FC2ブログ

カードモデルで辿るポーランド軍戦前装甲車史 その2

来週はとってもとっても面倒な定期健康診断に行ってこないといけない筆者がお送りする世界のカードモデル情報。
引き続き年末大型特集企画、「カードモデルで辿るポーランド軍戦前装甲車史」の2回目。

1920年代中盤、ソビエトとの戦争も終わって一息ついたポーランドだったが、建国直後にガチャガチャやったせいで装備もガチャガチャで、装甲車だけでもロシア帝国軍、もしくはソビエト赤軍からぶんどったオースチン装甲車ガーフォード装甲車、国産のフォードFT-B装甲車、あと、フランス軍から購入したプジョー装甲車が少し、というカオスな状況で、しかもどれも第一次大戦型の旧式装甲車だったから早期の統一新型装甲車、それもできれば国産車両が求められていた。

produkty-244643-1-jpg-1900-1200.jpg

ポーランドの老舗、GPM社から2005年にリリースされたオースチン装甲車。写真はちっちゃいがGPMのショップページからの引用。
赤軍の「ステンカ・ラージン」号を鹵獲した車両だが、なぜかステンカ・ラージンの名前を残したまま「Poznańczyk」という新しい名前を書き込んでいる。「ステンカ・ラージン」と「Poznańczyk」の間に、小さく「28.5.20」と書き込まれているが、これはこの車両がバブルイスク(現在ベラルーシ領)でポーランド軍第14歩兵師団第55連帯に鹵獲された日付(1920年5月28日)。

produkty-244643-2-jpg-1900-1200.jpg produkty-244643-3-jpg-1900-1200.jpg

キットは簡易ながらも車内、シャーシ、エンジンなどが再現されている。その無骨なスタイルで大柄に見えるオースチン装甲車だが、完成全長約20センチと意外と小柄な車両だ。キットはカタログ落ちしておらず、難易度は3段階評価の「2」(普通)、定価は31ポーランドズロチ(約1000円)とおてごろとなっている。

Garford_Putilov_in_Freikorps_use.jpg

こちらはWikipediaからの引用で、1919年、フライコーアが使用するガーフォード装甲車。ガーフォード装甲車はヤケクソ気味なスタイルがおもしろいのだが、残念ながら筆者が知る限り現在メジャーなカードモデルキットは存在しない(過去にはMały Modelarzが1980年に一度リリースしている)。
写真は左端のやたら背が高い兵士と、隣の小柄なコートの兵士との対比がなんかおもろい。この左端の兵士、全く別の写真にも似た感じの人物が写っているのだが、同一人物かは不明。

1924年、ポーランドはトラック用に、フランスからシトロエン・ケグレスシャーシを購入する。当時、シトロエン社は革命前のロシアで皇帝の自動車を雪上で走れるようにする改造を請け負っていたフランス人技術者、アドルフ・ケグレス(Adolphe Kégresse)を迎え入れ、彼の開発した「ケグレス式履帯」(前後の大きなホイールとゴム履帯が特徴)を備えたハーフトラックでサハラ砂漠を踏破するなどの冒険で名を馳せており、ポーランドもその不整地踏破能力に期待したのだろう。

800px-1924CitroenAutochenille.jpg

これもWikipediaからの引用で、シトロエンの1924年型ハーフトラック。この車両は1924年10月28日から1925年6月26日にかけてアフリカ大陸縦断を果たした、通称「黒い巡洋艦隊」(Croisière noire)で使用された車両。もちろん、ボディは取り外されている。レーン自動車博物館の収蔵品。
なお、シトロエンはこの後1931年4月4日から1932年2月12日にかけてアジアを横断する「黄色い巡洋艦隊」(Croisière jaune)も成功させている。

ポーランド軍は百数十輌購入されたシトロエン・ケグレスシャーシのうち90輌を装甲車として完成させることとし、フランス軍が先に採用していたケグレス履帯のハーフトラック装甲車、M23とよく似た車体を載せた。
最初の試作車は1925年には完成していたようだが、なぜか全然生産は進まず、やっとそれなりの数が揃ったのが1927年。どういうわけか、それなりの数を作っちゃってから陸軍の試験が行われ、軍は1928年にこの車両を「wz. 28」として採用する。これで試験の結果、不採用だったらどうするつもりだったんだ。
ちなみに、「wz」というのは、ポーランド語で型式や年式を表す「wzór」の略なので、「wz. 28」だけだと、ただの「28式」であって、正しくは「装甲車wz. 28」と表記しなければなにがなんだかわからない(例えば、小火器にもブローニングM1918自動小銃を国産化した「28式手動機銃『ブローニング』」(Ręczny karabin maszynowy „Browning” wz. 28)という銃があった)。

最初の量産分90輌が完成したwz. 28は装甲厚最大8ミリ、武装はプトー37ミリ砲もしくはオチキス機銃という、まぁ、ありがちな武装だった(30輌が37ミリ砲、残り60輌が機銃装備車)。
装甲車なんでペラい装甲とかルノー軽戦車と同じ弱武装ってのは別にいいのだが、問題は肝心の走行性能がショボショボで、抵抗の大きいハーフトラック式と4気筒20馬力という貧弱エンジンががっちりタッグを組んだせいで、マイナスxマイナスが超マイナスになって路上でも最高時速は30キロ出るか出ないか、そのくせ不整地ではさらに速度は制限され、エンジンを強化しようにもそもそも車体重量のせいでゴム履帯の消耗がべらぼうに激しく、トランスミッションは故障しがちで、サスペンションは繊細で整備に手間のかかるシロモノだった。
ようするに、ケグレス式履帯は冒険旅行で不整地を走るのには適していたが、重い装甲ボディを載せるのには全く適していなかったのだ。事実、ほぼ同型のボディ+ケグレス式履帯の組み合わせだったフランス軍のM23装甲車も「性能ショボい」という理由で16輌で生産終了している。なんでそんな車両を参考にしたんだ。
結局、wz. 28も最初の生産分、90輌で生産終了した。

ケグレス式履帯は冒険旅行では好成績だったために、イギリス、ベルギーなどもケグレス式履帯のハーフトラック装甲車を試作したが、どこも「ゴム減りすぎワロチww」ということで少数の生産に終わっている。
(ソビエトはZis-5トラックの後輪をケグレス式履帯に交換したZis-42ハーフトラック(非装甲)を6千両以上生産している)
不思議なのはアメリカのM2/M3/M5ハーフトラックで、あれも後輪はワイヤー入りゴム履帯で一種のケグレス式履帯なのだが、車体重量9トンもあるのになぜか履帯の強度はあまり問題になっていない。これは「トラックがブロークンしたらニューとチェンジすればいいのさ! HAHAHAHA!」というアメリカンな物量万歳が背景にあっての評価かと思ったのだが、レンドリースで受け取ったソビエト軍も特に履帯の強度について問題には感じていなかったようなので、やはりアメリカのゴムの性能が群を抜いていたのだろう。灼熱の北アフリカから極寒のロシアまで、ゴムの劣化がなかったのだとしたら大したものだ。
ちなみにアメリカでは1950年代初頭に、B-36戦略爆撃機があまりに重くて離着陸できる滑走路が制限されてしまうので、履帯を履かせて接地圧を下げよう! とケグレス履帯を装備したことがあったが、機構がめっちゃ複雑になったせいで重たすぎてすぐやめた。

せっかく作ったけどまともに走らないwz. 28装甲車は、2006年にポーランドWAK社からリリースされている。

cpx_ffc777cf6255db2c81a99075c6fb093a.jpg

画像はWAKのショップページからの引用。完成見本写真はない。なんかその辺の公園でぬかるみにハマったようなwz. 28が、この車両の路外走行性能のダメダメっぷりを余すことなく表現した素晴らしい表紙といえるだろう。
このキットもまだカタログ落ちしていないので、ポーランド装甲車ファンのモデラーならぜひ押さえておきたい。
難易度は5段階評価の「3」(普通)、定価は20ポーランドズロチ(約650円)と、こちらもおてごろ設定となっている。

なお、wz. 28の車体はボンネット前面装甲板が二枚の板を組み合わせたゆるい楔形で車体後面が垂直の前期型と、ボンネット前面装甲板が一枚板で車体後面が前傾して砲塔が前に寄っている後期型があるが、このWAKのキットは前期型である。
(その3へ続く)



*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Samochód_pancerny_wz._28

全体を通しての参考ページは最終回にまとめて掲載予定。
スポンサーサイト



テーマ : ミリタリー
ジャンル : 趣味・実用

カードモデルで辿るポーランド軍戦前装甲車史 その1

庭の柿の自家消費が終わり、次はミカンの実を柔らかくなったものからもぎって食している筆者のお送りする世界のカードモデル情報。
今年も残すところあと一ヶ月と少し。当サイトにも毎年恒例、年末大型特集のシーズンがやってきた。
あまり当サイトに詳しくない読者のために説明しておくと、「年末大型特集」というのは、特定のカードモデルのキットではなく、一つのテーマを決めてWikipedia頼みで徹底解説し、そこに登場するアイテムのカードモデルキットを網羅的に紹介していく、年末恒例の「カードモデルで辿る」シリーズを指す。
なお、この恒例企画、去年の今頃なにやってたか、アーカイブ見返したら「カードモデルで辿るリヒャルト・フォークト博士の軌跡」をぐだぐだと連載していたのを見て、さっき思いつきで始めただけなので、来年もやるかは未定だ。

本年のテーマは「カードモデルで辿るポーランド軍戦前装甲車史」。ちなみに、そんなに引っ張るようなネタでもないので、たぶん年末までもたずに終わる。


1918年、第一次大戦の終結に伴いポーランドは長年の悲願であった独立を果たすが、独立からわずか3ヶ月後の1919年2月、ソビエト赤軍がポーランドへ侵入し、ポーランド・ソビエト戦争が始まる(ソビエト側にしてみれば、各国の革命干渉がポーランドを基地として攻めてくることを防ぐ「防衛戦争」でもあった)。
この戦争で、ロシア帝国軍の装備を接収していたソビエト軍は各種装甲車を保有していたが、それに対するポーランド軍はロシア軍から接収・鹵獲したわずかな数の装甲車しか保有しておらず、それらも緒戦の後退の中で失われてしまった。
この危機をなんとかしようと立ち上がったのがポーランドモータリゼーションの父ともいうべき技術者、タデウシュ・タンスキ(Tadeusz Tański)であった。

436px-Tadeusz_Tański

Wikipediaからの引用(以下この項、キット画像以外同様)で、エンジンを持つタデウシュ・タンスキ。出典はポーランド国立公文書館。撮影時期は不明。左手がなんだか不自然な感じだが、よく見ると写真全体が超絶ヘタクソにトリミングされているし、なんか指紋もいっぱいついていて、もうちょっと状態のいい写真はなかったんだろうか。

フランスでエンジン技術を学んだタンスキはポーランド建国と共に祖国へ戻り自動車開発を行っていたが、ポーランド軍の苦戦を聞き、当時ポーランドでもそれなりの数が輸入されていたフォードT型(ポーランド国内で組み立ても行われていた)を装甲車に改造することを思いつく。
サスペンション、車軸などを強化したシャーシにレイアウトを変更した各部を取り付け、8ミリの防弾鋼板で組み立てたボディを載せた装甲車「フォードFT-B」(「フォードTfc」と表記されることもある)の試作車は2週間で完成し、試験の後に前線へと送られた。
フォードFT-Bの生産は16から17両と決して多くはなかったが、折しも首都ワルシャワでは迫るソビエト軍との決戦の只中であり、フォードFT-Bはポーランド軍の貴重な装甲戦力として活躍したようだ。
1920年10月、両軍は停戦に同意しポーランド・ソビエト戦争は終結するが、終戦の時点では12輌のフォードFT-Bが残存していた。

800px-2013,_Święto_Wojska_PolskiegoDSC_2462

2013年に撮影されたフォードFT-Bのレプリカ車両。対向車線のドライバー達も興味津々だ。なお実車は1930年代初頭までに全車が退役、破棄されており現存していない。
もとがフォードT型なので、驚くほど小柄な車両であることがわかるが車内もかなり窮屈で、銃塔の機銃を使用する際は射手が中腰にならなければいけないという腰に来そうなレイアウトだった。
写真では操縦士が頭を出しているがオープントップの車両ではなく、よく見ると天井ハッチを全開にしている。と、いうことは天井ハッチは内側にも迷彩塗装がされていることになる。これがなんらかの資料に基づいたものかわからないが、根拠のある塗装なのだとしたら、このように天井ハッチを全開にしたまま行動することもある程度想定されていたのだろう。このまま機銃撃ちまくりながら銃塔回すと操縦士のほっぺに水冷バレルジャケットがぶつかってアチチとなるので要注意だ。
ラジエターに風を当てるため、正面装甲のハッチを開いているのにも注目。

この記念すべきポーランド初の国産装甲車はポーランドの名門MODELIK社から2004年にキットがリリースされている。

200408.jpg

こちらのキットは現在もMODELIKのショップページに掲載されており現在でも購入可能。

Ford Tfc foto1 Ford Tfc foto2 Ford Tfc foto3 Ford Tfc foto4

もとの車両が単純な平面の組み合わせだったこともあり、キットはかなり簡易な構造。車輪はどう見てもキットのものではないが、別売りパーツなどは特に無いのでただのディティールアップのようだ。よく見ると車体もリベットなどディティールアップされている。

Ford Tfc foto6

車体裏面は底面から少しディティールが飛び出している程度の簡単表現。

MODELIKのフォードTfc装甲車は陸モノ標準スケール25分の1で完成全長約14センチの小柄な車両。難易度は「初心者向け」となっており、定価は25ポーランドズロチ(約850円)。
当キットはポーランド装甲車ファンのモデラーにとっては見逃すことのできない一品と言っていいだろう。

ちなみに、フォードFT-Bはどうでもいい感じのポーランド装甲車両を積極的にリリースしているプラモデルメーカー、RPMから以前に35分の1と72分の1でインジェクションキットが発売されており、筆者も35分の1を購入したはずなので自慢しようと思ったのだが、どこにしまいこんだか思い出せないのでやめておこう。


1920年10月にポーランド・ソビエト戦争が終結(正式な終戦はリガ条約が締結された1921年3月18日。それまでは「停戦」である)するとタデウシュ・タンスキは再び自動車開発へ戻り、CWS(Centralne Warsztaty Samochodowe、中央自動車工廠)でポーランド初の国産量産車、CWS T-1を完成させる。

800px-CWS_T-1_torpedo_(replika)_w_Gdańsku

CWS_T-1。自動車愛好家 Ludwik Rożniakowski氏によるレプリカ車両。2014年撮影。この車両は2018年にフォルクスワーゲンゴルフと事故を起こし深刻な損傷を被ったが、現在は再生されているそうだ。

タデウシュ・タンスキは優秀なエンジニアで、例えば発電機用750CC空冷2気筒エンジンのトライアルに応募した時は、大手メーカーのエンジンが連続運転数百時間で次々停止する中、タンスキの開発したエンジンだけは1千時間周り続けた、しかもそのエンジンは全てがたった1種類のボルトとナットで組み上げられていたという伝説を残している。
しかし、その反面、彼は頑固で融通が利かず、そのため常に短い契約を繰り返し様々な工廠を渡り歩いていたという。

1939年にポーランドがドイツの敗退した後、1940年7月3日にタンスキはポーランドのインテリ層を壊滅させてレジスタンス活動を弱体化させることを狙った「AB行動」の一環として逮捕され、アウシュビッツ収容所へと送られた。
ここでタンスキはその技術力をドイツ軍のために発揮することを要請されたが、これを頑として拒否したために彼は1941年3月23日に処刑されたという。

なお、タデウシュ・タンスキの父親、チェスワフ・タンスキ(CzesławTański)はポーランドで初めてグライダーの飛行実験を行った人物で、こちらは「ポーランド航空史の父」と呼ばれているそうだ。

800px-Czeslaw_Tanski.jpg

1974年刊行「ポーランドの翼の歴史(Dzieje polskich skrzydeł)」からの引用で、グライダー実験を行うチェスワフ・タンスキ。

(その2へ続く)

キット画像はMODELIK社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/フォードFT-B

その他、全体を通しての参考ページは最終回にまとめて掲載予定。

テーマ : ミリタリー
ジャンル : 趣味・実用

NDL 歴代ブレーメン全紹介・その4

先日、怒涛の11連勤を終えてやっと一息ついた筆者のお送りする、世界のカードモデル周りをウロウロするブログ。さすがにもう歳なので、休日なしはキツいのですじゃ。

北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」について紹介を続けてきた当記事、前回真打ちブレーメンとも言うべき4代目を紹介したが、せっかくなので、その後のブレーメンも紹介しておこう。

4代目ブレーメンが全焼して残骸となった後しばらくはNDLには伝統船名「ブレーメン」を冠した船は在籍しなかった。まぁ、ドイツそのものがそれどころじゃなかったしね。
NDLに5代目ブレーメンが就航したのは終戦から10年以上を経た1957年。
これは新造船ではなく、もともとはフランス サン=ナゼールにあるアトランティーク造船所で建造されたフランス客船「SS パスツール」だった。船名の由来はもちろん細菌学者のルイ・パスツール

SS パスツールの建造は1938年2月に始まったが、途中でボヤを起こしたりして完成は遅れる。なんか「造船中の船がボヤを起こして」ってパターン、多い気がするけどそういうもんなんだろうか。
ようやく1939年8月に就航したもののすでに大戦勃発直前、優雅な船旅を提供できる時代ではなくて、処女航海もキャンセル。寂しく係留されていたら、1940年にはフランスが降伏してしまった。しかし、SS パスツールは辛くも抑留さえる前にフランスを脱出し、イギリス海軍に接収された。

800px-SS_Pasteur_Hdouay4.jpg

Wikipediaからの引用(この項の画像、全て同様)で、就航直後、珍しいSS パスツール名で客船時代の写真。戦前の豪華客船がダミー煙突まで立てて多数の煙突を林立させていたのに対し、これ以降の客船はバカデカ煙突がズドーンと少数、というパターンが増える。
ところでこの写真、撮影者がフランスの写真家、Marius Barとなっている(写真下部にも名前が入っている)のだが、この人は1930年に亡くなっていて1939年就航のSS パスツールの写真を撮るのは不可能なはず。名前を冠したスタジオの仕事、ということなんだろうか。

イギリス海軍でSS パスツール兵員輸送に従事。排水量約3万トン(全長約212メートル)の巨体と最大速度26ノット(巡航速度22ノット)という快速を生かし、時にはコンボイを組まずに単船で逃げ切るスタイルで幾度となく兵員輸送を成功させ、大戦中に約60万キロを航海し、延べ約30万人を輸送したと見られている。1941年には開戦直前のシンガポールへイギリス兵を輸送するために東洋へ来たこともあるようだ。

SS_Pasteur_transporting_troops_and_leaving_port_A10612.jpg

兵員輸送船時代のSS パスツール。まぁ、なんとも地味なお色になってしまって…… 撮影時期ははっきりしないが、おそらく1942年。

戦後、しばらく復員船として使用された後にSS パスツールはフランスへ返還されたが、客船への逆改装は行われずに今度はインドシナ戦争へ兵員を運ぶ輸送船として使用される。
しかし、1954年にディエンビエンフーの戦いにフランスが敗退し、こりゃもうあかんわ、となったら今度はアルジェリア戦争への兵員輸送に従事。フランスって、戦後はずっと戦争してんな。
これらの功績により、SS パスツールはフランス戦功十字勲章(クロワ・ド・ゲール)を受勲。
1956年から57年にかけてスエズ危機で部隊を輸送した後、SS パスツールは北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)へと売却された。

SS パスツールはブレーマー・フルカン造船所で客船への逆改装を受け、晴れてNDLフラッグシップの「TS ブレーメン」となる。
なお、この改装で排水量は約3万2千トンへと増加。機関も一新され、それに伴い煙突の形状も変更された。
5代目ブレーメンは1960年から1971年まで、175回の太洋横断を果たしギリシャへ売却されたが、その間にNDLはハンブルク=アメリカラインと合併し、ハパックロイド(Hapag-Lloyd)という会社になっていた(1970年9月1日)。

800px-Pasteur_-_Bremen,_Cherbourg,_annees_70

フランス、シェルブールに到着した5代目ブレーメン。撮影は1971年となっているので、NDL引退直前の写真ということになる。さきほどの客船SS パスツールの写真と比較してみると、細々と違いがあっておもしろい。

なお、ギリシャへ売却されたブレーメンは改装の後「TSS レジーナ」としてクルーズ航海に使用されたが燃料代の高騰などで77年にサウジアラビアへ売却されたが、ここではもう客船ではなく水上宿泊施設として使用されたようだ。その後、さらに何度か持ち主を変えた元SS パスツールは最後に廃船として台湾へ曳航される途中にインド洋で沈没した。

Sinking_of_the_Pasteur.gif

横転沈没する元SS パスツールとされる画像。サイズから、テレビ放映されたもののキャプチャのようにも見えるが、Wikipediaで引用元とされているサイトが消滅しているので詳細は不明。

NDLがハパックロイドになったころにはもう「豪華客船」という船そのものが時代遅れになりつつあって、ハパックロイドも主力はコンテナ輸送であった。
とはいえ、じゃあ世界中から客船が消えたのかと言えばもちろんそんなことなくて、ハパックロイドにも客船クルーズを提供する「ハパックロイド・クルーズ」という部門があった。ちなみに、ハパックロイドは欧州各地からクルーズ船の乗船港まで乗客を運ぶための飛行機を運行するハパックロイド・フルーク(Hapag-Lloyd Flug)という航空部門もあった。

5代目ブレーメンを売却して以降、ハパックロイド・クルーズには「ブレーメン」が在籍していなかったが、1993年に「フロンティアスピリット」というクルーズ船を調達し、ブレーメンと改名しこれが現状で歴代最後の「6代目ブレーメン」となった。
この船はもともと三菱重工が建造した客船で、南極や北極を観光する「極地クルーズ」専用に建造された船であった。
最初から極地探検用に建造された客船というのはこのフロンティアスピリットが世界初で、1990年6月20日には両極点にも到達したことのある探検/旅行ジャーナリストである兼高かおる女史による支綱切断で進水した。
しかし、折り悪く日本ではバブル景気が終わり、就職事情が極地の様相となってきたために南極北極どころじゃなくなりフロンティアスピリットを運用していたフロンティアクルーズ社も営業を終了。
しかし、フロンティアスピリットはまだまだ全然使える船なんでフロンティアクルーズ社に出資していたハパックロイドが1993年にこれを引き取り、5代目売却から20年を経てのフラグシップ・ブレーメンの復活となった。

800px-Hapag-Lloyd_Passagierschiff_Bremen_Oktober_2017.jpg

2017年、ハンブルグ港で撮影されたブレーメン。この6代目でブレーメンは「豪華客船」ではなく、「クルーズ船」になった。
ちなみに排水量約6700トン、全長111メートル。エンジンはダイハツディーゼル製2基合計で6600馬力だという。
なお、2003年にはブレーメンは極地クルーズ中、南極半島先端あたりで新たな無人島の存在を確認(島そのものを見つけたのではなく、隣接するオメガ島と分離していることを確認した、ということらしい)、この島は「ブレーメン島」と名付けられた。

6代目ブレーメンは現在でも極地クルーズを続けているが(2020年中はCOVID-19の大流行に伴いクルージングは中断され、ロストックに係留されている)、2019年1月に船そのものはScylla AGというスイスに本拠を置く会社に売却されている。
しかし、この会社はドナウ河観光をメインとした河川クルーズが本業で、ブレーメンの極地クルーズは引き続きハパックロイドがチャーターという形で運営しているようだ。ただ、これも2021年5月には完全引き渡しになると伝えられており、まもなく北ドイツ・ロイド汽船会社/ハパックロイド伝統であったフラグシップ・ブレーメンが不在となる時代がまたも訪れることとなりそうだ。

さて、次の7代目ブレーメンはどんな船になるのだろうか。
もしかすると、『地球-火星間定期航路宇宙船ブレーメン』とかになるのかもしれない。その時はまた素晴らしいカードモデルがリリースされることに今から期待しておこう。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/SS_Pasteur_(1938)
https://en.m.wikipedia.org/wiki/MS_Bremen

https://en.wikipedia.org/wiki/Norddeutscher_Lloyd
それぞれの英語版、ドイツ語版、日本語版を参考とした。

http://www.shipsonstamps.org/Topics/html/bremen.htm
船舶と郵便の関係についての記事を多数掲載しているサイト、http://www.shipsonstamps.org/から、「1858年から現在まで、ブレーメンと呼ばれた6隻の客船」という記事。歴代ブレーメンを題材にした切手など画像多数。

テーマ : 趣味と日記
ジャンル : 趣味・実用

NDL 歴代ブレーメン全紹介・その2 +おまけ

先日、庭の草刈りをしていたらうっかりアシナガバチの巣を叩き落としてしまい、全速力で逃げる最中に二回ほどすっ転んだ筆者のお送りするカードモデル説明までがやたらと長いカードモデル情報。ちなみに蜂には刺されませんでした。

今回も前回から引き続き、北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」について。
前回、1858年就航の初代、1897年就航のバルバロッサ級二代目を紹介して、今回が三代目ブレーメン。

この三代目はブレーメンとしての就航までがちょっと複雑で、話は一旦バルバロッサ級客船の話に戻る。
バルバロッサ級客船10隻は第一次大戦が始まった時に多数が海外にいて(オーシャンライナーなんだから、洋上航行中を無視して単純に考えれば二分の一の確率で海外にいることになる)、イタリアで2隻、ブラジルで1隻、アメリカでは5隻が(4隻がホーボーケン、1隻は米領フィリピンで)抑留された。いやいやいや、10隻中8隻って、ちょっと抑留されすぎだろ。事前に帰港命令とか出なかったんだろうか。
いや、よく考えたら、ドイツが英仏と戦争になったからって、中立の第三国がドイツの民間船を抑留する権利なんてないな。これ、実際には抑留ではなくて、「ドイツに帰るのは危ないから、戦争が終わるまで半年ぐらい預かっておいてよ」ぐらいの措置だったのかも。

しかし、戦争は次第に激しさを増し、イタリア、ブラジル、アメリカも連合側で参戦したので、結局これら8隻のバルバロッサ級客船は全て寄港地で接収されることとなった。他の2国はともかく、イタリアよ、三国同盟はどうなった……
で、アメリカが接収した5隻のうちの1隻、SS プリンツェス・イレーネ (Prinzess Irene、ヴィクトリア女王の孫で、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラの姉であるヘッセン大公妃 イレーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのこと。北ドイツ・ロイド汽船会社が保有していた6隻のバルバロッサ級の1隻)は「USS ポカホンタス」に改名された。「ポカホンタス(Pocahontas)」というのは、もちろんディズニー映画にもなったポウハタン族酋長の娘のことだ。

USS ポカホンタスは戦争中18回ヨーロッパとアメリカの間を往復して24,573人の兵員をヨーロッパへ運び、休戦後は23,296人を復員のために帰国させた。
その間、1918年5月2日にはドイツ帝国海軍のUボート(SM U-151と推測されている)に発見され砲撃を受けたが、船長エドワードC.カルブス(Edward Clifford Kalbfus)は全速力で蛇行することで潜水艦を振り切ったという。オーシャンライナーの快速をなめるなよ、といったところか。

復員を終えた1919年11月7日に海軍から除籍され、1920年にUS郵船の所有となり、名前はそのまま民間船「SS ポカホンタス」としてアメリカ-イタリア航路に就航する。
ところがどういうわけか、就航当初からポカホンタスはやたらとトラブル続きで、5月23日にニューヨークを出港するも、25日には早くも機械トラブルで立ち往生。技師が乗り込んで修理するも、6月にはアゾレス諸島でまた立ち往生。
なんとかだましだまし進んで、イタリアのナポリに到着するまでに43日間を費やすという超遅延。そして、どういうわけか到着直前になって機関士が船から飛び降りて死亡した。呪われとるのかこの船は。
遅延について船長は船内で破壊工作があった、とアメリカ領事に報告したが、逆に船員達は船長が船員を虐待していたと告発してもうグダグダ。
ゴタゴタしているうちにとりあえず船を修理することになったが、どういうわけか機関の一部に綿が大量に詰まっているのが発見されたというから、やはり乗員のサボタージュがあったのか。それとも、マジで何らかの呪いだったのか。
7月31日、出港しようとしたら「修理代270万リラ払え」と言って出港を差し止められた。しかし、船員たちによると「返って状態が悪化していた」というからもうグダグダの上乗せ。
この件は結局どうなったのか不明だが、とにかくポカホンタスは出港したがまた機関が不調で9月22日にジブラルタルに寄港、結局ここで乗客は他の船へと移し替えられて、航海は打ち切られたという世界海運史に残るグダグダっぷりであった。

しばらくジブラルタルに繋留されたまま放置されていたSS ポカホンタスだが、北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)から買取の打診があり、US郵船はこれ幸いとこの厄介者を売っぱらってしまう。
NDLではイギリスが返してくれない先代ブレーメンに代わってこの船にブレーメンの名前を与え、SS ポカホンタスは1922年、3代目SS ブレーメンとなった。なので、NDLは「バルバロッサ級客船SS ブレーメン」という船を2隻所有したことになる(以前の記事でSS ポカホンタスが海外製と書いたのは資料誤読からくる誤り)。
3代目SS ブレーメンは1928年に次のブレーメンに名前を譲るためにSS カールスルーエとなり1932年に解体された。この間、NDLでは特にトラブルは記録されていないので、余計にUS郵船でのゴタゴタはなんだったんだ、という気になる。あるいはドイツに帰りたくて船がサボタージュをしていたのだろうか。

USS_Pocahontas_(SP-3044).jpg

Wikipediaからの引用で、USS ポカホンタス時代の写真。1919年撮影なので復員船だったころ。後部マストに星条旗が掲げられている。
(その3に続く)



参考ページ:
https://de.wikipedia.org/wiki/Prinzess_Irene

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。


--------------------------------

次の四代目が本筋で長くなるので今回は短めながらここまで。
ちょっと短く終わってしまったので、どこかに書こうと思っていたけれども書く場所がなかったネタをオマケに書いておこう。

ブレーメンとは関係ないのだが、1912年4月15日、およそ1500人が亡くなった大惨事、タイタニック号沈没と、1915年5月7日、およそ1200人がなくなりアメリカの第一次大戦参戦のきっかけともなったルシタニア号撃沈、両方に乗り合わせた人がいる。
この不運なんだか幸運なんだかわからない人は1888年3月9日生まれのジョージ・ビーチャム(George William Beauchamp。エレキギターを発明した同姓同名のジョージ・ビーチャムとは関係ないが、時々誤って没年が混同されていることがある)。
ボーチャムは乗客ではなくボイラー炊きの火夫としてタイタニック号に乗船しており、ボイラー消火後に船底から脱出し、まだ空きがあるまま離船しようとしていた救命ボート13号に飛び移って生還した。
その3年後、ルシタニア号に同じく火夫として乗船していた時にルシタニアがUボートに雷撃され沈没。この際の脱出の細かいディティールは伝わっていない。
タイタニック号、ルシタニア号、両船からの生還者はビーチャムただ一人と考えられている(タイタニックで助かり、ルシタニアで死亡した人がいたのかはわからなかった)。
ルシタニア号沈没後、ビーチャムは取材に対して「もう大きな船はコリゴリだよ( "I have had enough of large ships and I'm going to work on smaller boats.")」と答えたという。
ビーチャムは1965年4月5日に亡くなった。

800px-George-beauchamp-1912.jpg

Wikipediaからの引用で、円内がジョージ・ビーチャム。出所は不明だが、撮影日は1912年4月10日とされているので、それが正しければタイタニック号出港時に撮られた写真ということになる。

テーマ : 趣味と日記
ジャンル : 趣味・実用

NDL 歴代ブレーメン全紹介・その1

先日、テレワーク用機材のトラブルで機材交換のために久々に東京へ出勤。念の為2周間の自主隔離中の筆者がお送りする世界のカードモデル情報。まぁ、「自主隔離」って言っても、いつもと同じでどこにも行かないってだけなんですけれどもね。

今回からまたしばらく時間をかけて特集するのは、北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」についてだ。
勘のいい読者ならこの時点でお気づきのことかと思うが、当記事はその中でも4代目(日本語版Wikipediaでは3代目)のSS ブレーメンをドイツHMV社が素晴らしいクオリティでカードモデル化しているのを紹介しようと思ったら泥沼に足を取られた結果である。なので4代目が出てくるまで、基本的にカードモデルの話は出てこないことを予め御了承されたい。

さて、「ブレーメン」という名前を聞いて米津玄師氏3枚目のオリジナルアルバム「Bremen」を連想する読者も多いかと思うが、この場合はドイツ北部の都市、ブレーメンのことである。
このブレーメンで1857年2月20日に設立されたのが、「北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)」である。日本ではまだ安政年間のころだ。

ドイツの北の方で開業した会社なので「北ドイツ」はいいとして、「ロイド」という名前でイギリスのロイズ保険(Lloyd's)が設立に一枚噛んでいるのかと思ったら、別に関係なかった。
この場合の「ロイド」というのは船舶の検査・登録を行いその健全性を保証する船級協会の方のロイド(ロイド・レジスター・グループ・リミテッド、 Lloyd's Register Group Limited)のこと。なお、船級協会のロイズは保険のロイズの傘下のように思われがちだが、実はどちらも17世紀末にロンドンでEdward Lloydという人物がやっていたコーヒーショップで配られていた海運関係の新聞が発祥となっている、というだけで、現在両者は全く関連性がないそうだ。

なるほど、NDLはそのロイドから出資でも受けてるのか、と思ったらこれも別に関係なくて、「『ロイド』って名前に入ってれば、海運やる会社ってすぐにわかるじゃろ?」ぐらいの軽いノリでつけた名前だったそうだ。マジかよ。今やったら絶対怒られるやつだそれ。
ちなみに創業者はヘルマン・ヘンリッヒ・マイヤー(Hermann Henrich Meier)と エデュアルド・クルーゼマン(Eduard Crüsemann)といういかつい名前のお二方である。

さて、そんなわけでブレーメンに開業したNDLだが、当然船がなくっちゃ海運できないので、最初に調達した船舶4隻が「ハドソン」「ニューヨーク」「ヴェーザー」、そして「ブレーメン」だった。

800px-Segeldampfer_Bremen_-_Fritz_Müller_-_1858

Wikipediaからの引用(この項の画像、全て同様)で、就航当時に描かれた初代ブレーメンの姿。
一見帆船のようだが、中央に立っている煙突でわかるように三本マストの帆装と700馬力蒸気エンジンを備えた汽帆両用で、最大11.5ノットで航行できた。
初代ブレーメンは1858年就航の新造船で、全長約101メートル、排水量約2700トンという小柄な船。この小柄な船体に一等船室60人、二等船室110人、さらに三等で400人が収容できた。
時代的にはまだ「旅客船」というよりも「移民船」というべき船で、一応船内には2つの浴室や図書館も備えていたものの、当然そんなゴージャス設備は一等、精々二等船室の乗客用で、新天地アメリカへの期待と不安と胸に三等船室に押し込まれた移民達の心中いかばかりのものだっただろうか。
なお、建造したのはスコットランドのケアード&カンパニー(Caird & Company)という造船所だが、ここは1916年にハーランド・アンド・ウルフに吸収された。

初代ブレーメンは1858年6月19日に処女航海に出発し、14日と13時間後の7月3日午前7時にニューヨークへと到着している(ただし、乗客は22人しかいなかった)。
その後、1860年にプロペラシャフトを破損し交換に6ヶ月かかったぐらいしか特筆すべき出来事もなく大西洋横断を繰り返した初代ブレーメンは1874年、NDL最初の4隻のうちのもう1隻、SS ニューヨークと共にイギリスリバプールの会社へと売却された。特に理由は書かれていないが機関の進歩著しいこの時期、旧式化が目立ったのだろう。
イギリスへ売却された初代ブレーメンはそのままの名前で、機関が降ろされ純粋な帆船へと改造され貨物運搬に使用されたようだが、1882年10月16日にカリフォルニア沖で濃霧の中で座礁、遺棄され沈没した。
なお、沈没したさいにブレーメンはウィスキー5000樽を輸送しており、近辺で操業する漁師たちの間では「ブレーメンからウィスキー樽が浮かんでくるのに時々ありつける」という噂がかなり後まであったとか。
また、1929年禁酒法下のアメリカでT. H. P. Whitelawという人物が一攫千金を狙ってブレーメンの積荷の引き上げを画策したが、これは政府により阻止された。

800px-StateLibQld_1_133873_Bremen_(ship).jpg
帆船に改装された後のブレーメンとされる写真。撮影時期などのデータは不明。

初代ブレーメンを売却したNDLだったが、どうもこの時は代々フラグシップに「ブレーメン」と名付けることは意識していなかったようで、しばらくNDLにはブレーメン不在の時期が続く。
二代目ブレーメンが就航したのは初代売却の25年後の1897年で、長さ170メートル、排水量1万トン、機関9500馬力の大型船で、これはNDLにとって最初の1万トン級客船となった。おそらく、この大台に乗ったことを記念して伝統の船名「ブレーメン」が与えられたのだろう。

NDL創業から40年、時はまさに大豪華客船時代で、激増する需要に答えるために世界で客船がバンバンババンと建造されまくっていた時期。ブレーメンも「バルバロッサ級」という、なんかやたら勇ましい名前で多数建造された船のうちの一隻で、ダンツィヒのシシャウ造船所(Schichau-Werke)で建造された。
ちなみにバルバロッサ級は1896年から1902年の間に10隻が建造され、6隻がNDL、4隻がハンブルグ=アメリカライン(Hamburg America Line)に就航している。なお、拡大版のSS グローサー・クルフュルスト(Grosser Kurfürst、大選帝侯)を含め、バルバルッサ級の総数は11隻とすることもある。

800px-Bremen_(ship,_1897)_-_SLV_H91_108-1577
建造直後の二代目ブレーメン。

二代目ブレーメンは1897年6月5日、サウサンプトン経由でニューヨークまでの処女航海を果たし、10月からはスエズ運河経由でオーストラリアへの定期航路に就航する。
しかし、就航からわずか3年後の1900年6月30日、ニュージャージー州のホーボーケンという、なんかラーメン屋みたいな名前の港(ハドソン川を挟んでマンハッタン島の対岸)に停泊していた際に埠頭で火災が発生(埠頭に積んであった貨物の繊維が自然発火したらしい)、火は風に煽られて燃え広がり少なくとも300人以上が死亡するという大惨事となる。
このホーボーケンドック火災でNDLの客船が停泊している桟橋が炎上し、SS ザールSS マイン、そしてSS ブレーメンが次々に延焼した。

SS_Saale_HobokenFire_1900.jpg

ブレーメンではないがホーボーケンドックの火災の様子を物語る写真。延焼し、炎上しながら埠頭を脱出しようとするSS ザール。ザールは結局この後に沈没着底してしまった。

炎上した客船では、甲板が炎上している船に閉じ込められた船員が船倉の窓が小さすぎて脱出できずに犠牲となるケースがあったため、それ以降船倉の窓は人が通り抜けられるよう、すくなくとも28センチx33センチ(11インチ×13インチ)の大きさがあるように定められたという。
損傷の大きかった二代目ブレーメンはシュテッティンのフルカン造船所で再建されたが、その際に船体は5メートル延長され、排水量も1千トンほど増えている。
1901年10月に再就航し、また定期航路に戻った二代目ブレーメンはその後は大きな事故もなく大西洋横断を繰り返す。ちなみに、1912年4月20日にはドイツからニューヨークへの航路の最中でRMS タイタニック号が沈没した現場を事故数日後に通過、木製の調度品や遺体の間を通り抜けたという。

800px-SS_Bremen.jpg
改装後のブレーメン。再建されたホーボーケン桟橋での撮影。1905年。単に撮影角度の関係かも知れないが、前掲の写真よりも気持ちスラリとスマートになった気がする。

当然ながら第一次大戦と同時に大西洋定期航路は休止となり、二代目ブレーメンも母港で埠頭に繋がれたままとなった(一応、軍に徴用され輸送船として使用されたようだ)。
戦後、二代目ブレーメンは戦後賠償の一環としてイギリスに引き渡され、1921年からSS コンスタンティノープル、24年からSS キングアレクサンダーの名前で運用された。そして1929年、イタリアに売却され、解体されている。
(その2に続く)



参考ページ:
https://de.wikipedia.org/wiki/Bremen_(Schiff,_1858)
https://de.wikipedia.org/wiki/Bremen_(Schiff,_1897)

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。

テーマ : 趣味と日記
ジャンル : 趣味・実用

展開図公開中
最新記事
カテゴリ
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
プロフィール

のとっちょ

Author:のとっちょ
カードモデル初心者が苦闘するさまをご覧あれ。

検索フォーム
おすすめショップ
リンク(順不同、敬称略)
RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
製作進展中