JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・1 河川モニター”SMS Leitha”

これまで、新リリースのキットに絡んで過去にリリース済のキットについて触れようと思うたび、自作のリスト(テキスト)をつらつらと眺めて情報を拾い集めていたものの、これがまぁ、やたらめったら面倒なんですわ。
で、せっかくPC使ってるんだから表計算ソフトで管理すりゃいんじゃね? と今更になって気づいて古いキット情報をまとめなおしていたところ、「なんでこんなオモシロネタを放置してるんだろう」ってキットがけっこうありまして、今回はそんな風に掘り出してきた過去にリリース済のネタキットの中からポーランドJSC社からリリースされた オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット を紹介。

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右上には「2015/3」の表記があるが、JSCは再版する時にここの表記を書き換えてしまう上に、キット番号の「262」も通しでふられていないので初版がいつごろなのかは良くわからない。一応、カテゴリごとにキット番号はある程度まとめられており、キット番号251番のドイツ帝国巡洋戦艦”ゲーベン”からキット番号269番ドイツ帝国戦艦”フリードリヒ・デア・グローゼ”までが「第一次大戦シリーズ」となっているが、その中でも特になんじゃこりゃ、なキットが今回のネタだ。

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誰も見たこと無いようなオーストリア=ハンガリー帝国海軍の小艦艇達。
キット内容は左上の一番細長い四本煙突の艦が「タトラ級駆逐艦”トリグラフ(SMS Triglav)”」、その右下に並んでいる少し小柄な船が「250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”」、右下の潜水艦が「潜水艦”SM U-5”」、そして左下の平べったい船が「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」である。
どれも小粒ながらピリリと辛いアイテムというか、調べれば調べるほどに知らない話が出て来るというか、そもそもオーストリア=ハンガリー帝国海軍のことなんてなんも知らんので、ここは一つ駆け足に済まさずに筆者の勉強がてらじっくりと紹介していきたい。
第一回となる今回ピックアップするのは「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」だ。

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見るからに河川モニターだ。というか、これ第一次大戦の艦艇なのか? どう見ても19世紀の艦船だぞ。
なお、この写真ではわかりにくいが実際のライタの甲板は砲塔部分が高く、そこから前後にゆるやかに下っている。ただし、これを左右方向のキャンバーと合わせると甲板は前後左右に下っていくゆるやかな山形という複雑な三次元曲線となってしまうのでキットでは前後方向の傾斜は省略されているのかも知れない。

オーストリア=ハンガリー帝国(長いので、以下「帝国」に省略)はもともとが陸軍国であった上に、今ではオーストリア、ハンガリーとも海岸線を持たない内陸国となってしまったために帝国の海軍は非常に影が薄いが、まがりないにも20世紀初頭までは「大国」だったので、もちろんそれなりの海軍力は保持していた。

19世紀中盤、南北戦争で「装甲艦」が鮮烈なデビューを飾ると、各国は競って装甲艦の建造に乗り出す。
帝国は1862年に初の装甲艦「カイザー・マックス級」(排水量3600トン)を完成させ3隻を就航させる。さらに1865年にはより大型の「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級」(排水量5100トン)なんていう、痺れるほどカッチョイイ名前の装甲艦2隻が完成。この2クラス5艦に「ドラッヘ級」装甲コルベット(排水量2800トン)2隻を加えた7隻で迎えた第三次イタリア独立戦争では、リッサ海戦で帝国艦隊旗艦E・F・マックスがイタリア艦隊の装甲艦「レ・ディタリア」にまさかの衝角による体当たりをぶちかまして撃沈。これにより世界の海軍は「装甲艦を沈める最良の方法は衝角攻撃」という間違った天啓を心に深く刻み込むこととなる。

これらの渡洋艦隊とは別に、帝国は河川砲艦からなる小艦隊整備の必要性も感じていた。なにしろ帝国はど真ん中をヨーロッパ有数の大河、ドナウ河が流れている。そして、東をロシア帝国、西をドイツ帝国に挟まれた帝国が領土拡大するためにはバルカン半島へと進出するしかなく、それならドナウ河をプカプカと進んでいける河川砲艦は戦力として最適であった。
そんなわけで1869年、リッサ海戦の英雄ヴィルヘルム・フォン・テゲトフの提案でモニタータイプの河川砲艦2隻の建造が決定され、当時まだ新兵器であった「砲塔」はイギリスに発注された。
設計における難点は、帝国主要河川の水深が非常に浅いことであった。そのため、「モニター」の設計をそのまま流用すると、川底に底をすって悲しいことになるのは目に見えている。かと言って、喫水を浅くするために重量を軽くする=装甲を減らしたら、なんのためにモニターを作るんだかわからない。
この難問に対する帝国造船官ヨセフ・フォン・ロマコの編み出した回答が、「甲板の前後を下げる」というものであった。これにより、艦尾・艦首方向で乾舷を減らし(その分装甲帯の幅も減る)、それでいて水をかぶったらヤバい砲塔リングはそれなりの高さに残すことを同時に達成した。
2隻のモニターは1871年5月17日、4月20日に完成。それぞれが「SMS Leitha」「SMS Maros」と名付けられる。両者の名前はそれぞれオーストリア、ハンガリー両国の河川の名前から取られており、ここにも帝国の複雑な事情が現れていると言えるだろう。

河川モニター「ライタ」の初陣は1878年。日本で言えば西南戦争の翌年にトルコ領ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対し帝国が侵攻した戦いに於いてであった。この戦いで2隻の河川モニターはサヴァ河でトルコ軍に打撃を与えた。
その後、まぁ大抵のモニター艦と同様にライタも急速に旧式化。20世紀初頭にはそろそろこいつら、退役させるか、という雰囲気になっていたが、1914年に第一次大戦が勃発するとすでに帝国海軍で最も古い現役艦艇となっていた2隻のモニターはサヴァ河で再び配置についた。
モニター艦隊はそもそもの世界大戦の発火点、セルビアの首都ベオグラード(ドナウ河とサヴァ河の合流点)占領に向かったが、正直、小国セルビア相手に舐めプしていた帝国軍は予想を反し強力な抵抗に遭遇。ライタは1914年10月、セルビア軍の砲火(詳細不明)が砲塔(19世紀末までに、前装砲2門が配置されていた大型の砲塔はより近代的な後装単装砲を配置した小型のものに換装されている)を直撃、砲塔内の人員が全滅するという大打撃を被っている。ベオグラードは11月30日に陥落したものの、12月15日にセルビア軍に奪還された。
帝国はドイツ軍も呼び込んで、1915年10月に第二次ベオグラード攻略戦を開始。この時は修理の終わったライタはドナウ河小艦隊の旗艦として戦いに参加している。廃墟となったベオグラードは10月9日に再陥落した。

1918年、いろいろあってロシア(ソビエト)領内でチェコ(当時帝国領)軍団が大暴れしているのに乗じて、チェコの活動家トマーシュ・マサリクが「どうすか、いっそチェコを独立させちまうってのは。これを認めたら連合軍と戦ってる帝国はあっという間にボロボロっすよ」と持ちかけると連合軍はあっさりと「イイネ!」と同意。チェコは独立を宣言する。おいおい、それがありなのかよ、と思った帝国内の諸国は次々に独立を宣言。マサリクの言葉通りにオーストリア=ハンガリー帝国はあっというまに崩壊した。
帝国から放り出されたハンガリーは1919年3月22日、クン・ベーラ率いる共産政権が権力を掌握。「ハンガリー社会主義連邦評議会共和国」、別名ハンガリー・ソビエト共和国が成立する。
と、同時に「共産政権断固粉砕! あと、ハンガリーは一次大戦中にルーマニアにひどいことしたよね!」とルーマニアがハンガリー・ソビエトに侵攻を開始。「もう老兵なんで、引退させてください……」と思ってたライタはハンガリー・ソビエト軍ドナウ艦隊としてまたも現役延長が決定した。
1919年6月、ライタは革命干渉軍として押し寄せるチェコ軍との戦いを続けていたが、ハンガリー・ソビエト政権は戦争そっちのけで資本の国有化を急いでおり、それに抵抗する国民に対する容赦ない粛清で支持を失いつつあった。さらに、ぶっちゃけ、ハンガリー・ソビエト軍は軍事センスに乏しかった。
6月24日、ライタに掲げられていた赤旗が降ろされ、赤・白・緑のハンガリー国旗が掲げられる。これは世界でも最も初期の「反共産革命」だったが、共産軍の弾圧により反乱は失敗。ハンガリー・ソビエト政権の粛清は激しさを増した。
1919年8月、ティサ川でルーマニア軍と戦っていたハンガリー赤軍が崩壊。ルーマニアはブダペストを占領し、ハンガリー・ソビエト政権は5ヶ月もたずに崩壊した。

ルーマニア軍が工場や鉄道の施設をあらかた「戦後賠償」として持ち去った後、ハンガリーは保守派が「ハンガリー王国」を復活させる。しかし連合軍がハプスブルグ家の王が権力を握ることを拒否したために、王はいないのに王国は復活するなんて滑稽だわ、な逆ラピュタ状態だった。
王に代わってハンガリーで実権を握っていたのが、元帝国海軍提督、ミクロシュ・ホルティ。
ホルティは海軍軍人だったので、いまさらライタみたいな船をとっておいても仕方がない事をわかっており、ライタは民間に払い下げられることとなった。
1928年、砂利採取業者がライタを獲得。ベルトコンベアが据え付けられ、ライタは砂利採取用のハシケに改造された。

ハンガリーはその後右傾化し、ドイツと同盟を組んで世界大戦に参戦し、途中から連合軍に寝返ったルーマニアと戦い、ソビエトに占領され、王様のいない変な王政は廃止され、第二次共産政権が成立し、ハンガリー動乱でソビエト軍にボコられ、それでも民主化のうねりは高まり、ソビエト崩壊を機に複数政党制を認め、共産党独裁の軛から放たれたが、変な形の砂利採取用ハシケはそんなこととは関係なく川の中洲から岸へベルトコンベアで砂利を送り続けていた。
1992年、元ライタを所有する会社がスイスの企業へと身売りすることとなった。当然、会社が保有する全資産も一緒に売り払われる。
この時、ハンガリーの歴史家達が立ち上がった。実は1970年代、すでに「どうやらあのハシケはライタらしいぞ」という噂はたっていたのだがなにしろ帝国時代の遺物なもんだから、共産化以前の功績を一切否定する共産党に保護を申請したところで「ふーん、そう」と相手にされないのは目に見えていた。
しかし、今は時代が違う。海外の企業が貴重な歴史的な船を「古いし、イラネ」とスクラップにしてしまう前に保護しなければならない。
冷戦期には西側だったオーストリアの研究者達とも力を併せ、研究者達は資料を集め各所へ請願を行う。この結果、ライタは歴史的価値を認められハンガリー軍事史博物館が買い戻すこととなった。
スイスから里帰りしたライタは2005年からレストアが行われ、建造当時の姿へと戻され、2010年8月20日に博物館として公開が始まる。同日、ハンガリー国防大臣ヘンデ・チャバがライタを「ハンガリー陸軍河川艦隊名誉旗艦」に任命した(現在のハンガリーに海軍はない)。
現在もライタはブダペストでドナウ川に係留されている(写真によって背景が明らかに異なるので、場所は時々移動してるのかもしれない)ので、ハンガリー旅行の際には是非とも見学をスケジュールに組み込みたい。休館日は月曜日。10時から16時まで見学可能だが、見学は30分に1回づつのガイドツアーに参加する形となるので注意が必要だ。

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Wikipediaからの引用で、現在のライタ。船体前後、特に船尾方向が大きく下げられている独特の形状がわかる。砲塔や内装はもちろん復元されたレプリカだが、雰囲気はいい。砲塔の上の円筒はどうやら司令塔のようだ。
JSCのキットは博物館と同じ建造時の状態を再現しているが、前述の通り第一次大戦時には砲塔を換装しているので他の艦艇とは整合性に欠ける。しかし、良く考えたら海にいる他の艦と河にいるライタを並べること自体がファンタジーなんで細かい事は忘れよう。

ハンガリー最古にして、オーストリア=ハンガリー帝国海軍艦艇唯一の現存艦艇であるライタ。河川モニターファンならこのキットを見逃すべきではないだろう。

(第二回に続く)


キット画像はJSCショップサイトからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Leitha
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー評議会共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー・ルーマニア戦争

http://lajtamonitor.hu/
非常に詳しいライタのページ(ハンガリー語)。少しわかりにくいが、右上の「LEITHA」のタイトルの下にある「TÖRTÉNET」(歴史)をクリックすると、各時期の艦の姿を豊富な写真、図版で見ることができる。必見。

http://welovebudapest.com/culture/museums.2/lajta.monitor.museum.ship
ハンガリーの博物館紹介サイト内のコンテンツ。博物館としてのライタの情報、現在の館内の様子などが見られる。
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