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テーマ : 模型・プラモデル・フィギュア製作日記
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Model-KOM ソビエト多用途飛行艇 Beriev Be-10

先日、夏の暑さでペタペタになった飴をもぐもぐと噛んでいたら、根本まで削った歯に被せていた銀歯をまたもやポロリとやってしまった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。だからソフトキャンディーとかキャラメル噛んだらダメだっての。
今回紹介するのはポーランドModel-KOMの新製品、ソビエト多用途飛行艇 Beriev Be-10 だ。

OKLADKA NORM

なんだかあちこちが微妙に傾いてるような微妙なデッサンで水面から飛び立つBe-10。他国にはほとんど類型の機体がない巨人ジェット飛行艇の離水はさぞかし大迫力であることだろう。

Be-10(Бе-10)はソビエトのベリエフ設計局が開発した哨戒/爆撃機。開発時には雷撃や機雷敷設も任務に考えられていたらしいが、ジェットの巨人飛行艇で雷撃ってあぁた、男らしいにもほどがある。
ベリエフ設計局を率いていたゲオルギイ・ミハイロヴィチ・ベリエフ(Георгий Михайлович Бериев)は1903年、ロシア帝国のトビリシの生まれ。ただし、この名前は後にロシア語風に改名した名前で、ジョージア(グルジア)の生まれなので「ギオルギ・ミハエリス・ジェ・ベリアシュヴィリ」がもともとの名前だそうだ。
身分の低い労働階級の出身だった彼が飛行機に魅せられたのは10代になったばかりのころだった。
彼はロシア人として二番目に飛行士免許を取得したセルゲイ・ウトチキン(Серге́й Иса́евич У́точкин)のデモ飛行をトビリシ郊外へ見物しに行った(ちなみにロシア人最初のパイロットはミハイル・エフィモフ(Михаи́л Ники́форович Ефи́мов) )。ベリエフはこのデモ飛行(機体はフランス製ファルマン機)に鮮烈な印象を受け、「飛行士になりたい」と心に深く誓った。彼は晩年になっても、「暑かったあの日の黄ばんだ草原を、はっきりと覚えている」と語っていたという。

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あんまり関係ないけど、せっかく調べたので書いておこう。
セルゲイ・ウトチキンは1876年生まれで15歳の時に始めた自転車競技で有名となった。自転車で市電や競走馬と競争したこともあるという。彼はテニス、ボクシング、レスリング、ボート、スケート、フットボール、オートバイ、と、およそスポーツらしいものならなんにでも挑戦し、1907年に熱気球で空を飛んでからは空を飛ぶことに夢中になり1910年にフランスで免許を取得、ファルマン機を購入してロシアに帰り、70の都市で150回のデモ飛行を行った。B. Y.クリモフ、C.イリューシン、N. N.ポリカルポフ, A. A.ミクリン、I.シコルスキー、S.コロリョフ、そしてG.ベリエフなど、後にロシア航空業界を切り拓くことになる多くの少年/若者達がウトチキンの飛行に触発されてそのキャリアをスタートさせている。
ロシア帝国ではウトチキンは「スポーツ万能の超人」として知られていたが、私生活は不遇だった。父親はアル中の小学校教師でウトチキンが幼いころに天井裏で首を吊って死んだ。その後、母は精神の平衡を失い、ある日自分の子供を次々に刺殺したがセルゲイは生き残った。彼が異常なまでにスポーツにのめりこみ、時には生命の危機さえあるような危険な挑戦に挑み続けさせたのは、この幼少期を忘れようとするためだったという考え方もある。
1911年にデモ飛行の事故で重症を負った彼は鎮痛剤として使用されたモルヒネと大麻の中毒となり、強迫性の妄想を併発してしまう。ウトチキンは「敵からの保護」を求めて皇帝の離宮に入り込もうとするなどの騒ぎを起こした後、1916年に療養所で亡くなった。39歳だった。
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飛行士になろうと誓ったベリエフは鋳物工場勤務を経て鉄道学校に入学。折しもロシア革命が勃発したので赤軍に参加しながらの学生生活となった。
1923年、ベリエフは飛行士への夢を叶えようと飛行士学校への入学を試みるが、結果は惨敗だった。
しかし、この失敗を経てもベリエフの空への情熱は失われなかった。
飛行士がだめなら飛行機の設計者になろう、と方針を転換したベリエフはレニングラードのカリーニン工科大学(現在のサンクトペテルブルク工科大学)航空部門へ転校。1930年にカリーニン工科大を卒業した後、TsAGI(ЦАГИ、中央流体力学研究所)に移り航空機デザインの経験を積む。
TsAGIで多用途水上機、MBR-2(最終的に1300機以上が生産された)をデザインしたベリエフはその手腕を認められ、1934年、ベリエフ設計局が開設される。
ベリエフの得意分野は出世作となったMBR-2の流れを汲む水上機で、偵察/哨戒を行う大型飛行艇から艦船のカタパルトで射出される水上機まで、戦前~戦後ソビエト軍の水上機はほぼベリエフの独占状態であった。
1948年に開発したBe-6はガルウイングの肩の位置にレシプロエンジンを配置した双発機で航続距離が長く扱いやすい良作飛行艇だったが、50年代にはソビエト軍は次世代水上機として野心的な「大型ジェット飛行艇」の開発をベリエフ開発局に打診した。
「最高時速950キロ以上」という厳しい条件に対してベリエフ開発局の出した回答が、Be-10であった。

それでは斬新なジェット巨人飛行艇、Be-10の姿を公式ページの完成見本写真で見てみよう。

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…………ヘニョい。
まぁ、でも、ほら、試作だからさ。テケトーなペラい紙で作っちゃったんだよ、きっと。
実際のプリントはもっときれいな印刷と腰のある紙だといいな。

ジェットにかぎらず大抵の飛行艇は離水時の飛沫を被らないようにエンジンを主翼を上に並べているが、Be-10は見ての通り、小脇に抱えるような位置に装備している。これでジェットが海水を吸い込まないのか不安だが、機首を取り囲む水平の板があるから大丈夫なんだそうだ。でも、試作機では飛沫を吸い込まないように吸気口を上向きにするアダプターの装着も試みられた(性能がガタ落ちになるのでオミットされた)っていうから、やっぱり大丈夫じゃないんだろう。
また飛沫の問題とは別に、エンジン排気が胴体後部にかかるせいで試作機はエンジンスロットルを開いた途端に胴体後方がヤバいほど振動して、外皮にヒビが入る、ボルト止め部品のナットは緩む、配管は割れる、と大騒ぎになったので量産機ではエンジン排気口の向きを試作機の外向き3度から外向き6度に修正してある。そんなんで大丈夫?
あと、写真ではわかりにくいが、主翼はけっこうきつい下反角がつけられている。

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側面と機首部分クローズアップ。
クローズアップはしない方が良かったかな。
表紙ではグレー一色の機体が試作では赤いラインが入っているが、実機はどちらなのかはっきりしなかった。時期によって違うとか、作戦行動を行う時は「ロービジ塗装」にするのかもしれない。
機首上面のキャノピーが巨人機にしては珍しく横開きになっているが、乗員は上面の操縦席に一人、機首に一人、そして尾部銃座席に一人のたった3人。航空機関士とか航法士とかいなくて大丈夫??
なお、武装は23ミリ機銃が機首固定で2門、尾部銃座に2門。機首固定の2門って、何に使うつもりだったんだろう。まさか空戦するつもりだったの?

なんだか疑問符だらけのBe-10だが、試作機は1955年の冬に完成。しかし、テストフライトしようと思ったらベリエフ開発局(在ロストフ州)が面してるアゾフ海は凍ってた。ぎゃふん。仕方ないので分解して黒海まで運んで組み立てたBe-10試作機は1955年12月20日に初飛行する。
見た目はゲテものっぽいBe-10だったが、さすがベリエフの仕事だけあって飛行性能は良く、27機が初期ロットとして生産されることが決定した。ただし、操縦は難しかったそうだ。
1961年8月には武装を外すなどの軽量化を行った改造機 M-10 が周回コースを時速912キロで飛行、これは飛行艇の速度記録であり現在も破られていない(米軍のXF2Y-1"シーダート"の方が最高時速が200キロも速いが、おそらくあっちは直線飛行でアフターバーナーを炊いた時の速度)。他にも5トンまでの重量を積んだ時の到達高度記録1万4千メートル、高度2千メートルでの最大積載重量15トンなど、12の部門で飛行艇の世界記録を更新し、その多くは現在も保持している。
*9月22日追記*
コメント欄で、Be-10と比較するなら1950年代終盤に少数が生産された米軍のジェット飛行艇、P6M 「シーマスター」の方が妥当では? との御指摘をいただきました。慌てて確認してみたところ、なんとシーマスター、Be-10よりさらに巨大な図体(Be-10の全長31.5メートルに対し、シーマスターの全長41メートル)で最高時速1100キロも出るんですね。あわわわ、完全に見落としてました。じゃあ、Be-10の世界記録って一体…………(単に米軍がFAI国際航空連盟に申請出してないだけかも)。
とにもかくにも、ツッコミありがとうございました!


Be-10はソビエト海軍第977長距離偵察航空連隊第2飛行隊に配備され1960年ごろから運用が開始されたが、使ってみるとやっぱり操縦が難しいし、ただでさえ海水に浸かっていて腐食が激しい水上機なのに離水/着水速度が速いせいで機体の老朽化が早く、初期生産分27機で生産は終了した
1968年には早くもBe-10は部隊から引き上げられ、ほぼ並行して開発されていたBe-12に換装される。ターボプロップエンジン2基をガルウイングの肩に装備するオーソドックスな形式のBe-12は速度こそ最高時速530キロと平凡だったが使い勝手が良く、130機以上が生産され現在でも一部の機体が現役に残っている。要するに巨人飛行艇を時速900キロですっ飛ばそうというBe-10の基本コンセプトがそもそも間違っていたのだ。


Model-KOMからリリースされた残念傑作機、ソビエト多用途飛行艇 Beriev Be-10は空モノ標準スケール33分の1で完成全長約95センチ。難易度は4段階評価でたぶん「3」(やや難しい)だが、よく見ると表紙の難易度表示に「3」が2個あってわけがわからない。そして、定価は98ポーランドズロチ(約3200円)となっている。
当キットはソビエト/ロシア軍水上機ファンにとっては見逃すことのできない一品と言えるだろう。


なおその後のベリエフ設計局だが、1990年代末にサイズ的にBe-10とよく似たBe-200を完成させている。こちらはエンジン2基を背負ったレイアウトとなっており最高時速は約700キロ。もともとは長距離哨戒用だがロシア非常事態省は救難、消火用に採用しており空港のない離島などへの旅客型の就航も機体されている。スラリとしたクセのないデザインの機体で、こちらもキット化が待たれるところだ。
また、ベリエフ設計局は水面を這うような高度で飛ぶ地面効果機、VVA-14の開発も手がけており(設計はムッソリーニが政権を取った時にイタリアから亡命してきたロベルト・バルティーニ)、この経験と巨人飛行艇を開発するスキルを組み合わせ、3胴式6発エンジンで最大離陸重量2500トン(ボーイング747の最大離陸重量が440トン)のドリーミーな超巨人飛行艇Be-2500「ネプチューン」(Бе-2500 "Нептун")を構想しているという。
しょっちゅうオチに超巨人機を持ってくる当サイトらしく、今回も最後は33分の1 Be-2500のキット化に期待して終わろう。Be-2500の翼幅は156メートルなので、完成全幅は4.7メートルだ。ぎゃふーん。



画像はModel-KOM社サイトからの引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。


参考ページ:

https://en.wikipedia.org/wiki/Beriev_Be-10
https://ja.wikipedia.org/wiki/Be-12_(航空機)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Be-200_(航空機)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Be-2500_(航空機)

http://www.globalsecurity.org/military/world/russia/beriev.htm
ゲオルギイ・ミハイロヴィチ・ベリエフについて。

http://beautifulrus.com/sergey-utochkin-russian-superman/
セルゲイ・ウトチキンについて。

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WAK 深海調査船 "Trieste"

広島東洋カープが25年ぶりになるリーグ優勝を決めたものの「25年」って言っても全然ピンとこねーなーと思っていたのだが、考えてみたら第ニ次大戦が勃発した1939年の25年前って、第一次大戦が勃発した1914年だということに気がついて随分長い時間を費やしたもんだ、と驚いた筆者がお送りするカードモデル最新情報。今回紹介するのはポーランドWAK社からの新製品、深海調査船 "Trieste"だ。

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おおっ! これは嬉しい不意打ち! ある意味、とってもタイムリーに「トリエステ」がカードモデルとして堂々登場だ。
ハイライトであるマリアナ海溝最深部(10,911m)へのアタックが1960年のトリエストがなんでタイムリーなのかと言えば、もちろん、この潜水艇を設計したオーギュスト・ピカールの孫であり、またマリアナ海溝最深部へのアタックでトリエステに搭乗したジャック・ピカールの息子でもあるベルトラン・ピカールが2016年7月23日、世界初の太陽光発電を動力とした航空機による世界一周を成し遂げたばかりだからである。

歴史に残る潜水艦の設計を行ったオーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)は1884年の生まれ。それほど有名ではないが、オーギュストは一卵性の双子で、兄のジャン・フェリックス・ピカール(Jean Felix Piccard)も後に気象学者/発明家/冒険家となっている。ちなみに弟のオーギュストは左利き、兄のジャンは右利きで母親はそれを利用して兄弟を見分けていたそうだ。
なお、兄弟の父(オーギュスト、ジャン以外にもう2人子供がいる)、ジュール・ピカール(Jules Piccard)は弟のポール・ピカール(Paul Piccard)と共同で「Piccard - Pictet」という機械製作の会社を営んでおり、ナイアガラの滝に発電用タービンを据え付けたり、素晴らしく美しいグランプリ・レースカーを製作したりしていた。ついでに書いておくと、ジャンの妻、ジャネットは女性で初めて成層圏に気球で到達した冒険家、ジャンとジャネットの間に生まれたドン・ピカール(Don Piccard)は世界で初めて熱気球で英仏海峡を横断した人物、というからどうなってんだ、この一家は。

ちなみに、テレビシリーズ『新スタートレック』に登場するジャン=リュック・ピカードの「ピカード」は字面は良く似ているが、スペルがちょっと違う(ピカール:「Piccard」 ピカード:「Picard」)。しかし、名前が「ジャン(Jean)」であることからわかるように、オーギュスト/ジャンの双子のピカール兄弟から名前を取ったそうだ。また、「タンタンの冒険」に搭乗する天才科学者ビーカー教授もオーギュスト・ピカールがモデルとなっている(ピカールがブリュッセル大学で教鞭をとっていたころに実際に会ったことがあるらしい)。作者のエルジェ曰く、「ビーカー教授は『ミニ・ピカール』だよ。だって本当の彼(ピカール)はとっても背が高いんだ。そのまま書こうとしたら原稿用紙が足りないよ」とのこと。

で、そのオーギュスト・ピカールだが、始めは深海ではなく、成層圏に興味を抱いていた。宇宙線、オゾンを観測するために自らが設計した気球に乗り、1931年、高度1万6千メートルに到達。これは人類が初めて宇宙の底とも言うべき成層圏に手を届かせた瞬間であった。オーギュストはさらに挑戦を繰り返し、最終的には2万3千メートルへ到達したというから、すごすぎてなんかもう、わけわかんない。
「気球」と一言で言ったものの、高度2万メートルともなると気温はマイナス50度、気圧は地表の20分の1となるので、普通のゴンドラに乗ってそんなところに行ったらたちまち死んでしまう。なので、オーギュストの高度挑戦気球のゴンドラは完全密封の球体となっていた。

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写真はWikipediaから引用(この項、キット画像以外は全て同様)。
こりゃ凄い。「1930年代の気球」という言葉から思い浮かべるものと違いすぎる。
これを見てピンと来た人は鋭い。オーギュストもピンと来た。
「超低圧に耐えるために設計されたこの球体キャビンを応用すれば、逆に超高圧にも耐えられるのではないか」
この逆転の発想により、オーギュストは潜水艇の設計に着手する。どうせやるなら地球の海底最深部、マリアナ海溝の底、1万メートルを目指したいが、単に耐圧キャビンをロープで吊るして1万メートルまで降ろせばいいってもんじゃない。長さ1万メートルのロープなんて作れないし、作れたところで自重で切れる。
そこで、オーギュストは自力航行できる深海調査船として、「バチスカーフ」というシステムを考案する。これは「鉢巻き」のハイカラな言い方ではなく、ギリシア語の単語"bathys"(深)と"skaphos"(船)を組み合わせて作られた言葉だが、一般名詞としてはあまり(日本では特に)使われていないような気がする。

最初に製作されたFNRS-2(ベルギー国立科学研究基金、Fonds National de la Recherche Scientifique 2号。ちなみに成層圏まで登った前述の気球が1号)はわずか1300メートル潜ったところでタンクが損傷。資金難からフランス海軍へ売却されてしまった。
しかし、球体キャビンの能力に自信をもったオーギュストは次にイタリアで「トリエステ」を製作する。

それでは、ここでオーギュストが設計した深海調査船、トリエステの姿を完成見本写真で見てみよう。

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一件、普通の潜水艦のように見えるが上部の円筒形部分は巨大な「浮き」で、人が乗るのは腹の下の球体。この球体はドイツのクルップ社で3つのパーツを電気溶接して製作され、深海の1センチあたり1.25トンという莫大な水圧に耐えるために甲鉄の殻は厚さ12.7センチもあった(この厚さは計算で求められた数値よりもかなり余裕のある厚みとなっている)。
この部分はトリエステの心臓部なので、カードモデルとしてはちょっと「邪道」ではあるが、適当な球体と換装してもいいかもしれない。

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スクリューは船体上側。舵はなくて、左右のピッチを変えることで操縦するものと思われる。動力は電気式。上部のフロートは、気体を入れると水圧で潰れてしまうので比重が軽い安価な液体としてガソリンが充填されている。また、あまりに水圧が高いためにガソリンを排出することができない(浮力を捨てることができない)ために、潜航は鉄球のバラストの重さでおこない、浮上の際には電磁石の電源を切ることでバラスト(ビー玉程度の大きさでザラザラと大量に入っている)を投棄する。

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一見、司令塔のような筒はただのハッチカバー。ここからフロートの中を貫通して下の球体まで通路が続いている。
特徴的な塗装はどういう意味があるのか、ちょっとわからなかった。また、船体上面の色で下面まで塗ってある写真も多く見られるが、どのタイミングで塗装が切り替わったのかもはっきりしない。

トリエステは完成後、これまた資金不足に陥ってしまったが、運良くアメリカ海軍がスポンサーとなって買い取ってくれた。
1960年1月23日、高齢となっていたオーギュストの代わりにトリエステに乗り込んだ息子、ジャック・ピカールはアメリカ海軍のドン・ウォルシュ(Don Walsh)大尉と共にマリアナ海溝へと挑む。
潜航にかかった時間は約5時間。途中、9千メートルを通過した辺りでで船内に異音が響いたが、大きな問題ではない(その水圧で大きな問題が発生したのなら、瞬時に圧壊しているはず)と判断し潜航は継続された。

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船内の様子。
奥がジャック・ピカール、手前がドン・ウォルシュ。この狭さと室温7度の中をひたすら耐えて沈んでいく。食事はどうしてたんだろう。絶食だろうか。

昼1時を過ぎたころ、トリエステは現在までに知られている世界の海洋の最深部、地球の底であるマリアナ海溝チャレンジャー海淵の底へ辿り着いた。
深さ10,916メートル(トリエステ内の計器では11,521メートル。正確な数値については異論もある)。
すさまじい水圧と暗闇が支配するそこは死の世界であると考えられていたが、なんと白っぽい小魚が泳ぎ、エビ、クラゲなどもいたという。これは驚くべき発見であった。
二人は海底を30分ほど観察したが、観測窓のプレキシガラスに亀裂が入っていることが判明(これが9千メートルを通過した時の異音の正体であった。資料によっては2人は音がしてすぐに原因に気づいている)、危険性があると判断し全バラストを投棄、トリエステは3時間17分をかけて浮上した。

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トリエステの観察窓。一見、けっこうな大きさがあるように見えるが、普通に窓をはめ込んだんじゃ水圧で内側に吹っ飛んでしまうので円錐形の塊がはめこんであり、船内側の開口部は写真で瞳孔のように見える小さな部分。ホースを持っている男性の上に写っているのはバラストの投棄口。

トリエステは地球最深部への到達という素晴らしい偉業をなしとげた。だが、ただそれだけだった。マニュピュレーターのような操作機構を一切もたないために海底サンプルの収集はできず、その水圧に耐えられるカメラがないために船外にカメラはなく、小さな窓からのわずかな視界から観察することしかできなかった。それだけのための整備、運用費は高く付き、トリエステは二度とマリアナ海溝へ潜ることはなかった。
その後、トリエステは事故で沈没した原子力潜水艦USSスレッシャーの捜索などに使用されたが1966年に退役。船体は解体されたが、頑丈な耐圧球はそのまま「トリエステ2」に転用された。

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展開図と組み立て説明書のサンプル。極端に細かい部品はなく、組みやすそうな構成だ。
なお、筆者はどういうわけかトリエステの名前を「バチスカーフ」だと思い込んでいた上に、なぜか全体の塗装を黄色だと思っていた(以前の記事中にオーギュスト・ピカールの名前がちょっとだけ出てきた時にも潜水艇の名前をしっかり間違えている)。理由は不明。筆者は学研の「できる・できないのひみつ」に併録されている「限界に挑戦した人々」でピカール親子のことを知り、おそらくそれ以来ずっと勘違いしていたのだが、現物がないためにそちらではどういう記述になっていたのかは確認できっこないス。

WAKからリリースされた深海調査船 "Trieste"は全長たったの20メートル、排水量47トンしかない小さな船なので小艦艇スケールよりもさらに大スケールの50分の1でのリリース。このスケールでも完成全長は37センチしかない。難易度は5段階評価で「2」(優しい)と控え目。定価は19ポーランドズロチ(約600円)、14.5ズロチ(約500円)でレーザーカット済みの隔壁用厚紙が同時発売となる。
当キットは冒険や挑戦が大好きなモデラーにとっては、見逃すことのできない一品と言えるだろう。
WAKは、このままの勢いでベルトラン・ピカールが世界一周した太陽発電飛行機、ソーラー・インパルス2もキット化していただきたいものである。ちなみにソーラーインパルスは翼幅が63.4メートルもあるので、空モノ標準スケール33分の1でキット化すると、完成全幅が2メートル近くなる。ぎゃふん。



キットの写真はWAK社ショップサイトからの引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/トリエステ_(潜水艇)
https://ja.wikipedia.org/wiki/オーギュスト・ピカール
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・ピカール
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルトラン・ピカール

http://chikyu-to-umi.com/kaito/trieste.htm
「トリエステ」地球最深部への挑戦
「地球と海とバリアフリーを考えるウェブサイト」内のコンテンツ。マリアナ海溝への挑戦の模様が非常に詳しく書かれている。トリエステに興味があれば必読。

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SZK ポーランド "Kościół obronny pw. św. Rocha i Jana Chrzciciela w Brochowie"

朝御飯を食べようとしたら手が滑って足の親指の上にラー油の瓶を落としてメチャクチャ痛かった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。
本日紹介するのはポーランドのブランドSZKからの新製品、"Kościół obronny pw. św. Rocha i Jana Chrzciciela w Brochowie"だ。

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これまた説明しづらいと言うか、まぁ、ぶっちゃけ知らないアイテムが出てきてしまったが、これはポーランドのカードモデルブランドが軒並み夏休みに入ってしまい全然目ぼしい新製品が出てこないという、このままだと夏季休暇が10月に入ってからになりそうな筆者にとって二重にボディに効いてくる事情によるものだ。こんちくしょう。
なんだかやたらと長いキット名だが、直訳すると「ブロフフのパブテスト聖ロクス及び聖ヨハネ要塞教会」となる。「要塞教会」という肩書で「娘を殺された復讐に悪党を射殺した男が逃げ込んだのは引越し準備中の教会だった! わずかに残っていた聖職者達と教会を包囲したギャング団の間で壮絶なバイオレンスアクションが始まる!」みたいな粗筋をすぐに思いついた読者はジョン・カーペンターの映画の見過ぎだろう。自分でも途中でなに書いてんだか良くわからなくなってきた。

日本ではほとんど知られていないこの教会だが、ポーランドではかなりメジャーな教会らしい。理由は、この教会でポーランドの誇る偉大な音楽家、フレデリック・フランソワ・ショパンが洗礼を受けたゆかりの地だからである(ショパンの両親が結婚式を挙げたのもここ)。
音楽家と言えば、音楽室に並ぶ肖像画でしか覚えておらず、とっさに出てくる名前はモーツァルト、ベートーベン、ぐらいしかないというてんで音楽に疎い筆者でもその名前は知っているショパンだが、前述の音楽家と比べると、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1756年生まれ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1770年生まれに対して、ショパンの生まれは1810年とけっこう後の世代の人物だ。1849年(日本でいうと嘉永年間、黒船が来るちょっと前)に亡くなった人物なので、ちょっと意外なことに写真も残っている
あと、全然関係ないのだが、「ショパン 写真」で検索かけてたら「ポケモンGO」でお馴染みのAR技術を使って、ワルシャワのランドマークでショパンと一緒に写真が撮れる「Selfie with Chopin」というアプリがあったので紹介しておこう。

iOS版
https://itunes.apple.com/jp/app/selfie-with-chopin/id1038193557
Android版
https://play.google.com/store/apps/details?id=pl.mobilems.chopin.selfie&hl=ja

ショパンと写真が撮れるのがよほど嬉しいのか「まるで夢のようですが、フレデリック・ショパンショパンと一緒に写真を撮れます。」と、アプリ説明まで取り乱しちゃってるが、配信元の「Stołeczne Biuro Turystyki 」というのはワルシャワ観光局なので、これはワルシャワ市の公式アプリなのである。ショパンショパーン。

日本では「ショパンはポーランド人」というイメージはちょっと薄いが、ポーランドでは国を代表する偉人(デノミ前の旧5000ズロチ紙幣の図柄はショパンだった。また、2010年には生誕200年を記念して額面20ズロチの記念紙幣も発行されている)で、かくいう自分もネットで仲良くしてもらっているポーランド人モデラーに、以前「ショパンって知ってる?」と聞かれたことがある。
しかし、じゃあショパンがワルシャワで毎日ピアノを引いて作曲していたのかというと、実はそうではない。ショパンは20歳の時に見聞を広げようとウィーンへ向かったが、時を同じくしてポーランドでは支配者ロシア帝国に対する大規模反乱「11月蜂起」が発生、蜂起は失敗に終わりロシア帝国のポーランド人に対する抑圧はさらに度合いを増し、ポーランドから知識人の大量脱出が始まった。この一件で、ワルシャワへ帰れば音楽どころではなくなると判断したショパンはパリへ行き、そこで音楽活動を続けるが、内心では支配者ロシア人を、蜂起軍を支援してくれなかった列強を、そしてロシアの抑圧を許している神に対して生涯強い怒りを持ち続けたという。ショパン曰く、「それともあなた(神)はロシア人だったのですか。」
パリで音楽活動を行ったショパンだったが、心のなかには常にポーランドへの思いがあったという。それは、ショパンが「ポロネーズ」「マズルカ」というポーランドの民族舞踊をもととした音楽を芸術まで昇華させた事にも現れている。
ショパンと同時代の音楽家、ロベルト・シューマンはショパンを紹介する際に「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と言ったと伝えられるほどにショパンを評価していたが、そのシューマンはショパンの音楽を「美しい花畑の中に大砲が隠されている音楽」と評している。

それでは、ポーランドが誇る偉大な音楽家、ショパンが洗礼を受けた教会としてポーランドでは有名なブロフフのパブテスト聖ロクス及び聖ヨハネ要塞教会の姿を公式ページの完成見本写真で見てみよう。

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写真はちょっと小さめ。
華美な飾りのない重厚な様式が魅力的だ。最初にこの教会が建設されたのは16世紀中盤。しかし、その100年後にはスウェーデン王国がポーランドの大部分を荒らしまわった「大洪水時代」が訪れ、当教会も(ほり)と(へい)を付け足して要塞化されている(塀はキットに含まれない)。

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細部のクローズアップ。
広い面積が多いために、なんだかヘニャっとした仕上がりになりがちな建築物のカードモデルだが、今回は芯を厚紙で組むポーランド式カードモデルの利点が生かされ、非常にカッチリとした仕上がりとなっていることがわかる。チェコ式ではちょっとこうはいかない。単調とならないようにメリハリがつけられたレンガや、空の写り込んだ窓のテクスチャ表現も美しい。

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キットは建造当時やショパンの時代ではなく、現在の姿を再現したもの。
上の写真では1939年の「ブズラの戦い」に参加した将兵の慰霊碑のパネルが嵌めこまれているのが再現されているのがわかる。
ブロフフは大きな街ではないが、ワルシャワの西側という重要な場所にあるために「大洪水時代」、ナポレオン戦争、第一次大戦、第ニ次大戦と、要するにポーランドが攻め込まれるたびに戦場になっている(第一次大戦では塔が砲撃によって破壊され、戦後に再建されている)。
1939年に始まったドイツ軍のポーランド侵攻では国境の戦いに破れ後退してきたポーランド軍がワルシャワ西方のクトノ周辺に集結。そこへワルシャワから派遣された予備を加え、ワルシャワへ突き進むブラスコヴィッツ率いるドイツ第8軍を側面から痛撃する反撃作戦が1939年9月18日に開始された。この時、首都から反撃のためにクトノへ向かった第25、第17師団がブズラ川を渡ったのが、ここブロフフであった。
「ブズラの戦い」はポーランド戦最大の戦いとなったが、結果はポーランド軍にとって散々なものであった。「電撃戦」ドクトリンに則って部隊の機械化を進めていたドイツ軍はポーランド軍の企図を察知すると大胆な機動で集結したポーランド軍の前面を横切って背後へ進出、動揺したポーランド軍は集結した大部隊が逆に包囲される結果となってしまい、野戦軍のほとんどをこの戦いで失ってしまった。ブズラの戦いと前後してソビエトが東からポーランドに侵攻し、ポーランドの命運は決する。

ブロフフでは毎年9月にブズラの戦いを記念したイベントが開かれており、2009年はブズラの戦い70周年を記念してかなり大規模な再現戦闘も行われた。

その時の模様:
http://bzura1939.dobroni.pl/media/index.php?KategoriaID=482&pokaz=galeria&MediumID=9

逃げ惑う民間人、倒れた子供が(もちろん演技だが)痛ましいが、あまり資料のないポーランド軍の軍装がカラーでじっくりと見られて興味深い。真ん中らへんの写真でドイツ式ヘルメットを被ってカーキ色の軍服を着ている兵士はハンガリー兵のようだが、なんでハンガリー軍がブズラの戦いに?(式典に招待されているのかも) 
*9月19日追記*
クラコウ軍に配属されていたポーランド軍第10機械化騎兵旅団(通称「黒旅団」)の兵士達は第一次大戦型のドイツ式ヘルメットを被っていたそうなので、ハンガリー兵じゃなくてそっちかも。

あと、星が描いてあるヘニョい装甲車に乗ってる連中も正体不明。警察部隊かも?
2号戦車、Sdfkfz222、wz.34装甲車などの車両は良く出来ているが、おそらく全てレプリカ(Sdfkfz222はレプリカの確証がないが、東欧に現存している222はないはず。あと、全体的なスタイルもちょっと違う気がする)。
2号戦車は装甲板の厚みが表面に見えず、履帯がゴムパッド式なのでトラクターかなにかにガワを被せただけだろう。しかし、車体正面装甲が曲面のままの初期型と、平面を組み合わせた増加装甲を被せた2タイプの車両がいるなど、芸が細かい。
また、Sdkfz.251はおそらく戦後にチェコで生産されたOT-810だと思われる。
このイベントは2009年以降恒例行事となったようで、近年はボフォース37ミリ砲、TKS豆戦車などもイベントに参加している(未確認だが、どうも本物のようだ)。9月にワルシャワ方面まで出かける用事のあるモデラーは、ブズラの戦い再現式典を是非とも予定に組み込んでおきたい(今年も9月17日に開催)。もちろん、その際にはワルシャワ観光局のアプリをスマホにインストールし、ワルシャワでショパンと記念写真を取ることも忘れずに。

SZKからリリースされた"Kościół obronny pw. św. Rocha i Jana Chrzciciela w Brochowie"は、建築物なんで用紙に合わせてスケールは120分の1。難易度表示はないが、3段階評価で「2」(普通)といったところか。定価は34.9ポーランドズロチ(約1200円)となっている。
ショパンの話をしていたつもりが、いつのまにか2号戦車の写真を見ているといういつもながらの迷走っぷりだったが、ショパンファンとか、ブズラの戦いに思い入れのあるモデラーなら当キットを見逃すべきではないんじゃないだろうか、とか思った。

キットの表紙画像はSZKサイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://pl.wikipedia.org/wiki/Brochów_(województwo_mazowieckie)
https://ja.wikipedia.org/wiki/フレデリック・ショパン

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MODELIK アメリカ装甲砲艦 "USS MONITOR"

8月末に夏季休暇が取れるかもしれんぞ、とホクホクしていたらやっぱり調整がつかなくって夏季休暇が9月中旬以降になることが確実となった筆者がお送りする世界のカードモデル最新情報。それって夏季休暇って言うのか? まぁ、あるだけいいか。
本日紹介するのはポーランドMODELIK社の新製品、アメリカ装甲砲艦 "USS MONITOR"だ。

Monitor okladka

また南北戦争ネタかよ!
いや、自分でも驚いているのだが、今週はなにをネタにしようかと出版社のサイトを回っていたら、唐突にMODELIKからモニターのリリースがアナウンスされていた。これはあれか、Orelが南軍装甲艦バージニアをリリースしたから、MODELIKとしても急遽対抗措置を取らざるを得なくなったということか。カードモデル業界も大変だなぁ。

前回簡単に紹介したように、南北戦争初頭に南軍が鹵獲した船体を再利用して装甲艦を建造していることを察知し、北軍も急ぎ装甲艦を調達する必要に迫られていた。そのために立ち上げられた「装甲艦委員会」(Ironclad Board)は手っ取り早く装甲艦を調達するために、全国の技術者に向けて「装甲艦のアイデア大募集!!」の布告を発する。この辺はアメリカ装甲艦 "USS Dunderberg"の時に一回書いちゃったんで繰り返しになるが、我慢してね。
この募集に応募してきたアイデアの中にあったのが、スウェーデン生まれの技術者、ジョン・エリクソン(John Ericsson)の斬新なデザインの甲鉄艦であった。

エリクソンは1803年、スウェーデンの生まれ。父親が投棄に失敗したために少年のうちから働かざるを得なかったが、そのお陰で若干14歳にして測量技師として一人前となっていた(測量機器に背が届かないので、踏み台を持ち運ぶ助手がついていたそうだ)。
17歳でスウェーデン陸軍に入隊。エリクソンはここでも優れた測量技術を発揮したが、蒸気機関に強い興味を感じ次第に機械いじりへとのめりこんでいく。やがて技術者として生きていくことを決意したエリクソンは1826年、まさに産業革命が始まろうとしていたイギリスへと渡った。
イギリスで蒸気機関車を開発、速度競争にも参加したエリクソン(エリクソンの「ノベルティ号」は最高速度で他の参加者より優れていたが、惜しくも故障によりロバート・スチーブンソンの「ロケット号」に敗退した)は1836年、それまでの蒸気船の推進方式であった外輪式に代わる「スクリュー推進」のアイデアをまとめる(スクリュー推進の特許はFrancis Pettit Smithがエリクソンより6週間早く特許申請しており、ここでも「スクリュー推進の発明者」の栄誉を逃している)。
エリクソンのアイデアに感銘を受けた在英アメリカ領事、フランシス・B・オグデン(Francis Barber Ogden)の協力もあって、エリクソンは1837年、全長約14メートル(45フィート)のスクリュー推進蒸気船、その名も「「フランシス・B・オグデン号」を完成させる。
エリクソンはこのF・B・O号をイギリス海軍関係者にドヤァと公開したが、イギリス海軍艦艇監督官ウィリアム・シモンズ(William Symonds)はスクリュー推進というアイデアについて「この船が適切に操艦できるとは思えませんし、海では役に立たんでしょうな」とあっさり無視した。一節にはスクリューのために船底に穴を開けることに対する忌避感があったのだとも言う。たぶん、ニチモの模型のグリスボックスに詰めたマーガリンがお風呂で溶けてひどい目にあった経験があるんだな。

会心のアイデアを無視されてすっかり気落ちしたエリクソンだったが、オグデンはエリクソンの代理人としてアメリカでスクリューの特許を取得。さらにエリクソンの協力者として新たにアメリカ海軍大佐ロバート・フィールド・ストックトン(Robert Field Stockton)を紹介する。1839年、エリクソンはストックトンの招きに応じてアメリカへと渡る。
アメリカでエリクソンはストックトンの協力のもと、アメリカ初のスクリュー推進船となる「USSプリンストン(USS Princeton)」を1843年までに完成させるが、ストックトンは途中から「ぶっちゃけさ、この船って吾輩が作ったようなもんだと思わない?」と言い始めた。なにを言っとるんだこの人は、とも思うがスウェーデンからやってきた発明家と海軍大佐ではやっぱり発言力が違う。なんとなく世間でも「ストックトン大佐って人が新型蒸気船を建造したんだってさ」「へー」ってな雰囲気になってきた。調子に乗ってストックトンはエリクソンが設計した回転砲座に載せた12インチ砲の設計図を勝手にパクって「しかも旋回砲座に12インチ砲! すごい! 我輩って凄い!」とかやらかした。
しかし、設計図を正しく理解していなかったストックトンの12インチ砲は1844年、政府のお偉方を招いたデモンストレーション中に暴発事故を起こしてしまう。この事故で当時の海軍長官、国務長官を含む8名が死亡。大惨事である。
立場がまずくなったストックトンは、今度は「エリクソン君が設計した12インチ砲が爆発! エリクソン君はなんて事をしてくれたんだね!!」と言い始める。結局、エリクソンは責任を押し付けられた上にUSSプリンストン設計の際の報酬まで支払い拒否されてしまう。とんだブラック海軍だな。
海軍はエリクソンを事故の責任者と認識し、エリクソンは海軍を恨んだまま彼は一旦歴史の表舞台から姿を消す。

まだ南北戦争も始まってないのに話が長くなってきたんで、公式ページの完成見本写真を見て一息つこう。

Monitor foto2

USSモニター全景。このアイデアを見せられた装甲艦委員会の面々の驚きは想像に難くない。

Monitor foto1

砲塔部分にクローズアップ。天井がスノコ状なので、厳密には「砲塔」ではなく「装甲バーベット」だが、伝統的にUSSモニターの場合は「砲塔」と呼ばれる。なお、勘違いされがちだが、旋回砲塔そのものはエリクソンの発明ではないし、これを搭載した艦もモニターが初めてではない。
救命ボートは1隻しかないが、これで全乗組員49人(59人という資料もある)が避難するのはちょっと無理そうだ。煙突を支えるケーブルの工作は、あまりディティールのないこの船の数少ない腕の振るいどころ。

さて、USSプリンストンの一件以降、フランスのナポレオン三世に装甲艦のアイデアを送ったりしていた(無視された)エリクソンは装甲艦のアイデア大募集と聞き、これまでにない新型艦のアイデアをもってこれに応じた。
しかし、プリンストンの一件でアイデアをパクられることを恐れていたエリクソンは具体的な図面を同封せずに、ただ「とても斬新なアイデアがあります。お招き与ればすぐに説明に伺います」としか書かなかったので、ただでさえエリクソンをプリンストン爆発事故の「責任者」として警戒していた装甲艦委員会は「ば~~~~~~っかじゃねぇの!?」と鼻で笑ってエリクソンの手紙を投げ捨てた。

またも会心のアイデアを無視され、すっかり意気消沈していたエリクソンのところへ、ある日造船、鉄鋼界で成功を収めていた実業家、コーネリアス・S・ブッシュネル(Cornelius Scranton Bushnell)がやってくる。彼は装甲艦委員会が建造を検討していた装甲艦「USSガリーナ (USS Galena)」のスポンサーとなる予定だったが、船体に400トンの装甲を貼り付ける、と聞いて不安になり、自身とエリクソン共通の友人を通じて相談に来たのであった。
無視された上に他人のつまんねー装甲艦のことで相談に来たんじゃ、エリクソン的におもしろくもなかっただろうが、そこは大人なのでエリクソンはブッシュネルを歓待し、きちんと計算して400トンの装甲は問題ないと太鼓判を押した。
礼を言ってブッシュネルが去ろうとした時、エリクソンは「ついでに、全く新しい装甲艦について聞いていきます?」と尋ねる。ほほう、どんなもんで? と興味を示したブッシュネルにエリクソンは説明に持参するつもりだった図面を見せ、自身のアイデアを説明した。曰く、「南部の河川は浅い。そこへ入っていって行動するなら思い切って喫水を浅くしなければいけません。また、河川では艦の向きを変えることができないので、旋回砲塔で武装を自由な向きに向けられなければならないでしょう」
ブッシュネルはこのアイデアに強い感銘を受け、ただちに海軍にこれを提案するように強く促したが、エリクソンは「いや、もう海軍はこりごりなんで」とこれを拒否した。代わりにブッシュネルは図面を借り受け、自身が海軍にプレゼンを行いたいと提案すると、これには同意した。軍人よりも商人の方が信用できると思ったんだな。

従来の船を装甲しただけの装甲艦では不十分ではないだろうかと心配していた海軍軍人を味方につけたブッシュネルは1861年9月12日、大統領エイブラハム・リンカーンとのアポイントメントを取り付け、エリクソンのアイデアを説明する。リンカーン大統領も、このアイデアには感銘を受け即座に装甲艦委員会と海軍要人を招集、翌日にこのアイデアの検討会が行われた。
当然、海軍軍人からは「なんだそれ」と反発があったが、大統領の強い推薦を受け、「まぁ、少ない予算と短い日数で建造できるのなら、作ってみても……」としぶしぶと同意の方向へと会議はまとまりつつあったが、委員会の一人、チャールズ・H・デイビス大佐(Charles Henry Davis)が強硬に反対を貫き通した。彼はプリンストン号事故に立ち会っており、エリクソンへの反感が拭い難かったのだ。
紛糾する会議を見てラチがあかないと判断したブッシュネルはその夜、夜行列車でエリクソンの元へ赴く。技術的な部分をエリクソンに直接説明させ、渋る技術者を説得させようというのだ。しかし、海軍に反感のあるエリクソンを海軍軍人達の前に引っ張りだして説明させるのは難しい……
そこで、ブッシュネルは一計を案じた。
「エリクソンさん! 装甲艦委員会はあなたのアイデアを大絶賛しましたよ! すぐにでも建造計画にサインをしたがっていましたが、残念ながら技術的に細かい部分が私にはきちんと説明ができなくて……申し訳ございませんが、エリクソンさん自身から委員会に説明していただけませんでしょうか」
ブッシュネルにそう言われ、え、そうなの? と思ったエリクソンは直ちに資料をまとめ、ワシントンへと向かう。
委員会の前に出たエリクソンは、デイビス大佐から「あなたの船には安定性が足りないと思う。建造には反対だ」と言われ、驚いた。話が違うと思いつつも、ここまで来たんだから、と資料を広げ具体的な数値を挙げて細かい説明を繰り返す。
エリクソンは「私がこの部屋を出るまでに、私に建造許可を与えること。それが、国家に尽くすあなたがたの義務であると私は考える」と大見得を切った。
この日、エリクソンの新型装甲艦はついに発注を勝ち取った。

新型艦の契約には「100日で完成させること。完成させられない、あるいは使い物にならない場合は予算は全額返還すること」という厳しい条項があったが、エリクソンは98日間で艦を完成させた(資料によっては101日、120日としているものもある。エリクソンは正式な発注の前にすでに建造を開始しており、またなにを持って「完成」とするかの解釈にも差異があるようだ)。
建造中にエリクソンは、「罪人を監視し、戒める者」という意味で新型艦を「モニター」と名付けることを提案し、海軍がこれを受け入れた。この「罪人」が指すのが南軍のことなのか、それとも南軍装甲艦バージニアのことなのか、はたまた某嘘つき軍人のことなのかはわからない。

Monitor foto3 Monitor foto4

船底部分にクローズアップ。変なところにある錨にも注目だ。作例はよく見るとけっこうディティールアップされている。
なお、どうもモニターの砲塔は逆転機構がなかったために一方向にしか旋回させることができず、うっかり標的を通りすぎて回しすぎてしまうともう一周するしかなかったようだが、これは自分が資料を誤読してる可能性もあるのであまり信用しないでいただきたい。
ちなみに砲塔の旋回速度は一周22.5秒。時計の秒針の約3倍の速度だから、意外と早い。

USSモニター完成後の解説はバージニアの項目と重なる部分が多いので少し駆け足で済まそう。ハンンプトン・ローズで引き分けたモニターは1862年5月の「ドルーリーズブラフの戦い」にも参加しているが、この時は河川両岸から打ち下ろしてくる南軍陸上砲台に歯が立たずに戦果なく引き上げている。しかし、この時も南軍重砲の滅多打ちを受けながら全弾を跳ね返し、その堅牢さをあますところなく発揮した。
その後、ドック入りして主に居住性を改善したモニターは1862年12月31日、別戦区へ移動するために荒天下を曳航され航行中に高波を受け沈没した。残骸は1973年に発見され、2003年には砲塔が引き上げられている。引き上げられたモニターの遺物は現在バージニア州の海員博物館(Mariners' Museum)に展示されており、同博物館には実物大のモニターのレプリカも展示されているので、近くまで行く機会があればぜひとも見学しておきたい。

USSモニターの生涯は短く、またその戦歴において一隻の敵艦も撃沈していない。しかし、その独自性が後世に与えた影響には計り知れないものがあると言えるだろう。
英語において、その影響力の大きさ故に艦名がそのまま艦種にまでなった軍艦というのは、軍艦史においてわずか2隻しか存在しない。英国海軍ド級戦艦「ドレッドノート」と、この「モニター」である。

Monitor rys1 Monitor ark1 Monitor ark2 Monitor ark3 Monitor ark4

組み立て説明書と展開図のサンプル。展開図は汚しのないスッキリとしたタイプ。広い面積の甲板が単調だと感じるようなら、甲板の装甲板を1枚づつ切り離してから軽く汚しを載せ、メリハリをつけるのもいいだろう。

MODELIKからの新製品、アメリカ装甲砲艦 "USS MONITOR"は小艦艇スケール100分の1でのリリース。完成全長は約52センチ、難易度は5段階評価の「3」(普通)、そして定価は50ポーランドズロチ(約1700円)となっている。
前回紹介したHeinkel ModelsのモニターはCSSバージニアと組み合わせが楽しめる200分の1のリリースだったが、よりモニター単艦の造形を楽しみたいモデラーなら、100分の1のビッグスケールでリリースされた今回のキットを見逃すべきではないだろう。



キット画像はMODELIK社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Monitor
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ericsson

http://www.civilwar.org/battlefields/hampton-roads/hampton-roads-history/uss-monitor-a-cheesebox-on-a.html
南北戦争の総合サイトの中の1コンテンツだが、どういうわけかストックトン大佐の名前が「John Stockton」と、他の資料と異なっている。

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