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M・A・レイテル大将は本当にやらかしたのか?・前編

ご無沙汰しておりました、しばらく本業が立て込んでいて、その反動で少し放心気味の筆者がお送りする、カードモデルが主題らしいよ? このブログって。
そんな前フリで紹介する今回のネタは毎度おなじみ、全然カードモデル関係ない戦記ネタ。いや、実はもう1年以上前にこの記事書いてた(だからURLの番号が先週のエントリよりも70ぐらい若い)のをあまりにカードモデル関係ないのでボツにしてたんですが、今回復帰直後でカードモデル紹介をちょっとまとめきれなかったのと、よく考えたら個人が好き勝手にやってるブログだし、これまでも十分ええかげんにやってきたんだからまぁいいっか、という開き直りでゴミ箱から拾ってきてシワを伸ばして公開と相成りました。ちなみにチェックのためにWikipediaの参考ページ確認してたら新しい情報ソースのリンクが増えてて結構書き直しになりました。とほほ。

さて、話の始まりは一冊の本の紹介から。
年季の入った戦史ファンなら知らない人はいないだろうが、サンケイ出版の「第二次大戦ブックス」というシリーズがあって、これは第二次大戦の戦い、人物、組織などさまざまな要素を題材に1970年代初頭から80年代にかけて約100冊が出版された。
このシリーズはもともとは「Ballantine's Illustrated History of World War II」というニューヨークにある「Ballantine Books」という出版社の刊行したシリーズを和訳したもの(後半には渡辺洋二氏の「ドイツ夜間戦闘機」 のような日本版オリジナルのものが増える)で、さすがに出版から50年を経た現在では資料としての古さは否めないものの、文章は大変平易で読みやすく、今でも戦史や戦記への入り口としての価値は失っていないと言ってもいいのではないだろうか。古本屋やネットオークションでそれほど高くない価格で手に入るので、まじオススメ。

で、その中の一冊、第二次大戦ブックス34「クルスク大戦車戦 独ソ精鋭史上最大の激突」(ジュフレー・ジュークス/加登川幸太郎訳)に長年気になっていた一節がある。

IMG_1385.jpg

写真は筆者蔵書の「クルスク」、昭和54年の第20刷。
日本語題よりも原題が目を引くデザインもカッチョいい。
ちなみに全体のデザインは原著を踏襲しているが、原著では「Kursk」の文字が黒なのが黄色に変更されておりより目立つようになっている(装幀は及川正通氏)。

以下、少し長くなるがその部分を引用させていただこう
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P.77~79
[1943年] 五月のはじめ、ポポフと参謀長(M・V・ザハロフ中将)は、軍司令官をあつめ、一九四二年の九月に、当時ポポフが指揮していた第四十軍が、攻略できなかった古戦場に研究旅行をしたりした。
 その直後に、ポポフはブリャンスク方面軍司令官となり、ブリャンスク方面軍司令官のM・A・レイテル上級大将が予備方面軍司令官になった。

兵士なみのレイテル司令官
 あたらしい任地についた第一日に、レイテルはザハロフに参謀たちの試験をやるといいだし、小銃五〇挺と試験に適当な場所を準備するよう命じた。
 翌朝、びっくり顔の参謀たちが集合した。だれも”試験”に反対するわけにはいかなかった。新司令官によい印象をあたえようと、ザハロフと司令官の補佐官カザコフ少将は、作戦部と情報部から最優秀の将校たちに集合を命じたのであった。この試験でレイテルがなにをやろうとしているのか、不審のタネは五〇挺の小銃であった。
「解け銃!」
 とレイテルが命令した。将校たちは、まだ不審顔でそれぞれ小銃をもった。レイテルは列の正面に立って、自分とおなじ動作をするように命じた。
 レイテルは小銃の銃把をにぎると、右腕をのばして頭上で垂直になるようもちあげた。それから腕をのばしたままゆっくり前におろして銃口が地面につくまでおろす。かれはこれを数回くりかえした。
 将校たちは一生懸命にやったが、満足にできたのは一人だけだった。
 ながいこと、意味ありげにレイテルはだまっていた。それから、わびるようにいった。
「諸君、どうも諸君のおおくが左ききなのに気がつかなかったようだ。こんどは左手でやってみよう」
 レイテルは左手でおなじ動作をくりかえしたが、こんどは将校のだれ一人としてマネできなかった。将校たちはびっくりもし、困惑して立ちすくんでいた。
 するとレイテル司令官は地に伏して、蛇のように匍匐前進をはじめた。それから四つんばいになってうごきはじめた。
 ここで将校たちは、またもうろたえた。だれもレイテルの速さにおいつけないのである。
 勝ちほこったように、レイテルはザハロフとカザコフにたいして、おなじテストを司令部ののこりの将校にも実施すること、それからレイテルみずからがおこなう若い将校たちのテストに列席するように命じた。将校たちは、これが最後であってくれ、とねがったのであるが、レイテルはそうでなかった。かれは第五十三軍の将校たちにも、おなじテストを準備するように命じたのである。

レイテルたちまち更迭
第五十三軍司令官のマナガロフ中将とカザコフは数日かかって、将校たちにレイテルのテストをうける訓練をしたが、たいした成果はあがらなかった。かれらはビクビクしながらテストの日を待っていた。テストの前夜、電話が鳴った。ザハロフからである。
「きみは、あのつまらないテストにムダな時間をつかわずに、司令部に帰ってこれるよ」
「いったい、どうしたのですか」
「レイテルが転任だ。新司令官にはコーネフがくる」
 みな、大よろこびであった。

[後略]
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引用ここまで
*原著で[]に囲われた訳注は省略してあり、最初と最後の[]内は当ブログ筆者によるもの。

わはは、なんじゃこりゃ。
絵で表現するとこんな感じか。

匍匐イメージ
  (イメージ)

いや、わざわざいらすとやから画像借りてくるようなことでもなかったか。

それはそれとして、やっちゃったか。レイテルさんはやらかしちゃったか。
さしずめ「しくじり同志、オレみたいになるな!!」といったところか。
イメージとしては初めて大軍を指揮することになった脳筋ゴリラ将軍が嬉しさのあまりウッホウッホとハッスルしすぎてみんな置いてけぼり、という感じだろうか。
それにしても読みやすい文章だなぁ。こんな文章が書けるようになりたいものである。

個人的にクルスク戦直前の挿話として非常に印象に残っていたのだが、さて、この話、本当なんだろうか。
と、いうのも、このエピソードをどうも他のところで見た覚えがない。そして、「クルスク」には出典の表記がない。さぁ、一旦気になると掘り起こさずにはいられない。
とはいえ、これだけ印象的なエピソードなら、まぁロシア語版のWikipediaを見れば普通に載っているだろう。
それにしても専門の戦史研究家が書いた文章をこうやって素人がホイホイ出典探しにいけるんだからインターネット時代ってのは恐ろしいものである。

まず「M・A・レイテル」のスペルがわからないが、ポポフ(マルキアン・ポポフ、Маркиан Михайлович Попов)の前にブリャンスク方面軍指揮官だったのだから、Wikipediaでブリャンスク方面軍の記事を調べればいい。
Wikipediaでは軍の大きな単位の編成には大抵、歴代指揮官が書いてあるので「ブリャンスク戦線」の項目を見ると、あったあった。
「M・A・レイテル上級大将」はマークス・レイテル(Макс Андреевич Рейтер)に間違いないだろう。

性も名もあんまりロシア人ぽくないと思ったら、この人はラトビアの出身だそうだ。
Wikipediaでは日本語版、英語版、ロシア語版とも生年は1886年だとされているが、実はこれは誤りで家族によると1891年生まれだという(ラトビア語版Wikipediaでは1891年生まれになっている)。また、モスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地にあるレイテルの墓碑では生年が1892年となっているが、これは原因不明だそうだ。

576px-Могила_генерала_Макса_Рейтера

Wikipediaからの引用でノヴォデヴィチ修道院墓地、レイテルの墓と胸像。あれ、なんか勲章いっぱいつけてて立派な感じだぞ。脳筋ウホウホゴリラ将軍はどこいった。

1891年生まれだとすると、クルスク戦の時に最高司令官代理だったゲオルギー・ジューコフ(Георгий Константинович Жуков)将軍(1896年生まれ)より5歳年上で、若い将軍の多い赤軍の中では「ベテラン」と言える年代だ。え、もっと若い人だと思ってた。

レイテルは農民の生まれで1906年に帝国ロシア軍に参加。1910年にイルクーツクの士官学校を卒業した。と、Wikipediaに書いてあるがそれでは15歳で軍に入隊したことになる。ロシア帝国の兵制ってどうなってるんだ。あるいは入隊するために自身で年齢を偽って1896年生まれとしたのか。
そして1914年に始まった第一次世界大戦では中隊長、大隊長を務める。とあるがロシア帝国で農民出身の兵士が大隊長にまで出世できるものなの?
士官学校を卒業しているということは読み書きもできたのだろうから、一言で「農民」と言ってもいわゆる「富農」だったのかもしれない。現代の感覚ではロシア帝国の富農なんて革命で全員処刑されたり追放されたイメージがあるが、意外とこの辺は柔軟だったのだろうか。

1916年にレイテルは戦闘で重症を負い、退院後はロシア第12軍司令部付きとなる。1918年、バルカン半島の病院でドイツ軍に囚われ捕虜となる(腸チフスを患っていたらしい)。ダンツィヒの捕虜収容所へ送られ脱走を図るも失敗、1919年に捕虜交換で帰国する。
帰国後、赤軍に参加。連隊長、旅団長と出世する。ロシア内戦、1920年のポーランド・ソビエト戦争、1921年のクロンシュタット反乱鎮圧に参加。第32狙撃兵旅団長として参加したポーランド・ソビエト戦争では負傷している。
1923年、軍事大学を卒業、師団長となる。29年に一時産業界に出向となるも32年に復帰(この間、中国で張学良率いる奉天軍閥との戦い、「東清鉄道の戦い」に参加していたとする資料もある)。33年からミハイル・フルンゼ軍事アカデミーで学び1935年に課程を終了。
1938年12月、赤軍大粛清のさなかに軍を解雇されるが逮捕されることはなく39年6月に軍に復帰している。

1941年8月、独ソ戦勃発に伴い中央正面軍の後方物流担当副司令官として戦線に赴くもすぐに負傷。またか。療養後の1942年2月に西部正面軍司令部付きで復帰後、すぐに第20軍司令官に就任。赤軍冬季大反攻では幾度もドイツ軍の戦線を突破し、大きな評価を得ている。
1942年9月、ブリャンスク方面軍司令官に就任。42年~43年の冬季反攻ではヴォロネジ方面に対する攻撃で再び戦果を上げ、特にヴォロネジ-カストルノエ攻勢では南から攻撃するゴリコフ将軍率いるヴォロネジ方面軍と共同で両翼包囲を行い、ドイツ第2軍とハンガリー第2軍をほとんど包囲するに至った。しかし、この攻勢開始時にレイテルは準備不足を理由に作戦開始を1日遅らせることを主張したがスターリンはこれを認めなかった。結局、最後の最後で突進力が不足したソビエト軍はドイツ第2軍の包囲に失敗し、脱出を許してしまう。
しかし、ハンガリー軍の捕捉には成功し、ハンガリー第2軍は再建不能な損害を被る(第3軍に吸収された)。レイテルはこの戦果で第一級スヴォーロフ勲章を受賞し上級大将へ昇進している。

うーん、これって凄い経歴なんじゃないだろうか。
何度負傷しても戦線に戻るタフさ、ハンガリー第2軍を再起不能にした戦果、スターリンともやりあう胆力(いや、これは経歴的にはマイナスかもしれない)、どこをとっても立派な軍歴である。
なんかゴリラ将軍のやらかしエピソードって感じじゃなくなってきたぞ。

事実、レイテルは故郷ラトビアで「ソビエト軍で最も最高位に就いたラトビア人」として英雄視されているそうである(でも、1986年に間違えて生誕100年祭をやっちゃって、後から生年が違うことが判明して式典を「生誕95年祭」に改称、5年後にもう一回生誕100年祭をやったそうだ)。
ちなみにラトビアではなぜか第5打撃軍司令官としてベルリン突入一番乗りを果たしたニコライ・ベルザーリン(Николай Берзарин)上級大将がラトビア人だという根強い噂があり、「ベルザーリンとレイテルがソビエト軍で最も最高位に就いたラトビア人」とされることもあるが、ベルザーリンはサンクトペテルブルグの生まれでロシア人だそうだ。
(中編に続く)


参考ページは最終回にまとめて掲載予定。
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