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NDL 歴代ブレーメン全紹介・その3

特に長かった梅雨が終わり、関東はいよいよ猛暑の季節。とりあえず好天を待って後送りになっていた庭木の消毒を済ませた筆者のお送りする世界のカードモデル情報。

今回も前回から引き続き、北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」について。
今回はいよいよブレーメンの中のブレーメン、真打ち四代目ブレーメンの登場だ。

1929年、第一次大戦後の不況と混乱から脱した北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)は大西洋航路に新たなスーパー客船として四代目ブレーメンを就航させる。
この新型船は球状艦首、高張力鋼による軽量化など当時の技術の粋を集めたもので、5万トンを超える大型船体でありながら4基の蒸気タービン合計13万5千馬力で最大27.5ノットの高速航行が可能であった(さらに試験段階では最大出力で瞬間的に32ノットという、ちょっと信じがたい速度に達したこともあるという)。

この快速で1929年7月17日から7月22日にかけての処女航海で大西洋最速船に送られるブルーリボン賞(西回り)を見事獲得。さらにその帰路(7月27日から8月1日) で東回りのブルーリボン賞も獲得しているので、いかに当時の客船の中で突出した性能を誇っていたかがわかる。
なお、西回りはわずか半年後に同じくNDL所属の姉妹船「オイローパ」が記録を更新している。また、東回りは1933年に一度自身で記録を更新しているが、その後1935年にフランスの「SS ノルマンディー」により更新された。
この、ドイツ海運のみならず、世界客船史にもその名を残す豪華客船はドイツHMV社から素晴らしいクオリティのカードモデルがリリースされている。

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このキットはHMVのいわば「看板商品」で、1998年に初版、2007年の改修を経て現在は2011年改修の第3版が入手可能。

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ちょっと小さいが完成見本の全景写真。
このキットは東欧カードモデルではないのでスケールは250分の1とやや中途半端だが、このスケールで5万トンの豪華客船をキット化すると全長なんと115センチというビッグ・キットとなる。
なお、ブレーメンは排煙に問題があり甲板でくつろいでるお客様が煙くてしょうがないので、後に煙突を6メートルも延長する改装を行っているがキットは改装前の姿。

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船体中央部をクローズアップ。もちろん、以前紹介したメール迅速お届けサービス用の水上機、HE 12 と射出カタパルトも再現されている。
さらにこのキットの凄いところは、オプションパーツで船橋と一等ダイニングホールの内装が再現可能な点である。

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これは凄い!
客船ホールの内部再現キットというのは、ちょっと他にはないんじゃないだろうか。
その分難易度は高く。メーカーの評価は「非常に難しい」となっている。
ちなみにオプションを入れない状態でのパーツ数約2千、プラスオプションパーツ数約3千だというから凄まじい。また、ページ数はA4で「44」となっているが、これが展開図のみなのか、組み立て説明書や表紙を含むのかはちょっとわからない。

*8月3日追記
コメント欄でAbさんよりキット内容について補足いただきました。なんと、部品のシートのみで44枚、さらに組み立て図などが21ページあるとのこと! 詳しくはコメント欄を是非ごらんください。
Abさん、詳細ありがとうございました!


オプションパーツ込みのフルビルドにはかなりの技量と手間を要しそうだが客船ファンのモデラーなら一度は挑戦してみたい。
定価はHMVのショップ、「fentens」で55ユーロ(約6500円)。この内容からしたらかなりお手頃価格と言えるだろう。

その豪華さ、高速性を誇ったブレーメンだったが、その栄華は長くは続かなかった。
そもそも、就航直後に世界は大恐慌へ突入。さらに数年もたたないうちに今度は国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス党がドイツの政権を掌握。これに伴いドイツ船舶はドイツ国旗(黒・白・赤の旧ドイツ帝国旗)と併せてナチス党旗である鉤十字旗も掲げることになる。
アメリカでは反ナチのデモが行われるようになり、1935年7月26日にはついにデモ隊が停泊中のブレーメンに乱入、掲揚されていた鉤十字旗を破り捨てるという事件が発生。
ドイツ政府(ナチス党)はもちろんこれに厳重抗議し、厳正なる処罰を求めたがアメリカの裁判所は「国旗を破ったのなら国旗損壊罪で外交問題だけど、単に党旗破っただけだからこれは器物損壊」と軽い罪にしか問わなかったので、ナチス党はブチ切れて1935年9月15日、「ドイツの国旗は鉤十字旗ですぅ~~」と国旗法を変更してしまった。戦時中、ドイツ国旗って全然見なくてどこもかしこも鉤十字なのはなぜかと思ったら、鉤十字が国旗だった。

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Wikipediaからの引用(この項のキット画像以外、全て同様)で、1935年以降に撮影されたブレーメン。前部マスト向かって左側に鉤十字旗が掲げられているのわかる。正確な撮影時期は不明。延長された煙突の様子にも注目だ。

その後、南アメリカにも航路を延長し、ブレーメンは5万トン級客船として初のパナマ運河通過船となったが1939年8月26日、ドイツ海軍から全ての無線を封止し、至急ドイツへ帰港せよとの命令が下る。
これが近いうちの開戦とそれに伴う抑留を避けるための処置であることは明らかだった。第一次大戦開戦時にバルバロッサ級客船10隻中8隻を抑留されたのがよっぽど応えたんだな。
ドイツからニューヨークへ向かっていたブレーメンはニューヨーク目前に到達していたので急ぎニューヨークへ寄港、1770人の乗客を下ろす。
イギリスはアメリカに対しブレーメンの抑留を要請したが平時に客船を抑留するなんてことはもちろんできず、アメリカ政府は「違法に武器を積んでいるかもしれない」と難癖をつけて36時間の捜索を行うもそれ以上抑止する理由をみつけられず、ブレーメンは空船のまま8月30日に出港した。

9月1日にドイツがポーランドへ侵攻、これに対し英仏が9月3日に対独宣戦布告を行う。
このまま英仏海峡やら北海やら入ったら間違いなくヤバいんで、ありあわせの材料で灰色に塗りたくられながらブレーメンは北よりに航行し、9月6日にバレンツ海に面した中立国ソビエトのムルマンスク港へ到着する。独ソ不可侵条約ありがとう。
しかし、そのままソビエトに居候になっているわけにもいかず、12月にソ・フィン国境紛争(冬戦争)の開戦に伴いブレーメンはムルマンスクを出港、母港ブレーメンへと急ぐ。
途中、ブレーメンは浮上航行中のイギリス潜水艦HMS サーモンに発見されたが、護衛として合流したDo18飛行艇が随伴していたためにサーモンは潜航する。この後、サーモンはブレーメンを雷撃することもできたが、艦長E. O. Bickfordは「非武装の船を攻撃すべきではない」と判断してこれを見送った。

悪天候にも助けられ12月13日に母港へ無事帰還したブレーメンはその後兵舎として使用された。イギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」においてブレーメンで兵員輸送する案もあったが、アシカ作戦の中止でこれも立ち消え。ブレーメンはそのまま係留されていたが1941年3月16日に突如出火、懸命の消火活動も及ばずブレーメンは船体の損傷を抑えるために自沈着底した。

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イギリス空軍の偵察機が撮影した、炎上後のブレーメン。もとはImperial War Museumのコレクション。まだ船首と船尾から煙が上がっており、小船舶3隻が消火活動中と分析されている。

この火災は当然、破壊活動が疑われたが捜査の結果は17歳の船員、グスタフ・シュミット(Gustav Schmidt)が上司に平手打ちされたの事の腹いせに放火したものと結論された。彼は死刑となったが、17歳の船員一人で5万トンの客船を全焼させられるのか、疑問もあるという。
ブレーメンはその後ドックまで曳航され使用できるパーツは全て外され、さらに戦況の悪化に伴い船殻も次第に解体転用されていった。
戦後1946年、もはや船底部だけになっていたブレーメンは邪魔にならないところまで曳航され解体処分された。
その場所では今でも解体しきれずに残ったブレーメンの船底の一部を干潮時に見ることができる。

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2013年に撮影されたブレーメンの残骸。

余談ながらブレーメンに関する話をもう一つ。
Günter Bos と Günter Buse という二人のエンジニアが1947年から15年かけてなんと25分の1でブレーメンの模型を制作した。
長さ12メートル、重さ10トンのこの模型は38馬力エンジン2基で航行可能で、「自力航行可能な最大の船舶模型」としてギネスブックにも掲載されているという。
現在、この模型はドイツのラインラント=プファルツ州にあるシュパイアー技術博物館展示されている
(その4に続く)



参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブレーメン_(客船・3代)
なぜか日本語版Wikipediaのみタイトルが「3代目」となっているが、内容は4代目。
その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。
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NDL 歴代ブレーメン全紹介・その2 +おまけ

先日、庭の草刈りをしていたらうっかりアシナガバチの巣を叩き落としてしまい、全速力で逃げる最中に二回ほどすっ転んだ筆者のお送りするカードモデル説明までがやたらと長いカードモデル情報。ちなみに蜂には刺されませんでした。

今回も前回から引き続き、北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」について。
前回、1858年就航の初代、1897年就航のバルバロッサ級二代目を紹介して、今回が三代目ブレーメン。

この三代目はブレーメンとしての就航までがちょっと複雑で、話は一旦バルバロッサ級客船の話に戻る。
バルバロッサ級客船10隻は第一次大戦が始まった時に多数が海外にいて(オーシャンライナーなんだから、洋上航行中を無視して単純に考えれば二分の一の確率で海外にいることになる)、イタリアで2隻、ブラジルで1隻、アメリカでは5隻が(4隻がホーボーケン、1隻は米領フィリピンで)抑留された。いやいやいや、10隻中8隻って、ちょっと抑留されすぎだろ。事前に帰港命令とか出なかったんだろうか。
いや、よく考えたら、ドイツが英仏と戦争になったからって、中立の第三国がドイツの民間船を抑留する権利なんてないな。これ、実際には抑留ではなくて、「ドイツに帰るのは危ないから、戦争が終わるまで半年ぐらい預かっておいてよ」ぐらいの措置だったのかも。

しかし、戦争は次第に激しさを増し、イタリア、ブラジル、アメリカも連合側で参戦したので、結局これら8隻のバルバロッサ級客船は全て寄港地で接収されることとなった。他の2国はともかく、イタリアよ、三国同盟はどうなった……
で、アメリカが接収した5隻のうちの1隻、SS プリンツェス・イレーネ (Prinzess Irene、ヴィクトリア女王の孫で、ロシア皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラの姉であるヘッセン大公妃 イレーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのこと。北ドイツ・ロイド汽船会社が保有していた6隻のバルバロッサ級の1隻)は「USS ポカホンタス」に改名された。「ポカホンタス(Pocahontas)」というのは、もちろんディズニー映画にもなったポウハタン族酋長の娘のことだ。

USS ポカホンタスは戦争中18回ヨーロッパとアメリカの間を往復して24,573人の兵員をヨーロッパへ運び、休戦後は23,296人を復員のために帰国させた。
その間、1918年5月2日にはドイツ帝国海軍のUボート(SM U-151と推測されている)に発見され砲撃を受けたが、船長エドワードC.カルブス(Edward Clifford Kalbfus)は全速力で蛇行することで潜水艦を振り切ったという。オーシャンライナーの快速をなめるなよ、といったところか。

復員を終えた1919年11月7日に海軍から除籍され、1920年にUS郵船の所有となり、名前はそのまま民間船「SS ポカホンタス」としてアメリカ-イタリア航路に就航する。
ところがどういうわけか、就航当初からポカホンタスはやたらとトラブル続きで、5月23日にニューヨークを出港するも、25日には早くも機械トラブルで立ち往生。技師が乗り込んで修理するも、6月にはアゾレス諸島でまた立ち往生。
なんとかだましだまし進んで、イタリアのナポリに到着するまでに43日間を費やすという超遅延。そして、どういうわけか到着直前になって機関士が船から飛び降りて死亡した。呪われとるのかこの船は。
遅延について船長は船内で破壊工作があった、とアメリカ領事に報告したが、逆に船員達は船長が船員を虐待していたと告発してもうグダグダ。
ゴタゴタしているうちにとりあえず船を修理することになったが、どういうわけか機関の一部に綿が大量に詰まっているのが発見されたというから、やはり乗員のサボタージュがあったのか。それとも、マジで何らかの呪いだったのか。
7月31日、出港しようとしたら「修理代270万リラ払え」と言って出港を差し止められた。しかし、船員たちによると「返って状態が悪化していた」というからもうグダグダの上乗せ。
この件は結局どうなったのか不明だが、とにかくポカホンタスは出港したがまた機関が不調で9月22日にジブラルタルに寄港、結局ここで乗客は他の船へと移し替えられて、航海は打ち切られたという世界海運史に残るグダグダっぷりであった。

しばらくジブラルタルに繋留されたまま放置されていたSS ポカホンタスだが、北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)から買取の打診があり、US郵船はこれ幸いとこの厄介者を売っぱらってしまう。
NDLではイギリスが返してくれない先代ブレーメンに代わってこの船にブレーメンの名前を与え、SS ポカホンタスは1922年、3代目SS ブレーメンとなった。なので、NDLは「バルバロッサ級客船SS ブレーメン」という船を2隻所有したことになる(以前の記事でSS ポカホンタスが海外製と書いたのは資料誤読からくる誤り)。
3代目SS ブレーメンは1928年に次のブレーメンに名前を譲るためにSS カールスルーエとなり1932年に解体された。この間、NDLでは特にトラブルは記録されていないので、余計にUS郵船でのゴタゴタはなんだったんだ、という気になる。あるいはドイツに帰りたくて船がサボタージュをしていたのだろうか。

USS_Pocahontas_(SP-3044).jpg

Wikipediaからの引用で、USS ポカホンタス時代の写真。1919年撮影なので復員船だったころ。後部マストに星条旗が掲げられている。
(その3に続く)



参考ページ:
https://de.wikipedia.org/wiki/Prinzess_Irene

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。


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次の四代目が本筋で長くなるので今回は短めながらここまで。
ちょっと短く終わってしまったので、どこかに書こうと思っていたけれども書く場所がなかったネタをオマケに書いておこう。

ブレーメンとは関係ないのだが、1912年4月15日、およそ1500人が亡くなった大惨事、タイタニック号沈没と、1915年5月7日、およそ1200人がなくなりアメリカの第一次大戦参戦のきっかけともなったルシタニア号撃沈、両方に乗り合わせた人がいる。
この不運なんだか幸運なんだかわからない人は1888年3月9日生まれのジョージ・ビーチャム(George William Beauchamp。エレキギターを発明した同姓同名のジョージ・ビーチャムとは関係ないが、時々誤って没年が混同されていることがある)。
ボーチャムは乗客ではなくボイラー炊きの火夫としてタイタニック号に乗船しており、ボイラー消火後に船底から脱出し、まだ空きがあるまま離船しようとしていた救命ボート13号に飛び移って生還した。
その3年後、ルシタニア号に同じく火夫として乗船していた時にルシタニアがUボートに雷撃され沈没。この際の脱出の細かいディティールは伝わっていない。
タイタニック号、ルシタニア号、両船からの生還者はビーチャムただ一人と考えられている(タイタニックで助かり、ルシタニアで死亡した人がいたのかはわからなかった)。
ルシタニア号沈没後、ビーチャムは取材に対して「もう大きな船はコリゴリだよ( "I have had enough of large ships and I'm going to work on smaller boats.")」と答えたという。
ビーチャムは1965年4月5日に亡くなった。

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Wikipediaからの引用で、円内がジョージ・ビーチャム。出所は不明だが、撮影日は1912年4月10日とされているので、それが正しければタイタニック号出港時に撮られた写真ということになる。

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NDL 歴代ブレーメン全紹介・その1

先日、テレワーク用機材のトラブルで機材交換のために久々に東京へ出勤。念の為2周間の自主隔離中の筆者がお送りする世界のカードモデル情報。まぁ、「自主隔離」って言っても、いつもと同じでどこにも行かないってだけなんですけれどもね。

今回からまたしばらく時間をかけて特集するのは、北ドイツ・ロイド汽船会社(Norddeutscher Lloyd)の歴代フラグシップ、「ブレーメン」についてだ。
勘のいい読者ならこの時点でお気づきのことかと思うが、当記事はその中でも4代目(日本語版Wikipediaでは3代目)のSS ブレーメンをドイツHMV社が素晴らしいクオリティでカードモデル化しているのを紹介しようと思ったら泥沼に足を取られた結果である。なので4代目が出てくるまで、基本的にカードモデルの話は出てこないことを予め御了承されたい。

さて、「ブレーメン」という名前を聞いて米津玄師氏3枚目のオリジナルアルバム「Bremen」を連想する読者も多いかと思うが、この場合はドイツ北部の都市、ブレーメンのことである。
このブレーメンで1857年2月20日に設立されたのが、「北ドイツ・ロイド汽船会社(以下、「NDL」と略)」である。日本ではまだ安政年間のころだ。

ドイツの北の方で開業した会社なので「北ドイツ」はいいとして、「ロイド」という名前でイギリスのロイズ保険(Lloyd's)が設立に一枚噛んでいるのかと思ったら、別に関係なかった。
この場合の「ロイド」というのは船舶の検査・登録を行いその健全性を保証する船級協会の方のロイド(ロイド・レジスター・グループ・リミテッド、 Lloyd's Register Group Limited)のこと。なお、船級協会のロイズは保険のロイズの傘下のように思われがちだが、実はどちらも17世紀末にロンドンでEdward Lloydという人物がやっていたコーヒーショップで配られていた海運関係の新聞が発祥となっている、というだけで、現在両者は全く関連性がないそうだ。

なるほど、NDLはそのロイドから出資でも受けてるのか、と思ったらこれも別に関係なくて、「『ロイド』って名前に入ってれば、海運やる会社ってすぐにわかるじゃろ?」ぐらいの軽いノリでつけた名前だったそうだ。マジかよ。今やったら絶対怒られるやつだそれ。
ちなみに創業者はヘルマン・ヘンリッヒ・マイヤー(Hermann Henrich Meier)と エデュアルド・クルーゼマン(Eduard Crüsemann)といういかつい名前のお二方である。

さて、そんなわけでブレーメンに開業したNDLだが、当然船がなくっちゃ海運できないので、最初に調達した船舶4隻が「ハドソン」「ニューヨーク」「ヴェーザー」、そして「ブレーメン」だった。

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Wikipediaからの引用(この項の画像、全て同様)で、就航当時に描かれた初代ブレーメンの姿。
一見帆船のようだが、中央に立っている煙突でわかるように三本マストの帆装と700馬力蒸気エンジンを備えた汽帆両用で、最大11.5ノットで航行できた。
初代ブレーメンは1858年就航の新造船で、全長約101メートル、排水量約2700トンという小柄な船。この小柄な船体に一等船室60人、二等船室110人、さらに三等で400人が収容できた。
時代的にはまだ「旅客船」というよりも「移民船」というべき船で、一応船内には2つの浴室や図書館も備えていたものの、当然そんなゴージャス設備は一等、精々二等船室の乗客用で、新天地アメリカへの期待と不安と胸に三等船室に押し込まれた移民達の心中いかばかりのものだっただろうか。
なお、建造したのはスコットランドのケアード&カンパニー(Caird & Company)という造船所だが、ここは1916年にハーランド・アンド・ウルフに吸収された。

初代ブレーメンは1858年6月19日に処女航海に出発し、14日と13時間後の7月3日午前7時にニューヨークへと到着している(ただし、乗客は22人しかいなかった)。
その後、1860年にプロペラシャフトを破損し交換に6ヶ月かかったぐらいしか特筆すべき出来事もなく大西洋横断を繰り返した初代ブレーメンは1874年、NDL最初の4隻のうちのもう1隻、SS ニューヨークと共にイギリスリバプールの会社へと売却された。特に理由は書かれていないが機関の進歩著しいこの時期、旧式化が目立ったのだろう。
イギリスへ売却された初代ブレーメンはそのままの名前で、機関が降ろされ純粋な帆船へと改造され貨物運搬に使用されたようだが、1882年10月16日にカリフォルニア沖で濃霧の中で座礁、遺棄され沈没した。
なお、沈没したさいにブレーメンはウィスキー5000樽を輸送しており、近辺で操業する漁師たちの間では「ブレーメンからウィスキー樽が浮かんでくるのに時々ありつける」という噂がかなり後まであったとか。
また、1929年禁酒法下のアメリカでT. H. P. Whitelawという人物が一攫千金を狙ってブレーメンの積荷の引き上げを画策したが、これは政府により阻止された。

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帆船に改装された後のブレーメンとされる写真。撮影時期などのデータは不明。

初代ブレーメンを売却したNDLだったが、どうもこの時は代々フラグシップに「ブレーメン」と名付けることは意識していなかったようで、しばらくNDLにはブレーメン不在の時期が続く。
二代目ブレーメンが就航したのは初代売却の25年後の1897年で、長さ170メートル、排水量1万トン、機関9500馬力の大型船で、これはNDLにとって最初の1万トン級客船となった。おそらく、この大台に乗ったことを記念して伝統の船名「ブレーメン」が与えられたのだろう。

NDL創業から40年、時はまさに大豪華客船時代で、激増する需要に答えるために世界で客船がバンバンババンと建造されまくっていた時期。ブレーメンも「バルバロッサ級」という、なんかやたら勇ましい名前で多数建造された船のうちの一隻で、ダンツィヒのシシャウ造船所(Schichau-Werke)で建造された。
ちなみにバルバロッサ級は1896年から1902年の間に10隻が建造され、6隻がNDL、4隻がハンブルグ=アメリカライン(Hamburg America Line)に就航している。なお、拡大版のSS グローサー・クルフュルスト(Grosser Kurfürst、大選帝侯)を含め、バルバルッサ級の総数は11隻とすることもある。

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建造直後の二代目ブレーメン。

二代目ブレーメンは1897年6月5日、サウサンプトン経由でニューヨークまでの処女航海を果たし、10月からはスエズ運河経由でオーストラリアへの定期航路に就航する。
しかし、就航からわずか3年後の1900年6月30日、ニュージャージー州のホーボーケンという、なんかラーメン屋みたいな名前の港(ハドソン川を挟んでマンハッタン島の対岸)に停泊していた際に埠頭で火災が発生(埠頭に積んであった貨物の繊維が自然発火したらしい)、火は風に煽られて燃え広がり少なくとも300人以上が死亡するという大惨事となる。
このホーボーケンドック火災でNDLの客船が停泊している桟橋が炎上し、SS ザールSS マイン、そしてSS ブレーメンが次々に延焼した。

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ブレーメンではないがホーボーケンドックの火災の様子を物語る写真。延焼し、炎上しながら埠頭を脱出しようとするSS ザール。ザールは結局この後に沈没着底してしまった。

炎上した客船では、甲板が炎上している船に閉じ込められた船員が船倉の窓が小さすぎて脱出できずに犠牲となるケースがあったため、それ以降船倉の窓は人が通り抜けられるよう、すくなくとも28センチx33センチ(11インチ×13インチ)の大きさがあるように定められたという。
損傷の大きかった二代目ブレーメンはシュテッティンのフルカン造船所で再建されたが、その際に船体は5メートル延長され、排水量も1千トンほど増えている。
1901年10月に再就航し、また定期航路に戻った二代目ブレーメンはその後は大きな事故もなく大西洋横断を繰り返す。ちなみに、1912年4月20日にはドイツからニューヨークへの航路の最中でRMS タイタニック号が沈没した現場を事故数日後に通過、木製の調度品や遺体の間を通り抜けたという。

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改装後のブレーメン。再建されたホーボーケン桟橋での撮影。1905年。単に撮影角度の関係かも知れないが、前掲の写真よりも気持ちスラリとスマートになった気がする。

当然ながら第一次大戦と同時に大西洋定期航路は休止となり、二代目ブレーメンも母港で埠頭に繋がれたままとなった(一応、軍に徴用され輸送船として使用されたようだ)。
戦後、二代目ブレーメンは戦後賠償の一環としてイギリスに引き渡され、1921年からSS コンスタンティノープル、24年からSS キングアレクサンダーの名前で運用された。そして1929年、イタリアに売却され、解体されている。
(その2に続く)



参考ページ:
https://de.wikipedia.org/wiki/Bremen_(Schiff,_1858)
https://de.wikipedia.org/wiki/Bremen_(Schiff,_1897)

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。

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M・A・レイテル大将は本当にやらかしたのか?・後編

昨日、変な姿勢で4年前に修理した洗濯機の排水ホースがまた水漏れするようになったのを修理してたせいで腰が痛くてしょうがない筆者のお送りする、実はカードモデルに関係あると思っていただければ幸いな情報コーナー。
前回から引き続き、第二次大戦ブックス34「クルスク大戦車戦 独ソ精鋭史上最大の激突」(ジュフレー・ジュークス/加登川幸太郎訳)に載っている、M・A・レイテル大将のやらかしエピソード出典を探す旅。

匍匐イメージ
    (イメージ)

前回は内容から選んだキーワードでいろいろ検索をかけるも出典を見つけられなかったので、ちょっと調べる方向を変えてみよう。
検索をかけてみた結果、原著の一部を見ることができたおかげで和訳が非常に原著に忠実なことがわかった。ということは、原著の内容も日本語版と大きな差はない(翻訳の時に脚色されているということはない)だろう。
改めて「クルスク」の当該部分を読み返して分かるのは、ディティールが非常に細かく、「体験」として書かれていることである。と、いうことは誰かの回想録がネタ元である可能性が高い。
つまり、このエピソードの「語り部」、言い換えるなら「最後の部分でザハロフからかかってきた電話に出たのは誰だったのか」という問題になる。

この逸話の登場人物を、抜き出してみると
マルキアン・ポポフ(Маркиан Михайлович Попов)
マークス・レイテル(Макс Андреевич Рейтер)
マトヴェイ・ザハロフ(Матвей Васильевич Захаров)
ミハイル・カザコフ(Казаков Михаил Ильич)
イワン・マナガロフ(Иван Мефодьевич Манагаров)
イワン・コーネフ(Иван Степанович Конев)
と、なる。
このうち、ポポフは前段に、コーネフは最後に名前が出てくるだけで関係ない。レイテル自身ということも、まぁないだろうし、そもそもレイテルは回想録を残していない。
マナガロフは次のテストの対象であって、問題の現場には居合わせていない。
残るはザハロフとカザコフだが、「電話が鳴った。ザハロフからである」とあるので、カザコフに当たりをつけておこう。

Wikipediaのカザコフのページを見ると、カザコフは1971年に「地図上の戦史(Над картой былых сражений)」という本を出版していることがわかった。
ジェフレー・ジュークスの「クルスク」原著は1972年出版なので、ギリギリだが検証してみる価値はありそうだ。

ロシアには「Военная литература」というサイトがあるが、これは軍事関係の資料を集中管理することで軍事史研究のコストを下げようという非営利サイトで、第二次大戦以前を扱った内容であれば回想録などの書籍のほとんどを読むことができる。ただし、権利関係とかどうなってるのかよくわからないんで、とりあえずは閲覧のみにしておいた方が良さそうだ(実は最初は「ジューコフ回想録」が元ネタではないかと思ったのだが、ジューコフ回想録のクルスク周りにはレイテルは登場しない)。

さてカザコフの「地図上の戦史」を探してみると……あったあった。
内容は回想録で、クルスク戦の準備にもページが割かれている。ところが、これにもレイテルが登場しない。
それっぽいのは「5月上旬、軍司令官のための訓練キャンプが開催された」という記述があるが、前後の記述から推測するにこれは「クルスク」の「五月のはじめ、ポポフと参謀長(M・V・ザハロフ中将)は、軍司令官をあつめ、一九四二年の九月に、当時ポポフが指揮していた第四十軍が、攻略できなかった古戦場に研究旅行をしたりした」の部分だろう。

ここで行き詰まってしまった。名前が上がった他の人物の著作は特に見つからず、カザコフの他の書籍は「クルスク」出版後なので関係ない。あるいはここに名前の出ていない人物(例えばカザコフの従卒だった兵士)の回想録に由来しているのだろうか。

しかし、カザコフの「地図上の戦史」について検索しているうちに、妙なことに気がついた。Wikipediaによる記載ではこの本は「1971年出版、288ページ」となっているが、ロシアの古本屋で「1965年出版、224ページ」 という記述もみつけた。
一件だけなら間違いかもしれないが、おなじ情報を載せている
65年版は先程のサイトに掲載されていないが、Googleブックスに登録されていた。
Googleブックスは一部を試し読みすることができるので、レイテルの名で検索を書けると読むことができた部分の内容は
-----------------------------
そしてレイテルは彼がどのような試験を行うつもりなのかを正確には言っていないので、作戦部と偵察部から選抜した将校を練習場へと連れて行くことから始めた。
しばらくのトレーニングの結果、レイテルが長年の鍛錬で培った結果を数日で達成することは不可能であることがわかった。
喜ばしいことに、試験は行われなかった。
ある夜、M.V.ザハロフは軍の本部から電話で、この作業をやめていいと言った
(Google翻訳を元に、一部意訳)
------------------------------
これは「クルスク」の「レイテルたちまち更迭」の後の記述と一致する。
気をつけないといけないのは、「クルスク」の日本語版が原著(回想録)に忠実だととするとカザコフは「レイテルが転任だ」としか書いておらず、「レイテルたちまち更迭」という小見出しはジェフレー・ジュークスが「クルスク」執筆のさいに付け加えたのだろうということである。

つまり、ジェフレー・ジュークスは1965年版の「地図上の戦史」を入手し、この逸話を自分の書籍に引用した。カザコフは単に「レイテルが変な試験をやった。レイテルは異動になった」としか書いていないのを、ジェフレー・ジュークスは「レイテルが変な事をして更迭された」と誤読した。
1971年に「地図上の戦史」は改訂が行われレイテル関係の記述は消された。
この結果、ジュフレー・ジュークスの「クルスク」の上だけに「レイテル・くねくね事件」が残ってしまった。
という経緯のようだ。おそらく、これが真相で間違いないだろう。この手のネタを追っかけていって、ここまではっきり元ネタがわかるのは珍しいので嬉しくなって3回にも渡って書いてしまった。個人的に気になっていたエピソードの出典を探すという長く地味な旅にお付き合いいただきありがとうございました。
なお71年版からレイテルが消えた理由はわからない。もしかすると遺族から苦情が来たんだろうか。「うちの人は脳筋ゴリラじゃありません」と。

Mikhail_Ilyich_Kazakov.png

Wikipediaからの引用で、ちっちゃいけれどなんか優しそうな笑顔のミハイル・カザコフ。あなたがちゃんと説明しないからレイテル将軍に熱い風評被害が残ってしまったじゃないですか。反省してください。
なお、カザコフは戦後も赤軍に残り1965年からはワルシャワ条約機構軍の参謀長なども努めている。ずっと参謀としての勤務だったので戦記などで名前を見かけることはほとんどないが、優秀な軍人だったようだ。
カザコフは1979年に死去した後、レイテル将軍と同様にモスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地に葬られたという。


おまけ。
レイテル将軍に対する風評被害の一例。

光栄(現:コーエーテクモゲームス)が1991年に発売した「ヨーロッパ戦線」にレイテル将軍が登場する。

IMG_1611.jpg IMG_1614.jpg

現物がすぐ見つからないので筆者蔵書の攻略本から。
「無能のため直ちに解任された」
わはははは、まぁ「クルスク」の記述だけ見たらこうなるわな。顔グラフィックもムッチムチでダメそうな感じ。
扱いが曹豹レベルである。


参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/マークス・レイテル
日本語版、英語版、ロシア語版、ラトビア語版を参考とした。

https://lv.sputniknews.ru/Latvia/20200509/13706516/Istoriya-Maksa-Reytera-kak-syn-latyshskogo-krestyanina-stal-generalom-Krasnoy-armii.html
ロシアの通信社「スプートニク」のラトビア語版から、「マークス・レイテル:ラトビアの農民の息子がどのように赤軍の将軍になったか」と題する記事。ラトビアにおけるレイテルの扱いに関してはほとんどがこの記事からの引用。なお、この記事でのレイテルの経歴は43年初頭のヴォロネジ-カストルノエ攻勢から急に戦後に飛んでおり、クルスク戦に関しては全く触れられていない。
また、このサイトにアクセスするとロシア語で購読を求めるポップアップが表示されるので注意。

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M・A・レイテル大将は本当にやらかしたのか?・中編

近くの川で水難事故があったようで、朝から県警ヘリコプター(たぶん、川崎 BK117)がかなりの低空で旋回しているのを双眼鏡を持ち出して家のベランダから眺めていたが、後から考えたら、たぶんヘリ側からも双眼鏡構えてる不審人物が見えてたんだろうなーと思った筆者のお送りするカードモデルに寄せたくても寄せきれないブログ。
前回から引き続き、今回も第二次大戦ブックス34「クルスク大戦車戦 独ソ精鋭史上最大の激突」(ジュフレー・ジュークス/加登川幸太郎訳)に載っている、M・A・レイテル大将のやらかしエピソードは実在したのか、その出典を探しに行く旅。

匍匐イメージ
    (イメージ)

42年~43年の冬季反攻でブリャンスク方面軍を指揮してハンガリー第2軍を壊滅させ上級大将に昇進したマークス・レイテル(Макс Андреевич Рейтер)。話はいよいよ問題のクルスク戦へと進む。

前回引用した通り「クルスク大戦車戦 独ソ精鋭史上最大の激突」では単に「ポポフはブリャンスク方面軍司令官となり、ブリャンスク方面軍司令官のM・A・レイテル上級大将が予備方面軍司令官になった
と書かれているが、43年の春から初夏にかけて赤軍はかなり頻繁に前線の組織改変を行っており、レイテルの所属も頻繁に変更となる。

まず、1943年3月12日にブリャンスク方面軍が廃止となり、レイテルはブリヤンスク方面軍基幹部分が移管となった「予備方面軍」の指揮官に転任となる。その11日後の23日、予備方面軍は「クルスク戦線」に改名、したと思ったら今度は4日後の27日に新設された「オリョール方面軍」にクルスク方面軍は吸収される。翌日3月28日、今度はオリョール方面軍が「ブリャンスク方面軍」に改称となる。所属変更のたびに名刺刷ってたら使わない名刺が山積みになってしまうな。なぜ赤軍がこんなに頻繁に組織変更になったのかは、ちょっとわからなかった。
そして6月にレイテルは新設されたステップ方面軍に異動となり、ポポフがブリャンスク方面軍指揮官となった。
「クルスク」の記述ではレイテルがやらかしたのは予備方面軍指揮官だったころのように読めるが、後述する登場人物たちから推測すると、やらかしたのはステップ方面軍指揮官だった時らしい。

事件の検証は置いておき先にレイテル将軍のその後を見ておくと、1943年7月、レイテルはステップ方面軍指揮官からヴォロネジ方面軍副司令官へと転任する。
これが「クルスク」で言う「レイテルが転任だ。新司令官にはコーネフがくる」である。
なお、Wikipedia各国語版のステップ方面軍の記事ではステップ方面軍の指揮官は最初からコーネフとなっており、レイテルがステップ方面軍指揮官に就任したことはないとされている。この辺の事情ははっきりしないが、もしかするとレイテルのステップ方面軍就任は内示のみで正式には発効していないのかもしれない。
ステップ方面軍指揮官からヴォロネジ方面軍副司令官への転任は「降格」にも思えるが、ステップ方面軍はドイツ軍攻勢が力尽きてから反撃に転じる予備戦力で、それに対してヴォロネジ方面軍はクルスク突出部南側でドイツ軍の攻勢を真正面から受ける部隊なので、一概に降格とも言い切れないだろう(ヴォロネジ方面軍指揮官ニコライ・ヴァトゥーチン(Николай Фёдорович Ватутин)も同格の上級大将なのでヴァトゥーチンの下に就く事は階級的にはおかしくない。ただ、ヴァトゥーチンは1901年生まれでレイテルよりも10歳も若いのでレイテル的にはおもしろくはなかったかもしれない)。

1943年8月、クルスクでドイツ軍の攻勢を撃退したソビエト軍はルミヤンツェフ攻勢で反撃に転じ、レイテルもヴォロネジ方面軍副司令官としてこれに参加している。
あれ? レイテルって、クルスク戦に参加してるんだ。
てっきり、謎のテストをやらかしてそのまま閑職に追いやられたのかと思ってた。じゃあ「クルスク」小見出しの「レイテルたちまち更迭」ってのはなんなんだ。

ルミヤンツェフ攻勢後の9月、「不明な理由により(по неясным причинам)」レイテルは前線勤務から外され「南ウラル軍管区」という、後方で人員育成などを行っていた、なんかどうでもいい感じの場所の司令官に任命される。そこでも若い連中に小銃体操とか高速匍匐とかやらせていたのかは不明だ。
突然の後方勤務というのは、左遷のような気もするし、逆に過去に何度も負傷しており年齢も比較的高いレイテルを前線からさげるという好意的な判断にも見える。
あるいはヴォロネジ-カストルノエ攻勢の際にスターリンに攻勢開始を延期するように進言したのが不興を買ったので左遷されたか、もしくはさらに想像を逞しくすれば逆にスターリンに処分の口実を与えさせないために後方へ送られたのかもしれない。
とにかく、レイテルは1945年7月までこの職にとどまり、46年1月からは「ヴィストレル(Выстрел)」と呼ばれる上級指揮官養成課程の責任者となる。
1950年1月、退官。そして1950年 4月6日に死去した。1891年生まれだとするとまだ59歳であった。
死因は資料ではわからないがやはり度重なる負傷が寿命を縮めたようなので、退官も職務に耐えられなくなったからだろう。

Рейтер_Макс_Андреевич

Wikipediaからの引用で、マークス・レイテル将軍。あらー、男前じゃないの。少なくとも50代のはずだが、もっと若く見えるのは日々の鍛錬の成果か。
Wikipediaのキャプションでは「42年頃撮影」となっているが、右胸に43年受勲のスヴォーロフ勲章をつけているので43年以前ではないだろう。他の勲章もちゃんと検証していけば撮影時期を特定できそうだが、とりあえず終戦時の写真のようにも見える。

さて、ここまでレイテル将軍の生涯を追いかけてきたが、一通り経歴を辿ってみて思ったのはどうも「ステップ方面軍指揮官になった途端やらかして更迭された将軍」というのは正しい評価ではないようだ、ということである。
ここからは推測になるが、「クルスク」で「レイテルはザハロフに参謀たちの試験をやるといいだし」と名前が挙げられているステップ方面軍参謀長のマトヴェイ・ザハロフは1898年生まれでレイテルより7歳年下。他の参謀たちも若かっただろう。ひょっとすると、世紀の大決戦を前に、第一次大戦からの歴戦の勇士レイテルには若い参謀たちが頼りなく見えたのではないだろうか。他の前線でも同じことをしていれば「不審のタネは五〇挺の小銃であった」とはならないだろうから、決戦を前にレイテルなりに考えて若造たちに活を入れようとしたのかもしれない。
今でも時々会社なんかでもあるよね、久々に現場復帰したベテランのエンジニアが突然精神論を語り始めて若い連中がポカーンってなっちゃうこと。

さぁ、長々と書いてきたが結論を出そう。
当ブログでは以上の資料から「レイテル将軍ゴリラ説」を誤りとし、「レイテル将軍、若い連中に活を入れようとしてダダ滑り」説を取るものとする。これが筆者の出した結論である。
我々も若い世代とのコミュニケーションの際には滑らないよう気をつけたいものである。
ご静聴ありがとうございました。


いや、ちょっと待って、
そもそもこの話、「レイテルがゴリラなのか」じゃなくて、「レイテル・くねくね事件は実際にあったのか」を検証するんだった。

今回、レイテルについて(ネット上ではあるが)それなりに調査を行ったのだが、不思議なことに「クルスク」に載っているこの事件についての既述がいくら探しても見つからない。いろいろと単語を変えて英語、ロシア語で検索をかけてみたのだが唯一ヒットしたのは英語の「クルスク」原著の試し読みだった。

果たしてジェフレー・ジュークスはなにを典拠にこの逸話を書いたのだろう。
(後編に続く)


参考ページは最終回にまとめて掲載予定。

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