Heinkel Models アメリカ装甲艦 USS Lafayette(前編)

先日、母から「あなた、昼の気象ニュースに映ってたわよ」というメールを受けとり、いつのまに撮られちゃったのかな~?とか思いながらネット配信で確認したところ、単なる背格好が似ている人だった筆者がお送りする世界のカードモデル情報。母ちゃん、これ右上に撮影場所甲府って出てるじゃない。わしの勤務地東京だって。

今回紹介するのはスペインのデザイナー、Fernando Pérez Yuste氏のブランド「Heinkel Models」の新製品、アメリカ装甲艦 USS Lafayetteだ。

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なんかメイド・イン・他の惑星的な、見たことのない物体が表紙に載っているが慌てず騒がず順を追って説明していこう。
ちなみにHeinkel Modelsは数ヶ月前からホームページが行方不明。自身での販売は終了して、これからは委託販売のみでやっていくのだろうか。ちなみに表紙はEcardmodels版のもの。

1861年に南北戦争が始まった時、合衆国(北軍)大統領リンカーンは南軍を打ち負かす戦略を文民である自分がフィーリングとかノリで決めてしまうべきではないと思った。そこで、大統領は1808年から軍務についている陸軍の長老、ウィンフィールド・スコット将軍に「どうしたもんかね」と意見を求める。
将軍は19世紀の戦争をよく研究しており、わずかな常備軍とピクニック気分で集まった志願兵からなる北軍は軍備も訓練も全く足りず、全てを賭けた大勝負一発で勝敗を決めてしまうべきではないと考えた。そこでスコット将軍は大西洋、メキシコ湾、ミシシッピ川という一連の水域で南軍の支配地域を包囲し(当時の陸軍の規模では陸で封鎖することは難しい)、外部との交通、流通を遮断することで南部の戦力・国力を削ぎ落としていくという遠大な計画を立案する。
この発想は、「攻撃精神」が尊重された19世紀の将軍が考えたとしては非常に壮大であり、また政治的(非軍事的)である。三国志で言えば、「将軍」ではなく「軍師」が立案するような作戦で、「相手を経済的に弱らせる」という発想は非常に現代的でもある。いっそ「年金でボードゲーム買い漁ってたワシが転生して南北戦争で将軍になるじゃと!?」という設定で転生ものラノベになってもいいぐらいだ。その本、意外とおもしろそうだ。
この計画を聞かされた北軍の将軍達は内心、『ええーっ! この爺さん、なに言ってんの!』と思っただろうが、なにしろ軍人になった時の大統領は第3代トマス・ジェファーソン(リンカーンは第16代)、1812年の米英戦争でイギリス軍と戦ったこともあるという陸軍の権威に面と向かっては誰も『包囲とか超だっせ! ナウなヤングなら突撃っしょ!』とは言えず、「はい……そうですね……」とスコット将軍の案が北軍の大戦略として採用される。包囲作戦はいつしか南軍を締め上げる大蛇になぞらえ「アナコンダ・プラン」と呼ばれるようになった。

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1861年12月に描かれたアナコンダ・プランの戯画。Wikipediaより引用(もともとの出典ははっきりしない)。
この絵ではアナコンダは西側でテキサスまで巻き込んでおり(スコット将軍のプランではテキサスの東隣のルイジアナでミシシッピ川に入る)、もともとのアナコンダ・プランとは差異が見られる。
結果論的に言えば、南北戦争は鉄道と徴兵によって莫大な兵力が常に前線へ送り込まれる「総力戦」の先駆けであり、スコット将軍の大戦略なくしては戦争はさらに長く苦しいものとなったであろう。ヘタすりゃ南北それぞれに肩入れする外国を巻き込んでの「世界大戦」となっていたかもしれない(フランスのナポレオン三世は南軍贔屓だった)。
スコット将軍は老齢であり南北戦争で実際に指揮を取ることはなかったが、間違いなく南北戦争きっての名将だったと言えるだろう。

アナコンダ・プランに従い脆弱だった米海軍は開戦後に急速に拡充され、着実に大西洋、メキシコ湾を封鎖していく。
1862年4月、デヴィッド・グラスゴー・ファラガット提督率いる北軍艦隊はミシシッピ川河口に突入し、ミシシッピ川下流域最大の都市ニューオリンズを占領。いよいよアナコンダがその首をもたげ西から南部連合を包囲にかかったのである。
当時、ミシシッピ川に浮かべる船を主に建造していたのはミシシッピ川を北へ遡ったミズーリ州セントルイス(北軍地域)。ここで建造された汽船からなるミシシッピ戦隊(Mississippi Squadron)がドンブラコッコとミシシッピ川を下っていき、ニューオリンズのファラガット艦隊と握手すれば、これでアナコンダ・プラン完成! アーケードゲームの脱衣陣取り「ギャルズ・パニック」だったら南部連合の支配地域がガコンと抜け落ちてジェファーソン・デイヴィス南部連合大統領のウハウハ画像が見えちゃうこと間違い無し! となるはずが、ここでアナコンダの動きは止まってしまう。
原因はミシシッピ川をニューオリンズから400キロ遡ったところにある町、ヴィックスバーグだった。

ヴィックスバーグはミシシッピ川東岸の崖の上に築かれており、さらに、ミシシッピ川はヴィックスバーグの目の前で大きく蛇行している。さらにヴィックスバーグ砲台はミミシッピ川を見下ろす絶好の位置に据えられていた。
崖の上の砲座は要塞化されており、対抗しようにも西岸は一面の湿地帯で部隊の展開はできない。
そして、ファラガット提督はニューオリンズからミシシッピ川を遡ってヴィックスバーグを攻略できるだけの河川用艦艇を持っていなかったし、ニューオリンズで鹵獲することもできなかった。

ここでアメリカの地理に詳しい方なら、「あれ? ヴィックスバーグってミシシッピ川に面してたっけ? むしろ中心部は支流のヤズー川沿いじゃね?」と思うかも知れない。
こんな感じ。



しかし、この蛇行するルイジアナーミシシッピ州境を見てピンと来た人も多いだろう。そう、ヴィックスバーグ中心部に向けてヤズー川を遡り、方向を変えてセンテニアル湖に辿ってミシシッピ川に戻るこの線が当時のミシシッピ川の流れで、現在は「デ・ソト島」としてこれら水域に囲まれている地域は当時は「デ・ソト半島」であった。
(当時のミシシッピ川は今よりもずっと細かく蛇行を繰り返しており、その痕跡はミシシップ川東岸のルイジアナ州飛び地として残っている)
1862年6月、なんとか河川艦隊をかきあつめたファラガット提督はニューオリンズから遡ってヴィックスバーグの砲台をポコンポコン砲撃するが、高い位置にある砲台に向かって撃ちあげる砲撃は迫力を欠き、ファラガットはすごすごと引き返すしかなかった。
ミシシッピ川を封鎖するヴィックスバーグ要塞を突破するため、ファラガット提督はここでトンチを利かせる。
「そうだ、川の流れの方を変えればいいんだ」
このアイデアに従い、デ・ソト半島の根本にある細い運河、というか水路を艦隊が通過できるまでに拡充する工事が始まったが、前述した通りミシシッピ川西岸は大湿地帯で、真夏に行われた工事で作業員達は熱帯病と熱射病でバタバタと倒れ工事は1ヶ月で断念された。後にこの水路は拡充され、洪水などの作用もあって水路の方が本流となりデ・ソトは島になる。

(キットの話がまったく出てこないまま中編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。
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ノルウェー オスカシボルグ要塞・後編

前回までのあらすじ。
ノルウェー軍オスカシボルグ砲台を舐めプしていたドイツ軍重巡洋艦ブリュッヒャーは至近距離から命中弾を食らって大炎上中。

夜半にエリクソン大佐から呼び出されたアンデルセン臨時中佐(すでに13年前に退役して現在は年金生活中)は1909年から27年までこの魚雷陣地に勤務しており、発射装置については熟知していた。
しかし、問題は魚雷だった。40年前に製造されたオーストリア=ハンガリー帝国製ホワイトヘッド魚雷はこれまで合計して200回、訓練で発射、燃料(圧搾空気)切れ、回収、を繰り返してよく整備されていた。しかし、実際にその弾頭が作動するのかどうかは誰にもわからなかった。っていうか、魚雷って、そんなに繰り返し使うもんなんだろうか。
1940年4月9日4時30分。
アンデルセン中佐の目の前500メートルに炎上する重巡洋艦ブリュッヒャーがいた。
水面下3メートルまで沈められた魚雷が発進、最初の1発は中佐がブリュッヒャーの速度を速く見積もり過ぎていたために船体前部、A砲塔の下で爆発した。続く2発目では標準は修正されブリュッヒャーの船体中央に命中、船体隔壁を多数吹き飛ばした。

アンデルセン中佐は後続する艦艇に供えそれ以上の魚雷発射を控えたが、すでにブリュッヒャーの運命は決していた。
機関が停止し、漂流を始めたブリュッヒャーは座礁を防ぐために錨を降ろし、誘爆する前に全魚雷を陸地へ向けて発射したが5時30分、10.5センチ高角砲の弾薬庫に火が入り誘爆。船体側面が大きく裂けた上に艦の燃料に引火、さらに電源を喪失したために排水もできなくなり、もはや艦を救うことは不可能となった。
6時20分ごろブリュッヒャーは横転、艦首から沈み水面下に消えた。

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横転する重巡洋艦ブリュッヒャー。Wikipediaからの引用(この項キット表紙以外同じ)。
余談になるが、近代ドイツ海軍における「ブリュッヒャー」はこの船が2代目で、帝政ドイツ時代にもう一隻、装甲巡洋艦「SMSブリュッヒャー」という艦があるのだが、こちらの艦も1915年1月24日のドッガーバンク沖海戦で英軍艦隊の集中攻撃を受けて戦闘力を喪失した後、イギリス軍軽巡洋艦の雷撃を受けて横転沈没している。

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横転する装甲巡洋艦ブリュッヒャー。
偶然ながら、「ブリュッヒャー」は2代に渡って横転沈没する様が写真に収められた艦となった。

ブリュッヒャーの乗員とオスロ上陸要員の合計、約2200人のうち800人が犠牲となった(日本語版Wikipediaの「乗船していた2,202人の上陸部隊の内、830人が艦の火災や海に溺れ戦死した」という記述は上陸部隊と乗員の総計を混同しているものと思われる)。

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まだ冷たい5月の海から引き上げられた生存者。黒い服が海軍で、肩章襟章のついた少し明るいグレーの服が陸軍だろう。一番右の水兵、ほっとしたからって笑ってる場合じゃないぞ。

生存者(艦長と戦隊司令官含む)は全てノルウェー軍の捕虜となり近くの農場に集められたが、それを監視するような余分な兵力をノルウェー軍は持っていなかった。
夜18時30分、監視していたノルウェー軍が撤収。放ったらかしにされたドイツ軍は仕方ないのでみんなで負傷者を担いで歩いてオスロに行き、そこで病院に収容してもらった。

一方、ブリュッヒャーの後ろにいたリュッツォーその他はどうなったのかと言うと、ブリュッヒャーに水柱が立つのを見たリュッツォーはフィヨルドが機雷で封鎖されていると判断し後退。沿岸砲台の射程外から艦砲射撃を行ったがこれは命中しなかった。
4月9日の夜が明けるとドイツ空軍の空襲が始まる。要塞の対空戦力はわずかに40ミリボフォース砲2門(しかも1門は22発撃ったら故障した)と7門のコルトM29重機関銃(ブローニングM1917の輸出型)。これで世界最強のルフトヴァッフェを追い返せるはずもなく、9時間に渡る爆撃で要塞に対しておよそ200発の爆弾が投下されたが、どういうわけかこれまた一発も命中しなかった。

しかし、戦況はすでにノルウェーにとって致命的となりつつあった。各地でドイツ軍は上陸を成功させており、オスカシボルグ要塞にもオスロフィヨルド湾口に上陸したドイツ軍部隊が接近しつつあった。エリクセン大佐は寄せ集めの新兵では抵抗するだけ無駄と判断し、4月10に要塞を脱出。要塞はドイツ軍地上部隊によって無傷で占領された。同日、ドイツ軍オスロ占領。無防備都市になったオスロで薄ぼんやりしていたブリュッヒャー関係者も全員解放された。
オスカシボルグの戦いにおけるノルウェー側の損害はドイツ軍反撃の流れ弾による民間女性2名、うっかりドイツ軍掃海艇に近づいた紙運搬船の乗員2名(これも民間人)のみであったという。

オスカシボルグ要塞がオスロを守りきったのはたった1日だった。しかし、この貴重な1日の間にノルウェー王室、政府、議会はオスロを脱出。さらにオスロ中央銀行は備蓄してあった50トンの金の搬出に成功。それら全ては英国海軍によってイギリス本土へと送り届けられた。
さらに、ブリュッヒャーが沈没する際、事前に作成してあった軍政の計画、さらには逮捕すべき反動分子のリストなども失われており、ドイツ軍の占領政策は大きな遅れを取ったと言われている。

時は流れ1945年5月12日、ノルウェーを占領していたドイツ軍部隊が降伏。
オスカシボルグ要塞には40年4月9日に掲げられていたノルウェー国旗が再び掲揚された。
この式典にはエリクセン大佐も出席していたという。
戦後、エリクセン大佐は「要塞の放棄は早すぎたのではないか」との嫌疑をかけられ査問会が開かれたが、出された結論は当然ながら「まぁ、仕方ないよね」というもので無罪放免となった。大佐は1958年、82歳で死去。オスカシボルグのもう一人の老英雄、年金生活でブリュッヒャーを撃沈したアンデルセン中佐は1945年12月31日に亡くなっているが、同年12月13日の国王も列席した式典には出席しているので、なんらかの理由による急死だったようだ。

オスカシボルグ要塞は戦後さらなる改修を受け1990年頃まではオスロ防衛ラインに組み込まれていた。その後、砲兵士官学校となり2002年に6月28日に軍の施設としては閉鎖。要塞は博物館として整備され、現在は無料で公開されている。
2014年にドイツ軍のノルウェー侵攻とノルウェー軍の抵抗、そして国王の脱出を描いた映画「Kongens nei」撮影のために28センチ砲が実際に空砲を発射し、メディアは「1940年4月9日以来の発砲!」と書き立てたが、実際には50年代に試射が行われておりいささかこれはドラマチックな演出を狙いすぎたフカシ記事だったようだ。
さらに嬉しい情報。この「Kongens nei」、「ヒトラーに屈しなかった国王」の邦題で今年12月から日本で公開されることが決定(シネスイッチ銀座から、順次全国公開を予定)しているそうだ。ノルウェー軍ファンなら、大スクリーンでオスカシボルグ要塞の発砲が見られるこの機会を逃すべきではないだろう。

Google mapで見るオスカシボルグ要塞
特徴的な防盾付きの主砲が4門見えるが、よく見ると一番右側(リンクの地図は南北逆転しているので一番西側の1門)は砲身の短い30.5センチ砲。ストリートビューにも対応しているので、是非重砲の砲尾が並ぶ迫力を疑似体験していただきたい。

また、7月の段階では「近日発売」だったGPMの重巡ブリュッヒャーだが、8月になって定価が表示され販売が開始された。

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前編でも出したけども一回表紙。重巡といえども海モノ標準スケール200分の1で完成全長1メートルのビッグキット。難易度は意外にも3段階評価の「2」(普通)。定価は140ポーランドズロチ(約4600円)。また、手すりなど細い部品のディティールアップ用レーザーカット済パーツ、機銃座などの複数作成が必要な小部品のレーザーカット済パーツがそれぞれ140ズロチ(約4600円)、真鍮製砲身が50ズロチ(約1600円)で同時発売となる。
北欧作戦ファンのモデラーならこの冬は映画館に出向き、その余韻に浸りながらブリュッヒャーを製作するのもいいだろう。
GPMには是非とも200分の1オスカシボルグ要塞、もしくは25分の1オスカシボルグ28センチクルップ砲のキット化をお願いしたいところだ。



画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ブリュッヒャー_(重巡洋艦)
https://en.wikipedia.org/wiki/Oscarsborg_Fortress
https://ja.wikipedia.org/wiki/オスロフィヨルドの戦い
https://en.wikipedia.org/wiki/Birger_Eriksen
https://no.wikipedia.org/wiki/Andreas_Anderssen
それぞれ、日本語、英語、ノルウェー語のページを参考とした。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・中編

前回までのあらすじ。
オスロ占領したるで! と意気込んだドイツ海軍第5ノルウェー上陸部隊は意気揚々とオスロフィヨルドを進んでいた。先頭を進むのは旗艦、重巡洋艦「ブリュッヒャー」。半年前に就航したピッカピカの新鋭艦だ。
対するオスカシボルグ要塞は100年前に建造された要塞で主砲は50年前のもの。司令官は定年前の爺様で、配置についた兵士は訓練前の新兵さん。
……ごめん。先週、「オスカー・クメッツ少将、なんにも考えないで前進ってちょっと不用心すぎじゃないすか?」みたいな調子で書いてしまったが、これで前進しなかったらその方が問題だわ。

さて、運命の1940年4月9日早朝04時21分(ノルウェー時間)、オスカシボルグ要塞司令官、エリクセン大佐はオスロに向かって粛々と進む艦隊に対し砲撃開始を命令したが、途端に聞き返された。
「え、本当に砲撃するんですか?」
この時点で艦隊の正体は依然として不明であった。もちろん、ドイツ軍である目算は非常に高いがもしかすると英軍が進出してきたのかもしれない。どちらにせよ総司令部との通信は混乱の中で途絶してしまい確認する手段はなかった。そもそも、軍の規定で沿岸砲台を発砲する時はまず警告として空砲を発射することとなっていた。
しかし、大佐は先頭の艦に標準を合わせ、装填されている榴弾を発射しろと言っている。
あと半年で定年を迎える老大佐は躊躇せず答えた。
「勲章を授与されるか軍法会議にかけられるか、2つに1つだ。撃て!(Enten blir jeg stilt for krigsrett , eller så blir jeg krigshelt. Fyr!)」

前回説明した通り、オスカシボルグの主砲は4門。うち3門の28センチ砲はそれぞれ旧約聖書から「モーセ」「アロン」「ヨシュア」と名付けられていた(もう一門の30.5センチ砲は「メトセラ」)。しかし、砲はあっても砲員がいなかった。集められた兵士(叩き起こされたコック含む)のうち砲の操作ができる者はかろうじて1門分しかおらず、やむを得ずそれらを2門に振り分け、新兵にそれを補佐させた。
サーチライトが点灯され、闇の中に浮かび上がる艦影に向けモーセ、もしくはアロン(はっきりしない)から第1弾が発射された。距離約1800メートル。このクラスの火砲にとっての1800メートルは近い。至近距離での撃ち合いとなり「舷舷相摩す」とまで言われた1905年の「日本海大海戦」でさえ、最も接近した彼我の距離約4000から5000メートルだった。その半分からの射撃だから、これはほとんど「接射」と言っていい。
ちゃんと整備された火砲なら、この距離で巡洋艦クラスの的を外すことはあり得ない。255キロの爆薬が充填された28センチ砲弾は1発でブリュッヒャーの砲撃指揮所を吹き飛ばした(予備の指揮所があるので砲撃不能になるわけではない)。
続いて2発目が発射され、今度は観測機格納庫側面を突き抜けて爆発。アラドAr196観測機と航空燃料が燃え上がり、装甲甲板を突き抜けた爆風が機関を損傷させる(1発目、2発目それぞれの命中箇所、効果については資料によってばらつきがある)。

突如被弾した2発の砲弾で燃え上がったブリュッヒャー艦上は混乱を極め、散発的な反撃は全て目標を飛び越しノルウェー側に損害を与えることができなかった。
やむを得ず、ブリュッヒャーが沿岸砲台をやり過ごそうと増速するのに対し、ノルウェー側は近隣の砲台から15センチ砲、57ミリ砲を撃ちかける(これらの火砲は、本来機雷原の掃海を妨害するためのものだったが、この時は機雷そのものが敷設されていなかった)。
13発の15センチ砲、30発の57ミリ砲を被弾しながらブリュッヒャーはオスカシボルグ主砲陣地の前を駆け抜けた。
滅多打ちはブリュッヒャーの消火作業を妨げ、さらに1発の15センチ砲弾が操舵装置を破壊し、ブリュッヒャーは左右のスクリューで進路を制御せざるを得ずさらに速度が低下した。
奇妙なことに、この時ノルウェーの砲員はブリュッヒャー乗員が「Deutschland, Deutschland über alles(ドイツ国歌の歌い出し)」と歌っているのを確かに聞いたという。
オスカシボルグ主砲28センチ砲は装填に手間取り、結局3発目は発射できなかった。

沿岸砲台の射界を抜けた時、ブリュッヒャーはひどく損傷していたが、まだ沈没に至るほどではなかった。
これで一息つける、とドイツ側は思ったに違いない。
だが、実は艦隊はオスカシボルグ要塞で最も威力のある装備の前に、今まさに差し掛かろうとしていた。
1898年から3年かけ、ノルウェー軍はオスカシボルグの北に魚雷発射装置を設置していた。魚雷陣地は3本の洞窟から構成されており、それぞれが2基の魚雷ラック(それぞれ1発を格納する)を持っている。魚雷を発射する時はこのラックを水面下までちゃぷんと降ろして魚雷を発進させ、もう1基と交代。予備の魚雷がもう一発準備してあるんで2発目を打ってる間に3発目を装填して、うまくいけば3発目を発射。合計で3x3の9発の魚雷が発射できる計算になる。
ドイツ軍情報部はどういうわけか、この存在をすっかり見落としていた。あるいは、知ってはいたが、どうせ大したことないから放っておこう、と思ったのかもしれない。
まぁ、それも仕方ない。なにしろこの魚雷陣地、建設された1900年にオーストリア=ハンガリー帝国からホワイトヘッド魚雷を購入した後、一度も装備の更新をしていないのだから。
しかも、この魚雷陣地の本来の指揮官は3月に健康を害して療養中で、代わりに指揮についていたのがアンドレアス・アンデルセン海軍中佐(Andreas Anderssen)。「中佐」といっても現役ではなくて、1927年にすでに除隊しており現在は年金で生活していた(1879年生まれ)。


(後編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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ノルウェー オスカシボルグ要塞・前編

カードモデルと関わりが深かったり関係なかったりする世界のマイナー物件を、今見てきた資料を元にドヤ顔で語るマイナーアイテム列伝、今回紹介するのは某幼女の戦記アニメ(第7話)で有名になったような気がしたけれども、気のせいだったノルウェー オスカシボルグ要塞だ。

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写真はWikipediaからの引用で、要塞主砲のクルップ28センチ砲。
恐竜を思わせる鋭角な防盾が特徴的。砲の前面はコンクリートの傾斜面となっており砲の下を隠しているので防御力は高そうだ。

なぜ唐突にノルウェーの要塞の話なんか始めたのかと言うと、ポーランドGPMの新製品、ドイツ重巡洋艦「ブリュッヒャー」の話をしようと思って下調べをしたのに、良く見たら新製品じゃなくて近日リリースの予告だったので急遽主役をブリュッヒャーから要塞の方に切り替えたからだ。

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GPM公式ページから表紙画像。左下の砲がオスカシブルグの28センチ砲。オスカシボルグ要塞の戦いは2016年のノルウェー映画「Kongens nei」(英語タイトル「The King's Choice」。日本未公開)で再現されおり、2016年から2017年にかけてはいつの間にか世界的に空前のオスカシボルグブームが来ていたと言えよう。

ノルウェーの首都、オスロは「オスロフィヨルド」という細い湾の奥に位置している。
首都を守るためにこの湾を封鎖する沿岸砲台を築こう、ってのは自然な流れで、オスロフィヨルドの狭隘部分に栓をするような形の島には17世紀ごろから何度か要塞が建造されていた。
現在の近代的要塞は1850年代に建造されたもので、完成時に当時ノルウェーを実質支配していたスウェーデンの王様(ノルウェー王兼任)オスカル一世が要塞を見に来たことを記念してオスカルの砦、「オスカシボルグ」と名付けられた。
19世紀後半以降の軍事技術の進化はめざましく、オスカシボルグも魚雷発射装置やドイツクルップ製新型後装ライフル砲の設置、コンクリートベトンによる強化などでいろいろと頑張ってみたものの、「沿岸砲台」という設備そのものが20世紀序盤にはすでに時代遅れとなりつつあった。

時は移って1939年、ドイツが北欧への侵攻を決定する。
ドイツは鉄鉱石の輸入をスウェーデンに頼っていたが、スウェーデン北部の港は冬季に凍結してしまうため、冬季の積み出しはノルウェーの港に頼っていた。ノルウェーは中立だが、連合軍寄りの姿勢を取っており、連合軍に加わるかも知れないし、あるいは連合軍がノルウェーを占領するかも知れない。ドイツは鉄鉱石の輸入ルートを維持するためにはノルウェーの占領が必要であった。
イギリス海軍の勢力下にある北海に面したノルウェーを一気に占領するため、ドイツ軍はノルウェー主要6箇所に同時上陸するという画期的な作戦を立案する。そのうちのオスロに上陸するのが第5部隊で、重巡洋艦「ブリュッヒャー」を旗艦に、ポケット戦艦「リュッツォー」軽巡洋艦「エムデン」に水雷艇、掃海艇が随伴する。
旗艦になったブリュッヒャーはアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦2番艦。名前はワーテルローでナポレオンを破ったプロイセン王国のゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥にちなむ。ブリュッ、と感じたのでヒャーとなった、というネタを書こうかと思ったのだが、下品過ぎてやめた。
あれ、ポケット戦艦が序列2番で、重巡が旗艦なの? と思ったが、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦1万4千トン、ドイッチュラント級ポケット戦艦1万2千トンでブリュッヒャーの方が大きい。そもそも、勢いで「ポケット戦艦」と書いてしまったが、開戦時にドイッチュラント級は重巡洋艦に艦種が変更されているのでブリュッヒャー旗艦は当然と言えよう。
ところで、戦史には「ブリュッヘル元帥」という人物がもうひとりいる。ソビエト赤軍最初の5人の元帥の一人、張鼓峰で日本軍とも戦ったヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘル元帥だが、実はプロイセンのブリュッヘル元帥とは血縁でもなんでもなく、農奴だった彼をどういうわけか地主が「ブリュッヘル」と呼んでいたのを、農奴解放の時にそのまま名字にしたものだそうだ。

1940年4月、ドイツ軍は行動を開始した。
まずデンマークが「私たちは、あなたがたをイギリス、フランスの侵略から守りにきましたよ」というミエミエの建前と共に進出してきたドイツ軍に対し6時間の抵抗で降伏。国王、議会全てが捕虜となった。ちなみに2015年、デンマークで「9. april」というデンマーク侵攻を題材にした映画が作られており、これは「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」という凄い邦題でDVDリリースもされている。珍しいデンマーク軍の軍装をじっくりと見られる興味深い映画と言えるだろう。

4月8日夜半、司令官公邸から呼び出されたオスカシボルグ要塞司令官ビルゲル・エリクセン(Birger Kristian Eriksen)海軍大佐は国籍不明艦隊接近の警報に接し、急ぎ守備隊を招集した。1875年生まれの大佐はこの時65歳。定年があと半年に迫っており、いくつかの沿岸要塞の司令官を歴任した最後の任地がオスカシボルグ要塞だった。
なんでそんなお爺様が要塞司令官やってるのかと言うと、当時すでにオスカシボルグ要塞は旧式化のために戦力に数えられておらず、実態は砲兵の新兵訓練所となっていたからで、まぁ定年までここでのんびりしてよ、という閑職だったようだ。事実招集に応じて集まった兵士の大半はわずか一週間前に入営したばかりの新兵であった。
8日から9日に日付が変わる頃、ノルウェー国営放送が海軍大将の命令として全ての航路標識、灯台を消灯するよう放送。オスロフィヨルドは闇に包まれた。
同じ頃、ドイツ艦隊は短時間停止し、オスロフィヨルド入り口の小都市を占領する上陸部隊を派遣。
この時点でドイツ軍はすでにノルウェー軍哨戒艇1隻を撃沈しており、またフィヨルドの入り口で短時間ながら照射され警告射撃も受けている。航路標識が消されたことからもノルウェー側がドイツ艦隊の存在を察知していることは間違いない。
しかし、ブリュッヒャー艦上の戦隊指揮官、オスカー・クメッツ少将は「そんじゃま、行ってみましょうか」と前進を指示する。根拠は良くわからないが、まぁ、ぶっちゃけノルウェー軍、オスカシボルグ要塞を舐めてたんだろう。なにしろ相手は新兵訓練学校だ。兵士の大半が新兵なのもスパイの情報で把握していたのかも知れない。「要塞」なんて言っちゃってるが、主な武装は1892年型という旧式なクルップ28センチ砲3門。どれぐらい古い火砲かと言えば、「203高地」で有名な日本軍の28サンチ榴弾砲と同時期の砲だ(ただし、こちらはカノン砲で砲身はずっと長い)。あともう一門、やはりクルップの30.5センチ砲がもう一門あったが、こちらは1878年型(日本では西南戦争当時)という博物館にしまっておいた方がいい骨董品だった。

(中編に続く)

参考ページは後編にまとめて記載予定。

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JSC イギリス 特設空母”ATLANTIC CONVEYOR”、駆逐艦”SHEFFIELD”・後編

ベランダに出る窓の上にいつの間にかアシナガバチが巣を作ってしまい、ベランダ菜園に水やりに出るたびにブンブン威嚇されてついには刺されたために駆除せざるを得ず、一日がかりで巣を落とした筆者がお送りする世界のカードモデル情報。次は狭量な人間が来ない山の中で巣つくれよー。

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前回の続き。

1982年4月、アルゼンチンが占領したフォークランド諸島をイギリスは武力で奪還することを決定、「フォークランド紛争」が始まる。
まずイギリスは「ブラック・バック作戦」で空中給油機から~中略~空中給油を受けたアブロ・バルカン爆撃機がアルゼンチン軍最前線の空軍基地を空爆し、迎撃戦力を削ろうとしたがこれはあまりうまくいかなかったようだ。
続いて、英海軍の先遣部隊がアルゼンチン海軍艦隊と接触する。
5月2日、アルゼンチン海軍では空母ベインティシンコ・デ・マヨに次ぐ大型であった巡洋艦「ヘネラル・ベルグラノ」(元米海軍巡洋艦「USSフェニックス」)が英海軍チャーチル級原子力潜水艦「HMSコンカラー」の雷撃で艦首を吹っ飛ばされ轟沈。これ以降、水上艦艇の損失を恐れたアルゼンチン海軍は急速に消極的となる。

「なーんだ、アルゼンチン軍なんて全然大したことねーな。こりゃフォークランド奪還も楽勝なんじゃね?」と思った途端、アルゼンチン空軍による手痛い反撃が英海軍を襲った。
1982年5月4日午後2時。哨戒任務に当っていたイギリス軍駆逐艦「HMSグラスゴー」のレーダーが接近するアルゼンチン空軍機の機影を捉えた。彼らは海面わずか15メートルという信じられない低高度で突っ込んできたため(海面の反射波に紛れるので)発見時にはすでに目標まで40キロに接近していた。グラスゴーは慌てて電波妨害用の「チャフ」を散布、「電波煙幕」の中に隠れる。
その中に突っ込むことを嫌ったアルゼンチン機がゆるく旋回すると、真正面に警戒任務に当っていたイギリス海軍42型駆逐艦「HMSシェフィールド」(グラスゴーとは同型)が見えた。
このころ、各艦を繋ぐデータリンクというのはまだうまく機能していなかった。グラスゴーからの警報は受信していたものの、シェフィールドはアルゼンチン軍機を「たぶん、戦闘機(アルゼンチンが保有するミラージュIII)だろう」と判断。これは、それまでも戦闘機を攻撃機と誤認する事が多かった事に基づく判断だったが、この時に限って相手はミラージュ戦闘機ではなく、シュペル・エタンダール攻撃機だった。
Sエタンダールは搭載していた2発の「エグゾセ」対艦ミサイルを発射。1発は海中に突入したが、もう一発はセンサーがシェフィールドを捉えた。
シェフィールド艦橋では目標機がミサイルを発射した際の煙を目視していたが、それが何を意味するのかわからずになんだろう、と思っていたら15秒後にミサイルが艦橋右舷後方に斜め後ろから命中した。
弾頭は不発だった。しかし、マッハ0.9(秒速300メートル)で突っ込んだ重さ650キロの弾頭は通路、調理室を貫通して機械室へ飛び込み、さらに最大70キロを飛ばすためのロケットモーターは機械室で燃焼を続けていた。
機械室のオイル類、艦内塗装の塗料、さらにアルミ合金製の内壁などが次々に延焼、シェフィールドは火だるまとなる。こうなっては最早手の施しようもなく、総員が退艦した後もシェフィールドは丸2日間燃え続け、最終的にはアセンションまで曳航しようとしているうちに沈没した。

と、いうわけで今回のキットのもう一隻、シェフィールドの完成見本写真。

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「駆逐艦」と言っても、第二次大戦時の駆逐艦のような水上戦闘力はあまりなく、後甲板のヘリと山積みのレーダーで敵機の接近を早期に察知、迎撃戦闘を行うのが主な任務となる。はずだったのに、空対艦ミサイル(しかも不発)であっさり撃沈されてしまった衝撃は大きかった。

まさかの艦艇損失はあったものの、アルゼンチン艦艇の行動が消極的だったために英軍によるフォークランド諸島への逆上陸はあっさり成功した。また、空母艦載機ハリアーによる迎撃も活発化し、アルゼンチン空軍機も英軍艦隊にホイホイとは近づけなくなる。
アルゼンチン軍機を追い払った英軍艦載機は周囲のアルゼンチン軍小艦艇や陸軍陣地への攻撃を開始、戦況が次第に英軍有にになっていくのを見て、アルゼンチン軍はあかん、このままじゃジリ貧や、と気づいた。そして、5月中旬から航空戦力を結集した対艦攻勢を開始する。
そんな折、アセンションでハリアーを積んだ特設空母「アトランティック・コンベア」がフォークランド沖に到着した。

5月25日。この日のアルゼンチン空軍の攻撃は特に激しかった。大型の早期警戒機を持たない英軍は低空で散発的に突っ込んでくるアルゼンチン軍機に対しては接近されてから対処をせざるを得ず、ついに駆逐艦HMSコヴェントリー(シェフィールドと同型)がアルゼンチン軍のA-4スカイホークにより通常爆弾3発を片舷に集中して被弾、横転沈没する。この損失は僚艦の迎撃ミサイルの射線にコヴェントリーが入ってしまい迎撃不能になるという、これまたリンクの失敗が重要な原因となっていた。
さらにその直後、混乱した英軍の防空網を突破したシュペルエタンダールがエグゾセミサイルを発射。エグゾセミサイルの1発がアトランティック・コンベアに命中した。
この命中を目撃した人物がいる。エリザベス女王の次男、チャールズ皇太子の弟、ヨーク公アンドリュー王子である。
海軍に入隊し、ヘリコプターパイロットになっていたアンドリュー王子は空母インヴィンシブルに乗り込んでいた。インヴィンシブルのフォークランド派遣が決定した時、イギリス政府は適当に理由をつけて王子を下船させようとしたが、当人はこれを拒否。エリザベス女王も許可したために王子は空母と共にフォークランドに向かい、通常のローテーションに組み込まれヘリによる哨戒任務をこなしていた。
王子によると、A・コンベアに命中したエグゾセミサイルは(民間の貨物船では軍艦に比べ構造が脆弱に過ぎたのだろう)弾頭が作動せず、「(貫通してから)数百メートル離れて水柱が見えた」という。
だが、今度もそのロケットモーターの噴射が致命的な結果を招いた。A・コンベアは補給のために積んでいた航空機燃料、予備の弾薬・ミサイルに次々に引火し大火災を起こす。
結局、今度も鎮火後に曳航を試みたものの、5月28日にA・コンベアは沈没した。
33人の乗組員(貨物船なんで船員が少ない)のうち12名が戦死。シコルスキー・シーキングヘリで生存者を最初に海から救い上げたアンドリュー王子は後にA・コンベア撃沈のことを「その経験を私は決して忘れることはできないだろう……恐ろしかった」と語っている。

A・コンベアは第二次大戦後にイギリスが戦闘で損失した初めての商船となった。
唯一の救いは、ハリアー全機がすでに空母へ移動済であったことであった。英軍はこの補充を最大限に活用し、アルゼンチン軍機を圧倒していく。最終的に海軍艦載型のシー・ハリアーはアルゼンチン軍戦闘機に対して空中戦で22を撃墜、損失0というとんでもない記録を残した(対空砲火で2機、事故で4機を失っている。また、空軍のハリアーは対地攻撃が主で空中戦は行っていない)。
また、チヌークヘリは1機だけが損失を免れたが、予備部品を全て失ったこの機を整備員達は創意工夫と超人的努力をもって維持、「ブラボー・ノベンバー」の呼び出しコールがそのまま愛称となったこの1機は諸島を縦横無尽に飛び回り逆上陸部隊を輸送、神出鬼没の活躍を見せた。

貨物船による補給を受け活発さを増したイギリス軍にアルゼンチン軍は圧倒されつつあった。
5月30日にアルゼンチン軍はS・エタンダール2機とスカイホーク4機でイギリス軍空母機動部隊へ攻撃を仕掛けたが、狙った艦は空母ではなくて駆逐艦だった。ミサイルのロックオンを探知した駆逐艦エクゼターはただちに妨害用のチャフを散布、全火力で対空弾幕を張り発射されたエグゾセミサイルを撃墜した。
アルゼンチン側はこの攻撃で「インヴィンシブル大破!」とぶちあげて新聞には黒煙をもうもうと上げるインヴィンシブルの写真(合成)まで掲載したが、良く考えたらそんなことしても戦局は一向に良くならなかった。
そう言えば、アルゼンチン軍の、なんかマヨネーズみたいな名前の空母はどうなったの? と思ったら、アルゼンチン海軍空母ベインティシンコ・デ・マヨは機関の不調で全速力で向かい風に向かって走っても速力が足りず、装備を積んだ艦載機(A-4スカイホーク)はどうやっても発艦できなかった。とほほ。
6月14日にはついにフォークランド諸島最大の都市、ポート・スタンリーを英軍が占領。これによりアルゼンチンのガルチェリ大統領は完全に軍、民衆から支持を失い失脚した。
6月20日、フォークランド諸島全域を掌握した英軍は停戦を宣言。72日間に渡る戦いは終わった。

最後に余談を一つ。
アンドリュー王子たち空母乗組のヘリコプターパイロットはA・コンベア撃沈後、空母に対してエグゾセミサイルが発射された際にはそれを無効化する秘策を準備していたという。
それは、「ヘリが飛行中にエグゾセミサイルが発射されたらチャフをばらまいて大型船並の影を作り出し、その中にいるシーキングヘリを熱源としてエグゾセのセンサーにロックさせる」というものだった。
エグゾセが突っ込んできても、機動性の高いヘリであればエグゾセを避けられる、という目算(あるいは建前)だったらしい。
幸い、それを実行する場面はなかった。

1146.jpg 1147.jpg

展開図見本。左がA・コンベア、右がシェフィールド。いつものJSC同様、汚しのないスッキリした表現。画像はそれほどでもないが、デジタル化してからのJSCはシャープな印刷で好印象だ。

影の、そして悲運の功労者であるイギリス 特設空母”ATLANTIC CONVEYOR”、そしてピケット艦としてアルゼンチン軍の攻撃を引きつけ大損害を被ったイギリス駆逐艦戦隊を代表する駆逐艦”SHEFFIELD”、2隻セットでJSCからの堂々リリースだ。スケールはJSC標準の400分の1と小スケールだが、それでもA・コンベアは完成全長約50センチ、シェフィールドは30センチほどと意外なほど大柄。難易度は4段階評価の3(難しい)。そして定価は52ポーランドズロチ(約1700円)、レーザー彫刻済のオプションパーツが60ズロチ(約2000円)となっている。
現代艦艇、特に西側の艦船がカードモデルキット化されることは少ない。現代艦艇ファン、フォークランド紛争ファンのモデラーなら当キットは見逃すことのできない一品と言えるだろう。
それにしても、この2隻をセットにしてリリースするって、JSCさんけっこう意地悪っすね……



キット画像はJSCショップサイトからの引用。

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/アトランティック・コンベアー
https://ja.wikipedia.org/wiki/シェフィールド_(駆逐艦)
https://ja.wikipedia.org/wiki/フォークランド紛争
https://ja.wikipedia.org/wiki/エグゾセ
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドルー_(ヨーク公)
それぞれの英語版ページも参考とした。

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