ブラック・バック作戦の空中給油ダイアグラム

今週末は休日出勤のため、通常更新を休止して小ネタを。

1982年のフォークランド紛争でイギリス軍は、制空権獲得のためにフォークランド諸島にある飛行場を破壊してアルゼンチン軍に使用させないようにしようとしましたが、南米方面にほとんど海外領土を持たないイギリスは近くに爆撃機が発進可能な飛行場を持ってない。最も近くてフォークランドから6000キロ離れたアセンション島。

Blackbuckoperation.png

画像はWikipediaから(このエントリ全て)。
で、この時点でイギリス軍が運用可能な戦略爆撃機はなんでこんなカタチにしちゃったんだろう、でお馴染みのアブロ・バルカン爆撃機。航続距離4000キロ(たぶん、爆弾積むともうちょっと短くなる)。

1024px-Aerial_Vulcan.jpg

行ったら帰ってこなきゃいけないんで、足りない航続距離は2000キロじゃなくて4000キロ。まるまるタンク満タン1回分、航続距離が足りない。
8月31日修正。
違う違う、6000キロを往復するんだから、足りないのは(6000*2)-4000で8000キロ、タンク満タン2回分だ。寝ぼけてるなぁ。


とはいえ、当時すでに空中給油は実用レベルに達していたんで、なーんだ、空中給油すれば全然問題ないじゃん、と思ったら、イギリス軍が使ってるハンドレイページ・ヴィクター空中給油機は航続距離が3700キロしかなかった(こっちも給油用燃料満載だともっと短いはず)。

800px-Handley_Page_HP-80_Victor_K2,_UK_-_Air_Force_AN0992865

空中給油を行うヴィクター。給油を受けてるのは、ビール腹がキュートなライトニング戦闘機。

そんなわけで、空中給油を行うヴィクターも空中給油を受ける必要が出てきて、そのヴィクターも空中給油を受けて……と一生懸命調整して、実際に行われたのがこの図の通り。

639px-Refuellingplanblackbucksvg.png

なるほど。最終的にアブロ・バルカンは空中給油機から空中給油を受けた空中給油機に空中給油を受けた空中給油機に空中給油を受けた空中給油機に空中給油を受けた空中給油機に空中給油を受けたのか。

なんじゃこら。

書いててわけわからんくなった。空中給油の回数間違ってたらごめんなさい。あと、帰りにも空中給油受けてます。

この「ブラック・バック作戦」は第7次まで行われ(うち2回は悪天候と機械トラブルで中止。上の図解は第1次作戦のもの)ましたが、「効果は非常に限定的だった」(爆撃で損傷を受けた滑走路はただちに修理され、影響はなかった)とする説と、「一定の効果を上げた」という説があり、未だに評価は定まっていないようです。まぁ、これだけ苦労して実行した方としては「意味なかったです」とは言いづらいわな。
ちなみに、当時最も遠距離に対して行われた爆撃であったブラック・バック作戦ですが、1991年の湾岸戦争でアメリカ軍のB-52がこれを上回る長距離爆撃を行ったそうな。
まぁ、アメリカ軍のB-52は空中給油受けながら無着陸世界一周したこともあるからね……

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水陸両用潜水揚陸艇(特許)

本日本業の方が忙しいので、ネットの海を漂っていて拾った小ネタで失礼を。
画像の出典はアメリカ特許庁の特許検索システム。

アメリカ特許2627832号、水陸両用潜水揚陸艇。特許取得1953年2月10日
取得者:Nicholas Gagliano

20160410_1.jpg

わーい、超強そうー。アオシマの合体ヤマトみたいー。これ、排水量何万トンぐらいになるんだろう。もちろん、ただの特許なんで米軍で試作していたりはしない。

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ちゃんと内部の説明もあるよ。なんだか「てっていかいぼう! せいぎのちょうスーパーメカ!」って感じで嬉しい。
そういやぁ、映画「メガフォース」のパンフレットにもこんな絵が載ってたなぁ。正義は勝つ、80年代でもな! このネタ使うの二度目だっけ。

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ちゃんと読んでないんですが、アイデアの説明部分。
よく見ると、右下(赤丸部分)の関連する特許一覧に知ってる名前が……

20160410_6.jpg

アメリカ特許504120号、紡錘形渡洋蒸気船。特許取得1893年8月29日
取得者:William L. Winans

なんと、全くの偶然で前回の葉巻船の特許にぶつかった。
ただし、1893年には元祖葉巻船を作ったロス・ワイナンズはもう没していて、こちらは息子(次男)のウィリアム・ワイナンズが取得した特許。

ちなみに、ウィリアム・ワイナンズの息子はウォルター・W・ワイナンズ(Walter W. Winans)という人物で、1908年のロンドンオリンピックで射撃で金メダル、1912年のストックホルムオリンピックで射撃で銀、当時あった「芸術競技」の彫刻で金メダルを獲得したメダリストだそうな。へー。

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ロシアン・インペリアル・モンスターズ

今回の記事は新製品紹介しようと思って書き始めたんですが、あんまりにも関連情報がおもしろくて、そこまでたどり着きませんでした。なので、カードモデル関係無いです。相変わらずいい加減ですね。

時は今から100年前の1915年。前年の8月に始まった第一次世界大戦は塹壕と機関銃、そして徴兵制と鉄道輸送の前に完全に膠着状態となっていた。
この状況をなんとか覆そうと、フランスの発明家達が絶望と爆笑を積み重ねていたころ、中央帝国軍を挟んだ反対側、ロシア帝国でもドイツ軍の塹壕を突破し、ついでに後世のモデラーを笑い殺そうという新アイデアが続々と誕生していた。今回は、それら陽が当たらなかったアイデアの数々を苦笑いと共に見ていこう。なお、画像は全てWikipediaからの引用だ。

「ロシア帝国」というと、どうしても近代化が遅れた泥臭いイメージがつきまとうが、もちろん近代兵器の生産能力が全くなかったわけはなくて、1915年ごろにはシコルスキーが世界初の実用4発機「イリヤ・ムロメッツ」を製作するなど、若い技術者も着実に育っていた。
そんな若き設計陣の一人、航空設計師のA・A・ポロホフシチコーフ(Александр Александрович Пороховщиков、古い日本語資料では「ポルコフスキコフ」)は1911年、若干19歳で自作単葉機を飛行させることに成功。1914年には世界発の双胴機を飛ばすなど、才能溢れる技術者だった。
才能溢れるポロホフシチコーフが塹壕戦を突破するアイデアとして思いついたのが、この「陸上戦艦」だ。

Polevoy_Bronenosets_of_Porokhovchsikov.jpg

うん……若さ溢れる、元気のあるデザインだね。
応急架橋みたいな丸いのが並んでいるのは中空のローラーで、この中にそれぞれエンジンが入っていて外周をごろごろ回転させて前に進むらしい。砲塔は76.2ミリ砲か、100ミリ砲か、152ミリ砲か、なんかテケトーに乗せて、他に自衛用にマキシム水冷機関銃40丁を装備する。乗員72名、全長35メートル。35分の1のMMスケールで模型化しても全長1メートルだ。素晴らしい。
ポロホフシチコーフの「陸上戦艦」はとってもドリーミーなアイデアだったが、どう考えても実現困難なために不採用となった。

陸上戦艦が不採用となったポロホフシチコーフには一旦退場願って、お次に登場するのは海軍の造船技師、B.D.メンデレーエフ(Василий Дмитриевич Менделеев)。「メンデレーエフ」といえば、元素周期表を作成したことで科学史に燦然と名を残すドミトリー・メンデレーエフが思い浮かぶが、こちらのヴァシーリー・メンデレーエフはドミトリーの息子。ちなみにメンデレーエフは生涯に2回結婚し、7人の子供に恵まれたがヴァシーリーは一番下の子だった(マリアという双子の姉もしくは妹がいる)。
メンデレーエフの「戦車」は世界大戦が始まってから、「塹壕をなんとかしなくちゃ」とでっちあげたアイデアではなくて、戦前の1911年から温めていたアイデアだったが、まさか第一次大戦があんなことになるとは思わない軍は興味を示さずに放ったらかしになっていたものだった。

Mendeleev_tank.jpg

わーい、超強そうー。
このメンデレーエフ戦車は見た目だけではなく、スペック表も超強そうで、ズドンと突き出た主砲は艦砲を転用した12センチ砲。さらに天井の銃塔に自衛用にマキシム機関銃が1門。正面装甲はなんと150ミリ。タイガー戦車とぐらいならまともに撃ちあうことができそうだ。タイガー戦車が移動しなければ。全長は11メートル(砲身含まず)、重量170トン。
一応、250馬力のエンジンで最高時速25キロで走れる計算になっていたが、長距離移動の場合には鉄道線路上を移動することも考えられていた。どうもスペック表などを見ると、メンデレーエフ戦車は野戦で敵陣地に殴りこみをかける、いわゆる「戦車」ではなく、移動式装甲沿岸砲台を目指していたようだ。
そんなわけでメンデレーエフ戦車はやや過大な印象はあったが、丁寧に研究を続けていけば十分に世界初の戦車となりうる可能性もあった。しかし、前述の通りロシア軍はこの斬新な車両に興味を示さず、イギリス軍の戦車が実戦投入されてからメンデレーエフのアイデアの先進性に気づいた時にはすでにいろいろと手遅れだった。
ちなみにロシアには、メンデレーエフの戦車によく似た「ルビンスキー戦車」という計画があった、とする資料もあるのだが、これは資料が少なすぎてよくわからなかったのでパスしよう。
↓こんなの

Rybinsky_tank_possible_view.jpg

お次のアイデアは発案者がはっきりしない。どうもナフロツキー(Навроцкий)という人物の発案らしいのだが、詳細どころかフルネームさえはっきりしない。

Navrotskys_Battery_(The_Tortoise).jpg

ナフロツキーの戦車、通称「Черепаха(チェレパハ、亀)」は径の大きい主車輪1つと小さい副車輪2つで支えられる3輪車だった。まぁ、三輪車じゃ不整地性能に不安があるが、「陸上戦艦」に比べれば少しはマシかな……と思ったら、なんとこいつ、重量120トン、主砲は203ミリ砲、さらに副砲で152ミリ砲4門、76.2ミリ砲8門、自衛装備としてマキシム機関銃10門を装備するという超超巨大車両だった。でけぇよ!
こいつもやっぱり、「実現性が低い」として不採用に終わった。

120トンのカメ装甲車とか、35メートルの陸上戦艦とかで驚いていてはいけない。帝政ロシアには、さらに破格の装甲車両のアイデアがあった。
とりあえず画像から見ていただこう。これがI.F.セムチシン( Иван Фёдорович Семчишин)によって提案された「要塞破壊機 Обой」だ。

Oboj_02.jpg

………………は?
なにこれ。チョコボール? チョコボールで要塞破壊するの??
内部図解はこちら。

Oboj_01.jpg

うむ。なにがなんだかわからん。
実はこれ、偏芯重りによる回転力で敵陣に向かってゴロゴロ転がっていく超戦闘兵器なのである。
すごいのはそのスケールで、なんと全高600メートル、横幅が900メートルだという。「センチ」の間違いではない。「メートル」である。世界で最も高い建造物、ブルジュ・ドバイだって高さ830メートルしかないってのに。ちなみに陸モノ標準スケール25分の1でキット化すると、横幅36メートルのチョコボールが完成する。出入り口は左右の頂点にあったそうだが、そうなると地上から高さ300メートルのところが出入り口になってしまうんで、縄梯子を使う予定になっていたらしい。って、おい、東京タワーのてっぺんぐらいにある入口まで、縄梯子を登っていかせるつもりだったのか!
一応、スペックを書いておくと、装甲というか、殻の厚みは100ミリ。最高転がり速度は時速500キロ。転がるだけで敵軍を粉砕できるので非武装、としている資料もあるが、戦史研究家ユーリ・バフリン(Юрий Бахурин)によると、重火器の搭載も考えられていたらしい。どうやって積むんだか知らないが。乗員は「数百人」というアバウトさ。なんかヤケクソ気味な数字だ。
提案者のセムチシンは別に技術者ではなく、ただの市位のアイデアマンだったようだが、このアイデアを直接にロシア皇帝ニコライ二世に手紙で送りつけた。ドイツとの戦争の成り行きに頭を痛めていた皇帝はこのアイデアにビビッと衝撃を受け、陸軍に「この超凄い兵器を研究せよ!」と命令したが、しばらくして返ってきた返事は「実現不可能です」というものだった。そりゃそうだ。こんなもん、100年経った今でも実現不可能だわ。

「要塞破壊機 Обой」(楽器の「オーボエ」のことだと思われる。名前の由来は良くわからなかったが、なんだか冷戦時代のソビエトのSF映画の邦題みたいでカッコいい)は軍によって差し止められたが、中にはノリノリになった皇帝を止めきれずに実際に製作されてしまった「戦車」もある。
それが、この「レベデンコ戦車」またの名を「ツァーリ(皇帝)戦車」である。

800px-Tsar_tank.jpg

あーぁ、やっちまったな、という感じの車両だが、なんとこのツァーリ戦車、このたびポーランドのブランド、WEKTORでキット化された。

Car Tank 01

ずどーん。
しかし、こいつの説明をしてるとまだまだ話が長くなりそうなので、今週はチラ見せするだけ。この手のやっちまった車両ファンのモデラーは次週刮目して待て!


*キット表紙画像はWEKTOR公式サイトからの引用、それ以外の画像はWikipediaからの引用。

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ポーランドの人間魚雷

今回の記事はタイトルで大方想像できる通り、オモシロおかしい事は何一つ書いてないです。
おまけにカードモデルも全く関係ないです。

1939年5月5日、ヒトラーは第一次大戦でドイツが失ったダンチヒ自由都市とポーランド回廊地帯はドイツの領土であると宣言、これによりもはやポーランド・ドイツ間での戦争は避けがたくなった。
この演説の翌日5月6日、クラクフの日刊紙「Ilustrowany Kurier Codzienny」にある公開状が掲載される。
公開状はWładysław Bożyczkoによって書かれ、その親類(義理の兄弟か?)、Edward と Leon の Lutostański兄弟との連名で発表されていた。
彼らはその中で「潜水艦から発射される”人間魚雷”(Żywe torpedy、直訳すれば「生きている魚雷」)、あるいは飛行機から投下される”人間爆弾”、戦車に対抗する”人間対戦車地雷”としてただちに命を祖国に捧げたい」と提案している。
(記事のタイトルは「人間魚雷の志願者(Kandydaci na „Żywe torpedy”)」となっており、なぜか人間爆弾と人間地雷は大きく取り上げられていない)。
3人は手紙の最後に「どうか、私達が捨て鉢になっているとは思わないでください。私は公務員、(Lutostański)兄弟は市の職員で収入には困っておらず、健康体です」と書いている。
Edward Lutostańskiegoは戦争を生き延びたようで、戦後になってこの人間魚雷について「(破壊筒を持って敵陣もろとも自爆した)日本軍の”肉弾三勇士”に影響を受けた」と語ったという。

この公開状のことは直ちに他の新聞、ラジオで報じられ、全ポーランドに大きな反応を引き起こした。
5月27日には早くも Ilustrowany Kurier Codzienny は「志願者からの手紙が絶え間なく届き、全ての名前を紙面に掲載することは不可能である」と書いている。
また、同時に志願者の多くは「名誉を欲しているわけではないので、匿名にして欲しい」と書いていたという。
1939年9月までに150人の女性を含む4700人が彼らに続いて「人間魚雷」に志願した。そのうち3000名にはポーランド海軍から公式にIDが発行されたらしい。
ポーランド軍がどの程度、真剣にこの志願を受け止めていたのかはわからないが、1939年夏には一応海軍に「人間魚雷局」が作られ、志願者の中から選抜された83名が人間魚雷についての映画を見せられ2ヶ月の訓練を受けた後に1939年10月から実戦配置につくことになっていたという。魚雷は16基が準備され、それぞれ長さ8メートル、重さは420キロと説明されたが、誰も実物は見なかったそうだ(選抜された83人のうちの1人、ポズナン出身のMarian Kamińskiの証言)。
また、志願者の一部はグライダー操縦と落下傘降下の訓練を受けていたらしいが、これがなんらかの自殺攻撃を目的としたものなのか、それとも敵の後方撹乱を目的としたものなのかは資料からでは分からない。

志願者達の手紙の一部は Ilustrowany Kurier Codzienny紙に掲載され、その声を今に伝えている。
A.B嬢、ザコパネ在住
「私は1919年から1921年にかけて(ソビエト・ポーランド戦争で)、5ヶ月間を最前線で戦いました。私は最年少の在郷軍人の一人として、命を捧げるつもりです」
引退者、リヴィウ在住
「60歳になる私はカービン銃を担いで長距離を行軍することはできない。しかし、魚雷の運転を覚えることはまだできる。そして、それによって若い命を一つ、救うことができる」
Z.B婦人、ブジェスコ在住
「私の長男はすでに海軍に志願しており、次男もじき陸軍へ行く予定であることを強調させていただきます。私は直ちに私の名前を志願者のリストに加えていただくことを求めるものです」
Maksymilian K、ルヴォフ在住
「私はユダヤ人である。私は祖国を愛している。だから、私は志願する」

果たしてポーランド軍は実際に人間魚雷部隊を創設するつもりがあったのか、それとも国民の士気を高めるため、あるいはドイツ軍を威嚇するための「はったり」に過ぎなかったのか、ポーランドの歴史家の間でも意見は分かれているらしい。
仮に、本気であったとしても、日本軍の人間魚雷「回天」の試作が命じられたのが44年2月、試作機が完成したのが7月、そして実戦配備が11月であったのを考えるととてもドイツ軍の侵攻に間に合うとは思えない。おそらく、実行するにしてもイタリア軍やイギリス軍が使用したような、破壊工作のための水中スクーターレベルにとどまったのではないだろうか。

1939年9月1日のドイツ軍侵攻によってポーランド軍人間魚雷部隊は幻に終わった。
ネット上では「Żywe torpedy」で画像検索をかけることでポーランド軍人間魚雷の想像図と思われる画像がいくつか表示される(画像の出所はよくわからない)。
そのアイデアを、「バカバカしい」「滑稽」「無駄としか思えない」と言ってしまうことはたやすいし、それを否定するつもりはない。
しかし、そのバカバカしく、滑稽で、無駄としか思えないアイデアにすがってまでも祖国ポーランドを守ろうとした人々がいた、という事実は決して安易に論評されるべき事ではないだろう。










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知られざるアメリカ海軍ドンガラ艦隊

2015年、あけましておめでとうございます。
今年も、まぁ、どうでもいいようなネタをツラツラを書き連ねて、読者をうんざりさせようって魂胆なんですが、とりあえず新年最初の更新は去年の年末から温めていたネタを披露させていただこうかと。
温めていたって言うか、書く機会がなくて放ったらかしになってただけなんですけどね。
太平洋戦争時、アメリカ海軍は空母艦載機のパイロットを急いで要請したい、でも外洋はUボートが怖い、というわけでカナダ国境の五大湖に「外輪空母」なんていう変なものを浮かべてたのは一部で有名な話なんですが、アメリカ海軍は以前にも五大湖に「戦艦」を保有してた時期があった、ってのが今回の話のはじまり。

1893年、シカゴで万国博覧会が開幕。19世紀末、帝国主義の絶頂に開催された(コロンブスのアメリカ大陸「発見」400周年、という御題目からしてその方向性は推して知るべし)この大博覧会にはだいたい46の国(資料によって数字が全然違う)が参加し、200以上の建物が2.4平方キロの会場に建設され、わずか半年の間に2千7百万人が訪れたという。
ちょうどそのころアメリカ海軍は近代化計画をぶちあげており、それまでの砲郭艦(装甲された胸壁に囲まれたエリアに裸の大砲が置いてある)に変わって、全周旋回可能な密閉砲塔を持つアメリカ海軍初の近代戦艦「インディアナ級」が就航目前であった。
国中が万博に浮かれているのを見て、海軍はせっかくなんでこの素晴らしい新型戦艦を万博で見せびらかして、世界中の海軍をびっくりさしたろうと思いついた。「砲艦外交」という言葉が現実味のあったころだ、「アメリカにはこんなすごい戦艦がありますよ、アメリカとは戦争しない方がいいですよ」ってわけだ。

しかし、この戦艦お披露目計画にはいくつか問題があった。まず、アメリカとイギリス(カナダは英連邦の一員)の間には1817年に締結された「ラッシュ=バゴット協定」ってのがあって、五大湖には武装艦艇が入れないことになっていた。
さらに、当時は「シカゴ衛生・船舶運河(サニタリー&シップス運河)」がまだ建設中だったので、外から戦艦が五大湖に入ってくることはできず、当然、五大湖で戦艦を建造してしまうとそれを海に出す方法がなかった。
さぁ、どうしよう。ここはトンチで解決だ。
と、いうわけでアメリカ海軍は万博会場に隣接してミシガン湖にインディアナ級戦艦の実物大模型を作ることとした。

開催地に敬意を表し、戦艦「イリノイ」と名付けられたこのニセ戦艦はレンガで台座が作られ、その上に木枠とコンクリート、鉄で上部建造物や砲塔が作られた。さらにボートダビット、手すり、イカリなどは同型艦の実物がそのまま流用されたという。
それでは大きめ画像で見ていただきましょう。これがアメリカ海軍万博展示用戦艦「イリノイ」の勇姿だ!

Battleship_Illinois_Replica.jpg

わお! すげークオリティ!

Oregon_(BB3)_1898.jpg

比較用に、こっちは本物のインディアナ級戦艦「オレゴン」。
さすが、本物の艤装を使ってるだけあって、ほとんど本物だ。どうやら上部建造物は内部も正確に再現されており、万博期間中は水兵達が本物の戦艦と同じ訓練生活を送っていたらしいというから本格的。
一応、識別のポイントを書いておくと、イリノイは主砲塔、副砲塔とも天井が狭い「プリン型」砲塔なのに対し、本物のインディアナ級の砲塔は「円筒形」。これは、インディアナ級戦艦の設計がもともと「プリン型」だったのが、砲塔容積が足りないことに気がついて途中で設計変更になったのがイリノイには反映されていないから。
どうしてもイリノイの模型が欲しいという人は、最近新製品のアナウンスがないDigitalnavy戦艦オレゴンを購入して砲塔を改造すると、それっぽくなるぞ。スケールは250分の1、ダウンロード販売のみで定価32ドル。カードモデルブログらしい情報も申し訳程度に記載だ。

「イリノイ」は万博期間終了後、イリノイ州海軍本部とする案もあったが、結局は解体された。
船の鐘、いわゆる「号鐘」はその後1901年に就航した本物のイリノイ級戦艦一番艦、「イリノイ」で使用され、現在はシカゴの埋立地、いわゆる「ネイビー・ピア」に保存されているとのこと。


さて、五大湖のニセモノ戦艦「イリノイ」が解体されて二十余年あまり後に話は飛びまして。
時は1917年、アメリカは第一次大戦に参戦、ジョニーよ、銃を取れ! と大号令をかけたものの、ニューヨーカーは冷めていた。
ニューヨーク市には2千名の募兵が割り当てられていたものの、志願してきたのはたったの900人。さすがにこれはまずい。
そこで、ニューヨーク市長、ジョン・P・ミッチェルは海軍と手を組んで新兵募集の秘密兵器を投入する。
それが、ニューヨーク、ブルックリンのユニオンスクェアパークに突如登場した募兵戦艦「USSリクルート」だ。

USS_Recruit_in_Union_Square_NYC_1917.jpg

ずどーん。
戦艦リクルートは基本的に完全木製。砲も当然ながら全てダミーだ。
前部に背負い式2砲塔、後部に1砲塔、連装砲塔を備えているが特定の艦がモデルというわけではないようだ。
雰囲気はそれっぽいものの、よく見ると前後に寸づまったデフォルメ艦形となっている。

640px-USS_Recruit_(1917).jpg

こちらは建造中。マンハッタンのビル街を背景に戦艦が鎮座してるのはなかなかシュールな光景。
「リクルート」は別にリクルート・ホールディングスに命名権を売ったわけじゃなくて、その名の通り艦内に志願受付所があり、水兵40人が常駐していた。さらに、参戦気分を盛り上げるための様々なイベントの舞台として利用されている。
リクルートの登場でさすがのニューヨーカー達も愛国心を刺激され、募兵戦艦リクルートは実に2万5千人の新兵を受け付けたというから大勝利と言っていいだろう。

その後、戦艦リクルートは1919年に第一次大戦の停戦に伴って解体された。
コニー・アイランドで組み立てなおし、遊園地の呼び物にする案もあったらしいが、解体後に行方不明となってしまった。おそらく、雨ざらしの木材はもう一度組み立てるのが危険なほど劣化していて処分されてしまったのだろう。


アメリカ海軍は戦後、駆逐艦の乗員養成のために何隻か陸上に駆逐艦を建造しているが、そのうちの一隻で、募兵戦艦リクルートと同名の「USSリクルート」がカリフォルニア州サンディエゴに現存している。1949年にディーレイ級駆逐艦の3分の2スケールで建造されたリクルートは新兵の基礎訓練に使用された。
1967年にリクルートは一旦閉鎖されたが、1982年、新型の「オリバー・ハザード・ペリー級」フリゲートっぽく改修された上で復帰。1997年に再び閉鎖となったが、まだ海軍のリストには在籍しているらしい。

ちなみにUSSリクルートから50メートルほど離れた場所にあるSushiyaサンディエゴ店では本格日本食も楽しめる。枝豆3ドル、揚げ出し豆腐4ドル、そしてマグロ、サケ、 ブリ、エビ、エビ天巻などに味噌汁、サラダが付いてくるスシヤ・スペシャルが15ドルとお手軽価格となっている。
サンディエゴまで行く機会があったら、アメリカ海軍ドンガラ艦隊の末裔、USSリクルートを眺めながら寿司を食うのもいいだろう。

画像は全てWikimediaからの引用。


本年もよろしくお願いいたします。

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