GPM イタリア モニター艦 "FAA DI BRUNO"

「芯材に使うだろう」とお菓子の空き箱をストックし始め幾星霜、使うよりも貯める量の方が圧倒的に多くて作業部屋が空き箱に埋もれつつある筆者がお送りする世界のカードモデル情報。今回紹介するのはポーランドの老舗、GPM社からリリースされた新キット、イタリア モニター艦 "FAA DI BRUNO"だ。

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…………なんすか、これ?
これって、あれだろ? 旧式戦車の砲塔を台車に載せた、装甲列車の砲車だろ? ……違うの?

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単体では大きさがわかりづらいので、Wikipediaから比較対象として人が一緒に写っている写真を拝借してきた。
でけぇ!
むちゃくちゃテカいぞこいつ!
それもそのはず、この主砲、戦艦の主砲の流用で口径38センチもある。

そもそもこの砲身はイタリア海軍初の超ド級戦艦に搭載するつもりで準備したものだった。
第一次大戦前のイタリア海軍はオーストリア=ハンガリー海軍を仮想敵として軍備を整えていた。三国同盟のことは忘れた。1910年台初頭、イタリアは相手はどうやら35センチ砲を装備した超ド級戦艦(エルザッツ・モナルヒ級)を建造するらしいという情報をキャッチした。当時イタリアで建造していたカイオ・ドゥイリオ級戦艦は30.5センチ砲なので、これはまずい。
そこでイタリアは38センチ砲を装備した「フランチェスコ・カラッチョロ級」を設計する。イギリス海軍のクイーン・エリザベス級戦艦を参考としたこの艦は28ノットの快速と38センチ砲連装x4基の攻撃力を併せ持つ地中海最強の戦艦となるはずだった。
しかし、起工直前に第一次大戦が勃発。しばらく建造は続けたものの、肝心のオーストリア=ハンガリー帝国が引きこもりになってしまったし、資材も不足してたので1916年に建造は中止となる(戦後スクラップ)。そもそも連合側に立てば優勢なイギリス海軍地中海艦隊が味方になるし、同盟側に立てばオーストリア=ハンガリー帝国は友軍なんだから新型戦艦なんて必要なかったんじゃ?

それはさておき、F・カラッチョロ級が中止になったことで先回しに準備しておいた38センチ主砲が余剰となった。
この砲は資料によっては「イギリスから購入した」となっているが、どうやらアームストロングの資本が入っていたポッツオーリ兵器廠でライセンス生産されたものだったようだ(イタリア軍名称「Cannone navale da 381/40」)。
20門以上を整備した38センチ砲は、あとは艦に乗せれば発射できる状態だったんで、もったいないから海軍は何門かを沿岸砲台に転用している。あまりはっきりした資料が見つからなかったが、38センチ砲が配備された事がはっきりしている砲台として、ベネチアの入り口を塞ぐ半島に設置されたアマルフィ砲台がある。この砲台は装甲砲塔(F・カラッチョロ級の砲塔か、新設計のものかは不明)に2門の38センチ砲を備えており、コンクリートの土台部分は現在でも残っている。また、陸軍が7門の38センチ砲を列車砲に改造している。

しかし、地中海の制海権が連合側にある以上、やたらと沿岸砲台を増やしても仕方がない。そこで、海軍は艦砲射撃用に38センチ砲を搭載したモニター艦を建造することとした。うむ、そこまでは問題ない。イギリス海軍も旧式火砲の転用で艦砲射撃用に小さな船体に不釣合いな戦艦主砲塔を載せたモニター艦を建造している。
だが、なぜこうなった。

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写真は公式ページの完成見本。艦首にちっちゃいアンカーがぶら下がっているのがかわいい。
この、見るからに間に合わせの船体はクレーン台船「GA 43」を転用したもの(オーストリア=ハンガリー帝国の河川モニター「ライタ」が退役後に砂利浚渫船になったのと逆のパターン)。防弾のために甲板の上に緩やかな山型に厚さ4センチの装甲を貼り、さらに船体周囲を厚さ2・9メートルのコンクリートで取り巻いている。そこまでやるんだったら、もう新造しちゃった方が早いんじゃないんの?
ところでこの船、救命ボートが一切見当たらないがいいんだろうか。

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砲塔部分にクローズアップ。一見、戦艦の砲塔をそのまま搭載したように見えるが、この砲塔どうやら天井がないらしい。また装甲も11センチしかない。天井がないといろいろとマズいので、トラスの上に丸天井を乗っけたらこんなわけのわからない形になった。だったら、普通に密閉砲塔にしたほうがいろいろ面倒がないと思うのだが、あるいは発射ガスを解決できなかったのかもしれない。砲塔の上の小さい砲は自衛用のヴィッカース40ミリ機関砲。また、主砲砲身は別売りの金属砲身を使用しているようだ。
残念ながら迷彩はあんまりつながっていない。

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エンジンは魚雷艇用に蒸気エンジンが余っていたのを2基搭載し、合計465馬力で最大3.3ノット(公試時)で自力航行する。つまり、戦艦主砲とクレーン台車と魚雷艇エンジンを邪教の館で悪魔合体させたら外道モニター艦が完成したというわけだ。今後ともよろしく。

1917年7月にこの不思議な船は完成し、「ファー・ディ・ブルーノ(Faà di Bruno)」と名付けられる。イタリアの数学者でフランチェスコ・ファー・ディ・ブルーノ(Francesco Faà di Bruno)という人がおり、「ファー・ディ・ブルーノの公式」に名前を残しているが、艦名の由来となったのはフランチェスコの兄で、イタリア独立戦争で戦った海軍軍人のエミリオ・ファー・ディ・ブルーノ(Emilio Faà di Bruno)の方。「リッサ海戦」でオーストリア=ハンガリー海軍の装甲艦「フェルディナント・マックス」に衝角攻撃をぶちかまされて沈んだイタリア海軍装甲艦「レ・ディタリア」の艦長が、このエミリオである(艦と運命を共にした)。

ファー・ディ・ブルーノは1917年8月、第11次イソンゾ戦を支援するためにイギリス軍モニター艦隊と共にオーストリア軍陣地を砲撃したが、あまり効果はなかったようだ。なお、この時は同じ主砲をさらに小さい船体(これもクレーン船台の転用)に1門積んだ、よりやけくそ気味な「アルフレド・カペリーニ(Alfredo Cappellini)」も戦いに参加している。

カッチョいいイギリス軍モニターを見てションボリしたイタリア軍モニター艦隊はイタリアの長靴のふくらはぎ当たりにあるアンコーナ港まで下がってきたが、そこで11月に嵐に遭遇する。
強風に流され浅瀬に座礁したファー・ディ・ブルーノだったが、近くの村マロッタから嵐をついて11人の乙女がボートで漕ぎ着けて温かい食事とワイン、さらにフルーツまでも船員に届けてくれた。彼女達は翌日、嵐が止むまで何度も船と村を往復したという。彼女達には海軍からその勇敢な行為を讃えて1919年8月に勲章が送られ、それを記念した碑は現在もマロッタの村に立っている。

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写真はWikipediaより引用。
肝心のファー・ディ・ブルーノはその後しばらくしてから離礁、回航されたが1924年には除籍されている。
しかし、第二次大戦の勃発と共に浮き砲台「GM194」としてジェノア防衛に回された。
1941年2月9日、イギリス艦隊がジェノアに艦砲射撃を加えたが、GM194は英軍の初弾で電源供給ケーブル(たぶん、エンジンを回さないでいいように陸から電力供給していたのだろう)が切断されて反撃できずに終わった。1943年にイタリア降伏に伴いドイツ軍が接収。ドイツ軍は「Biber(ビーバー)」と名付け船体前後を延長して四角い船体を船型にする大改装を行ったようだが、特に使われることなく1945年のドイツ降伏後ほどなくしてスクラップとなった。

イタリア モニター艦 "FAA DI BRUNO"は海モノ標準スケール200分の1で完成全長28センチという意外なほど大柄なキット。難易度は大したディティールがもとからないんで3段階評価の「2」(普通)。そして定価は70ポーランドズロチ(約2300円)。これは、レーザーカット済みのパーツ同梱の価格で、今回は冊子のみの販売は行われないようだ。

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別に大した活躍はしていないが、カタチがオモロい当艦を200分の1というビッグスケールで楽しめる数少ない機会を、イタリア海軍ファン、モニター艦ファンのモデラーは見逃すべきではないだろう。手に入るようなら、PRO-MODEL製の円型砲艦「ノブゴロド」と並べることでトホホ艦を倍増させるのも面白そうだ。



画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_monitor_Faà_di_Bruno
https://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Faà_di_Bruno
https://en.wikipedia.org/wiki/Cannone_navale_da_381/40
https://en.wikipedia.org/wiki/Francesco_Caracciolo-class_battleship
それぞれのイタリア語版、日本語版も参考とした。当然ながら、イタリア語版が最も詳しい。
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Lachezar Dragostinov アメリカ 280mm M65 Atomic Cannon

伸びすぎた庭木の枝を切ろうと、高枝切りバサミをぶん回してあっちをチョキリ、こっちをチョキリ、と一時間も奮闘してたら慣れない力仕事で今も腕がプルプルしてる筆者がお送りする世界のカードモデル最新情報。今回紹介するのはLachezar Dragostinov氏デザインの280mm M65 Atomic Cannon だ。

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28センチ砲キタコレ! カードモデル界、今年のトレンドは28センチ砲か。
デザインしたLachezar Dragostinov氏は自分のページは持っていないようだが、facebookの情報ではブルガリア在住の方らしい。
氏はいくつかのカードモデルショップにモデルの提供を行っているが、今回はおなじみEcardmodels版での紹介だ。

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今回は写真多めなので完成見本写真が早々登場。写真は白色モデルだが、これがテスト組みだからなのか、それともキットも白色モデルなのかはちょっとわからなかった。しかしデジタル販売なので、なんなら自分で展開図に着色してしまえば問題ないだろう。
迫力の大口径砲だが、28センチ砲を25分の1の陸モノスケールでキット化なんてしようものなら、「完成品は静岡ホビーショーに置いてきなさいね」と奥方に言われかねない巨大さになってしまうのでスケールは48分の1。Dragostinov氏は他にもドイツ軍軽装甲車SdKfz 222やイタリア軍軽戦車L6/40、スウェーデン軍Sタンクなども48分の1でキット化している。

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48分の1というと、カードモデルでは「ミニスケール」と言ってもいいスケールだが侮ることなかれ、キットは細かい部分ディティールまでしっかりと再現されており、決して雰囲気だけの「イージーキット」ではない。

さて、この28センチ砲、ただの28センチ砲ではない。タイトルでもわかる通り、M65は核砲弾を発射するために開発されたある意味「究極」の火砲なのである。

1949年、米軍は「都市を戦略爆撃するだけじゃなくてさ、敵部隊に向かって大砲でドカーンと核兵器を打ち込んだら超強くね?」なんていう、終夜営業のファミレス明け方4時ごろのノリで凄い兵器を思いついた。現代の我々からするとアホかこいつら、という感じだが、優勢なソ連地上軍に対抗するにはこれしかないと当時は真面目に思ったのだろう。アホみたいだが。
このアホみたいなプランを押し付けられたのが1880年設立の陸軍兵器研究所、ニュージャージー州のピカティニー・アーセナルであった。ここはもともと大砲の開発はやっておらず、火薬、爆薬の研究が専門だった(ちなみに1926年に落雷で爆薬に引火して三日三晩、爆発し続けた事がある)。
そんな研究所に、なぜ今回だけ大砲の開発が命じられたのか理由は良くわからない。最初、爆薬の専門集団だから「核砲弾」の開発とセットなのかと思ったが、核砲弾の方は当然ながらロス・アラモス研究所が設計を受け持ってるんでそういうわけでもないらしい。あるいは、単に一晩寝てスッキリしたら「専用の大砲で核兵器打ち込むとか、ないわー超ないわー」と気づいてテケトーにヒマそうな所に命じただけかもしれない。

そんな感じでイマイチ本気なんだかなんなんだか良くわからない兵器だったが、ピカティニー・アーセナルのロバート・シュワルツはドイツ軍の列車砲を参考にこの前代未聞の兵器のデザインを仕上げた。特にデザインの参考とされたのはクルップK5E、いわゆる「レオポルド」列車砲だという。そのため、M65はアンツィオ上陸作戦時に連合軍を苦しめた2門のK5Eに連合軍が捧げたあだ名「アンツィオ・アーニー」になぞらえて「アトミック・アーニー」とも呼ばれた(アンツィオのK5Eは、1門が「アンツィオ・アーニー」、もう1門を「アンツィオ・エクスプレス」と呼んだとする資料と、2門まとめて(両方とも)A.アーニー、あるいはA.エクスプレスと呼んだとする資料がある。連合軍側がどちらの砲が発砲したか知る術はなかっただろうから、個人的には後者の方が正しいような気がする)。

当初、M65の設計は口径24センチで開始された。これは当時米陸軍が保有していた最大の火砲が24センチ砲M1榴弾砲だったので、M1の通常砲弾も使用できるようにしたかったのか、あるいは弾薬運搬車などを共用にしたかったためだろう。しかし、どうやら核砲弾は口径28センチ以下に収まりそうにないということが途中で判明し、試作1門だけが24センチで完成し、残る量産型は28センチ砲として整備された。

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砲身を後座させ、トレーラーに吊り下げられた移動状態のM65。今回のキットはこの前後トレーラーもキットに含まれるが、完成後に移動状態/射撃状態を切り替えられるのかは不明。基本的には吊り下げているだけであり、実車は15分で移動状態/射撃状態を切り替えられたというからこのサイズの火砲としては驚異的な機動力と言えるだろう。吊り下げた感じは「レオポルド」というよりも、60センチ自走迫撃砲「カール」に近い雰囲気だ。

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前後トレーラーにクローズアップ。それぞれが375馬力を発揮する2台のトレーラーは何かの流用ではなく、M65運搬用に新たに設計された専用車輌。生産はトラックメーカーのケンワースが担当したようだ。

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タイヤのトレッドパターン、プロペラシャフトとギヤケースなどのシャーシ・メカもしっかり再現されており、こちらもミニスケールながら妥協のない仕上がりとなっている。

1953年5月25日午前8時30分(現地)。
アップショット・ノットホール作戦で行われた11回の核実験の10番目、グレイブル実験で実際にW9核砲弾がM65から発射された。この際の動画はYoutubeなどで「Atomic Cannon」で検索をかけると見ることができる。
この時発射されたW9核砲弾は実験用の「弱装弾」などではなく、実戦用のフルスペックの物が使用された。
核出力は約15キロトン。これは広島に投下された核爆弾の出力とほぼ等しい。米軍はこの砲弾を押し寄せるソビエト地上軍に対してドカドカと撃ちまくるつもりだった。
広島、長崎への核爆弾投下からわずか8年で、核兵器はここまで来てしまった。
米軍はこの後、より小型化した核砲弾を開発し、通常の203ミリ自走榴弾砲からも核兵器を発射できるようにしている(155ミリ砲用核砲弾は開発中止となった)。

わざわざ言うまでもないが、核砲弾が実戦で使用されることはなかった。核砲弾の発射実験もその後行われておらず、1953年に行われたグレイブル実験が米国において(おそらく、世界でも)最初の、そして唯一の火砲による核兵器の発射となった(米軍は後に「核迫撃砲」とも言われる「デイビー・クロケット」で核出力20トンの超小型核兵器の発射実験を行っているが、これは砲身の先に差し込んだ核兵器を空砲で飛ばすもので、「火砲(キャノン)による発射」には含まれない)。
20門が生産されたM65は西ドイツ、韓国に配備されたが、先制攻撃により制圧されてしまうことを避けるために常に配置場所は変更されていたという。
しかし、さらに小型の核砲弾が自走砲から発射できるようになるとM65は唯一の「核火砲」ではなくなってしまい、そうなると超重砲としてはスピーディーとは言え発射体勢への移行に15分かかるのは展開速度の早い現代戦には不向きであった。
また、中距離、短距離ミサイルの進歩により射程が短い(敵の攻撃を受けやすく、発射した部隊やそれを守る部隊が被曝しやすい)「核火砲」そのものが時代遅れとなってしまう。
結局、M65は採用からわずか10年後の1963年には一線から引退することとなった。これは火砲としては非常に短い寿命と言っていいだろう。
M65はたった20門しか作られなかったが、その迫力ある姿がウケるためか7門も現存している(バージニア州戦争博物館の1門は24センチの試作型)。このうち、オクラホマ州米陸軍砲兵博物館に展示されている1門が、グレイブル実験で砲弾を発射した砲である(前後のトラクターは事故で失われたため、別の砲の物が繋がれている)。

Lachezar Dragostinov氏デザインの アメリカ 280mm M65 Atomic Cannon は48分の1でのリリースだが、このスケールでも前後のトラクターをつなげると完成全長は50センチを超えるビッグなキット。定価はEcardmodelsで23.5ドルとなっており、これはデジタルリリースの個人製作キットとしてはちょっと高目の印象を受けてしまうが、28センチ砲とトラクター2両の3点セットだと考えればかなりお手頃な価格と言えるだろう。そして難易度は5段階評価の「4」(難しい)となっている。

冷戦とソビエト地上軍に対する恐怖が生み出した「究極の火砲」M65。
火砲ファンのモデラーなら、この進化の袋小路に入り込み滅びた「怪物」の姿を記憶に留めるため、当キットの購入を検討してはいかがだろうか。



画像はEcardmodelsからの引用。


参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/M65_280mmカノン砲
https://ja.wikipedia.org/wiki/W9_(核砲弾)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アップショット・ノットホール作戦
それぞれの英語版も参考とした。

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BETEXA スロベニア水力発電所  Hydroelekrárna FALA

先週、「この週末にはいろいろかたがついてラクチンになるよ!」とフラグを立てまくったせいで順調に納入が延期となった筆者が休日出勤の合間にお送りする世界のカードモデル情報。
今回紹介するのはチェコのカードモデル出版/販売サイト、BETEXAが自社ブランドでリリースした スロベニア水力発電所 Hydroelekrárna FALA だ。

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スロベニアの水力発電所である。念のためもう一度書いておこう。スロベニアである。スロバキアではない。スロバキアはかつてチェコスロバキアを構成した国、スロベニアはかつてユーゴスラビアを構成した国で、全然別の国である。国旗がクリソツ(スロバキアスロベニア)でも全然別の国である。筆者が途中までチェコBETEXAの商品だから、このダムもスロバキアにあるんだろうと勘違いして全然資料が出てこなくて困り果てたとしても別の国である。なお、名前が良く似てるのは両国名とも民族名の「スラブ」を語源としているから、という説もあるが確定的ではないようだ。

さて、そのスロベニアはFalaにあるのがこの水力発電所。とは言っても、現在は水力発電所としての役割はかなり縮小されていて、メインは博物館となっているようだ。
地図上での位置はここ
ちなみにFalaという地名は13世紀から地図に登場する。当時は「Vall」、「Valle」のように表記されていたが、15世紀終盤に頭文字がFになった。これはもともとVをF音で発音するドイツ語に由来する地名の表記が、発音に併せて変化したのではないかと考えられており、この場合Falaの語源は古い高地ドイツ語で「黄色みがかった」を意味する「falo」あたりが語源ということになる。おそらく、この地に進出したゲルマン人はドラーヴァ川の流れを見て「ずいぶん黄色い川だな」と思ったのだろう。
なお、もっと単純に「谷」を意味するラテン語「vallis」から派生したのではないかという説もあるが、これはスロベニアは神聖ローマ帝国領であったものの、ラテン語の流入は極めて限定的であったことから否定されているらしい。

オーストリアからスロベニアを突っ切り、ハンガリーとクロアチアの国境を流れドナウ川に合流するドラーヴァ川で水力発電を行うというアイデアは20世紀初頭からあったが、本格的にFalaで建設が始まったのは1913年から(当時スロベニアはオーストリア=ハンガリー帝国領)。工事は1913年11月に始まったが、わずか半年後には第一次大戦が勃発。多くの労働者がオーストリア=ハンガリー軍に動員されたために工事はちっとも進まなかった。
しかし、1916年になると、どうやらこの戦争はまだまだ続きそうだ、下手すりゃ数十年も続くかもしれんぞ、という恐ろしい予想が台頭してくる。そうなると、南米の窒素肥料輸入が途絶えているドイツ、オーストリアなどの中央帝国側は肥料として石灰窒素をどんどん作らないと国民の食料が賄えない。そして、石灰窒素の元になるカーバイド製造には大量の電気を使用する電気炉が必要となる。
と、いうわけで果然戦争は国内で「電力確保闘争」へと姿を変えた。これぞ総力戦。ちなみに窒素肥料のために発電所をどかどか建てる、というのは後に未曾有の公害病を起こしたことで歴史に名を残すことになった「チッソ」(旧:日本窒素肥料)が辿った道でもある。日窒は自社発電所で作った安価な電力で肥料を生産するというビジネスモデルが立ち行かなくなり、ケミカル産業へ舵を切ったのが間違いの始まりだった。
捕虜を投入した突貫工事で1918年5月6日、最初の3基のタービンが回転しFala水力発電所は発電を開始(設計上のタービン数は5基)。その半年後、中央帝国側は第一次大戦に敗退し、オーストリア=ハンガリー帝国は解体されスロベニアは「セルビア・クロアチア・スロベニア王国」を経てユーゴスラビアの一員となる。

それでは、ここで公式ページの完成見本写真を見てみよう。

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キットは何度か拡張を受けた後の、現在のダムの姿を再現。日本でいうと建設時期、形式とも栃木県の黒部ダム(1912年竣工。「黒部の太陽」の黒部ダムとは別のダム)に近いだろうか。堤体のみではなく付随施設まで含んだ情景キットとなっているので、ダムの構成を知るための資料としても使えそうだ。
堤体の足元にある尖った部分は流木や氷が直撃するのを避けるためのもの。
Fala水力発電所は第二次大戦中ドイツ軍に占領されていたが、アーチ式ではないのでランカスター爆撃機がダムバスター弾をぶつけにきたり、下流の鉄橋を落とすためにコマンド部隊に爆破されたりもせず、戦争を生き延びた。

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Wikipediaからの引用で、タービン棟の写真(絵葉書)。むき出しのシャフト、むき出しのタービンがそれでいいのか、という感じだ。現在、この部屋は一般に公開されており見学ができる。
手前に立っているフレディー・マーキュリー風の人物との対比でタービンのサイズがわかる。
奥の2基は手前5基と少し形状が異なるようだが、手前5基が最初に配置されたタービンで、残り2つはそれぞれ1925年、1932年に増設されたものなのでその差だと思われる。
さらに第8タービンが1974年に、第9、第10タービンが1991年に増設されている(8~10号は別の建物が建造された)。10基のタービンが揃った1991年、スロベニアはユーゴスラビアを脱退し、独立した。

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細部のディティールにクローズアップ。古びたコンクリートのテクスチャがいい雰囲気だ。チェコ式のペーパークラフトは基本的に芯材が入らないので、平面の「たるみ」が気になるようなら0.5ミリ程度の厚紙で裏打ちするとピシっとした仕上がりになる。
ベテランモデラーなら、艦船模型のように手すりを自作することでさらにクオリティアップを狙うのもいいだろう。
左側写真の建物が8~10号タービンのおさまる新タービン棟だろうか。

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何基も林立しているクレーンは水門開閉のためのもの。位置から推測するに、下にある緑色のハッチを開けて水門にアクセスするのだと思われるが、なんでわざわざそんな面倒な構造になっているんだろう。
1990年代中盤、旧式となった1号~7号までのタービンが運用終了となったが、当時すでにスロベニア最古の水力発電所であったFala水力発電所は、運用停止で不要となった部分を博物館に改装。1998年に「Muzej HE Fala」として公開、博物館は2008年にスロベニアの国定重要産業遺産に指定された。
2017年現在、博物館は月曜~金曜が開館という旧共産圏らしいスケジュールで運営。入場料は大人3.5ユーロ(約420円)となっている。

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組み立て説明図。チェコ式は展開図の取り付け位置に相手の部品番号が書き込まれているので組立説明図は少なめだ。

BETEXAからリリースされた、スロベニアの水力発電所 Hydroelekrárna FALA のスケールは300分の1。完成サイズの記載はないが、なかなか迫力のあるサイズとなりそうだ。難易度も記載がないが、5段階評価で「3」(普通)といったところか。そして定価は599チェココルナ(約2700円)となっている。

ダムのカードモデルというのはありそうで意外となかった。ダムファンのモデラーはこの歴史的なダムの模型を手に入れられるこの機会を見逃すべきではないだろう。もちろん、スロベニアファンのモデラーにも当キットはオススメの一品である。



キット画像はBETEXAショップページからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://sl.wikipedia.org/wiki/Hidroelektrarna_Fala
https://en.wikipedia.org/wiki/Fala,_Ruše
https://ja.wikipedia.org/wiki/スロベニア

https://maribor-pohorje.si/fala-hydroelectric-power-plant-museum.aspx
観光情報。

おまけ動画:
すごく微妙な感じのユルキャラと巡るFala水力発電所。上の絵葉書にある旧タービン棟の現在の様子も見られる。
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このキャラは発電所のイメージキャラではなく、スロベニア電力協会の子供向け広報プログラムのもの。

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GPM ドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN・後編

生来の後送り体質のためにまだ確定申告を提出しておらず、今現在も『面倒だし来週でもいいかなー』と囁く悪魔と『期日ギリギリに提出が集中すると処理が大変なんです!』と真っ向対決する脳内税理士が激しい戦いを繰り広げている筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。確定申告は覚えてたら後でやるとして、今回は先週に引き続きポーランドGPM社からリリースされたドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN だ。

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前回の続きに入る前に、見落としてた情報の補足を少々。まず、ドイツ帝国タンガニーカ湖艦隊の一隻、武装汽船の「Kingani」は前回「由来不詳」としたが、Kingani川の名前からの命名だそうだ(Kingani川は現在の世界地図では「Ruvu川」と表記されている)。あと、タンガニーカ湖西岸のベルギー領コンゴもタンガニーカ湖に汽船航路を通そうとゲッツェンとほぼ同じ大きさの汽船「Baron Dhanis」をベルギーから持ち込んでいたが、こちらはまだ未組立で、そんなもんをトンテンカンと作ってたら間違いなくゲッツェンがぶっ壊しにくるんで組み立てられず、このベルギー船はこの後話に出てこない。
それと、前回の最初に書くつもりで完全に忘れていたが、船名のカナ表記が「ゴッツェン」じゃなくて「ゲッツェン」なのは、船名の由来となった総督の名前がウムラウトのつく「Gustav Adolf von Götzen」だからだ。ごっつぁんです。

さて、いざ戦争が始まってみると、ゲッツェンは連合軍にとって実に頭の痛い存在であった。なにしろゲッツェンは1500トンというタンガニーカ湖では格段に大きい船なので、数百人の兵士を一気に運搬することができる。つまり、連合軍はドイツ軍の上陸に備えて長さ670キロの西岸全てに警戒部隊を張り付けておかなければならない。
ゲッツェンに対抗できる船舶を持たないイギリス軍は、これに対処するためにイギリス本土から新たな戦力を湖に持ち込むこととした。しかし、大柄な船は(ベルギー船のように)持ち込んでも組み立てることができない。そこでイギリス軍は大きさに「機動力」で対抗することを企てる。
イギリス軍はなぜかギリシャ空軍のために建造中だった2隻のモーターボートを徴発。この船は100馬力ガソリンエンジンと2軸スクリューで長さ12メートルの船体を最大時速19ノットですっ飛ばすことができた。
そして、このイギリス海軍タンガニーカ湖艦隊を率いることになったのが、ジェフリー・スパイサー=シムソン(Geoffrey Spicer-Simson)であった。

1876年に生まれのシムソン(スパイサー=シムソンは二重姓なんで、本当は省略しちゃいけい)は14歳で英国海軍に入隊。1905年には当時新兵器の潜水艦への対抗策として「2隻の船の間の低い位置にケーブルを張ってですね、潜水艦の両脇を通過するんですよ。そうすると潜望鏡が折れるでしょ? 水が入ってハイ、おしまい」というアイデアを思いつき、実際にケーブルを張った船を走らせて関係ない小舟を引っ掛けて沈めた。
開戦時には少佐になっており掃海艇HMS Nigerを旗艦とする小艦隊の指揮官に任命されたが、妻の友人が近くまで来たのを港のホテルに歓待しに行って帰ってきたら、HMS Nigerは真っ昼間だってのにドイツ軍潜水艦U-12の雷撃食らった沈没してた。
と、まぁ問題児なシムソンがタンガニーカ湖の任務に選ばれたのは、父親が貿易商であったために幼少をフランスで過ごしフランス語はペラペラ、ついでにドイツ語も堪能ということが評価されたのだろう(行動拠点となるコンゴがベルギー(フランス語圏)領だったから)。

シムソンは任務を説明され、2隻のモーターボートを受け取ると、それぞれ「HMS Cat」と「HMS Dog」と名付けようとしたが海軍省から「真面目にやれ」と怒られた。仕方ないので、今度は「HMS Mimi」と「HMS Toutou」で申請したら今度は通った。意味はそれぞれのフランス語でネコの鳴き声と犬の鳴き声なので、日本語に直訳すると「ニャーニャー号」と「ワンワン号」である。悪化してるぞ。
シムソンはさらに速度を増すためにボートを少し切り詰め、武装を強化するために3ポンドホチキス速射砲とマキシム機関銃を搭載(オリジナルの武装は不明。なぜヴィッカース機関銃じゃなくてマキシムなんだ)、防御のためにガソリンタンクに防弾板を追加した。
1915年6月8日にテムズ川でMimiが行った3ポンド砲の発射実験では、的に命中弾を与えることには成功したが、取り付けが不十分だった3ポンド砲は船体から外れて砲員もろとも川に飛び込んだ。

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話の流れと全然関係ないけど、長くなりそうなんでここらで公式ページの完成見本写真。
ゲッツェン船首の88ミリ砲。八卦炉みたいな後付砲座が水平になるように苦労した後が見て取れる。でも手すりもなんにもないから砲員は脚を滑らせると下のデッキに落ちちゃう。

6月15日、ワンワン号とニャーニャー号はシムソンが選抜した27人のチーム(海軍が現役を回してくれなかったのか、全て海軍予備人員とシムソンの知り合いで編成)と共に汽船「SS Llanstephen Castle」に積み込まれ、アフリカへと出発した。
タンガニーカ湖東岸はドイツ領タンザニア、西岸のベルギー領コンゴは内陸国で海岸線がない。なので、イギリス軍タンガニーカ湖艦隊はイギリス連邦南アフリカに到着してから2000メートル級の山脈を越え、5000キロを縦断してタンガニーカ湖までたどり着かなければならなかった。とは言っても、距離こそ長いものの基本的に鉄道が使えるので途中までの移動はそれほど困難ではなかった。問題は7月26日に到達した鉄道終着点から湖までで、艦隊はボートをキャリアーに載せ、蒸気トラクター、牛、現地住民が距離240キロを引っ張って引っ張って、そこからはタンガニーカ湖に流れ込む川を陽気に下って、最後はベルギー人が敷いた軽便鉄道にちょっと乗って、10月末についに2隻のモーターボートはタンガニーカ湖に浮かんだ。

ドイツ側はイギリス艦隊の到着を把握していなかった。そのため、12月26日に連合軍側の様子を探りに来たドイツ軍武装汽船Kingani は2隻のモーターボートに奇襲を受けることとなる。Kingani は武装として6ポンド砲を積んでいたが、この砲は船首に前向きに装備されていた。それに対し、英軍のモーターボートは自由自在に周囲を走り回り3ポンド砲を立て続けに打ち込んでくる。11分間の戦闘でドイツ側は士官が次々に死傷し、戦闘旗を降ろし投降した。
スコットランド出身でもないのにキルト(スカート)を履いて、少佐なのに自分の小屋に海軍大将旗を掲げた(これはさすがに未遂かもしれない)シムソンはKingani を修復、「HMS Fifi」として艦隊に加える。Fifiというのはフランス語での鳥の鳴き声、つまり「ピヨピヨ号」である。もう突っ込む気も起きない。一応フォローしておくと、シムソン曰く『「Fifi」はとあるベルギー人士官の小鳥を飼っている奥方から提案されたもの』だそうだ。なお、改装に際しシムソンはFifiの6ポンド砲を船尾に移動し船首には12ポンド野砲を追加している。テムズ川と違ってタンガニーカ湖は砲が吹っ飛んだら回収できないぞ。

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船体中央部。2つの小型キャビンは1等船室と2等船室か。後方キャビンの後面に、オープンカフェみたいなスペースがそのまま残っているのにも注目。

Kingani は無線を搭載していなかったようで、ドイツ軍はKingani の損失理由を把握していなかった。
そのため、1916年1月になってドイツ艦隊のHedwig von Wissmannが捜索のために派遣された。
2月8日、H.V.Wissmannをイギリス艦隊が発見。ワンワン、ニャーニャー、ピヨピヨが直ちに出動する。ここはまんが日本昔話か。
H.V.Wissmannは最初、向かってくるのをベルギーの汽船と勘違いしたが、英国海軍戦闘旗に気づきゲッツェンの停泊してる方へ逃走を開始した。あるいは、英軍をゲッツェンの射程範囲内へ引きずり込もうとしたのかもしれない。
H.V.Wissmannの砲座は射界が広く、3ポンド砲よりも射程が長いためにモーターボートが近づくのは危険だった。従って、英軍の攻撃はFifi(シムソン自身が座乗していた)の12ポンド砲がメインとなる。
FifiがH.V.Wissmannを捉え、バコン、と12ポンド砲を発射した途端に反動で機関が止まった。続いてもう1発、発射しようとしたら今度は砲がジャムった。
20分かけて不発弾を取り除く間、モーターボート2隻がH.V.Wissmannの周りをぐるぐる回って威嚇を続ける。
やっと発射した3発目の12ポンド砲弾が機関室に飛び込みボイラーを爆発させ、H.V.Wissmannは撃沈された。

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Wikipediaからの引用で、Kinganiを鹵獲した直後に撮影された写真。左端で一人だけスカート履いてるのがシムソン。あと、よく見ると右端にワンコがいるが、その周りが不自然にモヤモヤっとしてるので、なにか修正されているのかもしれない。

出撃するたびに1隻、また1隻と船が消えている状況では個艦となったゲッツェンの動きも鈍くならざるを得なかった。また陸上での戦闘も連合軍有利に進み、港へも敵が迫っている。
1916年7月、背後に浸透した連合軍によって鉄道が遮断されドイツ軍はタンガニーカ湖からの撤退を決定した。すでに火砲を降ろし、ダミーとして丸太を積んでいたゲッツェンにも自沈が命じられる。
ゲッツェンを組み立てた技術者3人がまだ現地に留まっていたので、彼等に自沈処理が命じられた。
この3人の技術者の名前は伝わっていない。だが、彼等は苦労して組み立てたゲッツェンを沈めることが忍びなかったらしい。取り外し可能な部品は陸上の倉庫にしまい、取り外しができない部品には念入りにコッテリとグリースを塗ることで水を遮断。また、自沈のためのバラストとして撤去が用意な砂袋を使用した。

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船尾の105ミリ砲。砲座の前にあるのは自衛用の37ミリリボルバーカノン。砲を撤去されたゲッツェンだったが、連合軍がショート・タイプ827で行った爆撃に対抗するためにリボルバーカノンは残された。

港を占領した連合軍は沈んでいるゲッツェンを移動しようとしたが嵐で失敗。しかし、1924年にイギリスが再浮揚に成功した。
8年間も沈んでいたにしては船は驚くほど状態が良く、グリスを取り除き多少整備するだけでゲッツェンは再び航行可能となった。
1927年5月16日、ゲッツェンは船名を「Liemba」に変更し、本来の任務であったタンガニーカ湖の定期航路に就航する。
その後、リエンバは何度かのオーバーホールを挟みながらも稼働を続けている。1976年から79年のオーバーホールではオリジナルの蒸気機関が取り外され、ディーゼル機関に換装された(1993年にデンマーク政府の資金援助でもう一度換装している)。
リエンバはまた、1997年のコンゴ、2015年のブルンジでの紛争から逃れる難民を運ぶために国連によってチャーターされた。
現在は毎週木曜に北側から出発し金曜に南側へ到着。金曜のうちに折り返し土曜に出発地した北側に戻ってくる。なお、南北2箇所の港以外にも立ち寄るが桟橋がないので、そこでは小舟での乗り降りとなる。船室はVIPルーム2部屋、1等船室10、2等船室18。これ以外に座席だけの3等船室もある。
動画はYoutubeなどで「Liemba」で検索すれば、ハゲチョロ、ベコベコの船体で頑張る姿を見ることができる。

イギリス軍タンガニーカ湖艦隊を率いたジェフリー・スパイサー=シムソンはタンガニーカ湖の戦いが終わった後、療養のために本国へと帰った。1919年のベルサイユ講和会議には海軍の通訳部長として同行している。
1921年に発足した国際水路機関(International Hydrographic Organization)の初代事務総長に選出され、37年までこの職を勤めた。その後はカナダのブリティッシュ・コロンビアに転居し、過去の冒険について講演を行ったりナショナル・ジオグラフィック誌の記事を書きながら晩年を過ごし、1947年1月29日に71歳で死亡した。

GPMからリリースされた、おそらく世界最古の実働船である「MV Liemba」の前身「SMS GOETZEN」。今回は小型船スケールである100分の1でのリリースなので完成全長は約70センチ。難易度は3段階評価の「2」(普通)。そして定価は300ポーランドズロチ(約1万円)となっている。また、近々250分の1バージョンの発売もアナウンスされている。

当キットはタンガニーカ湖ファン、ドイツ領東アフリカファン、そしてスパイサー=シムソンファンのモデラーなら見逃すことのできない一品と言えるだろう。




画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/グラーフ・フォン・ゲッツェン_(砲艦)
https://en.wikipedia.org/wiki/MV_Liemba
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Mimi_and_HMS_Toutou
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Fifi
https://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_Spicer-Simson
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_for_Lake_Tanganyika
シムソン伝説についてはなぜかBattle_for_Lake_Tanganyikaの記事の方が詳しく書かれている。

http://lakeshoretz.com/liemba/
http://www.bbc.com/news/world-africa-14677418

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GPM ドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN・前編

帰りの電車の中でハッと目覚めたら降りる駅を2つも過ぎていた筆者がお送りする世界の最新カードモデル情報、本日紹介するのはポーランドGPM社からリリースされたドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN だ。

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よく見ると「2015年18号」と書いてあるが、カタログに出てきたのが最近なんで新作ってことでここは一つお願いしたい。

当コーナーではよく、やたらと長持ちした装甲艦の話題が出て来るが、では逆に2017年現在、現役で最も古い船はなんだろう。
イギリスの戦列艦、HMS”ヴィクトリー”(1765年)は現役として登録されている船としては最も古いものだが、あの船はいわば名誉永久現役艦で、ここ100年はずっと乾ドックに入りっぱなしだ。アメリカの帆走フリゲート艦”コンスティチューション”(1794年)は時々航海に出てるが、あれだって普段は飾ってある「航行可能な記念艦」にすぎない。
ここで話題にしたいのは、もっとこう、毎日毎日普通に普通に使われていて、使ってる人たちも記念艦だなんて思っていないような「普通の船」として最古の船の話である。
この問に応えるのはなかなか難しい。どこか田舎の湖で、はるか昔に作られた汽船がいまでも渡し船として頑張っているかもしれないからだ。しかし、一般的に知られている範囲内での「世界最高齢の、普通に現役の船」は、おそらくアフリカ南東部、タンザニアとコンゴに挟まれた細長い湖「タンガニーカ湖」で週に一度貨客を載せて湖を行き来している「MV Liemba」(「リエンバ」現地古来のタンガニーカ湖の呼び名)であろう。

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ちっちゃい写真だが、2003年に撮影されたリエンバ。Wikipediaからの引用。
なんてことない普通の船だが、この船こそ現役最高齢の普通の船にして、ドイツ帝国海軍唯一の現存艦なのである。

ドイツは1871年に諸侯が統一し「ドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)」となったが、帝国ならやっぱり帝国らしく帝国主義に邁進したい。19世紀型帝国のトレンドはなんといっても「植民地経営」で、帝国たるもの植民地の一つも持ってないと、列強クラブでは相手にされないZO☆ という雰囲気だった。
そんなわけでドイツ帝国もアフリカに、アジアに、オセアニアに探検隊を派遣して勝手に旗を建て、「ふむふむ、つまり君たちはドイツ帝国の庇護を欲しているわけだね!」とドイツ語が通じない現地の人々から快く了承を得て植民地を獲得していった。
もっとも、植民地獲得競争にドイツ帝国が遅れて参加したころには世界地図の目ぼしいところはイギリス、フランス、スペイン、ポルトガルといった数百年早く世界へ飛び出していった連中によって押さえられていたが、探せば「空白地」ってのはけっこうあるもんで、ドイツ帝国は19世紀末までにニューギニア、西アフリカ(現在のナミビア)、東アフリカ(現在のタンザニア)、オセアニアのサモア、中国の青島などを占領していた。
しかしまぁ、そんな一方的身勝手な話が「めでたしめでたし」に終わるわけはなく、ドイツ帝国領東アフリカでは換金作物として綿花の栽培をドイツが推進し、無茶苦茶なノルマを課したことに対する反発をきっかけに1905年、極めて大規模な反乱が発生している。
この反乱に際し、現地軍は近代兵器で武装したドイツ帝国軍に立ち向かうために「不死身になる魔法の水」を祈祷師から分け与えられ、その効果を頼みにライフル銃火へと突っ込んでいった。このため、この反乱は現地で使われるスワヒリ語で「水」を意味する「マジ」から「マジ・マジ反乱」と呼ばれている。名前はオモロイが、3年に及ぶ反乱でドイツ人15人、帝国側アフリカ人兵士382人、そして反乱軍25万から30万人(反乱地域の人口の約3分の1)が死傷したとあっては、ちょっとネタにはできない。
反乱はあまりにも大きな流血を伴ったが、その結果としてドイツ本国は植民地経営者の怠惰、腐敗、無能力、そして現地住民に対する無理解によって植民地経営が破綻しつつあることを知り、これ以降ドイツ帝国領植民地の経営は大きく改善され、現地住民との軋轢も(比較的ではあるが)少なくなっていく。
タンガニーカ湖対岸のベルギー領コンゴではベルギー王レオポルド2世が「コンゴで天然ゴム作るよ! ノルマ達成できないやつは手首切断するよ!」とメチャクチャな事を言い出して、その統治下で人口が3000万人から900万人まで減ったというから、結果的には反乱はタンザニアの人々の命を救ったことになったのだと思いたい(もちろん、コンゴとの比較で「ドイツ人に感謝しろ」と言うつもりはない)。

さて、マジ・マジ反乱の惨禍からやっと東アフリカが回復しつつあった1913年、ドイツは東アフリカで鉄道建設を進めていた。やっぱり鉄道があれば移動も輸送も格段に楽になる。あと、反乱が起こったら鎮圧部隊の移動も楽になる。とは言え、なにしろドイツ本国から遠く離れた東アフリカの地ではレール1本だって調達には手間と時間がかかるので、できるだけレールを敷く距離は短くしたい。そこで、着目されたのが南北に長いタンガニーカ湖だ。タンガニーカ湖は一言で「湖」と言っても、なにしろスケールの大きいアフリカのこと、なんと南北の長さが670キロもある。湖の南端、北端に鉄道を接続し、湖では汽船に貨客を積み替えることとすれば、670キロ(日本で言えば東京-広島間の直線距離にほぼ等しい)の鉄道建設の手間が省けるんだからこりゃお得だ。
しかし、問題はタンガニーカ湖には当然造船所なんてないことだった。
仕方がないので、ドイツ植民地省は汽船をドイツ本国のマイヤー・ヴェルフト造船所(厳密には「ヴェルフト」は造船所のことなんで、「マイヤー造船所」)で建造した汽船を5000のパーツに分割して梱包、ハンブルグ港から船便で東アフリカに送りつけた。
東アフリカの主要港、ダルエスサラームで荷物を受け取った植民地側は5000の荷物をホイサホイサと鉄道に載せてどんどんタンガニーカ湖へと送り出す。鉄道はまだ建設中でタンガニーカ湖の約50キロ手前で終わっていたので、最後の50キロは現地労働者を雇って人力で運んだそうだ。単純計算で一箱300キロもあるけどね!(船体の竜骨なんか、どうやって運んだんだろう?)
タンガニーカ湖では3人のドイツ人技術者と現地労働者が13ヶ月の時間を費やして汽船を再度組み上げた。船は全長70メートル排水量約1500トン、上客にはシングルのベッドにソファーもある1等船室が7室と、2人相部屋の2等船室が5室準備してある。電気照明と空調完備で、さらに時間あたり3キロの氷を作る製氷機まで備え付けたなかなか豪華なものであった。いくら全パーツが工作済の状態で送られてきたとはいえ、これだけの船を大した工作設備もない状態で組み上げたのだからその苦労たるや相当なものだっただろう。
誰がつけたのかわからないが、汽船は「Graf von Goetzen」と名付けられた。マジ・マジ反乱を鎮圧した当時の東アフリカ総督の名前である。

さぁ、汽船も就航したし、これで東アフリカの旅もずいぶん快適になりますよ。よかったよかった。
と、思ったら、全然良くなかった。
G.V.ゲッツェンが就航したのは1915年2月5日。すでにこの半年前、ドイツ帝国は第一次大戦に突入し、タンガニーカ湖対岸のコンゴを支配するベルギー、タンザニア南北に国境を接するザンビア、ウガンダ、ケニアを領有するイギリスと開戦していた。
ドイツ軍はタンザニア西方から連合軍がタンガニーカ湖を渡ってくるのを防ぐため、軽巡ケーニヒスベルク(初代。開戦時にダルエスサラームに寄港していたが石炭不足で動けなくなっており、1915年7月11日に英軍の攻撃を受け自沈した。)から105ミリ砲1門、88ミリ砲1門をG.V.ゲッツェンに移し、仮装砲艦「SMS(Seine Majestät Schiff、「皇帝陛下の艦」) ゲッツェン」に改装した。

と、いうわけでGPM公式ページの完成見本写真でSMSゲッツェンの姿を見てみよう。

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「仮装砲艦」とは言ったものの、ほんとにただの船に艦砲乗っけただけだ。
もちろん装甲なんてないが、全然それでも構わない。どうせ敵対するイギリス、ベルギーはタンガニーカ湖に艦船らしい艦船を保有しておらず、ゲッツェンはこの時点でタンガニーカ湖最大の船舶であった。
このSMSゲッツェンと、他に長さ20メートル排水量60トンの「Hedwig von Wissmann」(ゲッツェンよりも前の東アフリカ総督、ヘルマン・フォン・ヴィスマンの奥方の名前)と排水量45トンの「Kingani」(由来不詳)という小さい小さい蒸気船に47ミリ砲や37ミリ砲を積んだ、まぁなんというか、いないよりはいたほうが幾分ましな程度の船2隻を合わせた3隻でドイツ帝国東アフリカ軍は長さ670キロのタンガニーカ湖を守ることとなった。


(後編に続く)

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/タンガニーカ湖
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツ領東アフリカ
https://ja.wikipedia.org/wiki/マジ・マジ反乱

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