Model-KOM ソビエト試作戦闘機 Su-15(1) ・後編

カッターマットは同じところばっかり使うもんだから、一箇所ボロボロ、後は新品ってことになりがちである。上下ひっくり返せば長持ち二倍だが、それにも限度がある。ボロボロの2箇所のためにピカピカの残り部分を捨てるのもモッタイナイと悩んだ結果、カッターマットの手前数センチ部分にカッターで深く切り込み入れてから折り曲げて割り、最後はハサミで切るという力技で切断して新品部分を使えるようにしてご機嫌な筆者がお送りする世界のカードモデル情報。本日はポーランドModel-KOMの新製品、ソビエト試作戦闘機 Su-15(1) の後編。

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斬新なタンデムツインジェットエンジンで単発の空気抵抗と双発の出力を狙ったSu-15(初代)だったが、時速800キロに達すると異様な振動が始まるという現象に悩まされていた。
42回、トータルで20時間の試験飛行が行われたが振動は不規則に発生し、一旦始まると速度を時速600キロ以下まで落としても止むことがなかった。現在では、Su-15の主翼はテーパーをつけない矩形翼を後退させている上に脚収納用の切り欠きを作ったために主翼付け根での強度が不足し、主翼がバタつくフラッター現象が発生していたものと推測されているが、当時の技術力では振動の原因を解明することはできなかった。

1949年6月、Su-15はどこまで速度が出せるかを試すこととなった。謎の振動がおさまらないままそんなテストしていいのかと思うんだが、もしかすると返って高速だと振動がおさまるかも? 的な希望的観測もあったのかも知れない。
この危険な飛行のテストパイロットに選ばれたのは、これまで4回Su-15で飛んでいるセルゲイ・アノヒン(Сергей Николаевич Анохин)。
アノヒンはこの手の危険な試験飛行のエキスパートだった。

セルゲイ・アノヒンは1910年モスクワの生まれ。学校を卒業してからは鉄道技術者を経てバスの運転士となったらしい。
1929年、アノヒンはレニングラードの赤軍グライダー学校に入学する。一説には、兄レオニードが抽選で当てたモスクワ遊覧飛行のチケットを譲ってもらい初めて空を飛んだ事に大きな感銘を受けたためだという。
1931年にグライダー学校を卒業したアノヒンはさらに高レベルの航空学校へ進み、ここでも非常に優秀な成績をおさめる。33年までにアノヒンはグライダーのスペシャリストとして数部門でグライダーの国内記録を保有、さらについでに習得したパラシュート降下でも高い技能を示していた。

1934年、アノヒンは彼のキャリアを決定づける実験に参加することとなる。
中央航空流体力学研究所、ЦАГИ(ツアギ)ではグライダーの翼の特性を調べるために同じ機体に違う翼を取り付けた4機のグライダーを製作したが、機体強度について製作した技術者(詳細不明。アントノフの弟子らしい)は「時速300キロまでいけますよ!」と豪語していたが、ツアギの技術者たちは「いや、これ時速220キロ越えたら分解するよ……たぶん……」と主張。両者の意見は平行線を辿り、最終的に「じゃあ、300まで実際に出してみようじゃないか」となった。とはいえ、当時は便利な自動操縦装置があるわけじゃなし、誰かが乗って飛ばなければならない。
この危険な試験の操縦士に選ばれたのがグライダー操縦に長けていて緊急時にはパラシュート脱出もできるセルゲイ・アノヒンだった。
10月2日、アノヒンの乗った実験グライダー「Рот Фронт-1」は曳航機に引かれて飛び立ち……時速220キロで空中分解した。アノヒンは崩壊する機体から無事に脱出、怪我一つなく地上に降り立ったばかりか、2週間後の18日には国内グライダー航続時間記録を11時間32分で更新しているのだから、飛ぶことに対する恐怖感を全然感じないタイプだったのだろう。
アノヒンの恐怖感に対する興味深いエピソードがもう一つある。1935年に正式にモスクワのパラシュート学校を卒業したアノヒンは1935年から1940年まで、トルコに派遣されパラシュート降下の教官を勤めた。その際に、一人の訓練生のパラシュート(ソ連製)が開かずに墜落するという事故が発生。訓練生達の間に動揺が広がるの見たアノヒンは事故で開かなかったパラシュートを背負い、無事にパラシュート降下してみせたという。

1941年、ドイツ軍の侵攻で戦争が始まると9月にアノヒンは陸軍に呼び出されグライダー部隊の指揮官に任命される。「赤軍グライダー部隊」なんて全然戦史に出てこない部隊だが、主な任務はパルチザン部隊への補給であった。
作戦はドイツ軍戦線後方に確保したスペースにグライダーと曳航機が着陸。グライダーと物資を残してグライダー操縦士は曳航機に便乗して基地に戻る(グライダーは現地でパルチザンが解体する)という危険なもの。
アノヒンはこの困難な任務をなんと200回成功させた上に、1943年3月17日にはパルチザンが比較的良好な広場を確保していたために、着陸したグライダーを曳航機につなぎ直し、グライダーに負傷しているパルチザンを載せて離陸、基地へ帰還している。これは第2次大戦において唯一の敵後方からのグライダー離陸であり、この功績でアノヒンは赤旗勲章を授与された。

例のグライダー空中分解実験の功績もあり、アノヒンは戦闘任務の合間には新型グライダーのテストにも呼び出されていた。彼のテストしたグライダーの中でも特に有名なのが、”空飛ぶ戦車”A-40だろう。これは、軽量化したT-60軽戦車に翼を取り付けて直接グライダー化し、敵陣に戦車を送り込むという画期的というか斬新というかドリーミーなアイデアだった。

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画像はWikipediaからの引用(この項、キット表紙写真以外全て)。たぶん、想像図。

古い資料には「T-60のギヤをニュートラルにして牽引しても抵抗が大きすぎて離陸速度が出せず、失敗に終わった」と書いてあることが多いが、東側の資料では「離陸、着陸、翼の離脱と自走での帰還に成功」と書かれている。単に抵抗が大きいのならドイツ軍のロケット戦闘機みたいにドリーに乗せて引っ張ればいいんだから、たぶん、飛んだのだろう。しかし、飛行は安定せず、曳航中の高度は数十メートルしか取れないという状態では実用化できずに計画は破棄されている。

1945年5月、戦争は終わったが、アノヒンは「Yak-3で限界を越えた無理な機動したらどうなるのっと」というスレに応えるためにYak-3戦闘機を空中分解させ負傷、片目を失明してしまった。

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1950年代のセルゲイ・アノヒンの写真。よく見ると左目は義眼であることがわかる。
アノヒンはYak-3の事故の半年後にはテスト飛行の仕事に復帰していた。

この、ソビエト航空界切っての危険任務男、セルゲイ・アノヒンがSU-15に乗り込んだ。
1949年6月3日、アノヒンが乗り込んだSU-15は速度を時速870キロまで上げる。途端に凄まじい振動が発生した。さらに、あまりの振動の激しさに電装系がどこかイカれたらしく、コンソールがモクモクと煙を吐き始める。
こうなっては、さすがのアノヒンでもできることはない。やむを得ず、射出座席の動作レバーを引いたが、電装系がイカれてるんでこれも不発。しかし、アノヒンは持ち前の冷静さを発揮、キャノピーを開け自力で脱出した(射出座席はちゃんと動作したとする資料もある)。

双発と単発のいいとこどりを狙ったスホーイの挑戦は終わった。
スホーイはSu-15を常識的な単発形式として、無難にMiG-15のパクリみたいなスタイルにしたSu-17(初代、Су-17 «Р»)を試作したが、ツアギは「これ、振動起こした主翼の平面形は何にも変わってないよね?」と飛行許可を与えず、Su-17試作機は射撃訓練の的となって消滅、スホーイ設計局もオモシロ兵器でソビエトの国力を浪費したサボタージュの罪で解散となった(1955年に再建)。Su-15の試作認可与えた方は責任とらないんでいいんですかね。

セルゲイ・アノヒンはその後も危険なテストパイロットを続けた。1960年12月にはTu-16のテスト飛行中に機体が炎上、クルーの脱出を確認したアノヒンは最後に射出座席のレバーを引いたが、これがまた不発だった(連動して開くはずのハッチが凍結していたらしい)。数日後、気温マイナス30度の森林に遺体を探しに来た捜索隊が発見したのは炎上するジェット爆撃機から自力でパラシュート脱出した後、手近な小屋で手持ちのアルコールをチビチビやってしのいでたアノヒンだったという武勇伝を残している。

彼はそのキャリアからイケイケで破天荒な人物を想像されがちだが、同僚に言わせると物静かで控えめな、おとなしい人物だったらしい。1966年からアノヒンは宇宙部門に移動し、宇宙飛行士の訓練、指導に当っていたが、生徒だったゲンナジー・ストレカロフ(Генна́дий Миха́йлович Стрека́лов。総宇宙滞在期間268日22時間22分)に言わせると「彼は父であり、友であった」ということだ。
1986年4月15日、アノヒンは胃がん(資料よっては動脈瘤破裂)によって死亡した。飛ばした機種200種類、うち30機はテスト機、生涯に6回の緊急脱出を経験した偉大な飛行士であった。

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モスクワにあるセルゲイ・アノヒンの墓標。左下にあるのは彼の妻、 Маргаритаのお墓。彼女もまた優秀なグライダーパイロットだった(二人は飛行士学校で知り合ったそうだ)。
アノヒンは宇宙部門に移動した時点ですでに高齢であり、また隻眼であったこともあり宇宙飛行士にはなれなかったが、1996年4月、小惑星(4109)にその名前”Anokhin”が付されている。

スホーイ設計局を閉鎖させ、ついでにセルゲイ・アノヒンも殺しかけた迷惑飛行機Su-15(1)は空モノ標準スケールの25分の133分の1で完成全長約50センチ。難易度は4段階評価の「3」(難しい)、定価は39ポーランドズロチ(約1300円)となっている。
極初期ジェット機ファンのモデラーなら、こんな二度とキット化されない感じの機体を手に入れるまたとない機会である今回を見逃すべきではないだろう。また、セルゲイ・アノヒンのファンであるモデラーも、アノヒンが乗った機体コレクション(アノコレ)の一角として是非確保しておきたいキットである。
*2月20日訂正
スケールまちがえているのをコメント欄で御指摘いただきました。ありがとうござます!





キット表紙画像はModel-KOM社サイトからの引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。


参考ページ:
https://ru.wikipedia.org/wiki/Анохин, Сергей Николаевич
http://aviapanorama.ru/2010/06/eto-byl-dejstvitelno-chelovek-ptica/
http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=418
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No title

空モノ標準スケールの25分の1
?!誤植でござる。

Re: No title

あわわわ、ご指摘ありがとうございます!
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