オートジャイロの発明・後編

いよいよ関東も梅雨入り。雨の谷間に散歩に出かけ、立ち寄った公園で無駄にハッスルして鉄棒に両腕を突っ張り体を持ち上げた途端に肩がビキッとなってそのまま帰った筆者のお送りする世界のカードモデルにまつわるあれやこれや。今週は日曜出勤なので土曜更新でオートジャイロの発明第三回、最終回にしてついにオートジャイロの登場だ。

失速しても墜落しない夢の飛行機実現のために「回転翼」のアイデアを思いついたフアン・デ・ラ・シエルバは1920年8月27日にスペイン特許第74,322号を取得、資金も調達していよいよ回転翼機の制作に挑む。が、いくらシエルバが天才的航空エンジニアだったとは言え、新しい種類の航空機を作ったぜ! 完成したぜ! 飛んだぜ! とはいかなかった。

前回も説明した通り、揚力は翼に空気が当たって発生する。そして、その力の強さは当たる空気の速度に比例する。抵抗のことを考えなきゃ、速い飛行機ほど小さい翼で飛べるわけだ。だからすごく速度が速いF-104なんかは心配になるぐらい翼が小さい。
回転翼の場合、ローターがその場で回るだけなら問題ないのだが、オートジャイロのローターは前進することでローターに空気の流れが当たって回転し、揚力を産む。
そのため、後ろから前へ羽根が向かう回転の半分ではローターの羽根に「回転+前進」の空気が当たり、前から後ろへ向かう半分ではローターの羽根に「回転-前進」の空気しか当たらない。
そのため、なにも考えずに回転翼を回しながら前進すると左右で発生する揚力が非対称となり、ローターが揚力を発生した途端に機体が横転することになる。

もちろん、フアンがそんな事に気づかなかったわけがない。
そのため、試作オートジャイロ1号、C-1(SPAD機の胴体の上に回転翼をつけた)は揚力の非対称性を相殺するためにロマン炸裂の2重反転ローターを装備していたが、試験飛行で揚力が発生すると機体は急激に傾き操縦不能となり離陸を断念せざるを得なかった。理由は簡単で、上のローターと、その気流を受ける下のローターでは発生する揚力が等しくなかったからだ。フアンは最初、上下のローターをリンクする機構で回転数を上下変化させてうまいことつじつまを合わせる事を考えたが、機構が複雑になるためにこれを断念せざるを得なかった。そんなもんが空中で呼称したらたちまち墜落だ。
二重反転ローターを諦めたフアンは続くC-2(胴体はアンリオ複葉機)、C-3(胴体はSommer単葉機)は単一ローターで制作した。非対称性を解消するためのアイデアは、ちょっと資料を読む限りではよくわからなかったのだが、どうも柔らかく長い羽根がしなることで揚力が調整されることを期待していたようだがこれは思い通りの効果を発揮せず、C-2、C-3とも地面をポヨンポヨン跳ねたりひっくり返ったり修理したりを繰り返していた。

調達した資金も残り少ない。どうすればこの問題を解決できるのか。解決のヒントを得られないまま、フアンは気晴らしにオペラ鑑賞へと出かけた。
演目はわからない(ミゲル・デ・セルバンテスの「ドン・キホーテ」だったかも知れない)が、とにかく風車の登場する演目であった。
フアンは大通具係がその風車を引っ込める際に、ヒンジで羽根を畳むのを見逃さなかった。
ヒンジで上に折り畳まれるように羽根をシャフトに取り付ければ、揚力の発生した羽根は上へ持ち上がる。つまり地面への投影面積が減る。そのため、機体を真上へ引っ張り上げる力も減る。逆に揚力が減ると、羽根は水平に戻る。そうすると、今度は機体を引っ張り上げる力が増す(遠心力の影響で水平になろうとする力も働く)。
これなら、強すぎる揚力が打ち消され、左右非対称も解消されるに違いないとフアンは確信した。なんとも単純で、そんな単純なことでいいのか、と思うのだが、ものは試しだ。
ヒンジを装備したC-4(胴体はC-3のものを流用したらしい)は1922年春に完成。ヒンジの仕掛けは見事に効果を発揮し、フアンの回転翼機はついに飛行に成功した。しかし、フアンは焦らず慌てずさらに細かい問題点を修正、機構を洗練し1923年1月、公開実験を行う。
この実験でC-4は危なげなく約200メートルを飛行。ついに世界初の実用回転翼機「オートジャイロ」が誕生した瞬間であった。
さらに数日後の試験ではエンジンが空中で故障、あわや、というシーンだったがC-4は回転翼を回しながら軟着陸を果たし、フアンの夢見た「失速しても安全な航空機」であることを立証する。

「新しい航空機」の誕生に、世界が飛びついた。
イギリス、フランス、ドイツ、日本、ソビエトなどが次々にフアンの制作したオートジャイロを購入し、ライセンス生産を行った。
フアンも機構をさらに洗練し、共鳴などの問題を解決していく。
1928年にはC-8L4がロンドンからパリまで飛行し、世界で初めて英仏海峡を越えた回転翼機となった。
離着陸距離の短いオートジャイロは軍の観測機に最適で、海軍の小艦艇からの運用も考えられていた(1934年3月、スペイン海軍がCL-30で世界初の艦艇への回転翼機着陸に成功)。
フアンはさらに離着陸距離を縮めるために、C-19では離陸前にエンジンをローターにつないであらかじめ回転させる機構を追加。もともとの出発地点は違ったが、ここまでくれば垂直離着陸できる「ヘリコプター」の発明も目前であった。

しかし、物事を成し遂げるにはあまりにも時代が悪かった。
1936年7月、フランコ将軍がモロッコでクーデターを起こしスペイン内戦が始まる。
フアンはファシスト軍の支援者であった。これには保守派政治家であった父親の影響もあったのだろう。フアンはオートジャイロの販売で培ったコネクションを活かし、蜂起したファシスト軍をスペイン本土へと運ぶための航空機の手配に奔走する。
そのさなかの1936年12月9日、イギリスのクロイドン空港から搭乗したオランダ行きDC-2が離陸直後に濃霧の中で機位を誤り民家の煙突に激突し墜落炎上。オートジャイロと回転翼の発明者、フアン・デ・ラ・シエルバはわずか41歳で死亡した。

内戦はスペインに深い傷跡を残した。保守政治家であったフアンの父は首都マドリードが共和国軍の支配地域となったためにノルウェー大使館に避難するもそのまま軟禁状態となり、1938年に健康を害し死亡。弟リカルドはフランスに脱出しようとしたが共和国軍に囚われ、パラクエジョスの虐殺で死亡している。
スペイン内戦に続く第二次世界大戦は航空工学の急速な発展をもたらし、終戦時にはすでに実用ヘリコプターが飛ばせるだけの軽量・強力なエンジンが実用化されていたために、中途半端な能力のオートジャイロが空の主流となることはなかった。
しかし、フアンが試行錯誤した回転翼の様々な基礎技術は現代のヘリコプターにも受け継がれており、フアン・デ・ラ・シエルバこそが全ての回転翼機の父であると言っても過言ではないだろう。
また、近年になって安全で手軽な空の乗り物としてオートジャイロを再評価する動きもあるようだ。もしかすると、自家用電動オートジャイロでちょっとそこまで買い物に、なんて未来はすぐ目前に迫っているのかも知れない。

最後に、カードモデル情報サイトらしくキットのことを少し。
シエルバの設計したオートジャイロのうち、イギリスのアブロやドイツのフォッケウルフでもライセンス生産された C-30が航空機キットを多数デジタルでリリースしているブランド「der Kampfflieger」から発売されている。

KMF_Cierva_C30_Avro_Rota_2.jpg KMF_Cierva_C30_Avro_Rota_5.jpg

写真はEcardmodelsからの引用。
スケールは48分の1と、カードモデルとしてはミニスケールだがオートジャイロの華奢な感じはよく出ていると言えるだろう。
der Kampffliegerでは上記アブロライセンス機やフォッケウルフライセンス機に加えて、ベルギー軍やスウェーデン軍、ユーゴスラビア軍など総計10種類のスキンが楽しめるマルチキットも12ドルで発売中。オートジャイロファンなら是非とも押さえておきたい一品だ。また、ModelArtからリリースされている最新オートジャイロ、ELA 07 "Cougar"と作り比べてみるのもおもしろそうだ。


参考ページ:
http://juandelaciervacodorniu.com/
フアン・デ・ラ・シエルバの偉業を讃え、レプリカ機の制作などを企画している財団。フアンの少年時代のエピソードは、ほぼここからの引用。

https://ja.wikipedia.org/wiki/フアン・デ・ラ・シエルバ
https://ja.wikipedia.org/wiki/オートジャイロ
それぞれの英語版、スペイン語版も参考とした。
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オートジャイロの発明・中編

ホームセンターに言ったら必ず買うものは? と聞かれたら「ボンド、木工用ボンド」と某英国エージェント風に言って憚らない割に、「ボンド」がコニシ株式会社の登録商標だということをつい最近知った筆者のお送りする世界のカードモデルにまつわる、ちょっとどうでもいい感じだけど筆者がすごく気になった話。
一週休みを挟んだが、今回はオートジャイロの話の続きだ。

前回、中高生で有人滑空機を作り上げ見事飛行を成し遂げるというホビー少年なら誰もが夢見る偉業を実現してみせたフアン・デ・ラ・シエルバ、ホセ・バカラ、パブロ・ディアスの空飛ぶわんぱく三人衆だったが、彼らの次の目標はすでに決まっていた。滑空機の次に目指すのは、もちろん動力飛行だ。
最大の問題はエンジンをどうするかだった。時は第一次大戦前、まだ車もオートバイもほいほいそこらを走ってる時代ではない。有力政治家だったフアンの父親は自動車を持っていたかもしれないが、さすがにそのエンジンを持っていっちゃたらマズい。
3人はなんとかしてエンジンを手に入れたいという思いを胸に、新たに整備された飛行場に日々通っていた。
そこではフランス人達がフランス機を操縦しており、熱心な3人は操縦士と打ち解け機体を見学させてもらっていた。
ある日、そのうちの一機(Sommer複葉機)が墜落する。操縦士は無事だったが、機体は破壊された。
飛行場の端に放置された残骸を見ていた3人は望んだものがそこにあるのを発見した。

フランス人飛行士からエンジンを譲り受けた3人は1912年、推進式複葉機「BCD-1」を完成させる。この機体は基本的にはエンジンの提供元となったSommer複葉機を踏襲したものであったが、各所に改良が加えられていた。名前の「BCD」というのは、もちろんこの飛行機を作り上げた3人の頭文字だ。
機体を覆う帆布に塗るドープ塗料が手に入らなかったために機体は間に合わせの赤一色で塗られ、それゆえ3人はこの機体を「蟹(カニ)」と呼んでいた。当時のスペインで赤いものと行ったら文句なしにカニだったのだろうか。カニカニどこカニ。
完成したBCD-1蟹号は飛行場へ運ばれ、見事に飛行した。立ち会ったフランス人飛行士に言わせると、ヘタすりゃ原型のSommer複葉機より性能良かったそうだ。基本設計はSommer複葉機の流用で完全オリジナルではないとは言え、経験豊富な設計士たちが寄ってたかってデザインしたのにまともに飛ばなかった飛行機だって後世にいっぱいあるんだから、これはやっぱり快挙と言っていいだろう。
前回のグライダーは写真が残されていないが、BCD-1は3人と一緒に写っている写真が残されており、一般的にはこの3人のティーンエイジャーが手探りで作り上げたBCD-1が、スペイン初の国産機とされている(異論もある)。
BCD-1は飛んだが、これは美しく輝く少年時代の最後の煌めきでもあった。
3人は大人になりそれぞれの道へと進む。
この物語にはこれ以降、ホセ・バカラとパブロ・ディアスの名は登場しない。

フアンは大学に進学したが、当時はまだ「航空工学」の学部がなかったので土木工学へと進んだ。
はなから建築技師になるつもりのなかったフアンだったが、大学で数学の理論を学んだことは、彼の観察と直感で成り立っていた設計に理論的な裏付けを与えることとなった。
1919年、大学を卒業したフアンはいよいよ本格的に航空設計士としてのキャリアを始めるために、まず手始めに軍の爆撃機トライアルに応募することとした。

フアンは資金を集めイスパノ・スイザ220馬力エンジン3発の大型機を完成させる。この機体はおそらくスペイン初の国産三発機であり、当時スペイン最大の機体であった。
軍の飛行場に持ち込まれたこの大型機をテストするのはフリオ・リオス(Julio Ríos Angüeso)。リオスは1913年11月13日、スペイン領モロッコでファルマン機を駆って反乱軍陣地を偵察したことがあり、その際に射撃を受け重傷を負いながらも基地まで帰り着き機体を無事着陸させた世界空戦史での極初期の空の英雄であった。
しかし、彼には大型機の操縦経験はなかったし、さらに試験するフアンの三発機はスペインにそれまでなかった大型機である。
1919年6月、フリオ・リオスは2度めの試験飛行で機体を大きくバンクさせ、小型機のような急なターンに入ってしまった。
三発の大型機でそんな挙動ができるはずがない。たちまち失速し、試験機は墜落した。
幸い、リオスに大きな怪我はなかったが機体は失われ、資金の尽きたフアンは再度試験機を制作することはできなかった。
ついでにスペイン国産機の試みも、これ以降どっか行ってしまう。

苦労して作ったグライダーは弟のリカルドが失速させて墜落大破した。そして、今度は本格的な航空機制作第一号となるはずの試作3発機が軍のパイロットのミスで失速、墜落大破した。
普通なら、ザケンナコンチクショーとなるところだが、いや、少しはなったかも知れないが、これらの事故、そして航空史に延々と連なる墜落死した飛行家達の墓標がフアンに一つの大きな課題を与えた。
「なんとかして、失速しても安全に着陸できる飛行機を作ることはできないだろうか」

この発想から辿り着いた結論が「回転翼」であった。
飛行機は翼に風が当たって揚力を産む。
しかし、何らかの原因で翼に当たる風の速度が落ちすぎると揚力が足りなくなって飛行機は落ちる。それでも飛んでりゃ苦労しない。
そこで、垂直に立てた中心軸に何枚も細い翼を取り付け、これを回転するようにする。
そうすると、機体速度が落ちすぎて落下を始めても、下から風を受けた翼がくるくると回転することで翼から揚力が発生するというわけだ(もちろん、揚力が発生したら落下が遅くなり、翼の回転も遅くなって揚力が減少するので「落ちた勢いで昇って」いったりはしない)。やったぜ。
この回転翼に動力をつなげてブン回せば、前進しなくても上昇できる「ヘリコプター」になるが、フアンは別に「落ちない飛行機」が作りたかっただけなので、そっちへは進んでいかなかった。そっちへ進んでいった発明家達は、当時の重く非力なエンジンでは「どんなにブン回しても機体が持ち上がらない」という入り口でつまづいてその先へ進めなかったので、この割り切り方は結果として良かったと言えるだろう。
(後編に続く)


参考ページは後編にまとめて掲載予定。

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オートジャイロの発明・前編

ホビーショーの熱気も落ち着き、モデラーにとっての新年度がスタート。熱意にうなされているうちに勢いで新しいキットをいくつかホッチキスを外してしまい、ようやく落ち着いてから途中のプロジェクトを終わらせなければ、と慌てて軌道修正中の筆者がお送りする世界のカードモデル情報。前回「話が長くなるので今回は触れないでおこう」と書いたオートジャイロの歴史だが、やっぱりオモシロ過ぎるで今回から3回に分けて紹介していきたい。
まずは、念のために「オートジャイロ」という機種の説明から。

800px-Paris_Air_Show_1934_Cierva.jpg

いきなりだが、写真はWikipediaからの引用で1934年、パリ航空ショー(後ろの建物に「SALON DE L'AVION」の文字が見える)でデモ飛行を行うオートジャイロ。
一見、ヘリみたいにローターで垂直に飛び上がって飛行機みたいにプロペラで前進する、分業制オスプレイみたいに見えるオートジャイロだが、実際にはこのローターは動力につながっていないので垂直上昇はできない。動力につながっていないなら、これどうやって回るのかというと、プロペラで前進すると風が当たってクルクル回る。そうするとヘリコプターみたいに機体を上に引っ張り上げる力(揚力)が発生して飛ぶ。
そんなんで飛ぶんかいな、とも思うのだが、そんなんで飛ぶのだ。
オートジャイロの利点は飛行機よりも離着陸距離が短く、ヘリコプターよりも構造が単純(ローターが動力につながっておらず、操縦は尾翼で行うため)なこと。しかし、その構造上あまり巨大なものは作れず、積載能力でも飛行機、ヘリコプターにはかなわない。
この、不思議な感じの航空機を発明したのがスペインの航空エンジニア、フアン・デ・ラ・シエルバ(Juan de la Cierva y Codorníu)だ。

Juan_de_la_Cierva,_aeródromo_de_Lasarte,_1930

同じくWikipediaからの引用で1930年撮影のフアン。ゴーグルが横ちょに曲がってるのがお茶目。
名前のカナ表記で省略している「Codorníu」(コドーニュ)というのは母方の姓(スペイン人は基本的に両親の名字を継ぐ)で、フアンの母の父、つまり母方の祖父はリカルド・コドーニュ(Ricardo Codorníu)という人物で、スペインの森林資源の保護、再生に力を注いだ立派な人物であった。
なお、スペインワインのブランドに「コドーニュ」というのがありスペイン王室御用達の逸品として知られているが、ざっと確認した程度では2つのコドーニュ家が親戚関係にあるのかはちょっとわからなかった。
フアンの家計は母方だけでなく、息子と同じ名前の父ファン・デ・ラ・シエルバ(Juan de la Cierva y Peñafiel)もアルフォンソ13世統治下のスペイン王国で戦争大臣、開発大臣、財務大臣などを歴任した立派な人物であった。

1895年生まれのファンが8歳の時、海の向こうアメリカでライト兄弟が人類初の動力飛行に成功する。
フアン少年はこの新しい技術にたちまち夢中になり、近所のホセ・バカラ(José Barcala)、パブロ・ディアス(Pablo Díaz)と3人で小さな飛行クラブを結成し、模型飛行機の制作に熱中した。
1910年、スペインの空を初めて動力飛行機が飛んだ(たぶん、フランス機だろう)というニュースに触れた3人は居ても立ってもいられなくなり、一大プロジェクトをぶちあげる。
「人が乗れる飛行機を作ろう」
この時、最年長のディアスが17歳、他の2人はもう数年若かった。今で言う中学生程度だ。高校生と中学生が作った飛行機って、佐藤さとる御大の「わんぱく天国」か。

模型飛行機で自信を深めていた彼らは飛行機の制作自体には問題ないと思っていた。3人のメンバーのうちディアスの実家が木工職だったために労せず良質な木材を潤沢に入手できたし、工作機械も揃っている。
だが、彼らは「ぼくらは飛行機を作って、それに乗って飛ぶんだよ!」って言っても、大人たちはそんなことを絶対認めないだろうということを理解していた。うん。筆者だって止める。
そこで3人は、ディアスの実家、木工工場のガレージでこっそりとこの有人グライダーを完成させる。
1910年のある日(日付不詳)、彼らの手作りグライダーは近くの丘へと引っ張り出された。この作業を手伝ったのはフアンの弟のリカルドと、近所の子供達。子供達の大部分は飛行機模型の兄ちゃん達が作ったグライダーの見事な飛行を疑わなかったという。
記念スべき初飛行の操縦席にはフアンが座った(フアンが選ばれた理由はわからないが、単に3人の中で最も体重が軽かったのかもしれない。冒頭の貫禄のある写真ではちょっと想像できないが)。抜け目なく前後にスライドさせることができるよう設計されている椅子を調節し、フアンは重心位置を理想の位置に合わせる。
車輪のないグライダーは全力で走る少年たちが掴んだロープに引かれソリで草の上を滑走、ふわりと宙に浮いた。フアンの計算は完全だった。
高度は人の身長程度、記録がないのでわからないが距離だって人力(しかも子供)の牽引力ではたかが知れているので大した距離ではないだろう。だが、それは確かに飛んだのだ。フアンは理論ではなく、観察と試行錯誤でここまで到達したのだった。

彼らは無事着陸したグライダーを丘の上へ引っ張り上げ何度も飛行を行ったが、数回飛んだところで弟のリカルドがゴネ始めた。アンちゃん、おいらも飛びたいよ、と。リカルドはこの時11歳か12歳。兄の後ろにくっついて模型飛行機を一緒に飛ばしていたリカルドは自分にも飛行機は操縦できると言い張った。
ついに根負けしたフアンはリカルドに席を譲り、再度全員でロープを引く。
体重の軽いリカルドの乗ったグライダーはこれまでの記録を大きく越え、十メートル以上まで舞い上がった。これにはギャラリー一同大興奮。ついでに乗ってるリカルドまで大興奮して操縦桿を引きすぎたため機体は失速、墜落した。

グライダーはもちろん大破しリカルドは昏倒していたが、幸い骨折などの深刻なダメージはなかった。
フアンは両親に「自転車で転んじゃってさ」と言い訳したが、フアン達のクラブの偉業は近所に知れ渡っており、すぐバレた。
両親の反応は記録されていない。
(中編に続く)


参考ページは後編にまとめて掲載予定。

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無人航空機斯く戦えり・その7

そら豆の種まき時期を完全に間違え気落ちするも、その悔しさを糧にジャガイモ(2月末~3月始めに植え付け)を植えるために地面を掘り返している筆者と巡る無人航空機史。前回に引き続き、アメリカ陸軍の「ケタリング・バグ」空中魚雷の話。

完成したケタリング・バグは見た目はかなりアレな感じだったが、試験飛行は意外とうまくいった。まぁ、大抵の失敗飛行機も試験飛行だけはそこそこうまくいくもんだ(たまに試験飛行もうまくいかない飛行機もある)。
1918年、いよいよ陸軍高官を招いて画期的新兵器のお披露目が行われることとなった。
しかし、この飛行は立ち会った「アーノルド将軍」(資料には「General Arnold」としか書かれていないが、おそらく当時陸軍航空隊幹部だったヘンリー・”ハップ”・アーノルド (Henry Harley "Hap" Arnold)のことだろう。アーノルドは後に第二次大戦で陸軍航空隊司令官を努めたが、当時はまだ大佐)によると「急に動いたかと思ったら突然急上昇を始めた。600~800フィート(約200メートル)ほどでいきなりひっくり返り、高官たちの方へ突っ込んでくるように見えたもんだから、みんなで四方へ逃げた」という、散々な結果に終わった。

800px-Kettering-bug-1.jpg

Wikipediaからの引用で、エンジンを回して調整中と思われるケータリング・バグ。機体サイズが良く分かるが、この大きさなので爆薬は80キロしか詰めなかった。右端に爆音に耳をふさぐ軍人が写っている。後述の動画と周囲の人物が同一に見えるので撮影は1919年10月だと思われるが確証はない。軍人の前に立っている帽子の人物は、おそらく距離計測用の小プロペラをセットしているものと思われる。

「999回失敗しても、1回うまくいけばいい。それが発明家だ」と、含蓄のある名言を残しているケタリングは各部を調整し、2度めの試験を準備した。
2回目の試験飛行では、ケタリング・バグはうまいこと離陸後水平飛行に入ることができた。陸軍高官達は着地(墜落)の様子を見るために急いで自動車に飛び乗り、飛んでいく空中魚雷を追いかける。が、どういうわけか空中魚雷はだんだん進路を曲げ、ついに予定ルートを外れて市街の方へと向かってしまった。市街地に落ちたらヤバい。落ちることもヤバいが、ヘタすりゃ市民に紛れた某国のスパイが「ヤヴォール! こいつはダス・イッヒ・とんでもない秘密兵器だぞ! ザウアークラウト!」と、試作機を持っていってしまうかもしれない。そんなわけで必死に追跡するものの、市街外縁に沿うように飛ぶ空中魚雷を一行はついに見失ってしまった。

飛行距離から墜落地点を大まかに割り出し、回収チームが予想墜落地点へ向かうとそこにはケタリング・バグの残骸と、それを発見して興奮気味の農夫が待っていた。
農夫はてっきり通常の飛行機が落ちてきたものだと思い、飛行士を助けようとしたが、ところがどっこい、墜落地点をいくら探しても飛行士がいないではないか! これはなんたる超常現象! すぐさま学研の「ムー」に投稿だ!
なんとかして飛行爆弾の秘密を守らなければと思ったアーノルド将軍、追跡チームの中に偶然革ジャケットを着てゴーグルを持っている士官がいたのでこれ幸いと「彼がこの飛行機のパイロット。先にパラシュート脱出して助かっていたのさ!」とでっちあげた。
将軍によると、「幸いなことに、農夫が合衆国陸軍がまだパラシュートを配備していないということを知らなかったために、我々の機密は守られたのであった」とのこと。ちなみに世界で始めてパラシュートで航空機からの緊急脱出に成功したのは1922年10月20日のこと。アメリカ陸軍航空隊のハロルド・ハリス中尉(Harold R. Harris)が高度800メートルでの乗機の空中分解から生還している。それ以前はせいぜい観測気球からの脱出に使われる程度だった。

なんだかおかしな方向へ飛んでいったものの、ちゃんと飛んだのだからもう少し調整すれば、これはドイツ帝国軍を叩きのめす必殺兵器になるぞ、と踏んだ陸軍と政府はなんと2万機のケタリング・バグを発注したが、まぁ、大方の予想どうりにほどなくして戦争は終結した。終戦までに50機(Wikipediaでは45機)のケタリング・バグが完成しており、これらは試験飛行に使用されたようだ。
Youtubeで「Aerial Torpedo Tests 1919」と検索すると1919年10月に陸軍が行った試験の様子の動画を見ることができるが、まぁ、ぶっちゃけ2万機も作らなくて良かったね、という感じではある。特に滑走中に脱線しちゃった1機目なんかは、敵陣の前に見てる方の腹筋を破壊しかねない。しかし、動画終盤の飛行の様子を空撮で捉えた様はこの時期の無人機が危なっかしいながらもちゃんと飛んでいる貴重な映像と言えるだろう。組み立ての様子も興味深い。

さて、これまでカードモデル関係なく突き進んでいた当連載だが、ここへきてついにキットの登場だ。
ケタリング・バグをキット化したのはアメリカはアリゾナ州のブランド、Murph's Models

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Murph's Modelsのページから完成見本写真を引用。
まぁ、もとがヘニョいんで、どうしても模型もヘニョくなる。でも、なんか向かって右側の支柱から上翼が浮いてない?
特徴的な上反角もちょっと足りない気がするので、よりリアルなケタリング・バグを欲するモデラーならデジタル販売であることを生かして自分なりの修正を加えるといいだろう。小柄な機体なのでスケールは25分の1で完成全幅約20センチ。販売価格は3ドルとなっている。
極初期無人航空機ファンのモデラーなら、このキットを見逃すべきではないだろう。陸モノスケールでのリリースなので、フォード3トン戦車と並べてみるのもおもしろそうだ。

商品ページ直リン:
http://murphs-models.webs.com/kettering-bug-torpedo


おまけ。
アメリカ特許庁からもってきたスペリーの無人航空機特許(US1418605)。

US1418605-0.png US1418605-2.png

これを見ると、ターンテーブル上からの発進も考えていたようだ。どういうわけか、特許申請が1916年12月、特許取得が1922年6月となっているが、戦時中は軍の機密扱いになっていたのかもしれない。また、申請者はなぜか息子の方のローレンス・スペリーとなっている。



参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ケタリング・バグ
https://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・ケタリング
それぞれの英語ページも参考とした。

https://owlcation.com/humanities/World-War-1-History-The-Kettering-Bug-Worlds-First-Flying-Bomb
多くの教育関係者、研究者が寄稿している学術情報サイト「Owlcation」からケタリング・バグのページ。
https://owlcation.com/
Owlcationには興味深い歴史記事も多く、読み物としてもおすすめ。
(英語だが、平易な表現なので機械翻訳でも十分読める)

https://airandspace.si.edu/collection-objects/depalma-v-4-engine
スミソニアン博物館の収蔵品紹介ページ。デ=パルマエンジンの美しい写真が見られる。
http://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/198095/kettering-aerial-torpedo-bug/
国立空軍博物館のケータリング・バグのページ。スペック表がやたらと過大。

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無人航空機斯く戦えり・その6

開発室でインフルエンザ患者が続々と爆誕、いまや職場がバイオハザードな筆者がお送りする世界のカードモデル情報。すみません、書き出しはちょっと盛りました。そこまでヤバくはないです。
今回は、去年の年末に「カードモデル関係ないのに書きすぎちゃった。ごめんご☆(テヘペロ)」した無人航空機ネタの続きだ。
以前、一旦休止に入る時に「第一次大戦のネタを使い切って」みたいな事を書いたが、良く考えたら一番大事なネタを紹介するのを忘れていた。カーチス・スペリー飛行爆弾(第4回第5回)がコケまくってたアメリカが、並行して開発していた「ケタリング・バグ」空中魚雷である。

第4回で書いた通り、カーチス・スペリーの飛行爆弾はスペリーが熱烈に海軍に売り込んだために海軍主導で開発が進んでいたが、そうなるとオモロクないのが陸軍である。海軍が飛行爆弾を持つのなら、陸軍だって持ちたい。そういうわけで陸軍は著名な科学者、チャールズ・ケタリング(Charles Franklin Kettering)に「ケタリング先生……!! 無人飛行爆弾が作りたいです……」と話を持ちかけた。
ケタリングは生涯に300件の特許を取得した当時を代表する技術者で、自動車用セルモーターや電気式ヘッドライトなどの発明で自動車の発展への貢献が顕著であった。ちなみにセルモーターが発明される以前の自動車はクランクレバーを手で回してエンジン始動を行っていたがこれはメチャクチャ腕力が必要な上に、うっかり手を滑らせてラジエターグリルに顔を突っ込んだり、始動に失敗して跳ね返ってきたクランクレバーが腕や頭を強打して死亡する例が少なからずあった。昔の自動車はエンジンかけるだけで命がけだったのだ。
高級車ブランド「キャディラック」のチーフ・エンジニア、ヘンリー・リーランドが友人をこの事故で失っており(立ち往生していた女性ドライバーの車を助けてあげようとした際に跳ね返ったクランクが顔を打ったらしい)、リーランドの求めに応じてケタリングが開発したのが、バッテリーで回すセルモーターでエンジンを始動、走行中はそのモーターが発電機となってバッテリーに充電、さらに余った電気でヘッドライトを点灯させるという現在の車の電装系のもととなるシステムであった。

Charles_F_Kettering.jpg

Wikipediaからの引用でチャールズ・ケタリングと彼の発明したセルモーター。セルモーター発明時にはまだケタリングは40歳手前なので、この写真は後に撮られたものだろう。

陸軍からの依頼に応じたケタリングは陸軍の空中魚雷を、海軍のCS飛行爆弾よりも安価でポンポン発射できるシステムとして設計した。ボール紙の張り子に木を貼って組み立てられた機体はケタリングが経営権を持っていたDELCO(デイトン・エンジニアリング・ラボラトリーズ・コーポーレション)が戦争だ! 飛行機だ! と立ち上げた「デイトン=ライト社(Dayton-Wright)」で開発されている。社名の「ライト」というのは飛行機発明者であるライト兄弟のことで、同社には兄弟の弟の方、オービル・ライトがアドバイザーについていた(兄のウィルバー・ライトはすでに1912年に腸チフスで死亡している)。
飛行爆弾に搭載された2ストローク40馬力、V型4気筒エンジンはWikipediaには「フォード・モータースの既存のものを流用」と書いてあるが、スミソニアン博物館(ケータリング・バグのエンジン現物を所有している)の説明によると、このエンジンはフォードモータースのチーフ・エンジニアであるC・ハロルド・ウィルズ(Childe Harold Wills。ウィルズはフォードT型の駆動周りを設計している)が技術顧問を努めていた「デ・パルマ製造会社(De Palma Manufacturing Company)」で新たに設計されたものだったそうだ。フォードがこのような軽量エンジンを生産する理由が思い当たらないので、たぶんスミソニアンの説明が正しいのだろう。
ちなみにデ・パルマ製造会社はインディ500で優勝したこともあるレースドライバーのラルフ・デ・パルマ(Ralph de Palma)が1916年にデトロイトに設立した会社だが、なんか飽きちゃったのか1年ちょっとでデ・パルマはこの会社の責任者を辞めてしまった。
肝心の自動操縦装置だが、さすがのケタリングもこれはホイホイと設計することはできず(と、いうか同じものを発明し直してもしょうがない)、この部分は結局海軍で無人機を作っていたエルマー・スペリーに設計図を書いてもらった。
アメリカ最高の技術者ケタリングが指揮を取り、飛行機の発明者オービル・ライトが機体を監修、世界最大の自動車会社フォード・「モータースに関係ある人が関係ある会社で作られたエンジンを積み、世界をリードする自動操縦の権威エルマー・スペリーが設計した自動操縦で飛ぶのだから、この「バグ(虫)」と名付けられた空中魚雷は世界最高のものとなる! はずだった。

800px-KetteringAerialTorpedo.jpg

完成したもの。
写真はWikipediaからの引用(アメリカ国立空軍博物館に収蔵されている原寸大レプリカ)。
うーん……
まぁ、基本コンセプトが「安くてバンバン飛ばせる空中魚雷」だからこれでいいんだろうけど、なんというか、夏休みの工作感溢れる仕上がりだ。
ちなみにコストは1機400ドル(うち、エンジンが50ドル)だったそうで、カーチスJN-4”ジニー”の製造コストが1機5,465ドル(いつごろの値段かはわからない)だったから単純比較は乱暴だが、10分の1以下の値段で生産できたこととなる。
なお、いかにもぶっ壊れそうな主翼だが、回転計が計測した距離が設定した値になるとボルトが外れて主翼が脱落する(墜落する)構造になっていたので、これはこれでいいようだ。いかにも重そうな足回りはもちろん滑走用のドリーで、飛び立つときにはこれを地上へ置いていく。『当時、アメリカ陸軍に出入りしていた名古屋出身の日本人技術者がドリーに乗っているバグを見て、「まるでケッター(自転車)に乗った飛行機だぎゃー」と言ったことで、この飛行機は「ケッタリング(Kettaring)」と呼ばれるようになった』というウソ話をどこかに書こうと思ったのだが、場所がなかったのでやめておいたことを追記しておこう。

ところで英語版Wikipediaではスペックが射程121キロ(75マイル)、飛行速度時速80キロ(50マイル)になっているが、日本語版では飛行速度が時速193キロ(120マイル)というすごい数字になっている。130馬力エンジン積んだ ソッピース・キャメル戦闘機の最高時速が185キロだから、いくらバグが小さいとは言え193キロは過大な数字だろう(ただし、先述したアメリカ国立空軍博物館のページでも飛行速度が時速120マイルになっている)。

(その7に続く)

参考ページは第7回にまとめて記載予定。

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