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JSC イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"・その2

結局のところ、綿アメなんてものは穴開けた容器に溶けたザラメを入れてブン回せばできるんじゃろ? と思いたち電動消しゴム(リューターみたいなやつ)と空き缶で綿アメ製造機を自作したものの、ザラメ入れてコンロで炙って回転させたら糸状ベッコウ飴が量産されてションボリしている筆者のお送りする世界のカードモデル情報。前回に続き、ポーランドJSC社からリリースされた、イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"の2隻セットの紹介。

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説明するの忘れてたけど、表紙絵で奥にいるのがアンドレア・ドーリアで、手前の舳先がストックホルム。

前回は1953年1月23日、イタリア・ラインの新型客船アンドレア・ドーリアは処女航海を終えてニューヨークへ寄港したところまで。
この豪華な客船は就航すると、たちまち激戦区大西洋航路でも人気の客船となった。東廻りも西廻りも乗客は毎回満員で、1956年までにアンドレア・ドーリアは100回大西洋を横断していた。
なお、イタリア・ラインは1953年にほぼ同型のSS クリストフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンブスのイタリア名)を就航させているが、C・コロンボの方がちょっとだけ大きかったので「イタリア最大」の座は譲ることとなった。

1956年7月17日、アンドレア・ドーリアは51回目の西廻り大西洋横断の旅へ母港ジェノアを出発する。予定では航海は9日間。
大西洋に出る前に、A・ドーリアはイタリア・ラインが客船ターミナルを持つナポリ、カンヌ、ジブラルタルに寄港し乗客を拾った。
ジブラルタルを出港したときの乗客数はほぼ満員の1134人(1等190人、2等267人、3等677人)。これに乗員572人(定員より9人多いが理由は不明)が加わり総計1706人が乗船していた。

船長はピエトロ・カラマイ(Piero Calamai)。1897年生まれで第一次大戦では士官として駆逐艦に勤務。一次大戦後に一旦は海軍を辞するも第二次大戦前に復帰し、タラント港を英軍雷撃隊が襲撃した際には魚雷1発を受け大浸水した戦艦カイオ・ドゥイリオ艦内で人命救助に尽力したというベテラン。

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Wikipediaからの引用でピエトロ・カラマイ。1956年撮影なのでアンドレア・ドーリア船長時代の写真。
カラマイは両大戦間にも大西洋航路の客船に乗り組んでおり、1932年には士官として乗り組んでいた”Conte Grande”(戦後にアメリカからイタリア・ラインに返還された4隻のうちの1隻)から乗客が海へ転落した際に、大西洋のど真ん中であるにも関わらず救助のために躊躇せず海へ飛び込んだ勇気を讃えValor civile章(「勇敢民間人章」)2級を受勲している。
世界大戦後に二回とも軍を退役して客船船員に転身しているところを見ると、もともと海軍よりも客船船員が志望だったのかもしれない。

アンドレア・ドーリアが出港した1週間後、7月25日正午少し前にスウェーデンの客船「MS ストックホルム」がニューヨーク港から103回目の東廻り大西洋横断の旅に出発した。
この船を所有するのはスウェーデンの「スウェーデン=アメリカ・ライン(Svenska Amerika Linien)」。1914年に設立された会社で、まぁ大方の予想通りにスウェーデンとアメリカを結ぶ大西洋航路の定期便を運営する旅客会社である。東京都八王子市と群馬県高崎市を結ぶから「八高線」みたいなもんだ。
MS ストックホルムは1948年に完成した船だが、A・ドーリアよりずっと小さい1万2千トン160メートル。この大きさは就航当時の大西洋航路では最小クラスだった。

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JSCショップサイトからの引用(以下、キット写真は全て同様)で、MS ストックホルムの姿。氷の浮かぶバルト海の荒海でも航行できるように船首が鋭く尖り、乾舷も高い。
あまり豪華客船らしくないクレーン状の装備が甲板上にいくつか見えるが、貨客混載だったのだろうか。ストックホルムの詳細な資料はネット上に意外なほど少なく、あまり詳しいことはわからなかった。

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上から見たストックホルム。ずらりと救命艇を並べたアンドレア・ドーリアに比べると少し救命艇が少ないように見えるが、アンドレア・ドーリアに対してストックホルムは全長こそ4分の3あるのに対して定員は4割しかないためだろう。ちなみに排水量で見ると、どちらも定員1人あたり16トン半ばとなっており、アンドレア・ドーリアが多すぎるとか、ストックホルムが少なすぎるとかいうわけではないようだ。

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細部ディティールを拡大。広々とした後部デッキは航海中の社交の場となっていたことだろう。腕に覚えのあるモデラーなら甲板の板張り表現や各所のトラスを自作することでディティールアップを行うのもよさそうだ。

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マストにはアンドレア・ドーリアと同じくレーダーを装備。
ストックホルムはもちろん内装もA・ドーリアに負けずとも劣らない豪華なもので、2等に別れた船室に395人の旅客を収容できた。
S=Aラインが、なんてこんな小さい豪華客船を運用していたのかというと、「たぶん、戦後の旅客業は航空機が優勢になるだろう。だから豪華客船は一部の富裕層のために、小さく、豪華にするのがいい」という見通しによるものだった。おお、なかなか鋭い。
この見通しは間違っていなかったが、いささか時期を見誤った。イタリア・ラインの復活でもわかるように戦後、欧州各国は想像以上に早期に豪華客船を復活させ、1950年台序盤には大西洋航路は活況を呈していた(大西洋旅客飛行が盛況になるのは大型ジェット旅客機、シュド・カラベルやボーイン707が就航する50年台終盤から)。
仕方ないのでS=AラインはMSストックホルムに153人分の船室を増築し、1956年7月25日には乗客534人、乗員208人の合計742人を乗せてスウェーデンのヨーテボリを向かっていた。

なお、一部資料には「MS STOCKHOLM IV」という表記もあるが、これはS=Aラインは以前にも「MSストックホルム」という名前の船を保有していたからで、創業時にオランダ=アメリカ・ラインから購入した初代ストックホルムは1929年にノルウェーに売却された後、なんとクジラ加工船に改装されている。その後、ドイツ軍のノルウェー侵攻時に鹵獲され、1944年にシェルブール港の入り口を閉塞するため自沈、戦後スクラップとなった。ちなみにS=Aラインが購入する前の名前は「ポツダム」で、1900年にハンブルグのブローム・ウント・フォス造船所で建造された船。しかし、ドイツで建造されたからって、どうしてオランダ=アメリカ・ラインはドイツの地名である「ポツダム」を船名にしていたのだろう(しかも、ポツダムは当時オランダ=アメリカ・ラインが保有する最大の船だった)。
2代目ストックホルムは1938年、イタリアで建造中に原因不明の火事で全損。3代目ストックホルムも2代目に続いてイタリアで建造されたが完成したのが1941年だったのでスウェーデンに引き渡すことが不可能でイタリア政府に売却。「MS サバウディア(Sabaudia)」に名前を変えた後、イタリア降伏でドイツに接収され1944年7月に連合軍の空襲で沈没、戦後解体された。

(その3に続く)

キット画像はJSCショップサイトからの引用。

参考ページは最後の回にまとめて掲載予定。

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