうだ。なんだか楽しそうな村だ。
ただし時代によって綴りは"Chekche"、"Chechte"、"Chechte"など揺らぎがある。
名前が登場したのは交易路を守るための要塞が建造されたからで、この要塞が後に拡充されてチェイテ城となる。

1276年、ボヘミア王兼オーストリア公オタカル二世(Otakar II)という、なんだか「オタク・カルチャー」を略したみたいな名前の王様が「拙者、ボヘミアをもっと拡張するでござるwww デュフフww サーセンw」とぐんぐん領土を拡張しているのに巻き込まれてチェイテ城は落城、ボヘミア王のお城コレクションの一つとなる。このブログの登場人物の大半は単に名前の印象でテケトーにつけたキャラで語られるので深く考えてはいけない。

Ottokar_II_Premysl.jpg

Wikipediaからの引用で(この項、キット表紙写真以外全て同様)、ボヘミア王オタカル二世。画像ちっちゃい上になんか絵の上手な学生が授業中に教科書の端っこに落書きしたようなタッチで、ぶっちゃけわざわざ載せるほどでもなかった感じの肖像画。
オタカル二世のイケイケな領土拡張は周辺諸侯の反発をまねき、彼は1278年8月26日「マルヒフェルトの戦い」に敗退して戦死(一説には敗走中にかつて処刑した貴族の郎党に捕まり撲殺されたという)してしまった。

オタカル二世の死後しばらくチェイテ城は城主がいなかったようで領地も教会が統治していたが、1392年にハンガリー王(後の神聖ローマ皇帝)ジギスムントが「あの土地、あげるよ」と仲の良かったハンガリー貴族でポーランドの騎士でもあったStiborici Stibor(スティボルツのスティボル)という、どこまで名前なんだか良くわからない人にチャフティツェ村と城をまるっと与えた。中世の村って、そんな読み終わったマンガ雑誌みたいにホイホイ人にあげちゃうもんなんだろうか。

323px-Albrecht_Dürer_082

なんか悪いこと企んでそうなジギスムント皇帝。16世紀の絵画でジギスムント死後数十年経ってから描かれたもの。この人はチェコでフス派を弾圧し、蜂起したフス派の軍勢を舐めプしてたら怒ったヤン・ジシュカにボコられた。

スティボルに与えられたはずのチャフティツェ村だが、どういうわけか1436年にこの地は今度はグートイ・ミハイ・オルザシュ(Guthi Országh Mihály)という人に再度与えられている。ここの経緯は資料読んでも良くわからなくって、あるいは1414年に前の領主のスティボルが亡くなっているので、一旦ハンガリー王に返還されていたのかもしれない。

1567年、オルザシュ家は跡取りがいなくて断絶となったために土地はハンガリー王国議会の所有となり、2年後にナーダシュディ家(Nádasdy)に渡る。どうやらこれはナーダシュディ家が議会から購入したようだ。
そんなわけでチャフティツェ村とチェイテ城はナーダシュディ家フェレンツニ世(Nádasdy Ferenc)の領地となる。
この人はトルコ軍との戦いで勇名を馳せた人物で、捕虜に対する呵責なき扱いからトルコ側からは「暗黒卿(fekete bég)」と恐れられたという。この点、ドラキュラ伝説でお馴染みのヴラド3世(Vlad III、いわゆる「串刺し公」)と重なる部分があり興味深い。

441px-Ferenc_Nadasdy_I.jpg

フェレンツニ世男爵。キャプションに17世紀の絵画とあるが、存命中に描かれたものかははっきりしない。なお、この画像のタイトルは「Ferenc Nadasdy I」となっている。フェレンツニ世は後に伯爵となっているので、「ナーダシュディ・フェレンツ伯爵一世」という意味だろうか。

435px-Vlad_Tepes_001.jpg

直接関係ないけどヴラド3世。この人はワラキア公国の君主なのでフェレンツニ世よりもずっと位が高い。また、1431年生まれなのでフェレンツニ世より120年も前の人だ。

フェレンツニ世男爵が2つも階級が上の伯爵になったのは、なんかすごい手柄を立てて二階級特進になったわけじゃなくて、女伯爵と結婚したからである。
1575年5月8日、20歳のフェレンツニ世は5歳年下のバートリ・エルジェーベトと結婚した。バートリ家は当時東欧でかなりの権力を誇った名門の家柄でエルジェーベトの母親の兄弟、つまり叔父(もしくは伯父)のバートリ・イシュトヴァーン9世(Báthory István)がポーランド王ステファン・バートリとなっている。
結婚したんなら、名前もナーダシュディ・エルジェーベトになるんじゃないの? と思ったら、バートリ家の方が家柄が上なので改姓せずにバートリ家に留まったそうだ(バートリ家の籍を抜くと「男爵夫人」になってしまう)。なおエルジェーベトは「伯爵夫人」と書かれることが多いが、彼女自身が伯爵の爵位を持っており、夫のフェレンツニ世は結婚で伯爵となったので「伯爵夫人」でも間違ってはいないのだがちょっと違う。この辺りは英語で「女伯爵」と「伯爵夫人」は共に「countess」なので、その辺から来た誤解かもしれない。
あと、エルジェーベトには兄がいるので彼女は当主ではない(イギリスを除くヨーロッパの貴族は兄弟全員が爵位を相続することが多い)が、この兄は1605年に跡継ぎがないまま死亡しており、この代でエチェディ系バートリ家は断絶となった。
(中編に続く)


キット画像はZ-Art公式ページから引用。

参考ページは後編にまとめて掲載予定。
スポンサーサイト



テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

コメントの投稿

非公開コメント

展開図公開中
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
プロフィール

のとっちょ

Author:のとっちょ
カードモデル初心者が苦闘するさまをご覧あれ。

検索フォーム
おすすめショップ
リンク(順不同、敬称略)
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
製作進展中