無人航空機斯く戦えり・その2

引き続き無人航空機の歴史を辿る旅。終着地点は決めてるものの、そこへ辿りつくのに何回費やすかは未定。なので、おもしろ新商品きたら一時中断しますんであらかじめ御了承くださいな。

前回は無人航空機の誕生ということで、まさかの気球から話がスタートしたが、今回も前回に負けず劣らずプリミティブな飛行デバイスの話から。
動力飛行機の発明以前に人類が保有していた飛行技術には、気球以外に「凧」がある。お正月に上げるあれだ。凧はもともと無人なんで改て「無人航空機」って言うのも変だが、無人航空機の軍事利用、つまり凧の軍事利用というのもあながち無関係ではないので一応触れておきたい。とは言っても、巡航ミサイル方面に進んでいくつもりである当記事では、糸で繋がれている凧はあまり本筋ではないので簡単に済まそう。もちろん、凧で爆撃したらよっぽど長い糸じゃないとあげてる自分が吹っ飛んじゃうんで、凧の軍事利用ってのは偵察用だ。

忍者が大凧に乗って敵の城に忍び込み、無音のうちに大名の首を掻き切る……タツジン! なんてのはさすがに講談かニンジャ・スレイヤーでしかありえないんで割愛。
ちゃんとした記録に残っている凧の軍事利用に道を開いたのは、気象学者で、凧の権威でもあったウィリアム・エディー(William Abner Eddy)。「エディー」というのはなんかエドワードの愛称のようだが本名だ。
エディーは十文字に組み合わせた骨と、変形四角形の布で作る「ダイヤ凧」(お線香の「青雲」のCMでおなじみのやつ)の改善策の考案者(ダイヤ凧そのものは以前からあったが、ダイヤ凧同士のつなぎ方を工夫することによって長い尻尾を省き「連凧」として上げることを容易とした)で、この改良で特許を取得している(US646375)。
この改良により多数の凧をつないでより高高度まで上げることが可能となり、エディーの死の翌年のことではあるが、このダイヤ凧を10枚つなげた連凧で高度7,128 mという当時の凧の高度記録が作られている。

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Wikipediaにはウィリアム・エディー本人のいい写真がなかったんで、御令嬢のマーガレット・エディー嬢とダイヤ凧の写真(1895年撮影)を引用。いかにも19世紀のお嬢様らしい白いドレスとブーツ。凧が意外なほど大きいことがわかる。

エディーは1895年、機械的なタイマーでシャッターが落ちるようにしたカメラを凧に積み、アメリカ初の空中写真の撮影に成功している。なお、世界初の空中写真は1858年にフランスの写真家ナダール(Nadar)が気球から撮影、また、凧からの空中写真は、これまたフランスの写真家アルトゥール・バトゥ(Arthur Batut)が1889年に成功している。
1898年、米西戦争に従軍したエディーは多数の偵察写真を撮影しており、これは戦史上最も初期の空中偵察写真ということができるだろう。
ちなみにエディーは後(1908年)に、買い置きのアイスがたびたびなくなってしまう怪現象を解決するために自宅上空に凧を上げて写真を撮ったところ、勝手口からアイスを失敬しに上がり込んでいる二人組がバッチリ写真に収められていたという。なんだか、凧を上げるよりも先にすべきことがあったような気もするがそれはさておき、これは世界でもおそらく初めての「空から撮られた証拠写真」と言えるだろう。

さて、エディーが凧あげして写真をパチリという、なんだかのんびりしたことをしている間にライト兄弟は動力飛行を成功させ、時代は飛行機全盛期へと突入していく。
1914年、第一次大戦勃発。いよいよ戦場では風船や凧ではなく飛行機が用いられることとなるが、記録に残る限りでは、無人航空機の軍事活用を最初に思いついたのは英国空軍だった。
イギリス空軍は1916年、英国本土へと高高度侵入してくるツェッペリン飛行船に対し、地上から無線誘導で体当たりを仕掛ける無人航空機の開発を開始した。また、この機体は随伴機からの無線操縦で敵陣に突っ込ませる飛行爆弾としての運用も考えられていた。なんだか急に一気に本格的になったぞ。
このプロジェクトを率いたのが後に「無線誘導技術の父」と呼ばれることになるアーチボルド・ロウ(Archibald Montgomery Low)だった。

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「いかにも」といった感じのロウの写真(Wikipediaより引用)。出典は1920年のイギリスの科学雑誌らしい。

ロウは1888年生まれなので、プロジェクトを任された時はまだ30歳にもなっていない。
幼少のころロウは両親の都合で一時オーストラリアへ渡っており、そこでは各家庭に電話が備え付けられていることに大きな衝撃を受けたという。成長してからは10歳にもならないうちに自宅の実験室で発明、実験に打ち込み、悪臭やら爆発音やら煙やらが出るたびに両親は御近所の苦情に謝って回っていたようだ。偉大な科学者には偉大な両親が必要なのである。
11歳でロウはロンドンの名門、セント・ポールズ・スクールに入学するが、本人に言わせると「あんまりにも人がたくさんいて」うまく馴染めなかった。ロウの同級生に、後にイギリス軍機甲師団を率いてロンメルと戦うことになるバーナード・モントゴメリーがいたが、将軍の回想によると、「なんだかボンヤリしたやつ(rather dull)」だったらしい。
16歳でロウは中央技術学院(Central Technical College)へ進学。こちらはロウにとって本領を発揮できる場所で、在学中に様々なことに挑戦したロウは新型の製図板を開発し、これは商品化されている。

卒業したロウは叔父(あるいは伯父)の経営する「ロウ装飾・点火社(The Low Accessories and Ignition Company)」に入社した。この会社はエンジニア系の会社としては当時ロンドン市内で2番目に古い会社だったが、すでに運営は火の車だった。
だが、経営者のエドワードはロウ青年を規定の業務に縛り付けず、その奔放な発想・発明を支援し自由に開発をさせるという道を選んだ。その結果、ロウが次々に生み出す新しい機械、既存メカニズムの改善は会社の経営を次第に上向かせていったという。偉大な科学者には偉大な経営者も必要だ。
1914年には、ロウは電気信号で画像を転送する「テレ・ビスタ」の実験を公開している。言うまでもなく、これは後のテレビジョンへとつながっていく発明だが、使用したセレン受光器(写真機の露出計と同じ原理)は動画を電気信号に変換するにはあまりに感度が低く、あまりうまくいかなかったようだ。

第一次大戦の勃発でロウは軍に入隊、すでにテレ・ビスタの実験などで名前が知れていた彼は渡りに船とばかり、英国空軍の無線誘導無人機の開発部門へと送られた。

(その3に続く)

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Abner_Eddy
https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Low
その1との重複は省略。
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無人航空機斯く戦えり・その1

開発室の引っ越しで、来週から勤務地が田町になる筆者のお送りする、カードモデルに関係あったりなかったりする情報。今回から数回は、とあるキットについて確認しようとしてすっかり泥沼にはまった無人航空機開発史について、ネット上で拾い集めてきたにわか知識で語ろうという趣向だ。

いろいろと定義はあるが、軍用の無人航空機で最初に実用化に達したのは第2次大戦中にドイツが実戦で使用したフィーゼラー Fi103、別名V1飛行爆弾であったと言えるだろう。
では、実用化に達しなかった無人航空機には、どんなもんがあったんだろう。
記録に残っている最初の軍用無人航空機は、おそらく1863年2月24日に米国特許(US 37771 A)が取得されたチャールズ・パーリーの「風船爆弾」だろう。

US37771-0.jpg
画像はGoogleの特許検索から(データ提供: IFI CLAIMS Patent Services)。

1863年……1863年!? 日本で言えば文久年間、ペリーが浦賀に来てまだ10年の1863年???
そう、タイプミスではなく、本当に1863年である。
映画「SF巨大生物の島」は南軍に囚われた北軍兵士が気球で脱出するシーンから始まるが、アメリカでは1861年から始まった南北戦争で、北軍が「陸軍気球軍団(Union Army Balloon Corps)」というのを編成し、敵情や弾着を觀測するのに用いていた(気球が軍事用に使用されたのは1794年、フランス革命中にフランス陸軍が弾着觀測に用いたのが最初)。
これに目をつけたのがニューヨーク在住の発明家、チャールズ・パーリー(Charles Perley)だ。
当時の火砲は平射する野砲だと射程だいたい1.5キロ、山なりの弾道で砲弾を放り込む迫撃砲だともっと短くなる。
射程がこれしかないんでは、守りを固めた要塞に砲弾が届くまで火砲を引っ張っていこうとすれば目標まで1キロぐらいまで近づかなければならず、当然防御側の砲火、さらに一部の腕の良い狙撃手が装備していたライフル銃の狙撃に晒されることとなる。
そこで、パーリーは気球で目標を爆撃することを思いついた。
すなわち、攻撃側はまず目標の風上に陣取り、そこで爆弾を積んだ無人の気球をふくらませる。気球には時計仕掛けで底が開くバスケットが吊るされており、その中に積まれた爆弾がふわふわ~~~~ひゅー、どかん、と目標を破壊するというわけだ。やったぜ。
なぜ、人が乗った気球で敵の上まで行って爆弾を投げ落とすのではいけないのかと言うと、当時の気球は水素で浮力を得ているために当然被弾に弱く、敵の真上まで行っては到底生還は望めない。しかし、無人なら撃ち落としたところでやっぱり爆弾は爆発し、結局は敵に損害を与えるのだからどんどん撃ち落としてくださいな、というわけだ。
もちろん、過去にも似たようなことを思いついた発明家はいただろうが、きちんと文書に残っているのは、このチャールズ・パーリーの特許が最初だと思われる。

なお、このチャールズ・パーリーという人物、1840年台中盤から1860年台中盤にかけていくつか特許を取得しているが、詳しい人物伝は見つけられなかった。風船爆弾以外の特許には船舶関係の機器の改良が多く、港湾関係者だったのかもしれない。
スミソニアンのアメリカ・ナショナル・ミュージアムにはチャールズ・パーリーの「教会・学校用折りたたみ椅子」の特許模型が収められている。

リンク

「特許模型」というのは、アメリカ特許庁が特許申請の際に提出を義務付けていた縮小模型だが、後に特許の出願が多くなると特許庁の倉庫が大変なことになったので1880年に廃止された。
ちなみにアメリカの特許で検索をかけると1870年台にもチャールズ・A・パーリーという人物がいくつか特許を取っている。こちらの人物は特許取得時にはマサチューセッツ在住だが、上記の折りたたみ椅子に”C. Perely and Sons”と刻んであるので、おそらく息子なのだろう。

さて、パーリーの「風船爆弾」は戦争の様相を一変させ、空をふわふわと埋め尽くす無人気球からの爆撃で南部の都市は軒並み焼け野原となり、南部連邦大統領ジェファーソン・デイヴィスも「ほんとすんませんでした」と謝った、のかと言えばもちろんそんなことはなくて、「SF巨大生物の島」でも気球が嵐で流されてでっかいカニがいる島に漂着したことでもわかる通り、パーリーの風船爆弾は文字通り「風まかせ」という大きな欠点があった。
時計仕掛けの投下装置も、そのタイミングで敵上空に差し掛かっている保証はなく、ヘタすりゃ上げた途端に風がなくなってどうしようかと見上げてるうちに気球から爆弾がコンニチワ!することになる。それでも、風船爆弾は特許が取得された北軍、またそれを模倣した南軍によって少量が実戦で投入されたようだが、あまりはっきりとした資料はない。

(その2に続く)

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/北軍気球司令部

http://www.pbs.org/wgbh/nova/spiesfly/uavs.html
https://sites.google.com/site/uavuni/
無人航空機の歴史。今回の記事のネタ元。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・後編

前回までのあらすじ。
ノルウェー軍オスカシボルグ砲台を舐めプしていたドイツ軍重巡洋艦ブリュッヒャーは至近距離から命中弾を食らって大炎上中。

夜半にエリクソン大佐から呼び出されたアンデルセン臨時中佐(すでに13年前に退役して現在は年金生活中)は1909年から27年までこの魚雷陣地に勤務しており、発射装置については熟知していた。
しかし、問題は魚雷だった。40年前に製造されたオーストリア=ハンガリー帝国製ホワイトヘッド魚雷はこれまで合計して200回、訓練で発射、燃料(圧搾空気)切れ、回収、を繰り返してよく整備されていた。しかし、実際にその弾頭が作動するのかどうかは誰にもわからなかった。っていうか、魚雷って、そんなに繰り返し使うもんなんだろうか。
1940年4月9日4時30分。
アンデルセン中佐の目の前500メートルに炎上する重巡洋艦ブリュッヒャーがいた。
水面下3メートルまで沈められた魚雷が発進、最初の1発は中佐がブリュッヒャーの速度を速く見積もり過ぎていたために船体前部、A砲塔の下で爆発した。続く2発目では標準は修正されブリュッヒャーの船体中央に命中、船体隔壁を多数吹き飛ばした。

アンデルセン中佐は後続する艦艇に供えそれ以上の魚雷発射を控えたが、すでにブリュッヒャーの運命は決していた。
機関が停止し、漂流を始めたブリュッヒャーは座礁を防ぐために錨を降ろし、誘爆する前に全魚雷を陸地へ向けて発射したが5時30分、10.5センチ高角砲の弾薬庫に火が入り誘爆。船体側面が大きく裂けた上に艦の燃料に引火、さらに電源を喪失したために排水もできなくなり、もはや艦を救うことは不可能となった。
6時20分ごろブリュッヒャーは横転、艦首から沈み水面下に消えた。

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横転する重巡洋艦ブリュッヒャー。Wikipediaからの引用(この項キット表紙以外同じ)。
余談になるが、近代ドイツ海軍における「ブリュッヒャー」はこの船が2代目で、帝政ドイツ時代にもう一隻、装甲巡洋艦「SMSブリュッヒャー」という艦があるのだが、こちらの艦も1915年1月24日のドッガーバンク沖海戦で英軍艦隊の集中攻撃を受けて戦闘力を喪失した後、イギリス軍軽巡洋艦の雷撃を受けて横転沈没している。

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横転する装甲巡洋艦ブリュッヒャー。
偶然ながら、「ブリュッヒャー」は2代に渡って横転沈没する様が写真に収められた艦となった。

ブリュッヒャーの乗員とオスロ上陸要員の合計、約2200人のうち800人が犠牲となった(日本語版Wikipediaの「乗船していた2,202人の上陸部隊の内、830人が艦の火災や海に溺れ戦死した」という記述は上陸部隊と乗員の総計を混同しているものと思われる)。

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まだ冷たい5月の海から引き上げられた生存者。黒い服が海軍で、肩章襟章のついた少し明るいグレーの服が陸軍だろう。一番右の水兵、ほっとしたからって笑ってる場合じゃないぞ。

生存者(艦長と戦隊司令官含む)は全てノルウェー軍の捕虜となり近くの農場に集められたが、それを監視するような余分な兵力をノルウェー軍は持っていなかった。
夜18時30分、監視していたノルウェー軍が撤収。放ったらかしにされたドイツ軍は仕方ないのでみんなで負傷者を担いで歩いてオスロに行き、そこで病院に収容してもらった。

一方、ブリュッヒャーの後ろにいたリュッツォーその他はどうなったのかと言うと、ブリュッヒャーに水柱が立つのを見たリュッツォーはフィヨルドが機雷で封鎖されていると判断し後退。沿岸砲台の射程外から艦砲射撃を行ったがこれは命中しなかった。
4月9日の夜が明けるとドイツ空軍の空襲が始まる。要塞の対空戦力はわずかに40ミリボフォース砲2門(しかも1門は22発撃ったら故障した)と7門のコルトM29重機関銃(ブローニングM1917の輸出型)。これで世界最強のルフトヴァッフェを追い返せるはずもなく、9時間に渡る爆撃で要塞に対しておよそ200発の爆弾が投下されたが、どういうわけかこれまた一発も命中しなかった。

しかし、戦況はすでにノルウェーにとって致命的となりつつあった。各地でドイツ軍は上陸を成功させており、オスカシボルグ要塞にもオスロフィヨルド湾口に上陸したドイツ軍部隊が接近しつつあった。エリクセン大佐は寄せ集めの新兵では抵抗するだけ無駄と判断し、4月10に要塞を脱出。要塞はドイツ軍地上部隊によって無傷で占領された。同日、ドイツ軍オスロ占領。無防備都市になったオスロで薄ぼんやりしていたブリュッヒャー関係者も全員解放された。
オスカシボルグの戦いにおけるノルウェー側の損害はドイツ軍反撃の流れ弾による民間女性2名、うっかりドイツ軍掃海艇に近づいた紙運搬船の乗員2名(これも民間人)のみであったという。

オスカシボルグ要塞がオスロを守りきったのはたった1日だった。しかし、この貴重な1日の間にノルウェー王室、政府、議会はオスロを脱出。さらにオスロ中央銀行は備蓄してあった50トンの金の搬出に成功。それら全ては英国海軍によってイギリス本土へと送り届けられた。
さらに、ブリュッヒャーが沈没する際、事前に作成してあった軍政の計画、さらには逮捕すべき反動分子のリストなども失われており、ドイツ軍の占領政策は大きな遅れを取ったと言われている。

時は流れ1945年5月12日、ノルウェーを占領していたドイツ軍部隊が降伏。
オスカシボルグ要塞には40年4月9日に掲げられていたノルウェー国旗が再び掲揚された。
この式典にはエリクセン大佐も出席していたという。
戦後、エリクセン大佐は「要塞の放棄は早すぎたのではないか」との嫌疑をかけられ査問会が開かれたが、出された結論は当然ながら「まぁ、仕方ないよね」というもので無罪放免となった。大佐は1958年、82歳で死去。オスカシボルグのもう一人の老英雄、年金生活でブリュッヒャーを撃沈したアンデルセン中佐は1945年12月31日に亡くなっているが、同年12月13日の国王も列席した式典には出席しているので、なんらかの理由による急死だったようだ。

オスカシボルグ要塞は戦後さらなる改修を受け1990年頃まではオスロ防衛ラインに組み込まれていた。その後、砲兵士官学校となり2002年に6月28日に軍の施設としては閉鎖。要塞は博物館として整備され、現在は無料で公開されている。
2014年にドイツ軍のノルウェー侵攻とノルウェー軍の抵抗、そして国王の脱出を描いた映画「Kongens nei」撮影のために28センチ砲が実際に空砲を発射し、メディアは「1940年4月9日以来の発砲!」と書き立てたが、実際には50年代に試射が行われておりいささかこれはドラマチックな演出を狙いすぎたフカシ記事だったようだ。
さらに嬉しい情報。この「Kongens nei」、「ヒトラーに屈しなかった国王」の邦題で今年12月から日本で公開されることが決定(シネスイッチ銀座から、順次全国公開を予定)しているそうだ。ノルウェー軍ファンなら、大スクリーンでオスカシボルグ要塞の発砲が見られるこの機会を逃すべきではないだろう。

Google mapで見るオスカシボルグ要塞
特徴的な防盾付きの主砲が4門見えるが、よく見ると一番右側(リンクの地図は南北逆転しているので一番西側の1門)は砲身の短い30.5センチ砲。ストリートビューにも対応しているので、是非重砲の砲尾が並ぶ迫力を疑似体験していただきたい。

また、7月の段階では「近日発売」だったGPMの重巡ブリュッヒャーだが、8月になって定価が表示され販売が開始された。

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前編でも出したけども一回表紙。重巡といえども海モノ標準スケール200分の1で完成全長1メートルのビッグキット。難易度は意外にも3段階評価の「2」(普通)。定価は140ポーランドズロチ(約4600円)。また、手すりなど細い部品のディティールアップ用レーザーカット済パーツ、機銃座などの複数作成が必要な小部品のレーザーカット済パーツがそれぞれ140ズロチ(約4600円)、真鍮製砲身が50ズロチ(約1600円)で同時発売となる。
北欧作戦ファンのモデラーならこの冬は映画館に出向き、その余韻に浸りながらブリュッヒャーを製作するのもいいだろう。
GPMには是非とも200分の1オスカシボルグ要塞、もしくは25分の1オスカシボルグ28センチクルップ砲のキット化をお願いしたいところだ。



画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブリュッヒャー_(重巡洋艦)
https://en.wikipedia.org/wiki/Oscarsborg_Fortress
https://ja.wikipedia.org/wiki/オスロフィヨルドの戦い
https://en.wikipedia.org/wiki/Birger_Eriksen
https://no.wikipedia.org/wiki/Andreas_Anderssen
それぞれ、日本語、英語、ノルウェー語のページを参考とした。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・中編

前回までのあらすじ。
オスロ占領したるで! と意気込んだドイツ海軍第5ノルウェー上陸部隊は意気揚々とオスロフィヨルドを進んでいた。先頭を進むのは旗艦、重巡洋艦「ブリュッヒャー」。半年前に就航したピッカピカの新鋭艦だ。
対するオスカシボルグ要塞は100年前に建造された要塞で主砲は50年前のもの。司令官は定年前の爺様で、配置についた兵士は訓練前の新兵さん。
……ごめん。先週、「オスカー・クメッツ少将、なんにも考えないで前進ってちょっと不用心すぎじゃないすか?」みたいな調子で書いてしまったが、これで前進しなかったらその方が問題だわ。

さて、運命の1940年4月9日早朝04時21分(ノルウェー時間)、オスカシボルグ要塞司令官、エリクセン大佐はオスロに向かって粛々と進む艦隊に対し砲撃開始を命令したが、途端に聞き返された。
「え、本当に砲撃するんですか?」
この時点で艦隊の正体は依然として不明であった。もちろん、ドイツ軍である目算は非常に高いがもしかすると英軍が進出してきたのかもしれない。どちらにせよ総司令部との通信は混乱の中で途絶してしまい確認する手段はなかった。そもそも、軍の規定で沿岸砲台を発砲する時はまず警告として空砲を発射することとなっていた。
しかし、大佐は先頭の艦に標準を合わせ、装填されている榴弾を発射しろと言っている。
あと半年で定年を迎える老大佐は躊躇せず答えた。
「勲章を授与されるか軍法会議にかけられるか、2つに1つだ。撃て!(Enten blir jeg stilt for krigsrett , eller så blir jeg krigshelt. Fyr!)」

前回説明した通り、オスカシボルグの主砲は4門。うち3門の28センチ砲はそれぞれ旧約聖書から「モーセ」「アロン」「ヨシュア」と名付けられていた(もう一門の30.5センチ砲は「メトセラ」)。しかし、砲はあっても砲員がいなかった。集められた兵士(叩き起こされたコック含む)のうち砲の操作ができる者はかろうじて1門分しかおらず、やむを得ずそれらを2門に振り分け、新兵にそれを補佐させた。
サーチライトが点灯され、闇の中に浮かび上がる艦影に向けモーセ、もしくはアロン(はっきりしない)から第1弾が発射された。距離約1800メートル。このクラスの火砲にとっての1800メートルは近い。至近距離での撃ち合いとなり「舷舷相摩す」とまで言われた1905年の「日本海大海戦」でさえ、最も接近した彼我の距離約4000から5000メートルだった。その半分からの射撃だから、これはほとんど「接射」と言っていい。
ちゃんと整備された火砲なら、この距離で巡洋艦クラスの的を外すことはあり得ない。255キロの爆薬が充填された28センチ砲弾は1発でブリュッヒャーの砲撃指揮所を吹き飛ばした(予備の指揮所があるので砲撃不能になるわけではない)。
続いて2発目が発射され、今度は観測機格納庫側面を突き抜けて爆発。アラドAr196観測機と航空燃料が燃え上がり、装甲甲板を突き抜けた爆風が機関を損傷させる(1発目、2発目それぞれの命中箇所、効果については資料によってばらつきがある)。

突如被弾した2発の砲弾で燃え上がったブリュッヒャー艦上は混乱を極め、散発的な反撃は全て目標を飛び越しノルウェー側に損害を与えることができなかった。
やむを得ず、ブリュッヒャーが沿岸砲台をやり過ごそうと増速するのに対し、ノルウェー側は近隣の砲台から15センチ砲、57ミリ砲を撃ちかける(これらの火砲は、本来機雷原の掃海を妨害するためのものだったが、この時は機雷そのものが敷設されていなかった)。
13発の15センチ砲、30発の57ミリ砲を被弾しながらブリュッヒャーはオスカシボルグ主砲陣地の前を駆け抜けた。
滅多打ちはブリュッヒャーの消火作業を妨げ、さらに1発の15センチ砲弾が操舵装置を破壊し、ブリュッヒャーは左右のスクリューで進路を制御せざるを得ずさらに速度が低下した。
奇妙なことに、この時ノルウェーの砲員はブリュッヒャー乗員が「Deutschland, Deutschland über alles(ドイツ国歌の歌い出し)」と歌っているのを確かに聞いたという。
オスカシボルグ主砲28センチ砲は装填に手間取り、結局3発目は発射できなかった。

沿岸砲台の射界を抜けた時、ブリュッヒャーはひどく損傷していたが、まだ沈没に至るほどではなかった。
これで一息つける、とドイツ側は思ったに違いない。
だが、実は艦隊はオスカシボルグ要塞で最も威力のある装備の前に、今まさに差し掛かろうとしていた。
1898年から3年かけ、ノルウェー軍はオスカシボルグの北に魚雷発射装置を設置していた。魚雷陣地は3本の洞窟から構成されており、それぞれが2基の魚雷ラック(それぞれ1発を格納する)を持っている。魚雷を発射する時はこのラックを水面下までちゃぷんと降ろして魚雷を発進させ、もう1基と交代。予備の魚雷がもう一発準備してあるんで2発目を打ってる間に3発目を装填して、うまくいけば3発目を発射。合計で3x3の9発の魚雷が発射できる計算になる。
ドイツ軍情報部はどういうわけか、この存在をすっかり見落としていた。あるいは、知ってはいたが、どうせ大したことないから放っておこう、と思ったのかもしれない。
まぁ、それも仕方ない。なにしろこの魚雷陣地、建設された1900年にオーストリア=ハンガリー帝国からホワイトヘッド魚雷を購入した後、一度も装備の更新をしていないのだから。
しかも、この魚雷陣地の本来の指揮官は3月に健康を害して療養中で、代わりに指揮についていたのがアンドレアス・アンデルセン海軍中佐(Andreas Anderssen)。「中佐」といっても現役ではなくて、1927年にすでに除隊しており現在は年金で生活していた(1879年生まれ)。


(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・前編

カードモデルと関わりが深かったり関係なかったりする世界のマイナー物件を、今見てきた資料を元にドヤ顔で語るマイナーアイテム列伝、今回紹介するのは某幼女の戦記アニメ(第7話)で有名になったような気がしたけれども、気のせいだったノルウェー オスカシボルグ要塞だ。

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写真はWikipediaからの引用で、要塞主砲のクルップ28センチ砲。
恐竜を思わせる鋭角な防盾が特徴的。砲の前面はコンクリートの傾斜面となっており砲の下を隠しているので防御力は高そうだ。

なぜ唐突にノルウェーの要塞の話なんか始めたのかと言うと、ポーランドGPMの新製品、ドイツ重巡洋艦「ブリュッヒャー」の話をしようと思って下調べをしたのに、良く見たら新製品じゃなくて近日リリースの予告だったので急遽主役をブリュッヒャーから要塞の方に切り替えたからだ。

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GPM公式ページから表紙画像。左下の砲がオスカシブルグの28センチ砲。オスカシボルグ要塞の戦いは2016年のノルウェー映画「Kongens nei」(英語タイトル「The King's Choice」。日本未公開)で再現されおり、2016年から2017年にかけてはいつの間にか世界的に空前のオスカシボルグブームが来ていたと言えよう。

ノルウェーの首都、オスロは「オスロフィヨルド」という細い湾の奥に位置している。
首都を守るためにこの湾を封鎖する沿岸砲台を築こう、ってのは自然な流れで、オスロフィヨルドの狭隘部分に栓をするような形の島には17世紀ごろから何度か要塞が建造されていた。
現在の近代的要塞は1850年代に建造されたもので、完成時に当時ノルウェーを実質支配していたスウェーデンの王様(ノルウェー王兼任)オスカル一世が要塞を見に来たことを記念してオスカルの砦、「オスカシボルグ」と名付けられた。
19世紀後半以降の軍事技術の進化はめざましく、オスカシボルグも魚雷発射装置やドイツクルップ製新型後装ライフル砲の設置、コンクリートベトンによる強化などでいろいろと頑張ってみたものの、「沿岸砲台」という設備そのものが20世紀序盤にはすでに時代遅れとなりつつあった。

時は移って1939年、ドイツが北欧への侵攻を決定する。
ドイツは鉄鉱石の輸入をスウェーデンに頼っていたが、スウェーデン北部の港は冬季に凍結してしまうため、冬季の積み出しはノルウェーの港に頼っていた。ノルウェーは中立だが、連合軍寄りの姿勢を取っており、連合軍に加わるかも知れないし、あるいは連合軍がノルウェーを占領するかも知れない。ドイツは鉄鉱石の輸入ルートを維持するためにはノルウェーの占領が必要であった。
イギリス海軍の勢力下にある北海に面したノルウェーを一気に占領するため、ドイツ軍はノルウェー主要6箇所に同時上陸するという画期的な作戦を立案する。そのうちのオスロに上陸するのが第5部隊で、重巡洋艦「ブリュッヒャー」を旗艦に、ポケット戦艦「リュッツォー」軽巡洋艦「エムデン」に水雷艇、掃海艇が随伴する。
旗艦になったブリュッヒャーはアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦2番艦。名前はワーテルローでナポレオンを破ったプロイセン王国のゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥にちなむ。ブリュッ、と感じたのでヒャーとなった、というネタを書こうかと思ったのだが、下品過ぎてやめた。
あれ、ポケット戦艦が序列2番で、重巡が旗艦なの? と思ったが、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦1万4千トン、ドイッチュラント級ポケット戦艦1万2千トンでブリュッヒャーの方が大きい。そもそも、勢いで「ポケット戦艦」と書いてしまったが、開戦時にドイッチュラント級は重巡洋艦に艦種が変更されているのでブリュッヒャー旗艦は当然と言えよう。
ところで、戦史には「ブリュッヘル元帥」という人物がもうひとりいる。ソビエト赤軍最初の5人の元帥の一人、張鼓峰で日本軍とも戦ったヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘル元帥だが、実はプロイセンのブリュッヘル元帥とは血縁でもなんでもなく、農奴だった彼をどういうわけか地主が「ブリュッヘル」と呼んでいたのを、農奴解放の時にそのまま名字にしたものだそうだ。

1940年4月、ドイツ軍は行動を開始した。
まずデンマークが「私たちは、あなたがたをイギリス、フランスの侵略から守りにきましたよ」というミエミエの建前と共に進出してきたドイツ軍に対し6時間の抵抗で降伏。国王、議会全てが捕虜となった。ちなみに2015年、デンマークで「9. april」というデンマーク侵攻を題材にした映画が作られており、これは「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」という凄い邦題でDVDリリースもされている。珍しいデンマーク軍の軍装をじっくりと見られる興味深い映画と言えるだろう。

4月8日夜半、司令官公邸から呼び出されたオスカシボルグ要塞司令官ビルゲル・エリクセン(Birger Kristian Eriksen)海軍大佐は国籍不明艦隊接近の警報に接し、急ぎ守備隊を招集した。1875年生まれの大佐はこの時65歳。定年があと半年に迫っており、いくつかの沿岸要塞の司令官を歴任した最後の任地がオスカシボルグ要塞だった。
なんでそんなお爺様が要塞司令官やってるのかと言うと、当時すでにオスカシボルグ要塞は旧式化のために戦力に数えられておらず、実態は砲兵の新兵訓練所となっていたからで、まぁ定年までここでのんびりしてよ、という閑職だったようだ。事実招集に応じて集まった兵士の大半はわずか一週間前に入営したばかりの新兵であった。
8日から9日に日付が変わる頃、ノルウェー国営放送が海軍大将の命令として全ての航路標識、灯台を消灯するよう放送。オスロフィヨルドは闇に包まれた。
同じ頃、ドイツ艦隊は短時間停止し、オスロフィヨルド入り口の小都市を占領する上陸部隊を派遣。
この時点でドイツ軍はすでにノルウェー軍哨戒艇1隻を撃沈しており、またフィヨルドの入り口で短時間ながら照射され警告射撃も受けている。航路標識が消されたことからもノルウェー側がドイツ艦隊の存在を察知していることは間違いない。
しかし、ブリュッヒャー艦上の戦隊指揮官、オスカー・クメッツ少将は「そんじゃま、行ってみましょうか」と前進を指示する。根拠は良くわからないが、まぁ、ぶっちゃけノルウェー軍、オスカシボルグ要塞を舐めてたんだろう。なにしろ相手は新兵訓練学校だ。兵士の大半が新兵なのもスパイの情報で把握していたのかも知れない。「要塞」なんて言っちゃってるが、主な武装は1892年型という旧式なクルップ28センチ砲3門。どれぐらい古い火砲かと言えば、「203高地」で有名な日本軍の28サンチ榴弾砲と同時期の砲だ(ただし、こちらはカノン砲で砲身はずっと長い)。あともう一門、やはりクルップの30.5センチ砲がもう一門あったが、こちらは1878年型(日本では西南戦争当時)という博物館にしまっておいた方がいい骨董品だった。

(中編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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