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カードモデルで辿るリヒャルト・フォークト博士の軌跡 その1

歯医者で治療途中の歯でうっかり硬いものを噛んでしまうと飛び上がるほど痛くてまいってしまう筆者のお送りするカードモデル関係あったりなかったりする情報。今回からは年末特大企画として、特定のキット、アイテムではなくてリヒャルト・フォークト(Richard Vogt)という個性的な航空機デザイナーの軌跡をカードモデルで追ってみよう、という特別版をお送りする。
まだ年末には早いような気もするが、またとりとめもなくダラダラ書きたいことを全部ぶっこんだらえらい長さになってしまって、軽く年を越しそうな勢いなので先回りして年末企画にしておくという知恵がつくまで10年かかった。

さて、そもそもリヒャルト・フォークトって誰だっけ? という読者のために説明しておくと、あのトンデモ飛行機BV-141をデザインした人である。

Bundesarchiv_Bild_146-1980-117-01,_Aufklärungsflugzeug_Blohm_-_Voß_BV_141

Wikipediaからの引用で、BV-141。1942年5月6日撮影。もとはドイツ連邦公文書館所蔵。
写真を見て「あー、これかぁ……」と合点のいった方も多いだろう。

とにかくなんかオモロイ形の飛行機ばっかり設計してた人、のイメージがあるリヒャルト・フォークトは1894年12月19日、シュトゥットガルトのシュヴェービッシュ・グミュント市の生まれ。
同時代、同姓同名の人物として1936年、ベルリンオリンピックのボクシングでライトヘビー級銀メダルを取った人物も「リヒャルト・フォークト」(スペルも一緒)だが、どうも関係ないらしい。ちなみにボクサーの方のフォークトさんはボクシング史上唯一のドイツ人ヘビー級チャンピオン、マックス・シュメリング(Max Schmeling)の現役最後の試合(1948年1月31日)でシュメリングに判定勝ちしている。
あと、アメリカの爬虫類学者にも全く同じスペルの人がいるが、こちらも多分無関係。

フォークトは若いころにエルンスト・ハインケルから影響を受けたようだが、学生時代にハインケル(6歳年上)と個人的に知り合ったと読める資料と、ハインケルがアンリ・ファルマン機をコピーして制作した機体の試験飛行(墜落した)をフォークトが見学した、と読める資料があってどうもはっきりしない。
いずれにせよ、フォークトはその経験で航空機に強い興味をいだくこととなる。

1912年、18歳のフォークトは自作の飛行機での試験飛行に挑むが、これは失敗した。どうやら離陸できなかったようだ。まぁ、初期の飛行機が飛んだり飛ばなかったりってのはよくあることだ、気にすんな。
その後、学校過程を終えたフォークトは機械工場へ就職するもわずか1年で第一次大戦が勃発し出征することとなったが、出征してすぐに負傷、後送される。
せっかくなんでフォークトはこの機会に航空隊に志願し、操縦訓練を受ける。第一次大戦期の動員システムがどうなってたのか詳しくないのだが、航空隊って志願すれば入れるもんなんだろうか。だとしたら、塹壕にこもってるよりマシだからって猫も杓子も航空隊に志願してドイツ帝国軍全軍がパイロットになっちゃったりしないんだろうか。なんか適性検査とか推薦とかあるのかな。
とにもかくにも、パイロットの訓練を終えた後にフォークトは1916年からスイス国境ボーデン湖畔のフリードリヒスハーフェンにあったツェッペリン工場で働くこととなる。これもよくわからないのは、大戦中に兵士から工場勤務への復員って、普通にするもんなの? それだけ重症で兵士としての勤務は難しいと判断されたんだろうか。

当時、フリードリヒスハーフェンのツェッペリン工場にはこれまた将来のドイツ航空会を背負って立つクラウディウス・ドルニエの設計チームがあって、フォークトはドルニエからかなり期待されていたようだ。この時点ではフォークトはただの「昔、飛ばなかった飛行機を作ったことのある飛行機好きの傷病兵」でしかないので、ドルニエが何をそんなに気に入ったのかはよくわからないが、たぶん熱意や素質を見いだされたのだろう。
ドルニエの激励もあり、フォークトは終戦後にシュツットガルトの工科大学で学び、自動車及び航空機の研究を行っていたアレクサンダー・バウマン(Alexander Baumann、ツェッペリン・シュターケン R.VI巨人機の設計者でもある )の助手を1922年まで務める。
この間、1921年にはプロペラ推進式の小型車をベルリンモーターショーに出品し、「Rivo Gesellschaft für Verkehrsmittel」という会社を設立したようだが、プロペラカーなんてものはまぁ、普通に全く売れずにそのまま会社も消えた。ちなみにほぼ同時期にアメリカ、フランスでもプロペラカーの商用化の試みは行われており、なにか元ネタがあったのか、それとも誰かが始めて他が追随したのか、とにかく1920年代初頭というのは世界的に路上をプロペラがぶんぶん走り回った時代だったようだ。戦後余剰になった航空機のエンジンもたくさん余ってたんだな。

博士号を取得したフォークトは再びドルニエと合流、当時ドルニエ機のライセンス生産を行っていた日本の川崎航空機へ派遣されることとなる。
日本でフォークトは主任設計師の地位を与えられ、九二式戦闘機(385機生産)、八八式偵察機(710機生産)などを設計し、日本陸軍航空隊黎明期を支えると共に後に「飛燕」「屠龍」を設計する土井武夫など日本人技師の育成にも尽力した。なのでフォークトさんは日本陸軍航空隊のパパさんでもある。

1933年にフォークトは日本から帰国。すると戦艦「ザイドリッツ」や「デアフリンガー」を建造した造船所のブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss、もしくはBlohm & Voß。現在は社名の「&」は「+」表記になっている)が「今度、航空機部門を新設するんで、そこの主任設計師にならない?」と持ちかけてきた。
なんで造船所が飛行機部門を新設するのかよくわからないが、どうも世界恐慌なんかの影響で豪華客船の売上がイマイチで経営も傾いており、「これからは飛行機だ!」と思ったようだ。もしかすると、ドルニエ Do Xなんていう「空飛ぶ豪華客船」を設計したドルニエの紹介だったのかもしれない。
(その2へ続く)

参考ページは最終回にまとめて掲載予定。
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