JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・2 250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”

一息ついたのをいいことに、焼肉屋で腹いっぱい食べたらすっかり消化不良で苦しくてかなわん筆者のお送りする世界のカードモデルにまつわる有象無象、時々情報。今回は、前回に続きポーランドJSC社からリリースされた オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット から、250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”を紹介。

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表紙は前回の「ライタ」なんであんまり関係ないが、まぁ一応。

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いきなりながら公式ページの完成見本写真。
大きい方の駆逐艦は次回紹介予定のタトラ級駆逐艦。そっちも長さ85メートル、満載で排水量1000トンしかない小さい艦だが、今回の98-M(2本煙突の小さい方)は長さ約60メートル、満載でも排水量は300トンを少し超える程度の小さな船だ。
「水雷艇」というと、艦隊決戦中に撃ちすくめられて動けない主力艦を尻目に高速で敵大型艦に肉薄し、必殺の魚雷をぶちかまし一気に戦局を覆す勇壮無比な、というかWorld of Warships的な活躍を想像しがちだが、オーストリア=ハンガリー帝国(以下「帝国」)の250トン級はそれほど勇壮なコンセプトで建造された船ではなかった。
地図を見るとわかるが、帝国は後にユーゴスラビアとなる地域でアドリア海に面している以外は海岸線を持っていない。と、いうことはアドリア海の出口、アルバニアとイタリアの踵の間に警戒線を張られたら帝国艦隊はそこを通らざるを得ず、相手にする予定のイギリス海軍は地中海艦隊単体で十分に帝国海軍よりも強力である。つまり、開戦と同時に帝国海軍はアドリア海に閉じ込められる可能性が高い。
15世紀の艦隊ならまさかの山越えで東ローマ帝国をビックリさせる、なんてこともできたかも知れないが、さすがに弩級戦艦でそれは無理だ。
そこで、帝国海軍が1910年にまとめたのが「夜の間に封鎖艦隊に突撃し、朝までに帰ってくる」という、最初っから腰の引けた感じの戦法だった。なんというか、夜勤お疲れ様です。
この戦法のために設計されたのが250トン級水雷艇群であった。要求される性能は夜の間に攻撃をして帰ってこられるよう、30ノットの高速で10時間航行できること、というからなかなか厳しい。

1913年、トリエステ(当時帝国領)のStabilimento Tecnico Triestino (STT)社で250トン級水雷艇の建造が始まる。ここは帝国海軍弩級戦艦「テゲトフ級」も建造した、帝国随一の造船所である。
250トン級水雷艇の基本設計は6000馬力の蒸気タービンでスクリュー2軸を回し、武装は設計段階ではスコダ66ミリ砲3門、45センチ魚雷発射管3基(レイアウト不詳)というものだったが、実際の建造時には武装は66ミリ砲2門、魚雷発射管4門に変更されている。また、1914年には8ミリ機関銃が追加された。
STTは8隻の250トン級を建造し、それぞれ74-T(トリエステ)から81-Tの番号が与えられている。

しかし、世界大戦はどうやら近そうだし、STTは使うかどうかわからない主力艦の建造で忙しい。
そこでSTTの8隻とは別に、新たにフィウメ(ここも所属がよく変わるが当時帝国領)に造船所を持つガンツ&ダヌビウス(Ganz & Danubius)という、なんかロックな感じの名前の会社にも250トン水雷艇が発注された。G&Dは以前にSTTの代わりにテゲトフ級4番艦、「セント・イシュトヴァーン」を建造したことがあるが、先に建造された同型艦3隻の教訓を取り入れたのか、はたまた建造設備の都合なのか、テゲトフ級戦艦は4番艦のS・イシュトバーンだけ主機が異なり、さらに2組4軸だったスクリューが2軸になり、それに伴い最高速度もわずか0.3ノットとはいえ、S・イシュトバーンの方が遅かった。それって、艦隊行動もできないし、もう同型艦じゃないと思うんだが。
250トン級水雷艇の建造にあたってもG&Dは主機を交換しており、そのためにSTTの「Tグループ」では1本だった煙突が2本になっている(要求スペックの30ノットは満たしている)。ちなみにG&Dの建造したセント・イシュトヴァーンと250トン級水雷艇「Fグループ」(造船所のあったフィウメの「F」)の主機はどちらもドイツの電力会社、AEGの関連会社であるAEG-カーチスから調達されており、なんか理由というか、過剰接待というか、そういったものがあったりなかったりしたのかもしれない。大人の世界は複雑だ。
G&Dが建造した16隻は82-Fから97-Fの番号が与えられている。
なお、フィウメは非常にイタリアに近い場所にある造船所だが、帝国はイタリア、ドイツとの間に旧「三国同盟」を組んでるんで全然問題ないよ! と思っていたら、1915年4月にイタリアは連合側で参戦し、帝国に宣戦布告してきた。ギャフン。
イタリア参戦時、82、83、84と90、91の5隻は未完成だったが、イタリアによる鹵獲を避けるために急いで別の造船所まで曳航されている。

さて、8+16の24隻の建造が続く250トン水雷艇だが、帝国はまだ足りないと思ってさらにCantiere Navale Triestino(CNT)にも250トン水雷艇を発注する。CNTは1908年創設のまだ新しい会社で、イタリア参戦(CNTもイタリア国境に近い場所に造船所を持っていた)もあって建造は3隻に終わった。
CNTの3隻は造船所のあったモンファルコーネの頭文字をとり、98-Mから100-Mの番号が与えられており、キットに含まれる98-MはこのCNT製の250トン水雷艇だ。「Mグループ」はT、Fグループとはまたも主機が異なるがレイアウトはTグループに近く煙突も2本である。
ちなみに「CNT」は後に航空部門を切り離し、名前に「Aeronautici」(航空)を加えた「CANT」として独立させる。CANTはイタレリ製のプラモデルでおなじみ、素敵スタイルのZ.501で有名だ。

大戦中、27隻の250トン水雷艇は帝国沿岸を航行する船団を護衛し、機雷を除去し、アドリア海対岸から来襲するイタリア海軍魚雷艇艦隊と戦い、ついでに小規模なイタリア沿岸砲撃や対戦哨戒までこなした。小型艦なので目立った戦功はないものの、戦前の想定通りアドリア海に閉じ込められ極めて不活発であった帝国海軍においてはよく働いた方だ。「ライバル」のイタリア艦も「艦の排水量とその戦果は反比例する」と揶揄されるが、とどのつまりアドリア海という場所がそういう環境だったのだろう。
27隻は何度も小損害を蒙りながらも全艦が世界大戦を生き延びたが、帝国が崩壊するとサン=ジェルマン条約によって帝国海軍の全艦艇は連合国へと引き渡されることが決定された。まぁ、ユーゴスラビアが独立して内陸国になってしまったんで、オーストリアやハンガリーが艦船持っていてもしょうがない。
250トン水雷艇はルーマニア7隻、ポルトガル6隻、ギリシャ6隻、そして「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(あんまりにも長いんで後に「ユーゴスラビア」)に8隻が引き渡された。
キットの98-Mは、Mグループ3隻、Fグループ3隻を受け取ったギリシャ海軍に配属され「Kyzikos」(古代都市の名)に改名されている。
「Panormos」となった94-Fは1938年に事故で失われたが、残り5隻は第2次大戦まで生き残っていた。しかし、この5隻も1941年4月のドイツ軍によるギリシャ攻撃時に次々に空襲によって沈められてしまい、Kyzikos(98-M)も4月22日にサラミスで撃沈された。ちなみにProussa(92-F)は珍しいことにイタリア空軍のJu-87「スツーカ」(イタリア軍呼称「Picchiatello」)によって沈められている。

残りの250トン級水雷艇だが、6隻を受け取ったポルトガルはなんか気に入らなかったのか第ニ次大戦前に全艦を解体している。
ルーマニアは第二次大戦開戦時に3隻の250トン級水雷艇を保有しており、ソビエト黒海艦隊に対して運用している。1941年7月9日、Naluca(82-F)はソビエト潜水艦Щ-206を他の小艦艇と共同して撃沈したが、Nalucaは1944年8月20日にソビエト軍航空機(詳細不明)に撃沈された。
残る2隻、Sborul(81-F)とSmeul(83-F)は1944年8月にルーマニアが連合側に寝返った後、ソビエトに接収され黒海艦隊に組み込まれたが1945年10月にルーマニアに返還され、程なくして解体された。

さて、ユーゴスラビアの250トン水雷艇は複雑で、1941年4月の枢軸軍によるユーゴスラビア侵攻時には6隻が残っていたが、全てがイタリア軍に鹵獲されイタリア海軍に組み込まれた。
1943年9月、今度はイタリアが降伏。この際に1隻がドイツ軍航空機に撃沈され1隻が自沈している。残った4隻のうち2隻はドイツが接収し、後にクロアチア海軍に譲渡しているが1隻は英軍魚雷艇に、もう1隻も英国空軍によって撃沈されている。
よくわからないのが最後の2隻で、イタリア降伏後に「亡命ユーゴスラビア王立海軍に返還」となっているが、この亡命ユーゴスラビア王立海軍というのがよくわからない。どうもチトー率いるパルチザン海軍とは違うようだが、どういうものなのか、そしてどうやってアドリア海から脱出したのか(あるいはアドリア海にとどまったのか)はよくわからない。とにかくこの2隻は世界大戦を生き延び、戦後にチトー政権の新ユーゴスラビアに引き渡されている。
最終的に元76-Tは1959年に、そして最後に残った元87-Fは1962年に解体され、250トン級水雷艇は全てが失われた。


なんだか何にもしてないイメージのあるオーストリア=ハンガリー帝国海軍の中で、珍しい働き者の250トン級水雷艇。オーストリア=ハンガリー帝国海軍のファンならもちろんのこと、ユーゴスラビア海軍ファンや、ついでにルーマニア海軍ファンやポルトガル海軍ファンのモデラーも一応は押さえておきたいアイテムだ。

(第三回に続く)


キット画像はJSCショップサイトからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/250t-class_torpedo_boat
https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Yugoslav_Navy
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なかなか、スパっと通常ペースに戻るってわけにはいかんね……

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JSC オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット・1 河川モニター”SMS Leitha”

これまで、新リリースのキットに絡んで過去にリリース済のキットについて触れようと思うたび、自作のリスト(テキスト)をつらつらと眺めて情報を拾い集めていたものの、これがまぁ、やたらめったら面倒なんですわ。
で、せっかくPC使ってるんだから表計算ソフトで管理すりゃいんじゃね? と今更になって気づいて古いキット情報をまとめなおしていたところ、「なんでこんなオモシロネタを放置してるんだろう」ってキットがけっこうありまして、今回はそんな風に掘り出してきた過去にリリース済のネタキットの中からポーランドJSC社からリリースされた オーストリア=ハンガリー帝国 小艦艇セット を紹介。

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右上には「2015/3」の表記があるが、JSCは再版する時にここの表記を書き換えてしまう上に、キット番号の「262」も通しでふられていないので初版がいつごろなのかは良くわからない。一応、カテゴリごとにキット番号はある程度まとめられており、キット番号251番のドイツ帝国巡洋戦艦”ゲーベン”からキット番号269番ドイツ帝国戦艦”フリードリヒ・デア・グローゼ”までが「第一次大戦シリーズ」となっているが、その中でも特になんじゃこりゃ、なキットが今回のネタだ。

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誰も見たこと無いようなオーストリア=ハンガリー帝国海軍の小艦艇達。
キット内容は左上の一番細長い四本煙突の艦が「タトラ級駆逐艦”トリグラフ(SMS Triglav)”」、その右下に並んでいる少し小柄な船が「250トン級水雷艇”SMS Tb 98-M”」、右下の潜水艦が「潜水艦”SM U-5”」、そして左下の平べったい船が「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」である。
どれも小粒ながらピリリと辛いアイテムというか、調べれば調べるほどに知らない話が出て来るというか、そもそもオーストリア=ハンガリー帝国海軍のことなんてなんも知らんので、ここは一つ駆け足に済まさずに筆者の勉強がてらじっくりと紹介していきたい。
第一回となる今回ピックアップするのは「河川モニター”ライタ(SMS Leitha)”」だ。

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見るからに河川モニターだ。というか、これ第一次大戦の艦艇なのか? どう見ても19世紀の艦船だぞ。
なお、この写真ではわかりにくいが実際のライタの甲板は砲塔部分が高く、そこから前後にゆるやかに下っている。ただし、これを左右方向のキャンバーと合わせると甲板は前後左右に下っていくゆるやかな山形という複雑な三次元曲線となってしまうのでキットでは前後方向の傾斜は省略されているのかも知れない。

オーストリア=ハンガリー帝国(長いので、以下「帝国」に省略)はもともとが陸軍国であった上に、今ではオーストリア、ハンガリーとも海岸線を持たない内陸国となってしまったために帝国の海軍は非常に影が薄いが、まがりないにも20世紀初頭までは「大国」だったので、もちろんそれなりの海軍力は保持していた。

19世紀中盤、南北戦争で「装甲艦」が鮮烈なデビューを飾ると、各国は競って装甲艦の建造に乗り出す。
帝国は1862年に初の装甲艦「カイザー・マックス級」(排水量3600トン)を完成させ3隻を就航させる。さらに1865年にはより大型の「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級」(排水量5100トン)なんていう、痺れるほどカッチョイイ名前の装甲艦2隻が完成。この2クラス5艦に「ドラッヘ級」装甲コルベット(排水量2800トン)2隻を加えた7隻で迎えた第三次イタリア独立戦争では、リッサ海戦で帝国艦隊旗艦E・F・マックスがイタリア艦隊の装甲艦「レ・ディタリア」にまさかの衝角による体当たりをぶちかまして撃沈。これにより世界の海軍は「装甲艦を沈める最良の方法は衝角攻撃」という間違った天啓を心に深く刻み込むこととなる。

これらの渡洋艦隊とは別に、帝国は河川砲艦からなる小艦隊整備の必要性も感じていた。なにしろ帝国はど真ん中をヨーロッパ有数の大河、ドナウ河が流れている。そして、東をロシア帝国、西をドイツ帝国に挟まれた帝国が領土拡大するためにはバルカン半島へと進出するしかなく、それならドナウ河をプカプカと進んでいける河川砲艦は戦力として最適であった。
そんなわけで1869年、リッサ海戦の英雄ヴィルヘルム・フォン・テゲトフの提案でモニタータイプの河川砲艦2隻の建造が決定され、当時まだ新兵器であった「砲塔」はイギリスに発注された。
設計における難点は、帝国主要河川の水深が非常に浅いことであった。そのため、「モニター」の設計をそのまま流用すると、川底に底をすって悲しいことになるのは目に見えている。かと言って、喫水を浅くするために重量を軽くする=装甲を減らしたら、なんのためにモニターを作るんだかわからない。
この難問に対する帝国造船官ヨセフ・フォン・ロマコの編み出した回答が、「甲板の前後を下げる」というものであった。これにより、艦尾・艦首方向で乾舷を減らし(その分装甲帯の幅も減る)、それでいて水をかぶったらヤバい砲塔リングはそれなりの高さに残すことを同時に達成した。
2隻のモニターは1871年5月17日、4月20日に完成。それぞれが「SMS Leitha」「SMS Maros」と名付けられる。両者の名前はそれぞれオーストリア、ハンガリー両国の河川の名前から取られており、ここにも帝国の複雑な事情が現れていると言えるだろう。

河川モニター「ライタ」の初陣は1878年。日本で言えば西南戦争の翌年にトルコ領ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対し帝国が侵攻した戦いに於いてであった。この戦いで2隻の河川モニターはサヴァ河でトルコ軍に打撃を与えた。
その後、まぁ大抵のモニター艦と同様にライタも急速に旧式化。20世紀初頭にはそろそろこいつら、退役させるか、という雰囲気になっていたが、1914年に第一次大戦が勃発するとすでに帝国海軍で最も古い現役艦艇となっていた2隻のモニターはサヴァ河で再び配置についた。
モニター艦隊はそもそもの世界大戦の発火点、セルビアの首都ベオグラード(ドナウ河とサヴァ河の合流点)占領に向かったが、正直、小国セルビア相手に舐めプしていた帝国軍は予想を反し強力な抵抗に遭遇。ライタは1914年10月、セルビア軍の砲火(詳細不明)が砲塔(19世紀末までに、前装砲2門が配置されていた大型の砲塔はより近代的な後装単装砲を配置した小型のものに換装されている)を直撃、砲塔内の人員が全滅するという大打撃を被っている。ベオグラードは11月30日に陥落したものの、12月15日にセルビア軍に奪還された。
帝国はドイツ軍も呼び込んで、1915年10月に第二次ベオグラード攻略戦を開始。この時は修理の終わったライタはドナウ河小艦隊の旗艦として戦いに参加している。廃墟となったベオグラードは10月9日に再陥落した。

1918年、いろいろあってロシア(ソビエト)領内でチェコ(当時帝国領)軍団が大暴れしているのに乗じて、チェコの活動家トマーシュ・マサリクが「どうすか、いっそチェコを独立させちまうってのは。これを認めたら連合軍と戦ってる帝国はあっという間にボロボロっすよ」と持ちかけると連合軍はあっさりと「イイネ!」と同意。チェコは独立を宣言する。おいおい、それがありなのかよ、と思った帝国内の諸国は次々に独立を宣言。マサリクの言葉通りにオーストリア=ハンガリー帝国はあっというまに崩壊した。
帝国から放り出されたハンガリーは1919年3月22日、クン・ベーラ率いる共産政権が権力を掌握。「ハンガリー社会主義連邦評議会共和国」、別名ハンガリー・ソビエト共和国が成立する。
と、同時に「共産政権断固粉砕! あと、ハンガリーは一次大戦中にルーマニアにひどいことしたよね!」とルーマニアがハンガリー・ソビエトに侵攻を開始。「もう老兵なんで、引退させてください……」と思ってたライタはハンガリー・ソビエト軍ドナウ艦隊としてまたも現役延長が決定した。
1919年6月、ライタは革命干渉軍として押し寄せるチェコ軍との戦いを続けていたが、ハンガリー・ソビエト政権は戦争そっちのけで資本の国有化を急いでおり、それに抵抗する国民に対する容赦ない粛清で支持を失いつつあった。さらに、ぶっちゃけ、ハンガリー・ソビエト軍は軍事センスに乏しかった。
6月24日、ライタに掲げられていた赤旗が降ろされ、赤・白・緑のハンガリー国旗が掲げられる。これは世界でも最も初期の「反共産革命」だったが、共産軍の弾圧により反乱は失敗。ハンガリー・ソビエト政権の粛清は激しさを増した。
1919年8月、ティサ川でルーマニア軍と戦っていたハンガリー赤軍が崩壊。ルーマニアはブダペストを占領し、ハンガリー・ソビエト政権は5ヶ月もたずに崩壊した。

ルーマニア軍が工場や鉄道の施設をあらかた「戦後賠償」として持ち去った後、ハンガリーは保守派が「ハンガリー王国」を復活させる。しかし連合軍がハプスブルグ家の王が権力を握ることを拒否したために、王はいないのに王国は復活するなんて滑稽だわ、な逆ラピュタ状態だった。
王に代わってハンガリーで実権を握っていたのが、元帝国海軍提督、ミクロシュ・ホルティ。
ホルティは海軍軍人だったので、いまさらライタみたいな船をとっておいても仕方がない事をわかっており、ライタは民間に払い下げられることとなった。
1928年、砂利採取業者がライタを獲得。ベルトコンベアが据え付けられ、ライタは砂利採取用のハシケに改造された。

ハンガリーはその後右傾化し、ドイツと同盟を組んで世界大戦に参戦し、途中から連合軍に寝返ったルーマニアと戦い、ソビエトに占領され、王様のいない変な王政は廃止され、第二次共産政権が成立し、ハンガリー動乱でソビエト軍にボコられ、それでも民主化のうねりは高まり、ソビエト崩壊を機に複数政党制を認め、共産党独裁の軛から放たれたが、変な形の砂利採取用ハシケはそんなこととは関係なく川の中洲から岸へベルトコンベアで砂利を送り続けていた。
1992年、元ライタを所有する会社がスイスの企業へと身売りすることとなった。当然、会社が保有する全資産も一緒に売り払われる。
この時、ハンガリーの歴史家達が立ち上がった。実は1970年代、すでに「どうやらあのハシケはライタらしいぞ」という噂はたっていたのだがなにしろ帝国時代の遺物なもんだから、共産化以前の功績を一切否定する共産党に保護を申請したところで「ふーん、そう」と相手にされないのは目に見えていた。
しかし、今は時代が違う。海外の企業が貴重な歴史的な船を「古いし、イラネ」とスクラップにしてしまう前に保護しなければならない。
冷戦期には西側だったオーストリアの研究者達とも力を併せ、研究者達は資料を集め各所へ請願を行う。この結果、ライタは歴史的価値を認められハンガリー軍事史博物館が買い戻すこととなった。
スイスから里帰りしたライタは2005年からレストアが行われ、建造当時の姿へと戻され、2010年8月20日に博物館として公開が始まる。同日、ハンガリー国防大臣ヘンデ・チャバがライタを「ハンガリー陸軍河川艦隊名誉旗艦」に任命した(現在のハンガリーに海軍はない)。
現在もライタはブダペストでドナウ川に係留されている(写真によって背景が明らかに異なるので、場所は時々移動してるのかもしれない)ので、ハンガリー旅行の際には是非とも見学をスケジュールに組み込みたい。休館日は月曜日。10時から16時まで見学可能だが、見学は30分に1回づつのガイドツアーに参加する形となるので注意が必要だ。

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Wikipediaからの引用で、現在のライタ。船体前後、特に船尾方向が大きく下げられている独特の形状がわかる。砲塔や内装はもちろん復元されたレプリカだが、雰囲気はいい。砲塔の上の円筒はどうやら司令塔のようだ。
JSCのキットは博物館と同じ建造時の状態を再現しているが、前述の通り第一次大戦時には砲塔を換装しているので他の艦艇とは整合性に欠ける。しかし、良く考えたら海にいる他の艦と河にいるライタを並べること自体がファンタジーなんで細かい事は忘れよう。

ハンガリー最古にして、オーストリア=ハンガリー帝国海軍艦艇唯一の現存艦艇であるライタ。河川モニターファンならこのキットを見逃すべきではないだろう。

(第二回に続く)


キット画像はJSCショップサイトからの引用。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Leitha
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー評議会共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンガリー・ルーマニア戦争

http://lajtamonitor.hu/
非常に詳しいライタのページ(ハンガリー語)。少しわかりにくいが、右上の「LEITHA」のタイトルの下にある「TÖRTÉNET」(歴史)をクリックすると、各時期の艦の姿を豊富な写真、図版で見ることができる。必見。

http://welovebudapest.com/culture/museums.2/lajta.monitor.museum.ship
ハンガリーの博物館紹介サイト内のコンテンツ。博物館としてのライタの情報、現在の館内の様子などが見られる。

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お陰様で無事納品は終えたのですが、そしたら気が抜けて寝付いてしまったもんで本日更新休止させていただきます。
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BETEXA スロベニア水力発電所  Hydroelekrárna FALA

先週、「この週末にはいろいろかたがついてラクチンになるよ!」とフラグを立てまくったせいで順調に納入が延期となった筆者が休日出勤の合間にお送りする世界のカードモデル情報。
今回紹介するのはチェコのカードモデル出版/販売サイト、BETEXAが自社ブランドでリリースした スロベニア水力発電所 Hydroelekrárna FALA だ。

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スロベニアの水力発電所である。念のためもう一度書いておこう。スロベニアである。スロバキアではない。スロバキアはかつてチェコスロバキアを構成した国、スロベニアはかつてユーゴスラビアを構成した国で、全然別の国である。国旗がクリソツ(スロバキアスロベニア)でも全然別の国である。筆者が途中までチェコBETEXAの商品だから、このダムもスロバキアにあるんだろうと勘違いして全然資料が出てこなくて困り果てたとしても別の国である。なお、名前が良く似てるのは両国名とも民族名の「スラブ」を語源としているから、という説もあるが確定的ではないようだ。

さて、そのスロベニアはFalaにあるのがこの水力発電所。とは言っても、現在は水力発電所としての役割はかなり縮小されていて、メインは博物館となっているようだ。
地図上での位置はここ
ちなみにFalaという地名は13世紀から地図に登場する。当時は「Vall」、「Valle」のように表記されていたが、15世紀終盤に頭文字がFになった。これはもともとVをF音で発音するドイツ語に由来する地名の表記が、発音に併せて変化したのではないかと考えられており、この場合Falaの語源は古い高地ドイツ語で「黄色みがかった」を意味する「falo」あたりが語源ということになる。おそらく、この地に進出したゲルマン人はドラーヴァ川の流れを見て「ずいぶん黄色い川だな」と思ったのだろう。
なお、もっと単純に「谷」を意味するラテン語「vallis」から派生したのではないかという説もあるが、これはスロベニアは神聖ローマ帝国領であったものの、ラテン語の流入は極めて限定的であったことから否定されているらしい。

オーストリアからスロベニアを突っ切り、ハンガリーとクロアチアの国境を流れドナウ川に合流するドラーヴァ川で水力発電を行うというアイデアは20世紀初頭からあったが、本格的にFalaで建設が始まったのは1913年から(当時スロベニアはオーストリア=ハンガリー帝国領)。工事は1913年11月に始まったが、わずか半年後には第一次大戦が勃発。多くの労働者がオーストリア=ハンガリー軍に動員されたために工事はちっとも進まなかった。
しかし、1916年になると、どうやらこの戦争はまだまだ続きそうだ、下手すりゃ数十年も続くかもしれんぞ、という恐ろしい予想が台頭してくる。そうなると、南米の窒素肥料輸入が途絶えているドイツ、オーストリアなどの中央帝国側は肥料として石灰窒素をどんどん作らないと国民の食料が賄えない。そして、石灰窒素の元になるカーバイド製造には大量の電気を使用する電気炉が必要となる。
と、いうわけで果然戦争は国内で「電力確保闘争」へと姿を変えた。これぞ総力戦。ちなみに窒素肥料のために発電所をどかどか建てる、というのは後に未曾有の公害病を起こしたことで歴史に名を残すことになった「チッソ」(旧:日本窒素肥料)が辿った道でもある。日窒は自社発電所で作った安価な電力で肥料を生産するというビジネスモデルが立ち行かなくなり、ケミカル産業へ舵を切ったのが間違いの始まりだった。
捕虜を投入した突貫工事で1918年5月6日、最初の3基のタービンが回転しFala水力発電所は発電を開始(設計上のタービン数は5基)。その半年後、中央帝国側は第一次大戦に敗退し、オーストリア=ハンガリー帝国は解体されスロベニアは「セルビア・クロアチア・スロベニア王国」を経てユーゴスラビアの一員となる。

それでは、ここで公式ページの完成見本写真を見てみよう。

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キットは何度か拡張を受けた後の、現在のダムの姿を再現。日本でいうと建設時期、形式とも栃木県の黒部ダム(1912年竣工。「黒部の太陽」の黒部ダムとは別のダム)に近いだろうか。堤体のみではなく付随施設まで含んだ情景キットとなっているので、ダムの構成を知るための資料としても使えそうだ。
堤体の足元にある尖った部分は流木や氷が直撃するのを避けるためのもの。
Fala水力発電所は第二次大戦中ドイツ軍に占領されていたが、アーチ式ではないのでランカスター爆撃機がダムバスター弾をぶつけにきたり、下流の鉄橋を落とすためにコマンド部隊に爆破されたりもせず、戦争を生き延びた。

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Wikipediaからの引用で、タービン棟の写真(絵葉書)。むき出しのシャフト、むき出しのタービンがそれでいいのか、という感じだ。現在、この部屋は一般に公開されており見学ができる。
手前に立っているフレディー・マーキュリー風の人物との対比でタービンのサイズがわかる。
奥の2基は手前5基と少し形状が異なるようだが、手前5基が最初に配置されたタービンで、残り2つはそれぞれ1925年、1932年に増設されたものなのでその差だと思われる。
さらに第8タービンが1974年に、第9、第10タービンが1991年に増設されている(8~10号は別の建物が建造された)。10基のタービンが揃った1991年、スロベニアはユーゴスラビアを脱退し、独立した。

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細部のディティールにクローズアップ。古びたコンクリートのテクスチャがいい雰囲気だ。チェコ式のペーパークラフトは基本的に芯材が入らないので、平面の「たるみ」が気になるようなら0.5ミリ程度の厚紙で裏打ちするとピシっとした仕上がりになる。
ベテランモデラーなら、艦船模型のように手すりを自作することでさらにクオリティアップを狙うのもいいだろう。
左側写真の建物が8~10号タービンのおさまる新タービン棟だろうか。

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何基も林立しているクレーンは水門開閉のためのもの。位置から推測するに、下にある緑色のハッチを開けて水門にアクセスするのだと思われるが、なんでわざわざそんな面倒な構造になっているんだろう。
1990年代中盤、旧式となった1号~7号までのタービンが運用終了となったが、当時すでにスロベニア最古の水力発電所であったFala水力発電所は、運用停止で不要となった部分を博物館に改装。1998年に「Muzej HE Fala」として公開、博物館は2008年にスロベニアの国定重要産業遺産に指定された。
2017年現在、博物館は月曜~金曜が開館という旧共産圏らしいスケジュールで運営。入場料は大人3.5ユーロ(約420円)となっている。

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組み立て説明図。チェコ式は展開図の取り付け位置に相手の部品番号が書き込まれているので組立説明図は少なめだ。

BETEXAからリリースされた、スロベニアの水力発電所 Hydroelekrárna FALA のスケールは300分の1。完成サイズの記載はないが、なかなか迫力のあるサイズとなりそうだ。難易度も記載がないが、5段階評価で「3」(普通)といったところか。そして定価は599チェココルナ(約2700円)となっている。

ダムのカードモデルというのはありそうで意外となかった。ダムファンのモデラーはこの歴史的なダムの模型を手に入れられるこの機会を見逃すべきではないだろう。もちろん、スロベニアファンのモデラーにも当キットはオススメの一品である。



キット画像はBETEXAショップページからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://sl.wikipedia.org/wiki/Hidroelektrarna_Fala
https://en.wikipedia.org/wiki/Fala,_Ruše
https://ja.wikipedia.org/wiki/スロベニア

https://maribor-pohorje.si/fala-hydroelectric-power-plant-museum.aspx
観光情報。

おまけ動画:
すごく微妙な感じのユルキャラと巡るFala水力発電所。上の絵葉書にある旧タービン棟の現在の様子も見られる。
part1 part2
このキャラは発電所のイメージキャラではなく、スロベニア電力協会の子供向け広報プログラムのもの。

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