JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・2 250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”

一息ついたのをいいことに、焼肉屋で腹いっぱい食べたらすっかり消化不良で苦しくてかなわん筆者のお送りする世界のカードモデルにまつわる有象無象、時々情報。今回は、前回に続きポーランドJSC社からリリースされた オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット から、250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”を紹介。

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表紙は前回の「ライタ」なんであんまり関係ないが、まぁ一応。

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いきなりながら公式ページの完成見本写真。
大きい方の駆逐艦は次回紹介予定のタトラ級駆逐艦。そっちも長さ85メートル、満載で排水量1000トンしかない小さい艦だが、今回の98-M(2本煙突の小さい方)は長さ約60メートル、満載でも排水量は300トンを少し超える程度の小さな船だ。
「水雷艇」というと、艦隊決戦中に撃ちすくめられて動けない主力艦を尻目に高速で敵大型艦に肉薄し、必殺の魚雷をぶちかまし一気に戦局を覆す勇壮無比な、というかWorld of Warships的な活躍を想像しがちだが、オーストリア=ハンガリー帝国(以下「帝国」)の250トン級はそれほど勇壮なコンセプトで建造された船ではなかった。
地図を見るとわかるが、帝国は後にユーゴスラビアとなる地域でアドリア海に面している以外は海岸線を持っていない。と、いうことはアドリア海の出口、アルバニアとイタリアの踵の間に警戒線を張られたら帝国艦隊はそこを通らざるを得ず、相手にする予定のイギリス海軍は地中海艦隊単体で十分に帝国海軍よりも強力である。つまり、開戦と同時に帝国海軍はアドリア海に閉じ込められる可能性が高い。
15世紀の艦隊ならまさかの山越えで東ローマ帝国をビックリさせる、なんてこともできたかも知れないが、さすがに弩級戦艦でそれは無理だ。
そこで、帝国海軍が1910年にまとめたのが「夜の間に封鎖艦隊に突撃し、朝までに帰ってくる」という、最初っから腰の引けた感じの戦法だった。なんというか、夜勤お疲れ様です。
この戦法のために設計されたのが250トン級水雷艇群であった。要求される性能は夜の間に攻撃をして帰ってこられるよう、30ノットの高速で10時間航行できること、というからなかなか厳しい。

1913年、トリエステ(当時帝国領)のStabilimento Tecnico Triestino (STT)社で250トン級水雷艇の建造が始まる。ここは帝国海軍弩級戦艦「テゲトフ級」も建造した、帝国随一の造船所である。
250トン級水雷艇の基本設計は6000馬力の蒸気タービンでスクリュー2軸を回し、武装は設計段階ではスコダ66ミリ砲3門、45センチ魚雷発射管3基(レイアウト不詳)というものだったが、実際の建造時には武装は66ミリ砲2門、魚雷発射管4門に変更されている。また、1914年には8ミリ機関銃が追加された。
STTは8隻の250トン級を建造し、それぞれ74-T(トリエステ)から81-Tの番号が与えられている。

しかし、世界大戦はどうやら近そうだし、STTは使うかどうかわからない主力艦の建造で忙しい。
そこでSTTの8隻とは別に、新たにフィウメ(ここも所属がよく変わるが当時帝国領)に造船所を持つガンツ&ダヌビウス(Ganz & Danubius)という、なんかロックな感じの名前の会社にも250トン水雷艇が発注された。G&Dは以前にSTTの代わりにテゲトフ級4番艦、「セント・イシュトヴァーン」を建造したことがあるが、先に建造された同型艦3隻の教訓を取り入れたのか、はたまた建造設備の都合なのか、テゲトフ級戦艦は4番艦のS・イシュトバーンだけ主機が異なり、さらに2組4軸だったスクリューが2軸になり、それに伴い最高速度もわずか0.3ノットとはいえ、S・イシュトバーンの方が遅かった。それって、艦隊行動もできないし、もう同型艦じゃないと思うんだが。
250トン級水雷艇の建造にあたってもG&Dは主機を交換しており、そのためにSTTの「Tグループ」では1本だった煙突が2本になっている(要求スペックの30ノットは満たしている)。ちなみにG&Dの建造したセント・イシュトヴァーンと250トン級水雷艇「Fグループ」(造船所のあったフィウメの「F」)の主機はどちらもドイツの電力会社、AEGの関連会社であるAEG-カーチスから調達されており、なんか理由というか、過剰接待というか、そういったものがあったりなかったりしたのかもしれない。大人の世界は複雑だ。
G&Dが建造した16隻は82-Fから97-Fの番号が与えられている。
なお、フィウメは非常にイタリアに近い場所にある造船所だが、帝国はイタリア、ドイツとの間に旧「三国同盟」を組んでるんで全然問題ないよ! と思っていたら、1915年4月にイタリアは連合側で参戦し、帝国に宣戦布告してきた。ギャフン。
イタリア参戦時、82、83、84と90、91の5隻は未完成だったが、イタリアによる鹵獲を避けるために急いで別の造船所まで曳航されている。

さて、8+16の24隻の建造が続く250トン水雷艇だが、帝国はまだ足りないと思ってさらにCantiere Navale Triestino(CNT)にも250トン水雷艇を発注する。CNTは1908年創設のまだ新しい会社で、イタリア参戦(CNTもイタリア国境に近い場所に造船所を持っていた)もあって建造は3隻に終わった。
CNTの3隻は造船所のあったモンファルコーネの頭文字をとり、98-Mから100-Mの番号が与えられており、キットに含まれる98-MはこのCNT製の250トン水雷艇だ。「Mグループ」はT、Fグループとはまたも主機が異なるがレイアウトはTグループに近く煙突も2本である。
ちなみに「CNT」は後に航空部門を切り離し、名前に「Aeronautici」(航空)を加えた「CANT」として独立させる。CANTはイタレリ製のプラモデルでおなじみ、素敵スタイルのZ.501で有名だ。

大戦中、27隻の250トン水雷艇は帝国沿岸を航行する船団を護衛し、機雷を除去し、アドリア海対岸から来襲するイタリア海軍魚雷艇艦隊と戦い、ついでに小規模なイタリア沿岸砲撃や対戦哨戒までこなした。小型艦なので目立った戦功はないものの、戦前の想定通りアドリア海に閉じ込められ極めて不活発であった帝国海軍においてはよく働いた方だ。「ライバル」のイタリア艦も「艦の排水量とその戦果は反比例する」と揶揄されるが、とどのつまりアドリア海という場所がそういう環境だったのだろう。
27隻は何度も小損害を蒙りながらも全艦が世界大戦を生き延びたが、帝国が崩壊するとサン=ジェルマン条約によって帝国海軍の全艦艇は連合国へと引き渡されることが決定された。まぁ、ユーゴスラビアが独立して内陸国になってしまったんで、オーストリアやハンガリーが艦船持っていてもしょうがない。
250トン水雷艇はルーマニア7隻、ポルトガル6隻、ギリシャ6隻、そして「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(あんまりにも長いんで後に「ユーゴスラビア」)に8隻が引き渡された。
キットの98-Mは、Mグループ3隻、Fグループ3隻を受け取ったギリシャ海軍に配属され「Kyzikos」(古代都市の名)に改名されている。
「Panormos」となった94-Fは1938年に事故で失われたが、残り5隻は第2次大戦まで生き残っていた。しかし、この5隻も1941年4月のドイツ軍によるギリシャ攻撃時に次々に空襲によって沈められてしまい、Kyzikos(98-M)も4月22日にサラミスで撃沈された。ちなみにProussa(92-F)は珍しいことにイタリア空軍のJu-87「スツーカ」(イタリア軍呼称「Picchiatello」)によって沈められている。

残りの250トン級水雷艇だが、6隻を受け取ったポルトガルはなんか気に入らなかったのか第ニ次大戦前に全艦を解体している。
ルーマニアは第二次大戦開戦時に3隻の250トン級水雷艇を保有しており、ソビエト黒海艦隊に対して運用している。1941年7月9日、Naluca(82-F)はソビエト潜水艦Щ-206を他の小艦艇と共同して撃沈したが、Nalucaは1944年8月20日にソビエト軍航空機(詳細不明)に撃沈された。
残る2隻、Sborul(81-F)とSmeul(83-F)は1944年8月にルーマニアが連合側に寝返った後、ソビエトに接収され黒海艦隊に組み込まれたが1945年10月にルーマニアに返還され、程なくして解体された。

さて、ユーゴスラビアの250トン水雷艇は複雑で、1941年4月の枢軸軍によるユーゴスラビア侵攻時には6隻が残っていたが、全てがイタリア軍に鹵獲されイタリア海軍に組み込まれた。
1943年9月、今度はイタリアが降伏。この際に1隻がドイツ軍航空機に撃沈され1隻が自沈している。残った4隻のうち2隻はドイツが接収し、後にクロアチア海軍に譲渡しているが1隻は英軍魚雷艇に、もう1隻も英国空軍によって撃沈されている。
よくわからないのが最後の2隻で、イタリア降伏後に「亡命ユーゴスラビア王立海軍に返還」となっているが、この亡命ユーゴスラビア王立海軍というのがよくわからない。どうもチトー率いるパルチザン海軍とは違うようだが、どういうものなのか、そしてどうやってアドリア海から脱出したのか(あるいはアドリア海にとどまったのか)はよくわからない。とにかくこの2隻は世界大戦を生き延び、戦後にチトー政権の新ユーゴスラビアに引き渡されている。
最終的に元76-Tは1959年に、そして最後に残った元87-Fは1962年に解体され、250トン級水雷艇は全てが失われた。


なんだか何にもしてないイメージのあるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の中で、珍しい働き者の250トン級水雷艇。オーストリア=ハンガリー帝国海軍のファンならもちろんのこと、ユーゴスラビア海軍ファンや、ついでにルーマニア海軍ファンやポルトガル海軍ファンのモデラーも一応は押さえておきたいアイテムだ。

(第三回に続く)


キット画像はJSCショップサイトからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/250t-class_torpedo_boat
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Yugoslav_Navy
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JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・1 河川モニター”SMS Leitha”

これまで、新リリースのキットに絡んで過去にリリース済のキットについて触れようと思うたび、自作のリスト(テキスト)をつらつらと眺めて情報を拾い集めていたものの、これがまぁ、やたらめったら面倒なんですわ。
で、せっかくPC使ってるんだから表計算ソフトで管理すりゃいんじゃね? と今更になって気づいて古いキット情報をまとめなおしていたところ、「なんでこんなオモシロネタを放置してるんだろう」ってキットがけっこうありまして、今回はそんな風に掘り出してきた過去にリリース済のネタキットの中からポーランドJSC社からリリースされた オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット を紹介。

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右上には「2015/3」の表記があるが、JSCは再版する時にここの表記を書き換えてしまう上に、キット番号の「262」も通しでふられていないので初版がいつごろなのかは良くわからない。一応、カテゴリごとにキット番号はある程度まとめられており、キット番号251番のドイツ帝国巡洋戦艦”ゲーベン”からキット番号269番ドイツ帝国戦艦”フリードリヒ・デア・グローゼ”までが「第一次大戦シリーズ」となっているが、その中でも特になんじゃこりゃ、なキットが今回のネタだ。

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誰も見たこと無いようなオーストリア=ハンガリー帝国海軍の小艦艇達。
キット内容は左上の一番細長い四本煙突の艦が「タトラ級駆逐艦”トリグラフ(SMS Triglav)”」、その右下に並んでいる少し小柄な船が「250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”」、右下の潜水艦が「潜水艦”SM U-5”」、そして左下の平べったい船が「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」である。
どれも小粒ながらピリリと辛いアイテムというか、調べれば調べるほどに知らない話が出て来るというか、そもそもオーストリア=ハンガリー帝国海軍のことなんてなんも知らんので、ここは一つ駆け足に済まさずに筆者の勉強がてらじっくりと紹介していきたい。
第一回となる今回ピックアップするのは「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」だ。

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見るからに河川モニターだ。というか、これ第一次大戦の艦艇なのか? どう見ても19世紀の艦船だぞ。
なお、この写真ではわかりにくいが実際のライタの甲板は砲塔部分が高く、そこから前後にゆるやかに下っている。ただし、これを左右方向のキャンバーと合わせると甲板は前後左右に下っていくゆるやかな山形という複雑な三次元曲線となってしまうのでキットでは前後方向の傾斜は省略されているのかも知れない。

オーストリア=ハンガリー帝国(長いので、以下「帝国」に省略)はもともとが陸軍国であった上に、今ではオーストリア、ハンガリーとも海岸線を持たない内陸国となってしまったために帝国の海軍は非常に影が薄いが、まがりないにも20世紀初頭までは「大国」だったので、もちろんそれなりの海軍力は保持していた。

19世紀中盤、南北戦争で「装甲艦」が鮮烈なデビューを飾ると、各国は競って装甲艦の建造に乗り出す。
帝国は1862年に初の装甲艦「カイザー・マックス級」(排水量3600トン)を完成させ3隻を就航させる。さらに1865年にはより大型の「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級」(排水量5100トン)なんていう、痺れるほどカッチョイイ名前の装甲艦2隻が完成。この2クラス5艦に「ドラッヘ級」装甲コルベット(排水量2800トン)2隻を加えた7隻で迎えた第三次イタリア独立戦争では、リッサ海戦で帝国艦隊旗艦E・F・マックスがイタリア艦隊の装甲艦「レ・ディタリア」にまさかの衝角による体当たりをぶちかまして撃沈。これにより世界の海軍は「装甲艦を沈める最良の方法は衝角攻撃」という間違った天啓を心に深く刻み込むこととなる。

これらの渡洋艦隊とは別に、帝国は河川砲艦からなる小艦隊整備の必要性も感じていた。なにしろ帝国はど真ん中をヨーロッパ有数の大河、ドナウ河が流れている。そして、東をロシア帝国、西をドイツ帝国に挟まれた帝国が領土拡大するためにはバルカン半島へと進出するしかなく、それならドナウ河をプカプカと進んでいける河川砲艦は戦力として最適であった。
そんなわけで1869年、リッサ海戦の英雄ヴィルヘルム・フォン・テゲトフの提案でモニタータイプの河川砲艦2隻の建造が決定され、当時まだ新兵器であった「砲塔」はイギリスに発注された。
設計における難点は、帝国主要河川の水深が非常に浅いことであった。そのため、「モニター」の設計をそのまま流用すると、川底に底をすって悲しいことになるのは目に見えている。かと言って、喫水を浅くするために重量を軽くする=装甲を減らしたら、なんのためにモニターを作るんだかわからない。
この難問に対する帝国造船官ヨセフ・フォン・ロマコの編み出した回答が、「甲板の前後を下げる」というものであった。これにより、艦尾・艦首方向で乾舷を減らし(その分装甲帯の幅も減る)、それでいて水をかぶったらヤバい砲塔リングはそれなりの高さに残すことを同時に達成した。
2隻のモニターは1871年5月17日、4月20日に完成。それぞれが「SMS Leitha」「SMS Maros」と名付けられる。両者の名前はそれぞれオーストリア、ハンガリー両国の河川の名前から取られており、ここにも帝国の複雑な事情が現れていると言えるだろう。

河川モニター「ライタ」の初陣は1878年。日本で言えば西南戦争の翌年にトルコ領ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対し帝国が侵攻した戦いに於いてであった。この戦いで2隻の河川モニターはサヴァ河でトルコ軍に打撃を与えた。
その後、まぁ大抵のモニター艦と同様にライタも急速に旧式化。20世紀初頭にはそろそろこいつら、退役させるか、という雰囲気になっていたが、1914年に第一次大戦が勃発するとすでに帝国海軍で最も古い現役艦艇となっていた2隻のモニターはサヴァ河で再び配置についた。
モニター艦隊はそもそもの世界大戦の発火点、セルビアの首都ベオグラード(ドナウ河とサヴァ河の合流点)占領に向かったが、正直、小国セルビア相手に舐めプしていた帝国軍は予想を反し強力な抵抗に遭遇。ライタは1914年10月、セルビア軍の砲火(詳細不明)が砲塔(19世紀末までに、前装砲2門が配置されていた大型の砲塔はより近代的な後装単装砲を配置した小型のものに換装されている)を直撃、砲塔内の人員が全滅するという大打撃を被っている。ベオグラードは11月30日に陥落したものの、12月15日にセルビア軍に奪還された。
帝国はドイツ軍も呼び込んで、1915年10月に第二次ベオグラード攻略戦を開始。この時は修理の終わったライタはドナウ河小艦隊の旗艦として戦いに参加している。廃墟となったベオグラードは10月9日に再陥落した。

1918年、いろいろあってロシア(ソビエト)領内でチェコ(当時帝国領)軍団が大暴れしているのに乗じて、チェコの活動家トマーシュ・マサリクが「どうすか、いっそチェコを独立させちまうってのは。これを認めたら連合軍と戦ってる帝国はあっという間にボロボロっすよ」と持ちかけると連合軍はあっさりと「イイネ!」と同意。チェコは独立を宣言する。おいおい、それがありなのかよ、と思った帝国内の諸国は次々に独立を宣言。マサリクの言葉通りにオーストリア=ハンガリー帝国はあっというまに崩壊した。
帝国から放り出されたハンガリーは1919年3月22日、クン・ベーラ率いる共産政権が権力を掌握。「ハンガリー社会主義連邦評議会共和国」、別名ハンガリー・ソビエト共和国が成立する。
と、同時に「共産政権断固粉砕! あと、ハンガリーは一次大戦中にルーマニアにひどいことしたよね!」とルーマニアがハンガリー・ソビエトに侵攻を開始。「もう老兵なんで、引退させてください……」と思ってたライタはハンガリー・ソビエト軍ドナウ艦隊としてまたも現役延長が決定した。
1919年6月、ライタは革命干渉軍として押し寄せるチェコ軍との戦いを続けていたが、ハンガリー・ソビエト政権は戦争そっちのけで資本の国有化を急いでおり、それに抵抗する国民に対する容赦ない粛清で支持を失いつつあった。さらに、ぶっちゃけ、ハンガリー・ソビエト軍は軍事センスに乏しかった。
6月24日、ライタに掲げられていた赤旗が降ろされ、赤・白・緑のハンガリー国旗が掲げられる。これは世界でも最も初期の「反共産革命」だったが、共産軍の弾圧により反乱は失敗。ハンガリー・ソビエト政権の粛清は激しさを増した。
1919年8月、ティサ川でルーマニア軍と戦っていたハンガリー赤軍が崩壊。ルーマニアはブダペストを占領し、ハンガリー・ソビエト政権は5ヶ月もたずに崩壊した。

ルーマニア軍が工場や鉄道の施設をあらかた「戦後賠償」として持ち去った後、ハンガリーは保守派が「ハンガリー王国」を復活させる。しかし連合軍がハプスブルグ家の王が権力を握ることを拒否したために、王はいないのに王国は復活するなんて滑稽だわ、な逆ラピュタ状態だった。
王に代わってハンガリーで実権を握っていたのが、元帝国海軍提督、ミクロシュ・ホルティ。
ホルティは海軍軍人だったので、いまさらライタみたいな船をとっておいても仕方がない事をわかっており、ライタは民間に払い下げられることとなった。
1928年、砂利採取業者がライタを獲得。ベルトコンベアが据え付けられ、ライタは砂利採取用のハシケに改造された。

ハンガリーはその後右傾化し、ドイツと同盟を組んで世界大戦に参戦し、途中から連合軍に寝返ったルーマニアと戦い、ソビエトに占領され、王様のいない変な王政は廃止され、第二次共産政権が成立し、ハンガリー動乱でソビエト軍にボコられ、それでも民主化のうねりは高まり、ソビエト崩壊を機に複数政党制を認め、共産党独裁の軛から放たれたが、変な形の砂利採取用ハシケはそんなこととは関係なく川の中洲から岸へベルトコンベアで砂利を送り続けていた。
1992年、元ライタを所有する会社がスイスの企業へと身売りすることとなった。当然、会社が保有する全資産も一緒に売り払われる。
この時、ハンガリーの歴史家達が立ち上がった。実は1970年代、すでに「どうやらあのハシケはライタらしいぞ」という噂はたっていたのだがなにしろ帝国時代の遺物なもんだから、共産化以前の功績を一切否定する共産党に保護を申請したところで「ふーん、そう」と相手にされないのは目に見えていた。
しかし、今は時代が違う。海外の企業が貴重な歴史的な船を「古いし、イラネ」とスクラップにしてしまう前に保護しなければならない。
冷戦期には西側だったオーストリアの研究者達とも力を併せ、研究者達は資料を集め各所へ請願を行う。この結果、ライタは歴史的価値を認められハンガリー軍事史博物館が買い戻すこととなった。
スイスから里帰りしたライタは2005年からレストアが行われ、建造当時の姿へと戻され、2010年8月20日に博物館として公開が始まる。同日、ハンガリー国防大臣ヘンデ・チャバがライタを「ハンガリー陸軍河川艦隊名誉旗艦」に任命した(現在のハンガリーに海軍はない)。
現在もライタはブダペストでドナウ川に係留されている(写真によって背景が明らかに異なるので、場所は時々移動してるのかもしれない)ので、ハンガリー旅行の際には是非とも見学をスケジュールに組み込みたい。休館日は月曜日。10時から16時まで見学可能だが、見学は30分に1回づつのガイドツアーに参加する形となるので注意が必要だ。

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Wikipediaからの引用で、現在のライタ。船体前後、特に船尾方向が大きく下げられている独特の形状がわかる。砲塔や内装はもちろん復元されたレプリカだが、雰囲気はいい。砲塔の上の円筒はどうやら司令塔のようだ。
JSCのキットは博物館と同じ建造時の状態を再現しているが、前述の通り第一次大戦時には砲塔を換装しているので他の艦艇とは整合性に欠ける。しかし、良く考えたら海にいる他の艦と河にいるライタを並べること自体がファンタジーなんで細かい事は忘れよう。

ハンガリー最古にして、オーストリア=ハンガリー帝国海軍艦艇唯一の現存艦艇であるライタ。河川モニターファンならこのキットを見逃すべきではないだろう。

(第二回に続く)


キット画像はJSCショップサイトからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Leitha
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー評議会共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー・ルーマニア戦争

http://lajtamonitor.hu/
非常に詳しいライタのページ(ハンガリー語)。少しわかりにくいが、右上の「LEITHA」のタイトルの下にある「TÖRTÉNET」(歴史)をクリックすると、各時期の艦の姿を豊富な写真、図版で見ることができる。必見。

http://welovebudapest.com/culture/museums.2/lajta.monitor.museum.ship
ハンガリーの博物館紹介サイト内のコンテンツ。博物館としてのライタの情報、現在の館内の様子などが見られる。

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スペイン装甲部隊史・1

今回は新製品情報書くつもりが、前史から書き始めたら製品のアイテム出てくるまでにけっこうな分量になってしまったのでカテゴリを変更してお送りしてます。良かったら読んでってくださいな。

そもそもはポーランドMODELIK社の新製品のアナウンスがことの始まり。

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なんだい、こりゃ。
最初、映画用のハリボテ戦車かと思ったが、どうやら実在するらしい。
こんな「World of Tanks」にも出てこないような戦車、よく知らんのですがスペインの国旗を挙げてるからスペインの戦車史を辿っていけばどっかで出会えるだろう、ってことで小国陸軍戦記の迷宮へようこそ。

第一次大戦には中立を守ったスペインだったが、大戦で登場した新兵器「戦車」に対しても知らぬ存ぜぬで通すわけにはいかなかった。
そこでまず1918年10月、フランスに対して「ルノーFT軽戦車を売ってちょうだい」と打診したが、フランスは終戦処理が忙しくって、売ると言ったり売らないと言ったりぐだぐだを繰り返し、1919年6月になってやっと1輌のルノーがスペインに到着した。しかもスペインは「プトー37ミリ砲装備型がいいです」と言っていたのに、このルノーは8ミリオチキス機銃装備型だった。
しかたないのでスペイン軍はルノーの機銃を自軍でも採用されているスペイン国産の7ミリ機銃に換装しつつ「お世話になっております、スペイン軍です。ルノーFTはとてもいい戦車ですね! つきましてはさらに10輌、できればうち2輌は37ミリ砲装備型で追加注文をさせていただけませんでしょうか? 取り急ぎ要件のみにて失礼させていただきます」と、追加購入を打診したが、フランス側は「今、売ることができるルノーFTは1輌もありません。あと、ルノーの機銃をお前らの7ミリ機銃に換装するなよ」とつれない返事。
トータルで3800輌も作ったルノーFTの1輌も売ることができない、ってどういうことだ。下手に出ればいい気になりやがって、というわけでスペインはアメリカとイギリスにも戦車購入を打診したが、全て断られた。なんたる仕打ち。中立守ったことがそんなに悪いのか。「スペイン風邪」だってスペインから情報が広まっただけでスペイン原産じゃないんだぞ。

文句を言っても売ってくれないものは仕方ないんで、スペイン軍は「保有戦車:1輌」という近代国家とは思えない寂しい状態で頑張っていたが、1921年にスペイン領モロッコでのベルベル人の反乱が激化してくるといよいよ戦車の必要性が痛感され、改めてフランスに戦車購入が打診された。
なぜかフランスは今度は気前よく、機銃装備型ルノーFT10輌に加えてオマケに武装の代わりに無線を積んだ指揮戦車1輌まで売ってくれた。なんで19年には1輌も売る戦車がなくて21年には10輌売れるんだ。なめてんのか。なんてことは思っても口に出さず、スペイン軍初の戦車部隊はルノーFT12輌で編制された。さらにフランス軍は戦車なんだか船なんだか分からないシュナイダーCA1まで6輌売ってくれるという大盤振る舞い。要するに、戦争終わって落ち着いてみたら戦車が余剰になっちゃったんだな。

1922年3月18日、スペイン軍ルノーFT軽戦車中隊がモロッコで実戦に投入された。ベルベル人側に対戦車兵器はない。こりゃどうやっても戦車部隊のバカ勝ちじゃよ! がっはっは! とスペイン軍は前進したが、ベルベル人の戦意はルノー戦車ごときで踏みにじれるものではなかった。
敵と接触すると、目立つルノー戦車ははたちまち凄まじい銃火に包まれた。さすがに戦車は銃弾を跳ね返したが、随伴する歩兵はそうはいかない。歩兵と切り離された戦車だけが前進してもどうしようもないので戦車も下がった。この間に、2輌が機械トラブルにより遺棄されている。なかなかうまくいかんもんだね。
初戦は失敗に終わったスペイン戦車部隊だが、その後は小規模に戦果を重ねていき、1925年9月9日には上陸部隊の一員としてモロッコの港で敵前上陸を果たし、スペイン戦車部隊は世界で初めての水陸両用作戦に参加した装甲部隊となった。
1926年にベルベル人とのリーフ戦争は終わり、戦車部隊はスペイン本国へと帰還する。

スペインではモロッコでの戦訓を取り入れた新型戦車の開発が始まっていた。
リーフ戦争でシュナイダー戦車隊を率いていた Carlos Ruiz de Toledo 砲兵大尉の先導で完成した新型戦車”Trubia A4”は、なんていうかルノーFT軽戦車を拡張してカッコ悪くしたような戦車で、「火力が弱い」というルノーFT戦車の弱点を補うため、いっぱい機銃がついていた。さらに特徴的なのは砲塔で、全高の半分で分割されており上半分だけを独立して旋回させることもできた。上半分に1門、下半分に1門機銃を装備しているので、下部の旋回ができなくなっても上部だけ回して戦い続けることができる、というアイデアだ。すごいね。ちなみに車体にも1門機銃があるから、前方火力はルノーの3倍だ。
どうでもいいけど、車体の前についてる円盤は何がしたいの?
*3月17日追記
コメント欄で火炎瓶さんから「車体前方の円盤は対鉄条網用のワイヤーカッターではないか」とのコメントをいただきました。
ああ、そうか! こいつ、完成したのは戦間期だけど、基本的には第一次大戦の戦車なんだ!
リーフ戦争でルノーFTが鉄条網を超えられなかったか、あるいは逆に戦車だけが鉄条網を乗り越えていってしまうせいで随伴する歩兵が残った鉄条網に阻まれて切り離されてしまうかした戦訓を取り入れたのでしょうね。
ツッコミありがとうございます!


スペイン軍は1926年に完成した試作車両を見て「いいね!」ボタンを押して4輌の試作を追加発注した。見た目はちょっとアレなことを別にすれば、スペインは念願の国産戦車部隊を手に入れるのか、と思われたがなぜかここから急にテンションが下がってしまう。飽きたのか。
追加発注を受けた4輌のうち、最初の1輌が完成したのが1928年。1931年にもう1輌、最後の2輌が完成したのはなんと1934年だった。
6年もかけて試作してるうちに、Trubia A4 は5~6周ぐらい周回遅れになってしまった。なにしろ1934年といえば、例えばソビエトではT-26が単一砲塔になり45ミリ砲が搭載されていたころだ。そもそも、日本の八九式戦車が試作完了したのが1928年だから、まぁ、最初っからいろいろと間に合っていない感は否定できない。


と、いったところで今回はここまで。
次回は怪しい装甲車両が列をなして登場する装甲百鬼夜行のスペイン内戦から続きますんで、良かったらまた冷やかしに来てくだされ。

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中華民国空軍 王牌飛行員 黄新瑞・5

途中にキット紹介なんかも挟みつつも5回も続いた本項、今回が最終回となります。

1938年春の空戦で撃墜数を「7」まで伸ばしたものの負傷した黄新瑞氏が、再び戦列に復帰するのは1940年冬のことでした。
彼が復帰のために療養している間に、日中の航空戦力は大きく変化していました。まず、中華民国空軍にはソビエトからの支援が入り、大量のポリカリポフI-15とそのバリエーション、それからI-16が供与されます。あれ? 中華民国って、反共政権だからソビエトとは敵対関係のはずでは? みたいな細かい事を気にしていてはいけない。ソビエトは必要とあればファシスト・ドイツとだって同盟組んじゃう国だ。
黄新瑞氏も1940年11月にポリカリポフI-15部隊へ転属となりますが、この部隊の装備機はすぐに脚を引き込み式としたI-153に転換されます。
また、戦場も中国の海岸部から内陸へと移っていました。

1941年3月14日、かつての蜀の都、四川省成都へ移動していた黄新瑞氏の部隊は日本軍航空隊来襲の警報に接し、迎撃に向かいます。
迎撃隊の陣容は堂々31機のI-153。黄新瑞氏はそのうちの9機を率いていました。
しかし、果たして彼は知っていたのでしょうか。今、向かっている相手が日本海軍最新鋭機、零式艦上戦闘機を装備した第12航空隊だということを。第12航空隊は前年9月13日、I-16、I-15の混成部隊30機に対し零戦13機で奇襲を仕掛け、損失ゼロでほぼ全機撃墜という凄まじい戦果を挙げていました(この空戦については渡辺洋二氏の「大空の戦士たち」に詳しい)。

12機の零戦からなる第12航空隊に対し、迎撃隊は果敢に襲い掛かりましたが戦闘は一方的なものでした。
I-153は次々に撃墜され、黄新瑞氏も頭部に負傷します。
空戦の結果、I-153は11機が撃墜され7機が損傷、零戦隊に損害はありませんでした。
この結果を聞き、中華民国空軍最高司令官”周至柔”将軍は号泣したといいます。

黄新瑞氏は病院に収容されたものの、二日後に死亡しました。
零戦の登場により、中国空軍は一方的な敗退を重ねるようになり、中国軍パイロットが撃墜を記録することはほとんどなくなりました。
そして1941年末、日本海軍は零戦をもって太平洋戦争へと突入します。
中国空軍が零戦に対し再び優位に立つのは終戦間近の1945年、アメリカからP-51ムスタングが供与されてからのことでした。

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中華民国空軍 王牌飛行員 黄新瑞・4

さて、傷の癒えた黄新瑞氏は機体をグロスター・グラディエイター、中国空軍名称「格洛斯特“斗士”」に代え、第29中隊の隊長となります。
1938年2月24日、第29中隊は12機のグラディエイターで日本軍の水上機母艦、「能登呂」、「衣笠丸」から発進した九五式水上偵察機の迎撃に向かいます。九五式水上偵察機は、複葉でフロート付きの機体とはいえ、その空戦性能は新型の九六式艦上戦闘機(単葉)にも匹敵するといわれており、侮りがたい敵です。
しかも、中国軍のグラディエイターは機銃がやたらと故障(ジャム:弾詰まり)するという問題がありました。これは、どうやらベルギーから調達した弾薬が不良品だったみたい。
グラディエイターは下翼ポッド、胴体側面に4門の機関銃を装備しているので、これがちゃんと火を吹けばかなりの火力となるはずが、あっというまに稼動機銃が1門とか2門になってしまうためにグラディエイターのパイロットはダメージを与えようと敵に近づきすぎ、後部銃座の返り討ちとなる機もありました。
この空戦で黄新瑞氏は1機を炎上させ、さらに2機にダメージを与え燃料の尾を引かせたものの直接に撃墜の確認はできませんでした。しかし、後に中国軍は2機の残骸を発見し、うち1機は黄新瑞氏が炎上させたものと認定され撃墜数は「3」となります。
日本軍の記録では、「能登呂」、「衣笠丸」それぞれの航空隊は1機づつ未帰還となった他、能登呂の1機は損傷しながらも着水時に破損、損失となっています。なお、この着水時に破損した能登呂の1機(岩城邦宏大尉乗機)は、数えてみたら138発被弾していた、というから凄まじい。
中国空軍の損害も多く、2機が撃墜された他にも複数の機体が損傷。さらに爆撃で穴だらけになっている滑走路でコケる機体もあって稼動機は半減してしまいます。

この後、2月28日に黄新瑞氏は哨戒飛行中にまたも九五式水上偵察機4機を発見し突撃、1機を撃墜し撃墜数を「4」としますが、そうじゃなくて2月25日に九五式艦上戦闘機を撃墜したんだよ、とする資料や、いやいや、両方撃墜してるよ、とする資料もあるそうです。

1938年4月13日、第29中隊は日本海軍の空母「加賀」が発進させた攻撃隊に対し、迎撃に飛び立ちました。加賀航空隊は九四式艦上爆撃機18機と、その護衛に九五式艦上戦闘機3機、さらに単葉の新型戦闘機、九六式艦上戦闘機3機が随伴していました。
対するのは第29中隊のグラディエイター9機。さらに他の隊の9機が合流し、18機のグラディエイターで阻止を試みます。
互いを発見するのはほぼ同時でしたが、黄新瑞氏は護衛戦闘機が反応するよりも早く飛行場上空へ差し掛かりつつあった爆撃機編隊へ向かって突進、1機に集中射撃を浴びせ炎上、墜落させます。
向かってくる九五式艦上戦闘機隊との格闘戦となり、さらに1機を撃墜。しかし、この戦闘で彼のグラディエイターは機銃が次々に故障、発射可能なのは1門となってしまいます。
そこへ、日本軍の九六式艦上戦闘機隊が向かって来ますが、黄新瑞氏は残る機銃1門でこれに立ち向かい1機を撃墜。この日3機目の撃墜を果たします。しかし、九六式艦上戦闘機隊の蝶野仁郎小隊長の攻撃を受け機体は炎上。
左手を負傷した黄新瑞氏は炎上する機体から脱出に成功するものの傷は重く、療養には時間が必要となりそうでした。

1日で3機を撃墜し、黄新瑞氏は撃墜数を「7」に伸ばしたものの、次回いよいよ最終回です。

ところで昨日「キットがないのよー」と書いた九四式水上偵察機ですが、相互リンクしていただいている紙模型静岡工場のナオさんから「GPMの巡洋艦「那智」に、200分の1で九四式水上偵察機が付いてきますよ!」と有りがたい指摘をいただきました。いやー、艦船キット付属の機体のことは完全に忘れてましたー。ご指摘、ありがとうございます。
なお、本日登場の九五式水上偵察機も、航空スケールのキットは見つからなかったものの、FlyModelの戦艦「長門」に200分の1で付属してるようです。

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