ノルウェー オスカシボルグ要塞・後編

前回までのあらすじ。
ノルウェー軍オスカシボルグ砲台を舐めプしていたドイツ軍重巡洋艦ブリュッヒャーは至近距離から命中弾を食らって大炎上中。

夜半にエリクソン大佐から呼び出されたアンデルセン臨時中佐(すでに13年前に退役して現在は年金生活中)は1909年から27年までこの魚雷陣地に勤務しており、発射装置については熟知していた。
しかし、問題は魚雷だった。40年前に製造されたオーストリア=ハンガリー帝国製ホワイトヘッド魚雷はこれまで合計して200回、訓練で発射、燃料(圧搾空気)切れ、回収、を繰り返してよく整備されていた。しかし、実際にその弾頭が作動するのかどうかは誰にもわからなかった。っていうか、魚雷って、そんなに繰り返し使うもんなんだろうか。
1940年4月9日4時30分。
アンデルセン中佐の目の前500メートルに炎上する重巡洋艦ブリュッヒャーがいた。
水面下3メートルまで沈められた魚雷が発進、最初の1発は中佐がブリュッヒャーの速度を速く見積もり過ぎていたために船体前部、A砲塔の下で爆発した。続く2発目では標準は修正されブリュッヒャーの船体中央に命中、船体隔壁を多数吹き飛ばした。

アンデルセン中佐は後続する艦艇に供えそれ以上の魚雷発射を控えたが、すでにブリュッヒャーの運命は決していた。
機関が停止し、漂流を始めたブリュッヒャーは座礁を防ぐために錨を降ろし、誘爆する前に全魚雷を陸地へ向けて発射したが5時30分、10.5センチ高角砲の弾薬庫に火が入り誘爆。船体側面が大きく裂けた上に艦の燃料に引火、さらに電源を喪失したために排水もできなくなり、もはや艦を救うことは不可能となった。
6時20分ごろブリュッヒャーは横転、艦首から沈み水面下に消えた。

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横転する重巡洋艦ブリュッヒャー。Wikipediaからの引用(この項キット表紙以外同じ)。
余談になるが、近代ドイツ海軍における「ブリュッヒャー」はこの船が2代目で、帝政ドイツ時代にもう一隻、装甲巡洋艦「SMSブリュッヒャー」という艦があるのだが、こちらの艦も1915年1月24日のドッガーバンク沖海戦で英軍艦隊の集中攻撃を受けて戦闘力を喪失した後、イギリス軍軽巡洋艦の雷撃を受けて横転沈没している。

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横転する装甲巡洋艦ブリュッヒャー。
偶然ながら、「ブリュッヒャー」は2代に渡って横転沈没する様が写真に収められた艦となった。

ブリュッヒャーの乗員とオスロ上陸要員の合計、約2200人のうち800人が犠牲となった(日本語版Wikipediaの「乗船していた2,202人の上陸部隊の内、830人が艦の火災や海に溺れ戦死した」という記述は上陸部隊と乗員の総計を混同しているものと思われる)。

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まだ冷たい5月の海から引き上げられた生存者。黒い服が海軍で、肩章襟章のついた少し明るいグレーの服が陸軍だろう。一番右の水兵、ほっとしたからって笑ってる場合じゃないぞ。

生存者(艦長と戦隊司令官含む)は全てノルウェー軍の捕虜となり近くの農場に集められたが、それを監視するような余分な兵力をノルウェー軍は持っていなかった。
夜18時30分、監視していたノルウェー軍が撤収。放ったらかしにされたドイツ軍は仕方ないのでみんなで負傷者を担いで歩いてオスロに行き、そこで病院に収容してもらった。

一方、ブリュッヒャーの後ろにいたリュッツォーその他はどうなったのかと言うと、ブリュッヒャーに水柱が立つのを見たリュッツォーはフィヨルドが機雷で封鎖されていると判断し後退。沿岸砲台の射程外から艦砲射撃を行ったがこれは命中しなかった。
4月9日の夜が明けるとドイツ空軍の空襲が始まる。要塞の対空戦力はわずかに40ミリボフォース砲2門(しかも1門は22発撃ったら故障した)と7門のコルトM29重機関銃(ブローニングM1917の輸出型)。これで世界最強のルフトヴァッフェを追い返せるはずもなく、9時間に渡る爆撃で要塞に対しておよそ200発の爆弾が投下されたが、どういうわけかこれまた一発も命中しなかった。

しかし、戦況はすでにノルウェーにとって致命的となりつつあった。各地でドイツ軍は上陸を成功させており、オスカシボルグ要塞にもオスロフィヨルド湾口に上陸したドイツ軍部隊が接近しつつあった。エリクセン大佐は寄せ集めの新兵では抵抗するだけ無駄と判断し、4月10に要塞を脱出。要塞はドイツ軍地上部隊によって無傷で占領された。同日、ドイツ軍オスロ占領。無防備都市になったオスロで薄ぼんやりしていたブリュッヒャー関係者も全員解放された。
オスカシボルグの戦いにおけるノルウェー側の損害はドイツ軍反撃の流れ弾による民間女性2名、うっかりドイツ軍掃海艇に近づいた紙運搬船の乗員2名(これも民間人)のみであったという。

オスカシボルグ要塞がオスロを守りきったのはたった1日だった。しかし、この貴重な1日の間にノルウェー王室、政府、議会はオスロを脱出。さらにオスロ中央銀行は備蓄してあった50トンの金の搬出に成功。それら全ては英国海軍によってイギリス本土へと送り届けられた。
さらに、ブリュッヒャーが沈没する際、事前に作成してあった軍政の計画、さらには逮捕すべき反動分子のリストなども失われており、ドイツ軍の占領政策は大きな遅れを取ったと言われている。

時は流れ1945年5月12日、ノルウェーを占領していたドイツ軍部隊が降伏。
オスカシボルグ要塞には40年4月9日に掲げられていたノルウェー国旗が再び掲揚された。
この式典にはエリクセン大佐も出席していたという。
戦後、エリクセン大佐は「要塞の放棄は早すぎたのではないか」との嫌疑をかけられ査問会が開かれたが、出された結論は当然ながら「まぁ、仕方ないよね」というもので無罪放免となった。大佐は1958年、82歳で死去。オスカシボルグのもう一人の老英雄、年金生活でブリュッヒャーを撃沈したアンデルセン中佐は1945年12月31日に亡くなっているが、同年12月13日の国王も列席した式典には出席しているので、なんらかの理由による急死だったようだ。

オスカシボルグ要塞は戦後さらなる改修を受け1990年頃まではオスロ防衛ラインに組み込まれていた。その後、砲兵士官学校となり2002年に6月28日に軍の施設としては閉鎖。要塞は博物館として整備され、現在は無料で公開されている。
2014年にドイツ軍のノルウェー侵攻とノルウェー軍の抵抗、そして国王の脱出を描いた映画「Kongens nei」撮影のために28センチ砲が実際に空砲を発射し、メディアは「1940年4月9日以来の発砲!」と書き立てたが、実際には50年代に試射が行われておりいささかこれはドラマチックな演出を狙いすぎたフカシ記事だったようだ。
さらに嬉しい情報。この「Kongens nei」、「ヒトラーに屈しなかった国王」の邦題で今年12月から日本で公開されることが決定(シネスイッチ銀座から、順次全国公開を予定)しているそうだ。ノルウェー軍ファンなら、大スクリーンでオスカシボルグ要塞の発砲が見られるこの機会を逃すべきではないだろう。

Google mapで見るオスカシボルグ要塞
特徴的な防盾付きの主砲が4門見えるが、よく見ると一番右側(リンクの地図は南北逆転しているので一番西側の1門)は砲身の短い30.5センチ砲。ストリートビューにも対応しているので、是非重砲の砲尾が並ぶ迫力を疑似体験していただきたい。

また、7月の段階では「近日発売」だったGPMの重巡ブリュッヒャーだが、8月になって定価が表示され販売が開始された。

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前編でも出したけども一回表紙。重巡といえども海モノ標準スケール200分の1で完成全長1メートルのビッグキット。難易度は意外にも3段階評価の「2」(普通)。定価は140ポーランドズロチ(約4600円)。また、手すりなど細い部品のディティールアップ用レーザーカット済パーツ、機銃座などの複数作成が必要な小部品のレーザーカット済パーツがそれぞれ140ズロチ(約4600円)、真鍮製砲身が50ズロチ(約1600円)で同時発売となる。
北欧作戦ファンのモデラーならこの冬は映画館に出向き、その余韻に浸りながらブリュッヒャーを製作するのもいいだろう。
GPMには是非とも200分の1オスカシボルグ要塞、もしくは25分の1オスカシボルグ28センチクルップ砲のキット化をお願いしたいところだ。



画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブリュッヒャー_(重巡洋艦)
https://en.wikipedia.org/wiki/Oscarsborg_Fortress
https://ja.wikipedia.org/wiki/オスロフィヨルドの戦い
https://en.wikipedia.org/wiki/Birger_Eriksen
https://no.wikipedia.org/wiki/Andreas_Anderssen
それぞれ、日本語、英語、ノルウェー語のページを参考とした。
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ノルウェー オスカシボルグ要塞・中編

前回までのあらすじ。
オスロ占領したるで! と意気込んだドイツ海軍第5ノルウェー上陸部隊は意気揚々とオスロフィヨルドを進んでいた。先頭を進むのは旗艦、重巡洋艦「ブリュッヒャー」。半年前に就航したピッカピカの新鋭艦だ。
対するオスカシボルグ要塞は100年前に建造された要塞で主砲は50年前のもの。司令官は定年前の爺様で、配置についた兵士は訓練前の新兵さん。
……ごめん。先週、「オスカー・クメッツ少将、なんにも考えないで前進ってちょっと不用心すぎじゃないすか?」みたいな調子で書いてしまったが、これで前進しなかったらその方が問題だわ。

さて、運命の1940年4月9日早朝04時21分(ノルウェー時間)、オスカシボルグ要塞司令官、エリクセン大佐はオスロに向かって粛々と進む艦隊に対し砲撃開始を命令したが、途端に聞き返された。
「え、本当に砲撃するんですか?」
この時点で艦隊の正体は依然として不明であった。もちろん、ドイツ軍である目算は非常に高いがもしかすると英軍が進出してきたのかもしれない。どちらにせよ総司令部との通信は混乱の中で途絶してしまい確認する手段はなかった。そもそも、軍の規定で沿岸砲台を発砲する時はまず警告として空砲を発射することとなっていた。
しかし、大佐は先頭の艦に標準を合わせ、装填されている榴弾を発射しろと言っている。
あと半年で定年を迎える老大佐は躊躇せず答えた。
「勲章を授与されるか軍法会議にかけられるか、2つに1つだ。撃て!(Enten blir jeg stilt for krigsrett , eller så blir jeg krigshelt. Fyr!)」

前回説明した通り、オスカシボルグの主砲は4門。うち3門の28センチ砲はそれぞれ旧約聖書から「モーセ」「アロン」「ヨシュア」と名付けられていた(もう一門の30.5センチ砲は「メトセラ」)。しかし、砲はあっても砲員がいなかった。集められた兵士(叩き起こされたコック含む)のうち砲の操作ができる者はかろうじて1門分しかおらず、やむを得ずそれらを2門に振り分け、新兵にそれを補佐させた。
サーチライトが点灯され、闇の中に浮かび上がる艦影に向けモーセ、もしくはアロン(はっきりしない)から第1弾が発射された。距離約1800メートル。このクラスの火砲にとっての1800メートルは近い。至近距離での撃ち合いとなり「舷舷相摩す」とまで言われた1905年の「日本海大海戦」でさえ、最も接近した彼我の距離約4000から5000メートルだった。その半分からの射撃だから、これはほとんど「接射」と言っていい。
ちゃんと整備された火砲なら、この距離で巡洋艦クラスの的を外すことはあり得ない。255キロの爆薬が充填された28センチ砲弾は1発でブリュッヒャーの砲撃指揮所を吹き飛ばした(予備の指揮所があるので砲撃不能になるわけではない)。
続いて2発目が発射され、今度は観測機格納庫側面を突き抜けて爆発。アラドAr196観測機と航空燃料が燃え上がり、装甲甲板を突き抜けた爆風が機関を損傷させる(1発目、2発目それぞれの命中箇所、効果については資料によってばらつきがある)。

突如被弾した2発の砲弾で燃え上がったブリュッヒャー艦上は混乱を極め、散発的な反撃は全て目標を飛び越しノルウェー側に損害を与えることができなかった。
やむを得ず、ブリュッヒャーが沿岸砲台をやり過ごそうと増速するのに対し、ノルウェー側は近隣の砲台から15センチ砲、57ミリ砲を撃ちかける(これらの火砲は、本来機雷原の掃海を妨害するためのものだったが、この時は機雷そのものが敷設されていなかった)。
13発の15センチ砲、30発の57ミリ砲を被弾しながらブリュッヒャーはオスカシボルグ主砲陣地の前を駆け抜けた。
滅多打ちはブリュッヒャーの消火作業を妨げ、さらに1発の15センチ砲弾が操舵装置を破壊し、ブリュッヒャーは左右のスクリューで進路を制御せざるを得ずさらに速度が低下した。
奇妙なことに、この時ノルウェーの砲員はブリュッヒャー乗員が「Deutschland, Deutschland über alles(ドイツ国歌の歌い出し)」と歌っているのを確かに聞いたという。
オスカシボルグ主砲28センチ砲は装填に手間取り、結局3発目は発射できなかった。

沿岸砲台の射界を抜けた時、ブリュッヒャーはひどく損傷していたが、まだ沈没に至るほどではなかった。
これで一息つける、とドイツ側は思ったに違いない。
だが、実は艦隊はオスカシボルグ要塞で最も威力のある装備の前に、今まさに差し掛かろうとしていた。
1898年から3年かけ、ノルウェー軍はオスカシボルグの北に魚雷発射装置を設置していた。魚雷陣地は3本の洞窟から構成されており、それぞれが2基の魚雷ラック(それぞれ1発を格納する)を持っている。魚雷を発射する時はこのラックを水面下までちゃぷんと降ろして魚雷を発進させ、もう1基と交代。予備の魚雷がもう一発準備してあるんで2発目を打ってる間に3発目を装填して、うまくいけば3発目を発射。合計で3x3の9発の魚雷が発射できる計算になる。
ドイツ軍情報部はどういうわけか、この存在をすっかり見落としていた。あるいは、知ってはいたが、どうせ大したことないから放っておこう、と思ったのかもしれない。
まぁ、それも仕方ない。なにしろこの魚雷陣地、建設された1900年にオーストリア=ハンガリー帝国からホワイトヘッド魚雷を購入した後、一度も装備の更新をしていないのだから。
しかも、この魚雷陣地の本来の指揮官は3月に健康を害して療養中で、代わりに指揮についていたのがアンドレアス・アンデルセン海軍中佐(Andreas Anderssen)。「中佐」といっても現役ではなくて、1927年にすでに除隊しており現在は年金で生活していた(1879年生まれ)。


(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・前編

カードモデルと関わりが深かったり関係なかったりする世界のマイナー物件を、今見てきた資料を元にドヤ顔で語るマイナーアイテム列伝、今回紹介するのは某幼女の戦記アニメ(第7話)で有名になったような気がしたけれども、気のせいだったノルウェー オスカシボルグ要塞だ。

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写真はWikipediaからの引用で、要塞主砲のクルップ28センチ砲。
恐竜を思わせる鋭角な防盾が特徴的。砲の前面はコンクリートの傾斜面となっており砲の下を隠しているので防御力は高そうだ。

なぜ唐突にノルウェーの要塞の話なんか始めたのかと言うと、ポーランドGPMの新製品、ドイツ重巡洋艦「ブリュッヒャー」の話をしようと思って下調べをしたのに、良く見たら新製品じゃなくて近日リリースの予告だったので急遽主役をブリュッヒャーから要塞の方に切り替えたからだ。

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GPM公式ページから表紙画像。左下の砲がオスカシブルグの28センチ砲。オスカシボルグ要塞の戦いは2016年のノルウェー映画「Kongens nei」(英語タイトル「The King's Choice」。日本未公開)で再現されおり、2016年から2017年にかけてはいつの間にか世界的に空前のオスカシボルグブームが来ていたと言えよう。

ノルウェーの首都、オスロは「オスロフィヨルド」という細い湾の奥に位置している。
首都を守るためにこの湾を封鎖する沿岸砲台を築こう、ってのは自然な流れで、オスロフィヨルドの狭隘部分に栓をするような形の島には17世紀ごろから何度か要塞が建造されていた。
現在の近代的要塞は1850年代に建造されたもので、完成時に当時ノルウェーを実質支配していたスウェーデンの王様(ノルウェー王兼任)オスカル一世が要塞を見に来たことを記念してオスカルの砦、「オスカシボルグ」と名付けられた。
19世紀後半以降の軍事技術の進化はめざましく、オスカシボルグも魚雷発射装置やドイツクルップ製新型後装ライフル砲の設置、コンクリートベトンによる強化などでいろいろと頑張ってみたものの、「沿岸砲台」という設備そのものが20世紀序盤にはすでに時代遅れとなりつつあった。

時は移って1939年、ドイツが北欧への侵攻を決定する。
ドイツは鉄鉱石の輸入をスウェーデンに頼っていたが、スウェーデン北部の港は冬季に凍結してしまうため、冬季の積み出しはノルウェーの港に頼っていた。ノルウェーは中立だが、連合軍寄りの姿勢を取っており、連合軍に加わるかも知れないし、あるいは連合軍がノルウェーを占領するかも知れない。ドイツは鉄鉱石の輸入ルートを維持するためにはノルウェーの占領が必要であった。
イギリス海軍の勢力下にある北海に面したノルウェーを一気に占領するため、ドイツ軍はノルウェー主要6箇所に同時上陸するという画期的な作戦を立案する。そのうちのオスロに上陸するのが第5部隊で、重巡洋艦「ブリュッヒャー」を旗艦に、ポケット戦艦「リュッツォー」軽巡洋艦「エムデン」に水雷艇、掃海艇が随伴する。
旗艦になったブリュッヒャーはアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦2番艦。名前はワーテルローでナポレオンを破ったプロイセン王国のゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥にちなむ。ブリュッ、と感じたのでヒャーとなった、というネタを書こうかと思ったのだが、下品過ぎてやめた。
あれ、ポケット戦艦が序列2番で、重巡が旗艦なの? と思ったが、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦1万4千トン、ドイッチュラント級ポケット戦艦1万2千トンでブリュッヒャーの方が大きい。そもそも、勢いで「ポケット戦艦」と書いてしまったが、開戦時にドイッチュラント級は重巡洋艦に艦種が変更されているのでブリュッヒャー旗艦は当然と言えよう。
ところで、戦史には「ブリュッヘル元帥」という人物がもうひとりいる。ソビエト赤軍最初の5人の元帥の一人、張鼓峰で日本軍とも戦ったヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘル元帥だが、実はプロイセンのブリュッヘル元帥とは血縁でもなんでもなく、農奴だった彼をどういうわけか地主が「ブリュッヘル」と呼んでいたのを、農奴解放の時にそのまま名字にしたものだそうだ。

1940年4月、ドイツ軍は行動を開始した。
まずデンマークが「私たちは、あなたがたをイギリス、フランスの侵略から守りにきましたよ」というミエミエの建前と共に進出してきたドイツ軍に対し6時間の抵抗で降伏。国王、議会全てが捕虜となった。ちなみに2015年、デンマークで「9. april」というデンマーク侵攻を題材にした映画が作られており、これは「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」という凄い邦題でDVDリリースもされている。珍しいデンマーク軍の軍装をじっくりと見られる興味深い映画と言えるだろう。

4月8日夜半、司令官公邸から呼び出されたオスカシボルグ要塞司令官ビルゲル・エリクセン(Birger Kristian Eriksen)海軍大佐は国籍不明艦隊接近の警報に接し、急ぎ守備隊を招集した。1875年生まれの大佐はこの時65歳。定年があと半年に迫っており、いくつかの沿岸要塞の司令官を歴任した最後の任地がオスカシボルグ要塞だった。
なんでそんなお爺様が要塞司令官やってるのかと言うと、当時すでにオスカシボルグ要塞は旧式化のために戦力に数えられておらず、実態は砲兵の新兵訓練所となっていたからで、まぁ定年までここでのんびりしてよ、という閑職だったようだ。事実招集に応じて集まった兵士の大半はわずか一週間前に入営したばかりの新兵であった。
8日から9日に日付が変わる頃、ノルウェー国営放送が海軍大将の命令として全ての航路標識、灯台を消灯するよう放送。オスロフィヨルドは闇に包まれた。
同じ頃、ドイツ艦隊は短時間停止し、オスロフィヨルド入り口の小都市を占領する上陸部隊を派遣。
この時点でドイツ軍はすでにノルウェー軍哨戒艇1隻を撃沈しており、またフィヨルドの入り口で短時間ながら照射され警告射撃も受けている。航路標識が消されたことからもノルウェー側がドイツ艦隊の存在を察知していることは間違いない。
しかし、ブリュッヒャー艦上の戦隊指揮官、オスカー・クメッツ少将は「そんじゃま、行ってみましょうか」と前進を指示する。根拠は良くわからないが、まぁ、ぶっちゃけノルウェー軍、オスカシボルグ要塞を舐めてたんだろう。なにしろ相手は新兵訓練学校だ。兵士の大半が新兵なのもスパイの情報で把握していたのかも知れない。「要塞」なんて言っちゃってるが、主な武装は1892年型という旧式なクルップ28センチ砲3門。どれぐらい古い火砲かと言えば、「203高地」で有名な日本軍の28サンチ榴弾砲と同時期の砲だ(ただし、こちらはカノン砲で砲身はずっと長い)。あともう一門、やはりクルップの30.5センチ砲がもう一門あったが、こちらは1878年型(日本では西南戦争当時)という博物館にしまっておいた方がいい骨董品だった。

(中編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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E63papermodel イタリア 列車砲 Cannone da 381/40 su affusto ferroviario

父が「重すぎるから」という理由でデジタルカメラを譲ってくれたのだが、どんな性能じゃいと試すのに自宅の頭上を通り過ぎるヘリを気が向いた時にパシャパシャと撮っているうちに、移動中の陸上自衛隊AH-1攻撃ヘリの写真が撮れてなんかご機嫌な筆者のお送りする世界のカードモデル情報。

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こんな感じ。偶然一緒に写り込んだのはルフトハンザのボーイング747(多分)。ちなみにカメラの性能は後で確認したら光学ズーム24倍でした。目の前の模型しか撮らないのに。

さて、前回の記事、イタリア海軍のモニター艦"FAA DI BRUNO"で「陸軍が7門の38センチ砲を列車砲に改造している」とサラっと書いたが、今回はこれについての補足を。
第一次大戦のイタリアの列車砲なんて、大した情報出てこないだろうと思ったら、なんとこいつキット化されている。

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この、ドマイナーなアイテムを堂々キット化したのはイタリアのデザイナー、Enrico Crespi氏。表紙(上画像)左上の赤四角の中に「E」の字が世界のカードモデルデザイナー達の発表/販売を請け負っているEcardmodelsを連想させるが、氏は自身のページ"E63papermodel"でのみ作品の発表を行っておりロゴの類似にはあまり意味はないものと思われる。なお、「E63」の「E」はもちろん氏の名前 Enrico の頭文字だと思われるが、「63」については特に説明がない。あるいは1963年生まれを意味しているのかも知れない。
実はこのキットは2015年末ごろに公開されたことを知っていたのだが、資料が集まらずに紹介を先送りにしていた。ところが、先日38センチ砲の列車砲化について確認していたところ、第一次大戦でイタリアはこの38センチ砲しか列車砲化していないということが判明し、あわてて追加情報として紹介させていただく次第。

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今回は実車の資料があんまりないので、キットの完成見本写真が多いのをいいことに写真メインで進めていこう。
このキットは陸モノながらいつもの25分の1ではなく、いわゆる「タミヤスケール」である35分の1という、カードモデルではやや小さめのスケールでのキット化だが、さすが38センチの迫力は全く失われていない。
完成見本は白模型だが、当キットは未着色のラインのみの展開図での提供となっており、そのまま組み立てるとこのような仕上がりとなる(リベットなどのテクスチャはライン表現だが、写真ではディティールアップされている)。

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砲尾方向から。細かい部分の作り込みもかなりのものであることがわかる。38センチ列車砲は、装填作業スペースにわざわざ屋根があるのが特徴。
イタリアは第一次大戦参戦時、野戦重砲をおよそ150門装備していたが列車砲は一門も保有していなかった。
しかし、フランス軍が運用していた34センチ列車砲の威力を見て列車砲の有効性に気付かされる。ちなみにこの列車砲(34センチ45口径砲)も未成戦艦ノルマンディー級の主砲を転用したものであった。
イタリアが参戦したのが1915年、参戦してから38センチ列車砲の設計を始めて1917年には配備されたというからかなりの突貫工事だったことになる。

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こちらは完成試作品を塗装したもの。木製模型だろうがカードモデルだろうが「塗って初めて完成」という考え方もある(ヨーロッパのモデラーに多い気がする)が、E.Crespi氏もそういうスタイルなのかもしれない。
車体中央部部分に6本横に並んでいるセコイヤチョコ状のものは安定性を増すための丸太で、発射時には片側6基づつのジャッキでこれを地面に押し付ける。

38センチ列車砲は重量212トン、もちろん自走能力はなく機関車に牽引される。通常はさらに砲弾32発づつ積んだ貨車2両、75ミリ対空砲2門を積んだ自衛用台車1両、それと砲員を乗せる客車が連結される。左右の射界はゼロなのでカーブした軌道を準備して方向を決めた。砲身の仰角は最大25度で、875キロの砲弾を24キロ放り投げる。もっと仰角を取ればもっと飛びそうな気がするが、あまり仰角を取ると発砲時に後退した砲尾が地面にぶつかってしまうためこれぐらいが限界(ちなみに駐退機は砲身の上下に2本づつの計4本)。なお、装填時には砲身を水平まで戻さなければならないので発射速度は5分に1発程度であった。

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塗装後の完成品、大迫力のクローズアップ。
砲尾の屋根には切り欠きがあるが、明り取りだろうか。だったら屋根つけなきゃいいのに。

38センチ列車砲の詳しい戦歴ははっきりしない。1917年に全部で4門が整備されたらしいが、この数字は"FAA DI BRUNO"の項に書かれている「7門」とは合致しない。あるいは陸軍は4門を整備し、もう3門を予備砲身として受領したのかもしれない。
完成した列車砲は"FAA DI BRUNO"と同じくイソンゾ(イタリア語では「イゾンツォ」)の戦いに投入されたようだが、やっぱりあまり効果はなかったようだ。終戦後、38センチ列車砲は全て解体され砲は沿岸砲台に転用されたというから、やはり即製の列車砲化でいろいろと問題があったのだろうか。

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キットの裏表紙。巨大な砲尾のディティールが素晴らしい。同様に公開されているMAZ-537G重トレーラーにも注目。

E63papermodel からリリースされている第一次大戦イタリア軍唯一の列車砲、Cannone da 381/40 su affusto ferroviarioはタミヤスケール35分の1でも完成全長70センチという大迫力のキット。難易度表示はないが、堂々5段階評価の「5」(とても難しい)で間違いないだろう。
そして、重要なことだが、このキット無料である。このクオリティが無料とはなんという太っ腹! これは列車砲ファンのモデラーとしては、絶対に見逃すことのできない一品であると言えるだろう。Enrico Crespi氏には、このまま勢いで第一次大戦のイタリア軍移動砲架搭載型30.5センチ砲なんかもキット化してもらいたいものである。


画像はE63papermodelからの引用。


*キットはE63papermodelのDownloadのタブからダウンロードできますが、データの置いてあるファイル共有サイトは(これそのものは別に違法ではないが)操作を誤ると独自のダウンロードツールをインストールしようとしたりしてそれなりのリスクがあるため、あくまでもダウンロードは自己の責任においてお願いいたします。また、ダウンロードはフリーですが作者は著作権を放棄していません。データは個人での利用のみが認められており、販売などはできません。



参考ページ:
https://it.wikipedia.org/wiki/381/40_AVS


おまけ。
冒頭のAH-1とは別の時に撮ったCH-47。低空で飛んでるとここまではっきり撮れる。ビバ24倍。
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JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・4 潜水艦”SM U-5”

現場でお世話になっている上司の名字が少し特徴的なので由来をお尋ねしたところ、土蜘蛛退治で有名な源頼光まで家筋が遡れると聞いてテンション上がりまくった筆者がお送りするマイナーアイテム紹介コーナー。ちなみにうちの先祖は平家一門らしいです(眉唾)。
今回紹介するのはまさかの4回もの大連載になった ポーランドJSCの オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット から、 最終回となる 潜水艦”SM U-5”だ。

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お約束の表紙画像。
ドマイナー艦ばかりだった連載だが、実は今回のU-5がある意味最も有名な艦かも知れない。もっとも、「U-5」と聞いて「ああ、あの船か」と感づく読者は相当なオーストリア=ハンガリー通だろう。

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公式ページの完成見本写真。艦首フィンの赤白赤のオーストリア国旗塗装が目を引くが、ハンガリー国旗は書かなくていいんだろうか。JSCは潜水艦も船体上部のみのウォーターラインモデルでキット化することが多いが、今回は珍しくフルハルモデル。しかし、展示台がないのでなにか置き方を工夫しないと、写真のように波で打ち上げられたみたいな情けないことになってしまうぞ。

1904年、日本では日露戦争が始まったこの年にオーストリア=ハンガリー帝国(以下、「帝国」)は「どうやら他の国では『潜水艦』ってのを作ってるらしい」という情報をキャッチ。そんじゃまぁ、うちでも作ってみますか、と海軍技術部門に設計案の提出を命じた。
技術部ではこの未知の技術に1年かけて取り組み、成果として設計案をいくつか提出するが、海軍による検討の結果「全部実現不可能」として全てボツった。「海軍技術部門」って、なんなんだ……
自主開発を諦めた帝国は1907年、アメリカ人技師の”サイモン・レイク(Simon Lake)”、ドイツ人実業家「鉄鋼王」クルップ家の設立した”フリードリヒ・クルップ・ゲルマニアヴェルフト(Friedrich Krupp Germaniawerft)”、そしてイギリス領アイルランド人にして、世界初の実用潜水艦発明者である”ジョン・フィリップ・ホランド(John Philip Holland)”の三者に2隻づつの潜水艦を発注した。まだまだ潜水艦技術は揺籃期。3者の設計からいいとこ取りしちゃおうというわけだ。

1909年、注文に応じた3者から続々と潜水艦が届く。
まず、エントリーナンバー1番、サイモン・レイクの潜水艦2隻が「U-1」「U-2」として就航した(組み立ては当時帝国領のポーラ軍港)。
U-1級潜水艦はガソリンエンジンの効率が非常に悪く、艦内には排気が篭りがちであった。4枚の水中翼は極めて優れた水中運動性と良好な潜航能力を与えたが、海底走行用に艦底に収納式車輪を取り付けたのはどう見ても悪ノリの成せる技だったし、もちろんそんなものは役に立たなかった。
ちなみにサイモン・レイクは1912年に”レイク魚雷艇会社(Lake Torpedo Boat Company)”を興しアメリカ海軍向けに26隻の潜水艦を建造したが、会社は1924年に倒産した。

続いてエントリーナンバー2番、クルップの潜水艦、「U-3」と「U-4」。
ドイツのキール軍港で完成したこの2隻は1906年に就航したドイツ海軍最初の潜水艦、ドイツU-1級の改良発展型で、2ストローク灯油エンジンという変わったものを主導力としていた。この動力のおかげか、U-3級はトライアル3種のうちで最も信頼性、居住性に優れていると判断されたが、水中運動性がとにかくひどく、一回浮上すると頑として沈もうとしない、もうそれって潜水艦としてどうなのよ? な欠点があった。

最後が「本命」、ホランドの「U-5」、「U-6」。
この2隻はホランドがアメリカ海軍向けに設計した「C級潜水艦」とほぼ同型であり、その点での安心感は3者中で最も優れていた。なにしろホランドはこれまでにホランド潜水艦、A級、B級、C級と次々にアメリカ海軍のために潜水艦を設計してきた実績がある。
2隻はホランドが興したアメリカの”エレクトリック・ボート社”で基礎部分を製作し、ライセンスを受けた当時帝国領フィウメの”ホワイトヘッド社(Whitehead & Co)”で組み立てが行われた。名前でわかる通り、この会社は魚雷の発明者、”ロバート・ホワイトウッド(Robert Whitehead)”が設立した会社なんで、これまた信頼のブランドと言えるだろう。
U-5級は信頼性のある設計だったが、やや換気に難がありガソリンエンジンの排気が艦内に篭りやすいという欠点があった。
武装としては水平2連の魚雷発射艦が艦首に装備されている(普段は船体と一体化する流線型カバーがかかっているようだ)が、さらに2本の魚雷が上下に配置されており、2本の魚雷を発射したらこのクローバー型4連魚雷ラックを90度回転させてもう2本の魚雷が発射できるというギミックが組み込まれていたらしい。カッチョいい。

せっかく納品された3クラス6隻の潜水艦だが、帝国にはこれらをまとめたスーパー潜水艦を国産する時間は残されていなかった。
1914年、第一次大戦が勃発した時、U-1級はポンコツエンジンをなんとかしようとディーゼルに換装中だったので身動きが取れずにU-3級、U-5級だけで帝国は戦争に突入した。
U-5級はもう1隻、ホワイトヘッド社が自主的に建造した艦がありホワイトヘッドはこれをどこかの海軍に売り込もうとしてオーストリア=ハンガリー、ペルー、ポルトガル、オランダ、ブラジル、ブルガリアの各国海軍に軒並み断られていたが、第一次大戦の勃発により晴れてU-5級3番艦「U-12」として就航した。なお、番号が飛んでいるのはクルップにU-7からU-11を発注済みだったからだが、この5隻は開戦までに完成せず、建造していたキールからジブラルタル-地中海-オトラント海峡を突破してオーストリアに到着するのは不可能と判断されドイツ海軍U-66からU-70になった。
U-12を含めても帝国海軍の開戦時潜水艦戦力はわずか5隻。ちなみにフランス海軍の潜水艦戦力は67隻~75隻、イギリス海軍の潜水艦戦力73隻であった。

第一次大戦でU-5は1915年4月にフランス海軍の装甲巡洋艦、「レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta)」排水量1万2千トンに魚雷2発を命中させ撃沈するという大戦果をあげている。また、1916年6月にはイタリアの兵員輸送船「SSプリンシプ・ウンベルト(SS Principe Umberto)」排水量8千トンを撃沈、1,926名が死亡するという第一次大戦最大の海難を起こしている(比較としては不適当かも知れないが、ドイツ軍Uボートに雷撃されて沈んだ大型客船「ルシタニア号」でも死者は1,198名に過ぎなかった)。
この、U-5の著名な戦果2件のうちの前者、レオン・ガンベッタ撃沈を果たしたのがオーストリア=ハンガリー帝国海軍軍人ゲオルク・ヨハネス・フォン・トラップ(Georg Johannes von Trapp)であった。
「オーストリア=ハンガリー帝国海軍軍人のトラップさん」でピントきた読者もいることだろう。そう、彼こそが映画「サウンド・オブ・ミュージック」などで有名なトラップ一家のお父さんである。
レオン・ガンベッタを沈めたトラップはその後、撃沈されたフランス海軍潜水艦「キュリー(Curie)」を浮揚・修理した「U-14」艦長に転任(U-5がP・ウンベルトを沈めたのはその後)、さらに戦果を伸ばし最終的に貨物船11隻、巡洋艦1隻(レオン・ガンベッタ)、潜水艦1隻(イタリア潜水艦「ネリーデ (Nereide)」)を沈め、戦果総トン数は4万5千トンに達している。
映画などでは元軍人として厳格な父に描写されるトラップパパだが実際には非常に穏やかな人格者で、家族は父の描かれ方に極めて不満を持っていたという。
なお、トラップパパは生涯に2度結婚しているが、猩紅熱で早くに亡くなった先の妻、アガーテは魚雷発明者のロバート・ホワイトヘッドの孫である。

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Wikipediaからの引用で、U-5潜水艦(当時の絵葉書)。横尾忠則画伯の絵のような色使いがグッと来る。

1917年5月、U-5は触雷して沈没したが浮揚の後に再び戦闘に戻っている。だが、再就航後は戦果はなく1918年に敗戦に伴いイタリアに賠償として引き渡された。その後、U-5は1920年ごろにスクラップとなっている。

トラップパパはその後、修道院から家庭教師としてやってきたマリアと再婚、全財産の預金を移して支援しようとした友人の銀行が破綻したことで破産したのを機に子どもたちで結成した合唱団が評判となり、ヨーロッパ各地を回る。
1938年、オーストリア併合でドイツ人となったパパにナチスドイツから「第一次大戦の英雄として海軍に復帰すべし」と要請がきたもののトラップパパはナチスの思想に共鳴できずにイタリアへ亡命(もともと、生地ザラが第一次大戦後にイタリア領になっていたのでイタリアの市民権を持っていた)、その後アメリカへ渡り1947年に肺ガンにより大波乱の人生を閉じた。

”SM U-5”はオーストリア=ハンガリー帝国海軍潜水艦カードモデルとしては現状唯一のキットである。帝国海軍ファン、第一次大戦潜水艦ファン、そしてサウンド・オブ・ミュージックファンのモデラーならこのキットを見逃すべきではないだろう。

と、いうわけで4回にも渡って紹介したJSCの オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット。
スケールはJSCの小艦艇スケール250分の1。定価は24ポーランドズロチ(約800円)とお手頃価格。
また、JSCはこのキット以外にもラデツキー級戦艦”ラデツキー”、テゲトフ級戦艦”フィリブス・ウニティス”、モナルヒ級海防戦艦”ウィーン”をリリースしている。オーストリア=ハンガリー帝国海軍ファンなら是非ともこれらをコンプリートし、机上に帝国艦隊を復活させたいものである。



キット画像はJSCショップサイトからの引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/U-1-class_submarine_(Austria-Hungary)
https://en.wikipedia.org/wiki/U-3-class_submarine_(Austria-Hungary)
https://en.wikipedia.org/wiki/U-5-class_submarine_(Austria-Hungary)
https://en.wikipedia.org/wiki/SM_U-5_(Austria-Hungary)
https://en.wikipedia.org/wiki/Georg_von_Trapp

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ジャンル : 趣味・実用

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