Wagner Models イギリス試作戦闘機 Sage Type 2

好物のそら豆を自家栽培でたっぷりといただこうと思ったものの、そら豆の種蒔き時期(年末)をどういうわけか年始と勘違いしていて完全に時期を逸し、一年おあずけが決まった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。今回は懇意にしていただいているポーランドのデザイナー Krzysztof Wagner氏のブランド”Wagner Models”からの新製品、イギリス試作戦闘機 Sage Type 2 を紹介しよう。
Krzysztof氏のキットが当コーナーに登場するのは2015年の冬に紹介した日本小型飛行機"トンボ式"グライダー以来だから、実に2年と少し間があいたことになる。この間、氏は個人的な事情でカードモデルに少し距離を置いていたようだが、最近新たに自身の直販サイトを開設して活動を再開している。

1517272446004_sage_type_2_cover.jpg

……なんだこれ。

この、なんとも形容し難い不思議飛行機を作ったのはフレデリック・セイジ有限会社(Frederic Sage & Co. Limited)。なんか聞いたことのない名前だが、それもそのはず実は飛行機メーカーではなくて家具屋さん。とは言っても、一般家庭にタンスを売ったりするわけではなくて、新規オープンする店舗のためにレイアウトを構築し、家具を作って内装を行うという業者向けの内装業者だった。
創業は1860年代。20世紀初頭には有名百貨店やホテルの内装も手がけ、南アフリカやヨーロッパからも発注のある業界大手の会社に育っていた。
なんで家具屋さんが飛行機作ることになったのか言えば、第一次大戦勃発で急激に拡大した航空機需要を賄うために政府が工作技術のある会社に片っ端から航空機生産を手伝わせたからで、セイジ社にも海軍からショート184水上機の生産が打診された。当初、セイジ社は12機のショート184を制作する契約だったが、さすがホテルや百貨店の内装を多数手がけているだけあって工作技術は確かで、好評のうちに約80機のショート184が海軍に納入された(ショート184の総生産数は総計946機)。
この成功で「いいね!」をたくさんもらったセイジ社は続いてアブロ504K練習機の制作を受注。これも好評のうちになんと約400機を生産したというからなかなかのものだ(アブロ504Kの総生産数は約8千機。ちなみに日本でも200機以上をライセンス生産している)。他には軟式飛行船のキャビンなんかも作っているが、これは内装屋さんとしては本業に近くやりやすい仕事だったのではないだろうか。なお、セイジ社は戦争終盤にはソッピース・キャメル130機の生産も受注しているが、これは手を付ける前に戦争が終わっている。

そんなわけで飛行機をガンガン生産してたセイジ社に、悪魔が囁いた。「そんなライセンス生産に満足してないで、いっそ自分で飛行機設計しちゃいなよ」と。いや、世の中にはライセンス生産で力をつけて自社開発で大当たりしたメーカーもあるから、一概に「ダメ、絶対!」とは言わないけど、それにしても1915年にライセンス生産を開始して、1916年には自社開発って、早すぎないかい?
もちろん、自社開発だからって、家具の設計師に今から航空力学を勉強してもらっていたら戦争が終わってしまうが、そこは大丈夫、セイジ社にはライセンス生産を開始する際に顧問として雇ったエリック・ゴードン・イングランド(Eric Gordon England)がいた。
イングランドは極初期のイギリス航空界を担った人物で、イギリス王立エアクラブが発行する英国公式飛行免許番号なんと2桁の68番、つまりイギリスで68番目に飛行機に乗る許可を得た人物だった。ちなみに英国公式飛行免許の1号は後に超巨人旅客機ブリストル・ブラバゾンに関わるジョン・セオドア・カスバート・ムーア=ブラバゾン、すなわちブラバゾン卿で、2番はロールス・ロイス社の「ロールス」の方、チャールズ・スチュアート・ロールズだった。

オリジナル飛行機作ろうと思いたったセイジ社には、さらにブリストル社から名機ブリストル・スカウトを設計したクリフォード・ティンソン(Clifford Wilfred Tinson)とフランク・バーンウェル(Frank Sowter Barnwell)のコンビも来てくれた。イングランドは以前にブリストルで設計技師として働いていたこともあったので、たぶんそのコネで来てくれたのだろう。
このブリストルチームが挑んだセイジ社初のプロジェクト、Sage Type1は双発爆撃機だったようだが、なぜか設計だけで終わり試作されていない。きっと、もっと革新的なType2に途中で興味が移っちゃったんだな。
そんなわけで1916年夏、セイジ社2番目の設計にして、始めてのオリジナル機となるSage Type2が完成した。
では、Sage Type2の特徴的な姿を改めてWagner Modelsショップページの完成見本写真で見てみよう。

1517272449640_final_8.jpg

どうしてこうなった。
筆者は最初、この機体は高高度で侵入してくるツェッペリン飛行船に挑むための高高度戦闘機として設計され、寒さに耐えるために密閉キャビンなのかと思ったが、どうやらとくに高高度を狙った機体ではないらしい。資料にも、どうしてこの形状にしたのか説明がなく、意図がわからない。単純に内装が本業だから頑張ってしまったのか。あるいは飛行船のキャビンを制作していたのと関係があるのかもしれない。

1517272447733_final_5.jpg

胴体に無理やりキャビンをのっけてその天井が上翼となってるもんだから、下翼と上翼の間がやたらと離れた上に上翼の形状もなんだか不思議なことになった。そこまでしてのっけたキャビンだったが、別に特別に余裕のある図体でもないので、どの程度居住性の改善があったかは疑問だ。当時の速度計は信頼性がないためにパイロットは風を感じて対気速度を判断しており、密閉してしまったら危険だと思うのだがどうするつもりだったんだろう。側面窓がスライドして開くのかな。

1517272448048_final_6.jpg

話を簡単にするために「密閉キャビン」と書いてきたが、天井に大穴が開いているので厳密には「密閉」はされていない。
この穴は後席の射手のためのもので、敵機と戦闘になったら射手はルイスマシンガンを持ってどっこいしょと立ち上がり、この穴からドイツ戦闘機に向かって撃ちまくる予定だったというから、なおさらなんのためにキャビンを囲ったのかわからない。
あるいは逆に、密閉すること自体は重要ではなくて、視界を広げるために上翼を胴体から離したら強度が不安になったんで中空の極太支柱を立てて、中に人が入るようにしたんだろうか。

Sage Type 2は6機が海軍から発注され、1番機が1916年8月10日に初飛行したが、9月20日に飛行中に尾部が破損し、不時着した際に失われている。
変な形の割にSage Type 2は意外にも操縦性は良好だったそうだが、この時点で英軍初のプロペラ同調機銃を備えたソッピース1½ストラッターの配備が始まっており、後席射手が機銃を振り回して敵機と戦う複座戦闘機そのものが時代遅れとなっていた。
結局、Type2は2機目以降は制作されなかった。

その後、セイジ社ではType3、Type4となんか普通な感じの練習機を設計したが、細々と改良しているうちに戦争が終わり2機種とも試作に終わった。
戦争の終結に伴いセイジ社は航空機部門を解散、もとの店舗内装業へと戻った。20年代には再び高級百貨店の内装などで名を馳せたが大恐慌で失速。
第二次大戦中はアルベマール輸送機の主翼、ホルサグライダーの胴体などを作成し、戦後は英国議会議事堂(ウェストミンスター寺院)にも関わっている。
しかし、高級内装という専門分野が次第に縮小したために会社も勢いを失い1968年に路面電車制作会社のブリティッシュ・エレクトロニック・トラクションに吸収合併された。フレデリック・セイジのブランドは1990年ごろまで存続していたが現在は消滅しているようだ。

1517272450421_ark_1.jpg 1517272451027_ark_3.jpg 1517272451966_ins.jpg

展開図と組み立て説明書のサンプル。テクスチャに汚しはないが布張り、木目など軽目の質感表現が施されている。

高級内装業者が飛行機作ってみたらなんか不思議なことになった試作戦闘機 Sage Type 2 は空モノ標準スケール33分の1で完成全長約20センチ。難易度表記はないが、サンプル展開図から推測するに5段階評価で「3」(普通)といったところか。販売はダウンロード販売のみで定価は6ドルとなっている。
こういう、まぁ、ぶっちゃけカッチョ悪い飛行機ファンのモデラーなら、当キットを見逃すべきではないだろう。



画像はWagner Modelsショップページからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Sage_Type_2
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Sage_&_Company
スポンサーサイト

テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

注目の最新無料キット2種

先日、所属会社の新年会に参加したところ本格中華のコースが振る舞われ、こんなうまいもんはそうそう食えないぞ、と夢中になって食べていたら最後の最後に炒飯の大皿が登場。完全にペース配分を間違えてすでに満腹だったのに炒飯も美味しくいただいた上にデザートの杏仁豆腐まで平らげて2日間ほど腹具合のヤバかった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。本日は新年特別企画として、ネットで手に入る無料キットを紹介しよう。

まず紹介するのはイタリアのデザイナー、Enrico Crespi氏のページ、E63papermodelでリリースされたイタリア装甲列車 Ansaldo/Fiat”LIBLI”だ。

LIBLI01.jpg

Crespi氏は以前にスーパークオリティでリリースされた第一次大戦のイタリア軍列車砲なんていう、いろんな意味で衝撃的キットを紹介したが、今回も、へー、そうゆーのあったんだー、という感じのイタリア軍装甲列車を堂々リリースだ。

libli181.jpg

イタリア軍列車砲もそうだったが、やっぱりこいつも資料が足りないので今回も写真多めでの紹介。完成見本写真は塗装とリベット追加などのディティールアップがされており、フィギュア、ベース、レールなどは付属しない車輌のみがキット内容となる。

1941年3月25日、ユーゴスラビアは日独伊三国同盟に参加し枢軸軍となったが、翌日26日の夜に三国同盟でソビエトと戦争となることに反対した国軍がクーデターを起こし政権は転覆、4月6日にユーゴスラビア-ソビエト不可侵条約を締結したが、条約調印した6時間後にはドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア軍がユーゴスラビアに侵攻し、4月17日にユーゴスラビアは全面降伏するという息もつかせぬジェットコースター展開で占領された。
ゲーム「アドバンスド大戦略」(メガドライブ版)のMAP「ユーゴスラビア」ですごく邪魔なことでおなじみなイタリア軍もユーゴスラビアの一部地域を占領したが、ヨシプ・ブロズ・チトー率いるパルチザンによる抵抗運動は熾烈を極めた。
イタリア軍はパルチザンが常に攻撃目標としていた鉄道網を守るために、とりあえずAB40、AB41装甲車に鉄道車輪を履かせた改造車輌を警備のために走らせた(イタリアは主戦場を北アフリカに想定していたので、装甲列車を保有していなかった)が、さらに本格的な装甲列車として1942年から開発が始まったのが”LIBLI”である。
装甲列車を最初っから作るのは大変なので、フィアット鉄道部門のFiat Ferroviariaで1933年から製造されていた鉄道車両「FS ALn 56」レールカーのシャーシを5メートル切り詰めて転用、アンサルドが装甲と武装を施して装甲列車に仕上げ、LIBLI は43年の夏から占領地域に投入された。

libli187.jpg libli194.jpg libli179.jpg

1年で急いで作った車輌にしては、意外とまとまりのいいスタイルだ。武装は砲塔の47ミリ戦車砲x2、45ミリ迫撃砲2門、ブレダ機関銃6丁、ブレダ20ミリ機関砲もしくは火炎放射器となっている(機関銃の数は砲塔同軸機銃を考えると計算が合わない)。
砲塔はM13~M15戦車の砲塔をそのまま載せているように見えるが、よく見ると砲塔後部がM13系列の場合は馬蹄形の曲面となっているのが多面体となっている。ちなみに写真ではわかりにくいが、前後の砲塔はそれぞれ左右(車体中央から見て右)に寄っている。

libli183.jpg

迫力のある正面からのショット。LIBLI はベースがレールカーなので車体前後の115馬力ディーゼルエンジンで自走できるが、もちろん他の車輌と連結して運用することもできた。奥に見えるご家族の写真らしきものにも注目だ。いや、個人情報だからあんまり注目しないほうがいいか。
LIBLI は8輌がイタリア軍に引き渡され、さらに8輌が1944年にドイツ軍に引き渡され装甲列車(Pz.Triebwagen)30号~38号となった。と、資料に書いてあるのだが、それでは計算が合わない(30~38なら9輌のはず)。そもそもイタリア降伏後の1944年に引き渡されてるのも変な話だが(資料によっては43年に引き渡され、作戦行動に入ったのが44年となっている)、ドイツ軍はイタリア軍装備車輌も接収して自軍に加えているのでその際に混乱があったのかもしれない。
なお、LIBLI は2輌が現存してトリエステの戦争博物館に展示されているが、なぜかネット上ではこの現存車輌の写真はほとんどみつけることができない。

LIBLI02.jpg LIBLI03.jpg LIBLI04.jpg LIBLI05.jpg

組み立て説明書からの抜粋。驚いたことに内部再現モデルとなっており、(内装の一部は推測とのこと)かなり細かい工作が要求されそうだ。キットはタミヤスケール35分の1でのリリースだが、このクオリティならデジタルデータの利点を活かして、いっそ25分の1にスケールアップしてしまうのもありだろう。なお、35分の1での完成サイズは全長約39センチ。

LIBLI06.jpg LIBLI07.jpg

展開図からの抜粋。Enrico Crespi氏のキットは基本的にホワイトモデル(車内装備の一部だけカラーになっている)だが、このクオリティならいっそホワイトモデルのままでも十分迫力のある仕上がりとなりそうだ。

さて、今回は資料が少なすぎて書くことも少なかったんでもう一点、フリーのキット紹介を連続で。
次に紹介するのはヤマハの超精密ペーパークラフト YA-1 だ。

detail-pic_014.jpg

日本が世界に誇る2大企業運営無料ペーパークラフトサイト、ヤマハのペーパークラフトからの新キット。ちなみに「2大」のもう片方はキヤノン。というか、プリンタの販促でやってるキヤノンはともかく、ヤマハのこの過剰なサービス精神はなんなんだろう。「世界の希少動物」のペーパークラフトなんて全然ヤマハ関係ないじゃないか。

ヤマハの市販バイク1号となるYA-1は、実は以前に同じYA-1と同様にドイツのDKW RT-125をベースとしたいわば兄弟分に当たるポーランドのSHL M04の紹介時に触れさせてもらったが、まさか公式から「超精密ペーパークラフト」がリリースされるとは、嬉しい驚きだ。

detail-pic_015.jpg detail-pic_013.jpg detail-pic_001.jpg

キットは国産ペーパークラフトのスタンダードとも言える内容。厚紙、針金、フィルムなどのマルチマテリアルを使わずに単一の紙厚だけで仕上げる狭義の「ペーパークラフト」である。ただし、今回はオールドバイクならではのワイヤースポークを糸を貼って再現する「特別仕様」も選べるようになっている。

detail-pic_009.jpg detail-pic_007.jpg detail-pic_002.jpg

東欧式のカードモデルに慣れすぎていると、ノリシロ接着が基本であるために円が多角形となっていたり、ドイツ式展開図(折り線が点線で指示される)なので完成品の表面に折り線が見えてしまうのは正直、残念な点ではある。しかし、このキットは一般的な「ペーパークラフト」を期待するユーザーのためのものなのだから、これらはむしろ「当然」と言うべきだろう。マルチマテリアルに慣れているモデラーならデジタルデータであることを利用して折り線を消すなどの加工を施し、ブレーキケーブルを這わせるなどの徹底的なディティールアップを施すのも一つの楽しみ方だろう。なおマフラーの曲線部がザクの動力パイプみたいになってるのも気になるは気になるのだが、ここはけっこうな太さがあるのでワイヤーなどで置き換えるのは難しい。金属丸棒やチューブを自在に曲げる、それこそバイク作るような機材が手元にあるのなら別だが、どうしても気になるようなら仕上がったものにパテを盛って削り、シルバーで塗ってしまうのが近道だろう。

ヤマハの超精密ペーパークラフト YA-1 は、スケール表記を見つけられなかったが、たぶん4分の1で完成全長約50センチという迫力のサイズ。腕に自信のあるモデラーなら3分の2に縮小して6分の1アクションフィギュアと合わせるのもいいだろう。また、兄弟分SHL M04のMODELIKキット(9分の1)とスケールを統一して、それぞれの違いを確認するのも楽しそうだ。

*写真はそれぞれEnrico Crespi氏のページ、ヤマハのページからの引用。
LIBLIの展開図、組み立て説明書はキットからの引用。

* LIBLIのキットはE63papermodelのDownloadのタブからダウンロードできますが、データの置いてあるファイル共有サイトは(これそのものは別に違法ではない)操作を誤ると独自のダウンロードツールをインストールしようとしたりしてそれなりのリスクがあるため、あくまでもダウンロードは自己の責任においてお願いいたします。また、ダウンロードはフリーですが作者は著作権を放棄していません。データは個人での利用のみが認められており、販売などはできません。

参考ページ:
Ansaldo/Fiat”LIBLI”
https://it.wikipedia.org/wiki/Ansaldo_Libli
ロシア語版も参考とした。
http://www.modellismopiu.it/modules/newbb_plus/print.php?forum=179&topic_id=136343
イタリアの模型フォーラム。Crespi氏が制作過程を投稿しており、細かいディティールを見ることができる。

YA-1
https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/papercraft/ultra/ya-1/gallery/
ペーパークラフトコンテンツの中にあるヤマハのYA-1詳細ページ。非常に多くの情報が詰まっており、オールドバイクファン必見。
美しいギャラリーページはディティールアップの参考としてチェックしておきたい。

テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

Luis P Igualada Paper Model ドイツ帝国戦闘機 Albatros DVa

謹賀新年2018。
新年開けましたが、正月ボケのところからいきなりいつもの読者置き去りペースでスッとばしていくとうっかり空中分解しかねないんで、ここは一つローギヤからの粘り強い発進を心がけよう。
そんなわけで2018年最初の新製品紹介は、わけのわからないものを避けて極めてスタンダードな、それでいて見逃せないという商品を紹介しよう。今回紹介するのは世界中のカードモデルデザイナーの作品を売り買いできる、21世紀型カードモデルショップEcardmodelsでリリースとなった新製品、Luis P Igualada Paper Model の Albatros DVa だ。

lipm_albatros_dva_josef_mai-cover.jpg

表紙の写真は基本的にキットそのままだが、スピナーだけ再塗装しているようだ。飛行機の鼻先はどうしても目につくので、これは妥当な処理かもしれない。
「アルバトロス社」というと、「女子高生チェーンソー」とか「チアリーダー忍者」とかの、ぶっちゃけかなりアレな映画のビデオパッケージを多数配給しているアルバトロス・フィルム社を思い浮かべる読者も多いと思うが、もちろん関係ない。飛行機の方の「アルバトロス航空機会社」(Albatros-Flugzeugwerke GmbH)は1909年12月29日という、なんか年の瀬の忙しい時期に設立された会社。
アルバトロスは当初、フランスから購入したアントワネット機、ファルマン(ファルマンIII”ダブルデッカー”)機のライセンス生産を行っており、アルバトロスで制作されたアルバトロス・ファルマンはドイツ帝国陸軍に貸与されパイロットの訓練に使用された後に陸軍が購入し、「B1」の名でドイツ帝国陸軍最初の航空機となった(後のアルバトロスB1は別の機体)。
その後はドイツの航空機メーカーなら誰もが手を出すタウベ機の生産、さらにタウベを複葉にしたらわけわかんなくなったドッペル・タウベなんてものを生産して力をつけ、ファルマンIIIを改良したアルバトロスF-2は生産機5機のうち4機がブルガリア軍に買い取られ、それらは1912年10月16日にバルカン戦争でヨーロッパ初の航空作戦行動を行っている。

第一大戦中は天才ハインケル博士の設計したにしては意外と普通な飛行機、Bシリーズ、そして当時は珍しいモノコックボディのDシリーズで名を馳せ、開戦時830人の従業員は5000人まで増え終戦までに約1万機の航空機を生産した。
しかし、戦後はパッとせず、練習機「Lシリーズ」を何種類か少数生産した後、1931年に国策で新興のフォッケ=ウルフ社と合併。ぶっちゃけフォッケ=ウルフも当時はあんまりパッとしないメーカーだったが、短期間の間「フォッケ=ウルフ・アルバトロス」を名乗っただけで社名はなぜか「フォッケ=ウルフ」に戻りアルバトロスのブランドは消滅した。

合板モノコック構造(正確には縦貫材が機体前後方向に入っている「セミモノコック構造」)のDシリーズは「フォッカーの懲罰」として名高いフォッカー・アインデッカーに対抗してフランス軍が投入した新型機、ニューポール11がベルダン戦で猛威を振るい、今度はドイツ軍が懲罰されちゃってるのに対して初期型D1が投入され、その高性能で一世を風靡した。ドイツ軍はこの機で初めて「戦闘機隊」を編成している。
しかし、もちろん連合軍だってそれを超える機体をどんどん投入してくるんでアルバトロスD1も性能向上が求められ、視界を改善するために翼のレイアウトを微妙に変更したD2を経て翼の形状を改めたD3が開発されたが、D3は下翼がねじれて破損する事故が多発し、一時前線から下げられている。

さらなる性能向上が求められたためアルバトロスでは胴体形状を改め、減速ギヤ付きエンジンを装備(翼はD2と同じ)したD4を開発したが、こいつは振動が発生して使い物にならないのでキャンセルして、D4の胴体、D3の翼とエンジンを組み合わせたD5を戦場に送り出す。しかし、D3で問題になった翼の強度がそれを流用したD5でなんとなく治るはずもなく、D5もやっぱり翼の強度問題で悩まされた。ついでに軽量化したD4/D5胴体も強度的にヤバくて激しい機動はできず、アルバトロスD5に搭乗したドイツ帝国空軍のトップエース、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(レッドバロン)はこの機を『イギリス機に比べてまったく時代遅れで、途方もなく劣っており、この飛行機では何もすることができない』と酷評している(リヒトホーフェンは戦死時の乗機、フォッカー三葉機のイメージが強いが、実際には撃墜80機中約50機がアルバトロスD型での戦果)。
そこまで言われちゃ黙ってられないので、アルバトロスは構造を強化し、重くなった分をカバーするためにエンジンも強化したD5aを開発したが、構造的な不安は完全にはなくならなかったようだ。それでもD5、D5a併せて約2500機が生産され、第一次大戦末期の中央帝国側各国で終戦まで使用された。また、残余機の一部は戦後建国したポーランド軍でも使用されている。

今回、Luis P Igualada Paper Model はこの機体をすばらしいクオリティでキット化した。

lipm_albatros_dva_josef_mai_detailpag1.jpg lipm_albatros_dva_josef_mai_detailpag3.jpg

これは凄い! 第一次大戦機の機内をここまで再現したキットは、プラモデルでもそう数はないだろう。その分、組み立てにはテクニックが必要となりそうだが、第一次大戦機ファンなら是非挑戦してみたい。幸い、Ecardmodelsでの販売はダウンロードのみのデータ販売なのでいくらでも再挑戦が可能だし、いざとなればスケールアップするという手もある。このクオリティならスケールアップしても見劣りすることはないだろう。

lipm_albatros_dva_josef_mai_detailpag5.jpg lipm_albatros_dva_josef_mai_detailpag4.jpg

構成に負けず劣らず、さらに素晴らしいのがテクスチャのクオリティだ。ローゼンジパターンは当然のことながら、キャンバスの布目、骨組みに縫い付けた縫い目までもが書き込まれた翼、木目だけでなく痛みや汚れまで再現された胴体の美しさは目を見張るばかりだ。なお、機体塗装は30機撃墜のヨーゼフ・マイ(Josef Mai)。マイは1918年8月19日、1日で英軍機3機を撃墜(F.2bx2、S.E.5ax1)を撃墜しておりブルーマックス勲章にも推されていたが授与される前に戦争が終わった。マイはフォッカーD7を斜めの白黒に塗り分けた「ゼブラ塗装」も有名。

Luis P Igualada Paper Model の Albatros DVa は空モノ標準スケール33分の1でのリリース。難易度は5段階評価の「4」(難しい)、Ecardmodelsでの定価は9ドルとなっている。
アルバトロス機はWAKからD3、ModelikからD5が過去にリリースされており、現在でも手に入りやすいので作り比べてみるのもおもしろそうだ。
「Luis P Igualada」氏は個人のページを見つけることができなかったが、今後の作品から目を離すことのできない注目ブランドとなりそうだ。

2018年もよろしくお願いいたします。

画像はEcardmodelsからの引用。

https://www.ecardmodels.com/index.php/1-33-albatros-dva-vfw-josef-mai-jasta-5-paper-model.html
商品直リン


参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルバトロス_(航空機メーカー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルバトロス_D.V
それぞれの英語、ドイツ語のページも参考とした。

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_victories_of_Manfred_von_Richthofen
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの戦果一覧

http://www.theaerodrome.com/aces/germany/mai.php
ヨーゼフ・マイの戦果一覧

テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

ポーランド 観測ロケット ”METEOR-2” 各種・後編

クリスマスなのをいいことに、動物ビスケットを食べすぎてちょいと胴回りの苦しい筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。先週に引き続き、ポーランドのブランド、WEKTORからの新製品、ポーランド 観測ロケット METEOR-2の紹介。

Meteor 2-07 01

ロケット花火なんだかロケット弾なんだか、ちょいと宇宙ロケットというには苦しい感じの試作ロケット打ち上げで経験を積んだポーランド宇宙飛行協会は、次なる段階として「METEOR-1」(全長2.5メートル、重さ13.5キロ)の打ち上げ実験に着手する。
1963年(日付不明)、長さ4メートルの移動式ランチャーに載せられたMETEOR-1は2.3秒の燃焼で秒速1100メートルまで加速され、先頭部分を切り離した(先頭部分は推進力がないので2段式ではない)。切り離された先頭部分は発射から80秒後に弾道飛行の頂点でタイマーが作動しチャフ(金属製の小片の束)を放出する。これをレーダーで補足した結果、最高高度は36.5キロに達していた。ポーランドは世界で6番目にこの高度へのロケット打ち上げに成功した国となった。
その後もMETEOR-1の発射実験は続けられたが、いよいよブウェンドゥフ砂漠では手狭となったため、1967年に発射場はバルト海に面したウェバ(Łeba)に移された。発射場となった荒れ地はもともとドイツ軍がロケット砲の発射実験を行うつもりで整備していた場所で、ドイツ軍が建設したバンカーが残っていたそうだ。なお、資料によってはMETEOR-1打ち上げの時点で発射場はウェバに移動している。
1968年には、より大型化した「METEOR-2H」(全長4.3メートル、重さ126キロ)が開発された。METEOR-2Hは18秒間燃焼し、高度68キロに到達した。

今回、WEKTORから発売されたMETEOR-2のキットは3種類だが、そのうちの一つ、青い塗装の7番がこのMETEOR-2Hである。
それでは、ポーランド国産ロケットMETEOR-2Hの勇姿を公式ページの完成見本写真で見てみよう。

Meteor 2-07 02 Meteor 2-07 04 Meteor 2-07 05

まぁ、高度60キロに届くとは言っても固形燃料だから、基本的には「カチューシャ」なんかのロケット弾を大きくしたようなもんで、キットも複雑な構造ではない。
なお、「7番」となっているが、METEOR-2Hの打ち上げリストには6機しか打ち上げが記載されておらず、たぶん打ち上げ失敗した機体があるのだと思うが詳しいことはわからなかった。また、METEOR-2Hは資料に打ち上げ日時が詳しく記載されておらず、7番の打ち上げの日付も不明。

1970年、これまでのMETEORの打ち上げ成果を結集させたロケット、METEOR-2Kが完成する。これは1機のMETEOR-2Hの両脇にブースターとして2機のMETEOR-1を配置したものだった。
METEOR-1、METEOR-2Hの点火は同時で、2.3秒間の燃焼で高度440メートルに達したところで2機のMETEOR-1ブースターを切り離し、そこからダッシュして打ち上げ18秒後に燃焼終了。この時点で速度は秒速1540メートルに達しており、弾道軌道の頂点でチャフを放出、同時に切り離された観測機(ラジオゾンデ)はパラシュートで回収される。
1970年7月19日に打ち上げられたMETEOR-2Kは高度90キロを記録。これは前述の通りチャフを観測して得た数字であり、非公式ながらロケット本体は宇宙の底である高度100キロに到達していると考えられた。ついにポーランドのロケット開発は、人工衛星に手が届くところまで到達したのだ。

Meteor 2-08 01  Meteor 2-08 02 Meteor 2-08 04

同じくWEKTORからリリースされた赤塗装の8番。こちらはMETEOR-2K。ブースターがある分、METEOR-2Hより構造は複雑だ。中央のロケットに干渉しないようにブースターのノズルが外側に向けられていることがわかる。ところでこの表紙絵、ブースター切り離さずに宇宙まで行っちゃってるのはいくらなんでも誇大表現だろう。

Meteor 2-10 01

続いて同時リリースの黄色+赤塗装の10番。細部写真は色以外8番と同じ過ぎなんで省略。

Meteor 2-07 06

7番、8番、10番を並べるとこんな感じ。METEOR-2Kはブースターを横に配置する都合で、正面を45度ずらしている(「METEOR」のロゴを手前に向けると、羽根が斜めを向く)ことがわかる。ブースターの先端が斜めに整形されているのは、切り離した後で空気抵抗で自然と2段目から離れるようにという意図だろうか。
なお、METEOR-2Kは打ち上げリストに4機しかないので、6機も失敗したのでなければ番号はMETEOR-2HとMETEOR-2Kの通し番号のようだ。だとすれば、7番はMETEOR-2H最後の打ち上げ、8番はMETEOR-2K最初の打ち上げ(1970年7月10日)ということになる。無難に考えれば10番はそれより2つ後の打ち上げ、ということになるが、次の打ち上げがMETEOR-2K最高高度を記録した打ち上げなので、9番は欠番か、あるいは打ち上げに失敗しており、最高高度記録を出した10番が模型化された、というのもあり得ると思うのだがどうだろうか。
ちなみにポーランドはMETEOR-2Kと同時に、METEOR-1を2基縦につなげたMETEOR-3の打ち上げ実験も行っている(もちろん、1段目を切り離してから2段目に点火する)。こちらは最高到達高度65キロだった。

METEORロケットは性能的に、日本が1950年代終盤から打ち上げを開始したカッパロケット(「河童」ではなくて、ギリシャアルファベットの「カッパ」)に近い。もちろん、まだ解決しなければならない問題は多いが、日本がカッパロケットの後継機、ラムダロケットで人工衛星の打ち上げに成功(1970年2月11日)したことを考えれば、ポーランドもMETEORの次の世代のロケットで人工衛星の軌道投入に成功していた可能性はかなり高かったと言えるだろう。
たいていの国では宇宙ロケットは大陸間弾道弾の副産物として開発される。日本は、純粋な学術目的として宇宙ロケットを開発した極めて珍しい例である。ポーランドもそうなるはずだったが、そうはならなかった。

1970年代、ポーランドの宇宙開発は急に予算不足となり、そのまま打ち切りとなった。突然に予算が減った理由ははっきりとはわからない。器用にソビエトとのパワーバランスを操作していたゴムウカが失脚したことと関係があるのかも知れない。一説にはソビエトが共産圏の自国以外がロケット技術を持つことを嫌ったのだとも言う。
これ以降現在に至るまでポーランドは国産ロケットを打ち上げていない。
後に共産圏の人民を次々に宇宙へ送り込んだソビエトのインター・コスモス計画によってミロスワフ・ヘルマシェフスキ(Mirosław Hermaszewski)が1978年にソユーズロケットで飛んだのが、ポーランド人の最初で最後の宇宙飛行である。

WEKTORからリリースされた、ポーランド国産観測ロケット METEOR-2 は10分の1スケールで完成全長約45センチの堂々たるサイズ。難易度表記はないが、まぁ5段階評価の「2」(易しい)ってところじゃないだろうか。定価は7番、8番、10番、全て12ポーランドズロチ(約400円)とお手軽価格となっている。全部値段同じだったら2段式の8番、10番がさらにお買い得か。

なお、METEOR-2は以前にOrlikからもリリースされている。WEKTOR、Orlikの両キットを作り比べてタッチの違いを体感するのもおもしろそうだ。

0be6e929f626b75ef24ac2e5aeb447b6image.jpg

こちらはスケール15分の1だが、5番、7番の2基が組み立てられるようだ。定価は15ズロチ(約500円)。こちらもまたスペック無視して元気よく宇宙まで飛び出しているが、せめて表紙絵では国産ロケットを衛生軌道まで到達させてやりたいという無念の気持ちの現れだと思えば、これも全然有りな表現だと言えるだろう。
ポーランドロケットファンのモデラーなら、METEOR-2各種が手に入るこの機会を見逃すべきではないだろう。



画像はWEKTOR、Orlikそれぞれの公式サイトから引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。


参考ページ:
http://www2a.biglobe.ne.jp/~mizuki/lifelog/7.htm
旧共産圏のテクノロジーについて詳しい「航天機構」のサイトから、雑記のページの過去ログ。多分、日本で一番詳しくポーランドの宇宙開発の経緯が書かれている。

https://historiamniejznanaizapomniana.wordpress.com/2015/10/09/proby-podboju-kosmosu-przez-polske/
ポーランドの歴史についてのサイトから、ポーランドの宇宙開発について。当然、とても詳しい。貴重な図版も多い。

http://www.astronautix.com/p/poland.html
世界中のロケット打ち上げに関するデータベースからポーランドのページ。打ち上げデータとロケットのスペックはここからの引用。

https://ja.wikipedia.org/wiki/メテオ_(ロケット)
https://pl.wikipedia.org/wiki/Jacek_Walczewski
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の宇宙開発
それぞれポーランド語、英語、日本語版を参考とした。

テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

ポーランド 観測ロケット ”METEOR-2” 各種・前編

祝! 金井宣茂飛行士、無事宇宙へ!
バイコヌールからのソユーズMS-7打ち上げをしっかりライブ中継で拝見させていただいた筆者お送りする世界のカードモデル最新ぐらいの情報。本日はもう何度目かわからないが、またもや日本人宇宙飛行士が無事宇宙へ出発したことを祝し、ポーランドのブランド、WEKTORから宇宙ネタの新製品、ポーランド 観測ロケット METEOR-2 だ。

Meteor 2-07 01

東欧カードモデル情報に詳しい読者ならこの画像を見て、「あ、これってチェコのホビー誌『ABC』が付録のペーパークラフトで展開してるSFレースマシンシリーズ、『アストロ・レーサー』関連のアイテムでしょ!」と思うかもしれないが、あっちは架空の機体、こっちは実在の機体である。それはそれとして、アストロ・レーサーの機体もカッチョイイんで一冊にまとめてリリースしてくれないもんだろうか。

WEKTORのキット紹介は2015年11月の「レベデンコ」以来だから、なんと2年ぶりの登場。別にこの間、WEKTORがリリースをサボっていたわけではなくて、筆者が紹介をサボっていただけだ。この2年の間にWEKTORからはSu-7、Su-9(両方ともスホーイ復活後の2代目)、ポーランドの灯台などがリリースされていたのだが、どういうわけか途中からラインナップが「お菓子の家」とか「小人さんの家」などになってしまって、どうしたものやらと思っているうちに2年たってしまった。ちなみにお菓子の家と小人さんの家はこんな感じのキットだ。

chatka z piernika 01 chatka z piernika 06
Domek krasnoludkow 01[1] Domek krasnoludkow 06

わーい。

ちなみにWEKTORからは他にもアストロ・レーサー風の宇宙戦闘機、「アルゼン7(ARSEN-7 )」もリリースとなっている。

ARSEN 7 01 ARSEN 7 06

うむ。カッチョ良い。一件、X-ウィング風だが内翼を設けてソーラーパネルを配置しているのがおもしろい。長距離巡航飛行も考慮しているのだろうか。
ちなみにお値段はお菓子の家が12ポーランドズロチ(約400円)、小人さんの家が10ズロチ(約350円)、アルゼン7が25ズロチ(約800円)となっている。いずれもイージーキットなので、小さいお子さんをもつパパ・ママさんモデラーなら、これらのキットをクリスマスプレゼントに送ることでお子さんを今から東欧式カードモデラーに誘導するのもいいだろう。
そんなわけでしばらく続いた架空アイテムに紛れてしまったせいで余計に架空のロケットっぽいMETEOR-2だが、前述の通り実在のロケットである。

今回の話は1956年から始まる。この年6月、共産主義政権に対する反発からポズナンで暴動が発生、ポーランド軍が投入されおよそ100名を超える死者が発生するなどポズナンは内戦状態に陥った。
もちろん、ソビエトが衛星国のそんな状態を放っておくわけがなくソビエト軍の進駐が検討されたが、ポーランド政府は失策を認め以前に「右翼的すぎる」として公職から追放していたヴワディスワフ・ゴムウカ(Władysław Gomułka。日本語表記では「ゴムルカ」とも)を第一書記に就任させる。ゴムウカはポーランドが持つ「共産主義の防波堤」としての役割を強調しつつ、教会弾圧の停止や検閲の緩和、集団農場の廃止などの改革案を実施する危険な綱渡りによりソビエト軍の介入を防ぎきった。
同時期にハンガリーではソビエト軍が介入(ハンガリー動乱)し、数千から1万数千の死者を出しているのに比べれば、ポーランドはこのバランスゲームに勝利したと言っても過言ではないだろう(皮肉にもゴムウカ自身が後に圧制者となり、1970年代に労働運動により失脚している)。

さて、1956年のゴムウカの改革は軍にも及び、ポーランド国防相であったソビエト軍人コンスタンチン・ロコソフスキー(「バグラチオン作戦」でミンスクを解放した将軍。ポーランド系だった)が内乱の責任もあって帰国し、ポーランド軍の指揮権がポーランド政府に返還された。同時にそれまで軍の上層部にいたロシア人将校も職を解かれ、ポーランド人が代わりに就任する。
これにより自由裁量権を得たポーランド空軍研究部門がぶちあげた目標が、「宇宙ロケットを作ろう」だった。
んんんん~?? なぜそうなる???
いや、もちろんポーランド空軍が全力をあげて宇宙ロケットを作るわけじゃないだろうが、もっと他にやるべき事はなかったんだろうか。一応、名目上の目的は「西側の核実験で待機中に放出された放射性物質を観測するため」だったが、それなら気球でいいんじゃないだろうか(「ポーランドの星」みたいなさ)。

時を同じくして「Polskie Towarzystwo Astronautyczne」(ポーランド宇宙飛行協会、略すと「PTA」)が設立され、ポーランドの誇る名だたる物理学者、数学者がこれに名を連ねた。そして、ポーランドのロケット開発はPTAクラクフ支部のヤツェク・ヴァルチェフスキ(Jacek Walczewski)教授が牽引していくこととなる。ちなみにヴァルチェフスキ教授の兄、マレック・ヴァルチェフスキ(Marek Walczewski)は50本以上の映画に出演した映画俳優で、弟のヤツェクも詩を書き絵を描く芸術家肌の人物であった。

ヴァルチェフスキ教授は1956年に一時的に西側への出国制限が緩和された折に西ドイツのオイゲン・ゼンガー博士(大戦中、ドイツで成層圏スキップ爆撃機を構想した宇宙工学の権威)を訪ねたことがあり、その際に「ロケット開発は大学の研究室が中心となるのがいいよ。例えば、日本のやり方は興味深いね」と助言を受けている(日本はその前年1955年に、東京大学生産技術研究所の主導で戦後初のロケット「ペンシルロケット」(全長23センチ、重さ200グラム)の打ち上げ実験を行っている)。これは、ドイツのロケット開発が結局は軍に支配され、最終的にV2ロケットの開発に集約されたことへの反省があったのかもしれない。

1957年、ゼンガーの助言に従いAGH科学技術大学(Akademia Górniczo-Hutnicza im. Stanisława Staszica w Krakowie)にロケットモーターの研究室が作られた。ポーランドの宇宙開発はこれ以降、軍の支援を受けつつもこの研究室が中心となって進められていく。ヴァルチェフスキの最終目標はもちろん、国産人工衛星の自力打ち上げであった。

ロケットの燃焼実験はポーランド南部のブウェンドゥフ砂漠(Pustynia Błędowska 実際には「砂漠」というよりは「荒野」。中世に採鉱のために森林が伐採され、地下水を組み上げすぎたことで荒廃した。近年は緑化が進んでいる)で始まった。
1958年10月10日、初の打ち上げ実験で試作ロケット1号機、RM-1(全長80センチ、重さ5キロ。これは日本のペンシルロケットより大きいが、その次の世代であるベビーロケットよりは小さい)は見事打ち上げに成功し、高度3キロに達した。ちなみに燃料は映画用フィルムのセルロイドに科学肥料と砂糖を混ぜたもので、マッチの頭を集めたものも使われたようだ。危険なので絶対にマネしてはいけない。

ロケットは次第に大型化、ハイパワー化され、1961年4月10日には2匹のネズミがロケットに搭載された。この実験は歯科医の提案によるもので、当時高速の航空機のパイロットが飛行中に歯痛を訴えることがあったために、高負荷が歯にどのような影響を与えるのかを見るためだったそうだ。飛行前の数ヶ月、遠心分離機でみっちりと訓練を受けた2匹のネズミは1.5キロをロケットで飛行し、無事生還した。ちなみにこの日はガガーリンによる人類初の宇宙飛行の2日前であった。

(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
ジャンル : 趣味・実用

展開図公開中
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
プロフィール

のとっちょ

Author:のとっちょ
カードモデル初心者が苦闘するさまをご覧あれ。

検索フォーム
リンク(順不同、敬称略)
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード