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Orel ソビエト 水上バス ”Ракета”・その4

今週中程まで約一週間、ずっと頭痛があって調子悪かったんですけど、その間じわじわと体重が増え続けて、ある日突然具合が良くなったかと思ったらストンと体重が1キロ落ちてもとの体重に戻るという怪奇現象を体験した筆者のお送りする世界のカードモデル情報、今回も引き続きウクライナOrel社のちょっと前の新製品、ソビエト水上バス ”Ракета”の紹介だ。それにしても、なんだったんでしょうね、あの体調不良。

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前回までのあらすじ。
クラスノエ・ソルモヴォ工場でT34戦車製造ライン監督をやってたロスティスラフ・アレクセイエフは水中翼船の研究を進ており、戦争も終わったんで「水中翼旅客船でソビエトの各都市を高速で結ぶ」という壮大なプロジェクトを温めていたが、「水中翼は軍用としてのみ使用する」と頑なに決めていたソビエト造船局により水中翼旅客船の研究はストップさせられてしまった。

水中翼は波の荒い外洋では使えないので、自然と河川防衛のための高速砲艦としての使用が考えられたが、さぁ、どんな水中翼軍艦を作りましょうか、と水中翼船研究所に打ち合わせに来たソビエト河川艦隊局長(Министр речного флота СССР)、ゾシマ・シャシコフ(Зосима Алексеевич Шашков)に、アレクセイエフは軍艦の話そっちのけで試作船を見せて旅客水中翼船のアイデアを説明したところ、意外にもシャシコフはこのアイデアを「それはいい!」と大絶賛、「なんとか中央にも掛け合ってみるよ」と言ってくれた。

シャシコフは1939年から河川艦隊局長の職についており、戦時中は包囲されたレニングラードに対するラドガ湖を経由した補給や、スターリングラードへのボルガ河対岸からの補給輸送を指揮するなど、水辺での重要な戦いの裏方として大きな功績のあった人物だが、もともとはモスクワとレニングラードの大学で水運とそれにまつわる工学を習得した人なので、アレクセイエフの提案した「ソビエトの河川を都市間ハイウェイにする」というアイデアに強く共感するところがあったのかもしれない。

ところが、ソビエト造船局長(正確にはソ連造船業人民委員会委員長、Народный комиссар судостроительной промышленности СССР)であるイワン・ノセンコ(Иван Исидорович Носенко)は、「うるせー水中翼は軍用に使うって決まってんだよ」とシャシコフの説得を無視した(シャシコフの肩書「Министр(ミニストル)」とノセンコの肩書「комиссар(コミッサール)」はどっちが格上なんだかよくわからない)。

しかし、シャシコフも簡単には引き下がらず、クラスノエ・ソルモヴォ工場責任者のニコライ・スメリヤコフ(Николай Николаевич Смеляков、戦時中にアレクセイエフに水中翼研究の時間を作ってくれたエフィム・ルビンチクの次の次の工場長)も、「うちの工場はすぐにでも旅客水中翼船を建造することが可能です!」とシャコフに加勢。

そんなに言うならもう知らない! 好きにすれば! ぷいっ! と諦めたのか、造船局管轄となっていた水中翼船研究所は1955年に再びクラスノエ・ソルモヴォ工場の管轄に戻る。
そして、シャコフ率いる河川艦隊局の出資で、1956年、公式に旅客水中翼船、プロジェクト340(проекты 340)の開発が開始された。なんで河川艦隊が旅客船の予算出すのか、その辺の辻褄はどうなってたんだろう。将来、軍事転用するテストとしての旅客船試作って扱いだったんだろうか。

満を持してのプロジェクト開始にアレクセイエフも工員たちも気合は十分で、1957年5月8日に早くも1番船「ラケタ」(Ракета、宇宙ロケットやロケット弾の「ロケット」)が完成、試験で最高時速70キロ、満載での航続距離600キロという良好な性能を発揮する。

7月26日には最終テストとして、設計局のエンジニアや工員を載せて造船所を出発、14時間でモスクワに到着し、ちょうどモスクワで開催されていた131カ国3万4千人が参加した第6回世界青年学生祭典(VI Всемирный фестиваль молодёжи и студентов)で行われた船舶パレードの先頭を占めるという名誉を得た。

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今回、画像少ないんで1956年に完成したばかりのレーニン・スタジアム(現ルジニキ・スタジアム)で行われた第6回世界青年学生祭典開会セレモニーの画像をあげておこう。
人文字で作られているのは「Мир」、ロシア語で「平和」「世界」を意味する単語。

パレードの後にラケタ号は一般公開され、世界中のジャーナリストや内外の政治家がこの斬新な旅客水中翼船を見学、ソビエト水運の先進性を印象付けた。
こうなっては、もう、造船局としては邪魔ができない。このパレード参加を誰が仕組んだのかはわからないが、ソビエト旅客水中翼船の発展にとって最高のデモンストレーションとなったことは間違いない。

さらにソビエトロケット開発の父、セルゲイ・コロリョフを賓客に迎えて航行するデモンストレーションや、独ソ戦の最中にドイツ軍の捕虜になったが、強制収容所の飛行場に駐機していたハインケルHe111をかっぱらって脱走するという離れ業をやってのけたミハイル・デヴャタエフ(Михаил Петрович Девятаев)がラケタ号を操船するなど、話題性のあるデモンストレーションで存在感を不動としたプロジェクト340旅客水中翼船は1958年9月9日から正式に「ラケタ」の名称で大量生産が始まる。

なお、ミハイル・デヴャタエフはドイツ軍がミサイル研究を行っていたペーネミュンデから脱出しており、「ドイツ軍のミサイル研究って、どんなんだったの?」とセルゲイ・コロリョフに呼び出されたことがあるそうなので(デヴャタエフは飛行場で働いていたのであまり詳しい助言はできなかったが、施設の配置について助言したようだ)、コロリョフとデヴャタエフ、どちらかがどちらかをラケタ号のテストに誘ったのかもしれない。
(その5へ続く)

キット表紙画像はOrel公式サイトフォーラムから引用

参考ページ
https://jp.rbth.com/travel/85121-nazi-syuuyoujyo-kara-hikouki-de-nigeta-soren-heishi
「ナチスの収容所から飛行機で逃げたソ連兵」
ミハイル・デヴャタエフについてのロシア・ビヨンドの記事。
ロシア・ビヨンドはロシア政府系が運営する「ロシアの今を伝える」情報サイトだが、政治色がほとんどなく、オモシロネタをふんだんにぶっこんでくるのでなかなか見逃せない。

その他の参考ページは最終回に掲載予定。

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本日体調不良のため更新休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。

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Orel ソビエト 水上バス ”Ракета”・その3

先日3回目ワクチン接種を行ったところがまるで虫に刺されたように痒くて、なんか今回の副反応はいままでと違うぞ、と思っていたところ、よく見たら注射したところと全然違うところが痒くて、どうやら単なる虫刺されだったらしい筆者のお送りする世界のカードモデル情報。今回も引き続きウクライナOrel社のちょっと前の新製品、ソビエト水上バス ”Ракета”の紹介だ。

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前回はクラスノエ・ソルモヴォ工場のT34戦車製造ライン監督に就任したロスティスラフ・アレクセイエフが、空き時間を使って水中翼船の試作船を作ったよ、ってところまで。
この試作船がTsAGIが試作した船よりもずっと性能が良かったもんだから、アレクセイエフの水中翼船研究部門は拡大され、錠前屋見習いの他に、全国から水中翼に興味のある流体力学専門家が送り込まれてくるようになった。

1945年に2番めの試作船が完成、1947年にはこの重量1トン、72馬力エンジンを積んだ試作船でオカ川を時速85キロで突っ走り、モスクワで造船局の偉い人に水中翼船をお披露目する機会を得た。
ここで高速と安定性をアピールしたアレクセイと研究所は、造船局から「とりあえず既存の船に翼つけみてよ」と、コムソモレーツ魚雷艇(Комсомолец)を一隻渡された。

これに水中翼をつけ、時速110キロですっ飛ばしてみたアレクセイエフはただの船に水中翼をつけただけでは効率が悪いことを発見する。そりゃそうだ、速度出たら船体は水上に出ちゃうんだから、船として最適の形状である必要はない。
この水中翼付き魚雷艇の実験でアレクセイエフは船体形状を洗練し、さらにスクリュー推進では限界があるためにウォータージェット推進の必要性などが確認された。

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Wikipediaからの引用で、カリーニングラードのモスコフスキー大通り(Московский проспект)にある「バルト海の船員へ捧げる記念碑(Памятный знак морякам-балтийцам)」。実物のコムソモレーツ魚雷艇を、波をイメージした台座に据えることで波頭を乗り越える瞬間をイメージさせる大胆なデザインだ(彫刻家、V.V.モルグノフ(В. В. Моргунов)の設計)。


今回は画像が少ないのでGoogleMapのリンクも載せておこう。

この記念碑は1974年に設置されたものだが、ソビエト崩壊前後に著しく荒廃が進んだ。2010年代にロシア経済の好転により再建に着手されたがすでに再建不可能なほどに損壊が進んでおり、やむを得ず使用できるパーツをすべて流用した上で船体はレプリカが建造され、現在見ることができるのはこのレプリカの方。なお、コムソモレーツ魚雷艇は大まかにわけて戦前型(проект 123)、戦中型(проект 123бис)、戦後型(проект 123К)の三種類に分けられるが、ソビエトの戦勝記念碑によくあることで、この記念碑も最初は戦後型が載せられていたが、再建時には戦中型を参考に再建された。

アレクセイエフが渡された魚雷艇がどのサブタイプのコムソモレーツ魚雷艇だったのかはわからないが、戦後型ではないだろう。
コムソモレーツ魚雷艇は戦中型で最高速度は48ノット(時速約90キロ)と、もともと俊足な船であった。

少し時間が巻き戻って、1945年、戦争が終わったタイミングでアレクセイエフはもう、魚雷を抱えて敵に突っ込んでく水上突撃艇でもないだろう、というわけで「高速旅客艇」を水中翼船で作るのはどうだろうか、とプロジェクトの提案をしたのだが、これは軍が水中翼のアイデアが軍用として使える可能性を考えていたので「まだだめ」と否決されてしまった。

しかし、どうもこれは当時ソビエトで造船関係の最高責任者だったイワン・ノセンコ(Иван Исидорович Носенко)がなぜか水中翼船を嫌っていたことも関係しているらしい。あるいはクラスノエ・ソルモヴォ工場が手作りで作り上げた水中翼船が、TsAGIで作った水中翼船よりも高性能だったのが気に食わなかったのかもしれない。

そのため、クラスノエ・ソルモヴォ工場の上層部がアレクセイエフを優秀なエンジニアとしてスターリン賞(Сталинская премия、「スターリン勲章(Орден Сталина)」とは別)に推薦した時に、ノセンコはこれに反対している。
しかし、1950年にクラスノエ・ソルモヴォ工場の工場長に就任したニコライ・スメリャコフ(Николай Николаевич Смеляков)がノセンコを説得、1951年にもう一度アレクセイエフをスターリン賞に推薦し、今度は他の水中翼船技術者達と一緒に2等スターリン賞を受章している。

機密だからダメ、と言われたものの、アレクセイエフは水中翼客船のアイデアを捨ててはおらず、コムソモレーツ魚雷艇の改装を行う傍らで60人乗りの水中翼客船の設計を進めており、縮尺模型でも良好な性能を発揮していた。
もちろん、これはノセンコの知るところとなり「勝手なことすんな」と怒られたが、アレクセイエフは作業をこっそりと続け、完成した試作船(無動力で牽引され水中翼効果を発揮する船体テスト用だったらしい)でモスクワを訪れ、これをソビエト共産党副議長アナスタス・ミコヤン(Анастас Иванович Микоян、ミグ設計局のアルテム・ミコヤンの兄)にプレゼンしている。

1950年ごろ、アレクセイエフ率いる水中翼船研究所は中央設計局第19支局(ЦКБ-19)へと格上げになったが、これにより研究所は正式に造船局の管轄となり、造船局が研究に介入しやすくなった。
このため「水中翼は軍用としてのみ使用する」の主張を崩さない造船局の締め付けが厳しくなり、旅客水中翼船の試作は完全に止まってしまう。
(その4へ続く)

キット表紙画像はOrel公式サイトフォーラムから引用

参考ページは最終回に掲載予定。

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Orel ソビエト 水上バス ”Ракета”・その2

まーた書くだけ書いて更新したと思って更新するの忘れてた筆者が紹介する世界のちょっと古めの最新情報。今回も引き続きウクライナOrel社のちょっと前の新製品、ソビエト水上バス ”Ракета”の紹介だ。

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前回は広大なソビエトを水運でつなぐためには、20世紀になって実用化された「水中翼船」がいいかもしれないよ? ってところまで。

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本題とあまり関係ないが、今回画像が少ないし、カッチョイイので載せておこう。Wikipediaからの引用で、このまま離水して宇宙まで行きそうなこの船はイタリアのLiberty Lines社が運用する世界最大の水中翼船、「Gianni M」。2016年に就航したばかりの船で、350人を乗せた重さ150トン長さ約38メートルの船体を2300馬力ディーゼルエンジン2基の力で38ノット(時速約70キロ)ですっ飛ばす。
現在はシシリー島沖の人口7800人の島、パンテッレリーア島へ行く便として使用されている。ちなみに建造費は700万ユーロ(現在のレートで約10億円)かかったそうだが、水中翼船の相場がわからないんで高いんだか安いんだかよくわからない。
カッチョイイんでカードモデル化希望だ。

さて話を戻して、ソビエトでは1930年代から中央流体力学研究所(ЦАГИ、TsAGI)で水中翼の研究が行われていたが、重さ1.3トンの船体をプロペラ推進で時速100キロで突っ走らせる実験船の建造まで進んだところでドイツ軍が侵攻してきて、それどころではなくなってしまった。

TsAGIが水中翼船の研究を中止したのと同じ頃、第112アンドレイ・ジダーノフ名称クラスノエ・ソルモヴォ(Красное Сормово)造船工場の生産ラインにロスティスラフ・アレクセイエフ(Ростислав Евгеньевич Алексеев)という20代中盤の技術者が赴任する。
彼は植物学者エフゲニー・アレクセイエフ(Евгений Кузьмич Алексеев)と教師の間の子だったが、なんかもう、めっちゃ猛烈に船が好きで、大型ヨットや捕鯨船でアルバイトし、16歳で自分のヨットを設計。建造、造船の専門課を卒業し、戦前はヨットの競技会で何度も優勝していた若き流体力学専門家だった。

Евгений_Кузьмич_Алексеев

肝心のロスティスラフ・アレクセイエフの若いころの画像がWikipediaになかったんで、代わりにお父さん、エフゲニー・アレクセイエフの画像をWikipediaからの引用で載っけておこう。
ロシアとウクライナの隣、ベラルーシ共和国ではテンサイ(サトウダイコン)の生産が盛んで、ベラルーシの主な生産物となっており、近年は世界15位前後の生産量(約4百~5百万トン)を誇っているが、ベラルーシでテンサイ栽培が始まったのはお父さんのエフゲニー・アレクセイエフの提言によるものらしい。
なお、あまり知られていないが日本でもテンサイは約毎年約3百万トンが収穫されており、これはだいたい世界20位の生産量だが、栽培は100%北海道で行われているそうだ。

さて、流体力学の専門家ロスティスラフ・アレクセイエフが造船工場に来たんだから、なんか船の仕事をするのかと思ったら、クラスノエ・ソルモヴォ造船工場は19世紀に汽船を建造するついでに蒸気機関車もつくっていて、蒸気機関車工場は戦争中に戦車を製造するものと相場が決まってるので、アレクセイエフもクラスノエ・ソルモヴォでT-34戦車の生産ライン監督を担当することになってしまった。

しかし、アレクセイエフの船への情熱は戦争は畑違いの仕事の割り当ててで衰えるものではなく、T-34製造ラインの監督をしながら、1941年11月10日(監督就任から数日後)にアレクセイエフは海軍人民委員(海軍大臣に相当)ニコライ・クズネツォフに「水中翼船を、水の上を突っ走る水上突撃艇として使うのはどうでしょう!」とプロジェクトを提案する手紙を送ったが、もうすぐドイツ軍がモスクワに攻めて来るってのに、まだ実用化されてないものを兵器として採用できるような余裕はソビエトにはなくって、即座に却下された。

提案は即却下になったが、アレクセイエフはこのアイデアには見込みがあると考えており、工場の仕事の合間をぬって、得意のヨットで模型を牽引して(クラスノエ・ソルモヴォ工場のあるニジニ・ノヴゴロドはヴォルガ河に面している)、水中翼の理想的形状の研究に余念がなかった。
しかも、それだけではなく、魚雷艇エンジンの改善案や、さらにはモスクワでの市街戦に備えて火炎瓶の点火システムまで提案していたというのだから、この人、いつ寝てたんだ。

アレクセイエフの熱意と能力を認めたクラスノエ・ソルモヴォ工場主任設計士のウラジミール・クリロフ(Владимир Васильевич Крылов)や工場長エフィム・ルビンチク(Ефим ЭммануиловичРубинчик)はアレクセイエフに、一日二~三時間、水中翼の研究時間枠をわざわざ作った。
とにかく仕事ガチガチで、余計なことをしたら即シベリア行きのイメージのある戦時下のソビエトだが、けっこう、こういう柔軟な人材活用も行われていたというのは注目に値するだろう。

生産管理の合間に進めた研究で、TsAGIが解決できなかった安定性について目処をつけたアレクセイエフは、1943年、戦況も安定してきたし、ついにクラスノエ・ソルモヴォ工場内に「水中翼船研究部門」を設立することとなった。
「研究部門」とは言ったものの、戦車工場がついでにやる研究なんで、事務所は小屋一つ、メンバーはアレクセイエフの他には錠前屋の見習いをやってた助手が一人、という布陣だった。

まぁ、そんなメンバーでも、もともとヨットを自分で作ってしまうアレクセイエフなので、1943年4月には早くも最初の水中翼船が完成する。これは重量900キロで25馬力エンジンを積み、時速30キロで船体を浮かせて滑走した。
(その3へ続く)

キット表紙画像はOrel公式サイトフォーラムから引用

参考ページは最終回に掲載予定。

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Orel ソビエト 水上バス ”Ракета”・その1

PCのメモリがいまいち足りなくて、古いPCのメモリ挿して改善しようと思って引っこ抜いてきたら、4ギガ2枚なんていうしょんぼりメモリで、これ、挿しても大してかわんないなーと増設を後回しにしている筆者のお送りする世界のカードモデル情報。本日紹介するのはウクライナOrel社からちょっと前にリリースされたけど紹介するのを忘れてたソビエト水上バス ”Ракета”だ。

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なんだ、また良く知らないソビエトの水上バスかよ、と思った読者もいるかもしれないが、未知への探究、知識への欲求というものが、人類とか、文明とか、科学とか、なんか、そういったあれを、なんか、あれして、いい感じにあれだから、知らないことを知るのも、まぁ、悪いことじゃないと思うよ。

以前にもシベリアの河川をウォータージェットで疾走する水上バス「ザーリャ(Заря)」を紹介したが、シベリアに限らず全国的にモータリゼーションとインフラ整備の遅れていたソビエトでは、20世紀中盤になっても河川は重要な交通路の一つであった。

あまり印象がないが、世界の巨大都市の例に漏れず、モスクワも水辺に築かれた都市で、モスクワ川が市内を蛇行して走っており、モスクワ川は南でオカ川を遡るか、あるいは北でモスクワ運河を通ることでヴォルガ河にもアクセスできるので、モスクワから北はペテルスブルグ、南はボルゴグラード(スターリングラード)へ行くために水路を船で行くというのは中世から普通に選ばれてきた交通手段だ。

しかし、何事ものんびりしていた中世と違い、社会の様々な事柄の速度が増した20世紀においてはソビエトの広大さそのものが大きな問題となった。なにしろヴォルガ河は総延長3700キロもある長大な川で、この距離は東京-京都間の距離の約10倍であり、これを普通の船で辿っていたのではべらぼうな時間がかかってしまう。かと言って、高速なモーターボートですっ飛ばそうにも、それでは今度は積載量が限られてしまう。

そこでソビエトが考え出した解決が、「水中翼船」であった。
水中翼船というのは、まぁ、そのまんま、水中に翼のある船だが、潜水艦みたいに水中で自由に動けるヒレがあるわけではなくて、船の下に翼を吊り下げたような形状の船である。

このスタイルで前進すると翼が水の中で揚力(浮力)を生じ、その結果船体を浮き上がらせ、ついには船体が水面を離れて水中翼だけが水中に没した状態で前進することで水の抵抗が大きく減って高速が出せる、という仕掛けだ。

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Wikipediaからの引用(以下この項、表紙画像以外同様)で、神戸海洋博物館に展示されていた特撮メカ風の水中翼船「疾風」。展示状態なので船体を支えるガイドがあり、ちょっと分かりづらいが、陸揚げされているおかげで航行中に水没する部分が赤く塗られており、その上の支えの板で船体とつながっている構造を見ることができる。
すごくカッチョいい船だが、残念ながら現在は解体済。この船は旧運輸省のテクノスーパーライナー計画で建造された試験船だったが、挙動に不安定な部分があるとして実用には至らなかった。

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こちらは航行中の水中翼船の例として、島根県の隠岐汽船が運用する「レインボージェット」号の迫力あるショット。船体が水面から離れ、水中翼だけで航行していることがわかる。
なお、レインボージェット号は川崎重工で建造された船だが、もともとはアメリカのボーイング社が設計製造した「ボーイング929ジェットフォイル」のライセンス生産品である。

ボーイング929は、最初ベトナム戦争中にベトナムの河川で運用するつもりで、その後、東側のミサイル艇に対抗するためにペガサス級ミサイル艇として完成した水中翼戦闘艦のいわば民生型だが、あまり面影はないので理論やノウハウが転用されているだけで、実際に図面に共通部分があったわけではないのかもしれない。

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6隻が建造されたペガサス級ミサイル艇のうち2隻、PHM-2 "ハーキュリーズ" と PHM-3 "トーラス"が疾走する迫力あるショット。
ペガサス級ミサイル艇の主な武装は艦尾の4連装SSM艦対艦型ハープーンミサイル発射筒2基。射程140キロのハープーンミサイルぶっ放すんだったら、別に高速艇じゃなくても良かったような気もするが、ミサイルを撃った後で反撃が来る前に逃げるためにはこういう船が最適と考えられたのだろうか。

水中翼船の原理は19世紀中盤にはもう提唱されていたが、蒸気機関では人が乗った船体が浮かび上がるほどの速度と軽さを実現することは難しく、実際に水中翼で船体が浮かび上がる船が建造されるのは20世紀になってからだった。

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イタリアの発明家、エンリコ・フォルラニーニが1906年にマッジョーレ湖で極初期水中翼船を試験運転中の写真。この試作船は60馬力エンジンを搭載し、時速68キロで滑走可能だった。なんか肝心の水中翼が水の抵抗でバラバラになりそうな感じだが、どうやら、短い翼型断面の横棒を縦にいくつも並べた「ハシゴ型」の翼で船体を浮かせる仕掛けのようだ。
(その2へ続く)

キット表紙画像はOrel公式サイトフォーラムから引用

参考ページは最終回に掲載予定。

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