無人航空機斯く戦えり・その5

ファンタジー世界観のとあるソーシャルゲームに登場する「パーシヴァル」というキャラを、「なんでシンガポールで日本軍に降伏した将軍の名前がついてるんだろう」とわりかしマジで思っていた筆者のお送りする無人航空機開発史。円卓の騎士のパーシヴァル卿が元ネタだったのね……

前回はスペリー親子とヒューイット博士の開発した無線操縦機を積んだカーティスN-9水上飛行機が、見事な無人飛行をしてみせたところまで。
無人N-9はちゃんと飛んだが、それを見た海軍はある事に気がついた。
「ぶっちゃけ、これって直進するだけで帰ってこれない片道飛行なんだから、そのためにわざわざ自動操縦積んだN-9水上飛行機1機つぶすのって、もったいなくね?」
こういう発言を、専門用語で「フラグ」という。
海軍はカーティスに「無人飛行機用の安上がりな機体作ってよ、6機。大急ぎで」と発注し、既存機の生産で忙しいカーティスは「はいよ」と操縦席のない飛行機6機をちゃっちゃと仕上げて納入した。

Hewitt-Sperry_Automatic_Airplane_1918.jpg

Wikipediaより、カーチス・スペリー飛行爆弾(Curtiss-Sperry Flying Bomb)
なんか、素人目にも羽の感じが雑に見えるけど大丈夫なんだろうか、と思ったら、大丈夫じゃなかった。
機体は11月10日にスペリーの元へ届けられ、さっそく無人操縦装置が積み込まれ試験飛行が始まったが、結果はさんざんだった。
1機目は滑走中に翼が破損、2機目は離陸した直後に墜落。3機目はカタパルト射出したら、機体が浮き上がった瞬間に台車が機体を追い抜いて前に吹っ飛んでいく時にプロペラぶっ壊したもんだから頭から地面に突っ込んだ。
4機目、5機めは離陸に成功したが、その結果わかったのはカーチス・スペリー飛行爆弾(以下「CS飛行爆弾」に略)はどうにも重心計算がおかしくって、尻尾が重すぎるために離陸しても機首が上がって立ち上がってしまい、失速して墜落するということだった。実はカーチスは納品を急ぐあまり、風洞実験を行っていなかった。マジすか。

これって飛行機としてどうなのよ、と思ったスペリーはCS飛行爆弾1機に操縦席と降着装置を付け足し、息子ローレンス・スペリー自らが操縦桿を握って試験飛行を行うこととした。が、この機は付け足した降着装置が不適切だったようで、滑走中にプロペラが地面の雪を引っ掻いて機体が破損(操縦者は無事)。
仕方ないんで、もう一機にスペリーは同様の改造を施す。この時点で、カーチスが納入した6機と数が合わないんで、多分破損機をつなぎ合わせてやりくりしているんだろう。
優秀なパイロットでもあったローレンス・スペリーの操縦でこの2機目の有人CS飛行爆弾は初飛行に成功した。が、操縦を無人操縦装置に切り替えた途端に制御を失った。慌ててスペリーは手動操作に切り替え、なんとか無事着陸に成功したが、スペリーが立て直すまでに「完全に2回転ほどした(two complete rolls)」とWikipediaに書いてあるので、たぶん機首が上がりすぎて宙返りをしたのだろう。

こりゃ自動操縦がどうとかこうとか言う前に、まずまともに飛ぶようにしなければならない。
とりあえずスペリーはこの危険な飛行機の飛行特性を確認するために自動車を購入すると、屋根にCS飛行爆弾を固定して自動車コースを時速130キロですっ飛ばした。
このワイルドな実験を経て、スペリーはCS飛行爆弾の胴体を2フィート(約60センチ)延長。自動操縦装置もこの厄介な機体に併せて調整を行った。この時代の小柄な飛行機の60センチはデカいぞ。こりゃそうとうヤバいぞ。
ついでにこの実験の結果、自動車の屋根が飛行爆弾の離陸装置としてなかなか都合がいいことが判明した。
1918年3月6日、自動車の屋根から離陸したCS飛行爆弾は無人のまま安定した飛行をし、距離カウンターに設定した約1キロ先に軟着陸した。
これは完全な成功だったが、こうもうまく行ったのはこの一回だけで、その後は繰り返してもなかなか離陸に成功しなかった。
理由は単純で、自動車では路面の状態が影響してなかなか安定した離陸速度を出すことができないのだ。
そこで、今度は車に鉄道車輪を取り付け、長さ6キロの鉄道引き込み線を借りて飛行に挑んだが、今度は離陸速度が出る前に機首が上がって機体が転落した。そもそもの重心計算がおかしいから、ちょっとやそっとじゃ安定しないんだな。
もはや泥縄もいいとこだが、今度は適切に飛行機をリリースする新しい離陸システムを開発することとなり、若いエンジニア、カール・ノルデン(Carl Lucas Norden)がチームに加わった。ノルデンは優秀な技術者で、離陸システムをテキパキと修正してみせた。ちなみに、このノルデンこそが後にアメリカ軍重爆隊の価値を飛躍的に高めることとなる「ノルデン照準器」の開発者である。
1918年8月、新しい離陸システムで試験は再開されたが、飛び立ったCS飛行爆弾はやっぱり墜落。
9月26日、飛行可能な最後の一機が離陸後一直線に上昇した後でスピンに入って墜落し、全てのCS飛行爆弾は失われた。

その後、スペリーは機体をN - 9水上飛行機に戻して10月17日に試験を行っている。
この機体はノルデンの設計したカタパルトから飛び立ち、予定した方角へ安定した飛行をして見せたが、どういうわけか距離カウンターだけが正常に働かず、皆が見守るなか東の空へ向かってどこまでも飛んでいってしまって、行方不明となった。まだ飛んでるのを見かけた読者がいたら米軍に教えてあげると喜ばれるだろう。
スペリーはこの成功に力を得て、海軍に「無人飛行機は『未来の火砲(gun of the future)』です!」と熱弁を奮ったが、海軍はすでに冷めきっていた。
1918年11月11日の第一次大戦休戦に伴い、プロジェクトはスペリーの手を離れ海軍の主導となったが、ラジコン飛行の試験を何度か行っただけでプロジェクトは終了した。
1930年、父エルマー・スペリーは胆石を除去する手術がもとで合併症を起こしニューヨークで死亡。
また、それに先立つこと7年、息子ローレンス・スペリーは自社で生産したヴァーヴィル・スペリー M-1「メッセンジャー」連絡機を操縦してイギリスからフランスへ向かう途上で事故死している。

(その6へ続く)
*長くなりすぎたんでしばらく間あけます。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Hewitt-Sperry_Automatic_Airplane
https://en.wikipedia.org/wiki/Elmer_Ambrose_Sperry
https://en.wikipedia.org/wiki/Lawrence_Sperry
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Cooper_Hewitt
https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Norden
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無人航空機斯く戦えり・その4

10年前に引っ越してから放ったらかしになっていた棚を整理していたら、まだドラゴンボールを連載していたころの週刊少年ジャンプが出てきて連載陣の豪華さに驚愕すると共に、なんでそんなものが大事にしまい込まれていたのかとんと見当がつかずに困惑している筆者のお送りする無人航空機(巡航ミサイル)開発史。今回からは第一次大戦前後のアメリカにおける無人航空機開発について。

イギリスでアーチボルド・ロウのAT機が空を飛んだり、飛ばなかったりしていたころ、海を挟んだ反対側でも同様の試みにどっぷりとはまりこんで抜け出せなくなった技術者達がいた。
アメリカ海軍が支援した、ヒューイット・スペリー自動飛行機(Hewitt-Sperry Automatic Airplane)である。
開発したエルマー・アンブローズ・スペリー(Elmer Ambrose Sperry)は1860年、ニューヨーク生まれの発明家。早くから電気に興味を示し、1880年台に「スペリー電気会社(Sperry Electric Company)」を立ち上げている。

Elmer_Ambrose_Sperry2.jpg

Wiipediaからの引用(この項の写真全て同様)で、エルマー・スペリー。横に置いてあるサーチライトはスペリー電気会社の商品だろうか。
スペリーは1900年ごろから高速で回転させたコマが重力の垂線に沿って立ち上がろうとする性質、また水平にぶん回したコマが地球の自転の影響で軸が南北方向に向こうとする性質を応用した「ジャイロコンパス」を開発。これはそれまでの羅針盤に取って変わる大発明であり、その功績ゆえにスペリーは「交通輸送界のノーベル賞」とも言われる「エルマー・A・スペリー賞」にその名前を残している。ちなみに「スペリー」+「ぐるぐる廻る」でピンと来た読者もいるかも知れないが、スペリーの会社は後に、B-17機体下部に装備するスペリー球形銃塔も開発している。
なお、英語の資料には「スペリーは日本政府から旭日章を送られている」と書かれているが、これははっきりした情報源が見つからなかったので話半分としておこう。

1910年に「スペリー・ジャイロスコープ社(Sperry Gyroscope Company)」を立ち上げて海軍の艦船、魚雷に積むジャイロスをバリバリ開発していたスペリーが、次に注目したのが当時急速に性能を向上させていた航空機の部門であった。
航空機の水平計にジャイロを積むのは当然として、スペリーはどういうわけか急に「そうだ、飛行機を無線で操縦しよう」と思い立った。なぜ思い立ったのかはよくわからない。あるいは、「ジャイロで水平を保てば、ぶっちゃけ飛行機の操縦士さえいらないぐらいっすよ」というデモンストレーションだったのかもしれない。
このアイデアに興味を感じた海軍は1913年、「おもしろそうだし、まぁやってみたまえ」と飛行艇(機種不明。第一次大戦前の米海軍が持ってた水上機ってなんだろう)を1機貸してくれた。
エルマー・スペリーは、この挑戦に優秀な若き技術者でもあった1892年生まれの息子、ローレンス・スペリー(Lawrence Burst Sperry)と共に取り組む。

LawrenceSperry.jpg
息子ローレンス・スペリーの写真はブロマイド風。ローレンスのミドルネーム、「バースト(爆裂)」というのはあだ名にしか聞こえないが、どうやら本名らしい。

ローレンスは1914年、第一次大戦が勃発するとヨーロッパへ渡り、新しい戦争での航空機の役割を現地でつぶさに観察してきた。
1916年、ジャイロで得られる自動操縦を機体に伝えるため(当時の飛行機はケーブルを引っ張って動翼を操縦するので、操縦にはそれなりの腕力が必要だった)プロジェクトに著名な電気技術者であるピーター・ヒューイット(Peter Cooper Hewitt)が加わる。ちなみにヒューイットは水銀灯の発明者でもあった。誇り高き第一ドールの開発者ではない。

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水銀灯を手にしたヒューイット。1861年生まれなのでパパ・スペリーとほとんど同い年なのだが、写真は19世紀風。

ほどなくしてスペリー親子とヒューイットがまとめた無人操縦装置の仕様が海軍に提出された。
これは安定装置と操向装置、2系統のジャイロ、高度を制御する高度計、それらの判断を動翼に伝えるサーボモーター、そして距離を計るためのカウンターから成り立っていた。
これらが積み込まれた機体はカタパルト、もしくは水面から飛び立ち約100マイル(160キロ)先の目標に対して自動的に爆弾を投下するという見積もりであった。
しかし、海軍は仕様書に記載された命中制度見込みの数字を見て「これ、艦船に爆弾当てられないじゃん」と当然の問題を指摘してきた。でもまぁ、おもしろそうだし、陸軍ならこれぐらいの精度でも目標(要塞とか)でっかいから、まぁ、陸軍に持ち込んでみれば? という結論であった。

ところが、どういうわけかスペリーは「いや、海軍にこそこれは必要でしょう。絶対必要でしょう。誰がなんと言おうと必要でしょう」と、海軍に繰り返し無人飛行機案を売り込んだ。陸軍はジャイロあんまり必要ないから、スペリー社にはコネがなくって話持ってくのが面倒だったのかもしれない。
「まぁ、そんなに言うのなら……」と海軍は政府に無人機プロジェクトの予算として5万ドルを計上。議会は「自動操縦機と無線操縦機、2系統の開発を行うこと」という条件のもとに予算を承認。
1917年5月、海軍は5機(後に7機に増やされた)のカーティスN - 9水上飛行機(一次大戦前後の米軍機の定番、カーティス「ジェニー」の水上機型)を提供し、6セットの自動操縦装置を受け取る契約を結んだ。

なぜ上院が「無線操縦機も作ってよ!」と言い出したのかわからないが、たぶんアーチボルド・ロウのAT機が念頭にあったのだろう。しかし、スペリーは準備していなかったラジコン機の開発のためにいろいろと技術を開発しなければならず、ラジコン機の開発は遅れた(結局、ラジコン機は大戦中に完成しなかった)。
一方、無人操縦機はすでに完成の域に達していたので1917年9月には早くも初の無人飛行試験が行われている。とは言っても、この時は離陸は人の手によるもので、そのために操縦士が同乗していた。
飛行試験のたびにシステムは精度を増し、11月には離陸した後は操縦士が寝ていても30マイル(48キロ)を飛行して爆弾に見立てた砂袋を自動的に投下、その範囲は目標地点から3キロ以内におさまっていた。
海軍はこの結果を見て、「艦船にぶつけるのは無理だけど、あの鬱陶しいドイツ軍のUボートの基地を叩くのになら使えそうだ」と判断した。

(その4に続く)

参考リンクはその5にまとめて記載予定。

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無人航空機斯く戦えり・その3.5

前回(その3)では肝心のAT機の写真が「ここに行けばあるから見てね」みたいな無愛想な対応だったのは出所がわからないために引用を避けていたのだが、この「ロウのAT機」とされる写真の出所が判明したので、前回紹介できなかったAT機の写真について今回解説しておこう。

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公式に「ロウのAT機」とされる写真。なんのことはない、Imperial War Museumsのサイトで「LOW ARCHIBALD MONTGOMERY」で検索かけたら普通に出てきた。
ネット上でよく引用されている写真は上下がトリミングされている上になぜか左右反転しており、おそらくなんかの書籍からの引用だと思われる。よく見ると右側に複座の複葉機(Royal Aircraft Factory S.E.5か?)が置いてあり、左側にはその機の翼を思われるものが吊るされている。なお、この写真のキャプションではこの機は「1917年3月21日の試験に使用された機体」。また、「設計は de Havilland による」と書かれており、ヘンリー・フォランドが設計したとする他の資料とは異なる。
全体の印象しては、なめらかな機首カバーなど意外なほど仕上げの丁寧な機体だ。

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なんとなくヤラセっぽい雰囲気もあるが、AT機製作中の風景。主翼桁はこのあと穴を開けて通すのだろうか。さきほどの写真と映っているのは逆サイドだが、同一機っぽい。

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キャプションでは「製造中の試作機」となっているが、これまた形が違う。上のAT機は上下に垂直尾翼のある十字尾翼だが、ここでは上半分しかない。機首カバーもなく、そもそもヘッドレストと操縦席らしいものがある。あるいは空力特性確認用のグライダーか。

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こちらはキャプション通りなら最初の無線操縦テスト機。手前が送信機だ。
テスト機は明らかに大きすぎるプロペラとロータリー(回転)エンジンを装備しているが、この60馬力エンジンはやっぱり大きすぎたようで試作AT機では水平対向35馬力エンジンに変更されている。このころには珍しい水平対向という形式を選んだのは、トルクで機体が回転するのを少しでも防ぎたかったためだろうか。

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イギリス空軍では他にも無人機を試作していたようで、これは尾翼の文字でもわかるようにソッピース社の製作した機体。ただし、完成しなかったらしい。他の機と違い複葉だが、翼の端が複数箇所で破損している。翼が破損したために製作が破棄されたのか、徹夜で作ってたのに製作中止になったんでムカついて蹴っ飛ばしたら倒れて翼が壊れたのかは資料からは読み取れない。
胴体に3つも描かれている円型は国籍マークではなくて空中での姿勢を觀測するためのマーカーだろう。

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ロウ(前列真ん中)と仲間達。前列向かって左側は空軍の士官、右側は陸軍の士官だろうか。せっかくの集合写真だってのに、なんだかみんなお疲れの様子だ。
前列3人の士官の後ろに女性隊員が立っているが、彼女の担当は何だったのだろう。

一周置いて前回のフォローだけで申し訳ないと思いつつも、その4へ続く。

写真は全てImperial War Museumsからの引用。

*よく考えたら、このブログって無人航空機のブログじゃなくてカードモデルのブログなので、あと2回ぐらいで第一次大戦ネタを使い切ったら一旦休止して新製品情報やります。

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本日更新休止のお報せ。

本日本業多忙のため更新休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。

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無人航空機斯く戦えり・その3

勤務地の移転に伴い、どこの駅で何時何分発にどの路線に乗った時、自宅最寄り駅に到着するのがいつになるのか、完璧な自分用ダイヤグラムを書き上げてご満悦だったのに、わずか一週間で常磐線がダイヤ改正して全てご破産になった筆者のお送りする無人航空機(巡航ミサイル)開発史。今回はイギリスの生んだ偉大な天才電気技師、アーチボルド・ロウが任せられた第一次大戦イギリスの無人航空機の話の続きから。

ロウが任されたイギリスの無人航空機開発プロジェクトはツェッペリン飛行船の迎撃と敵陣突入を目的としたものだったが、ドイツ軍スパイを欺くために、あえて「航空標的(Aerial Target)」という本来の目的とは関係ない名称が与えられた。
当初、軍のお偉方は「無線で? 飛行機を? 飛ばす??(半笑い)」とプロジェクトには懐疑的だったが、ロウは「できると思いますよ」と模型飛行機を無線で操縦するデモンストレーションを行ってみせる(これが世界初のラジコン飛行機であると思われる)。
この実験を見た軍用航空機部門長官、デイビッド・ヘンダーソン将軍(Sir David Henderson)は「こら、とんでもない新兵器が登場したわい!」と感銘を受け、直ちに軍の工廠で弾頭を装備したエアリアル・ターゲット(以下「AT機」と略)の試作機の製作を命じ、ロウには大工や飛行機設計技師やついでに宝石職人など、総勢30人が部下としてつけられた。ちなみに機体設計を受け持ったヘンリー・フォランド(Henry Philip Folland)は後にグロスター社でグラディエイターを設計している。

6機の試作機が作られたAT機は35馬力空冷2気筒エンジンを積んだ肩翼式の単葉機で、まぁ、なんというかコクピットをつけるのを忘れた飛行機みたいな形をしていた。
1917年3月21日、試作機は初の飛行実験を行う。この時は圧搾空気で走るドリーから飛び立ち、エンジントラブルによって不時着するまで無線操縦に成功したらしい。
「らしい」というのは、この3月の実験については書かれていない資料も多いからだ。
1917年7月、AT機は正式に採用するかのトライアルにかけられる。
7月6日、AT機は堂々発進したが、即座にほとんど垂直まで立ち上がってしまい、当然失速して墜落。これでは無線操縦もなんもあったもんじゃない。
続いて7月25日、2度目のトライアルが行われたが、どういうわけか今度は離陸せずにゴトゴトと走り続け、ドリーが壊れて止まった。この2度の失敗は、どうやら尾翼の取り付け角度が間違っていたようだ。
7月28日、今度は尾翼取り付け角度もバッチリ正確でAT機はドリーから飛び立ったが、短時間の飛行でエンジンが故障して墜落した(この3回目の試験と3月の実験飛行は同じものが誤って伝わっているのかも知れない)。

試験飛行がガッカリな結果に終わり、また航空機の性能向上に伴いツェッペリン飛行船の脅威が薄れたこともあってAT機のプロジェクトはその後縮小され、最終的に破棄されたようだが、AT機とは別にロウは1917年に世界初の無線誘導ミサイルを開発している。
ロウの研究は結果的には戦争に貢献せず、また軍の上の方からも「電気じかけのオモチャでなんかやってる連中がいるな」程度に見られてあまり注目もされていなかった。
しかし、科学オタクのドイツ人からは「あのテレ・ビスタのロウ博士がイギリス軍に協力するらしいぞ」と警戒され、一説には1915年に2度、命を狙われているらしい。なんでも、1回目は窓越しに研究所に銃弾が打ち込まれ、2回目は「ドイツ訛りの訪問客が置いていったタバコを怪しく思い分析してみたところ、なんと! 致死量のストリキニーネが含まれていたではありませんか!」という、なんというか、スパイ小説の読み過ぎじゃないんですか的な暗殺未遂があったそうだ。

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この写真はイギリスの帝国戦争博物館(Imperial War Museums)のサイトで公開されている写真だが、他のサイト(例えばここ)で見つけられるAT機の画像とは明らかに機体形状が異なる。写真のキャプションも単に「無人機、航空標的(aerial target) Mk.II」としか書かれておらず、これがなんなのかわからない。撮影時期の分類も「1914年以前(Pre-1914)」となっているが、いくらなんでも第一次大戦前ということはないだろう。ロウが最初に作った無線操縦デモンストレーション用の試作機か、それとも他サイトで見るのがMk.Iで、こっちが改良型なのか……それにしちゃ、こっちの方がいろいろと作りが雑に見える。

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細部ディティール。左がジャイロ、右がエンジン。ジャイロを衝撃から守るためにゴム紐で宙吊りになっているのが面白い。もう一種類のAT機とエンジンは共通っぽいから、やはり何か関係があるのかないのか……謎である。

余談となるが、「無人航空機で飛行船を撃ち落とす」という発想には実は元ネタがあって、1909年にワルター・ブース(Walter R. Booth、1970年の西ドイツ映画「女子学生(秘)レポート」を撮った人(Walter Boos)とはもちろん別人)が撮影した映画黎明期の特撮フィルム「飛行船駆逐機(The Airship Destroyer)」のあらすじが、「イギリスを襲う国籍不明の飛行船艦隊を、愛国的発明家が作った無人航空機で撃墜する」というものであった。「国籍不明」とは言っているものの、このフィルムイギリス製なのに冒頭にドイツ語で「Der Luftkrieg Der Zukunft(未来の空中戦争)」と字幕がドーンと出て、まぁ、どこの国なんだかは誰にでもわかってしまう。ちなみにこのドイツ語字幕が正式なタイトルで、それじゃわかりにくいから便宜的につけたタイトルが「The Airship Destroyer」のようだ。そのため、他にも「空中魚雷(The Aerial Torpedo)」とか「雲中の戦い(The Battle of the Clouds)」など、複数の名前で呼ばれている。
この映画は1915年にツェッペリン飛行船の空襲が始まった時にイギリスでは再上映されており、「ツェッペリン飛行船をやっつけるには、映画みたいに無人航空機を突っ込ませるしか無い!」という共通イメージがイギリス人の間にはあったのかもしれない。
もう100年以上前の映画で、すでにパブリックドメインとなっているのでせっかくだから見どころを少し紹介しておこう。

Airship Destroyer1

某国の飛行船艦隊だ! もうこのころから、双眼鏡を覗いてる時ってこのヒョウタン型の枠で表現してたんですね。

Airship Destroyer2

イギリスを攻撃する飛行船乗組員たち。爆弾ではなくて、わざわざ下向きのロケットの尻にチャッカマンで火をつけてる。

Airship Destroyer3

後ろにある煙突みたいな高射砲(たぶん)で飛行船と戦う(たぶん)装甲車(たぶん)。この直後、飛行船からの攻撃が直撃して爆散してしまう。

Airship Destroyer4

飛行船の攻撃に太刀打ちできず、炎上するイギリスの市街。大惨事だ。このシーンはミニチュアに直接火をつけちゃってる。

Airship Destroyer5

全イギリスの期待を担い、打ち出される空中魚雷! プロペラは推進式だ。

残っているフィルム全編(公開時は20分あったが現存しているのは7分弱だけのようだ)はこちらから見られる(インターネットアーカイブの保存ページ。Youtubeでも「The Airship Destroyer」で検索かければたくさん見つかる)。
こうやって止め絵で見るとそれなりっぽいが、なにしろ映画黎明期の特撮なんで、この時代の映画(メリエスの「月世界旅行」とか)を見慣れてないと、相当ツライ、とだけ言っておこう。

(その4に続く)

今回は文中にリンク貼ってしまったので参考ページは省略。

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