PaperShipwright イギリス 灯台 Eddystone Lighthouse・後編

毎年、庭のミカンをかっさらっていくムクドリに負けてなるものかとフライング気味に収穫したせいでなんとも酸っぱいミカンを毎日食べてる筆者がお送りする世界のカードモデル情報。本日は前回に引き続きイギリスのブランドPaperShipwrightからリリースされた イギリスの灯台 Eddystone Lighthouse を紹介する。

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1708年から50年近く頑張った2代目エディストン灯台だったが、1755年12月に失火により焼失。灯台はなくてもいいもんじゃないんで、1756年からただちに3代目の建設が始まった。
3代目の建設に当たったのは、土木建築史にその名を残すジョン・スミートン(John Smeaton)。1724年生まれのスミートンは、それまで職人の勘や経験に基づく部分があった建築技術を、体系立て理論付けることで「土木工学」として確立した人物であり「土木工学の父」とも呼ばれる。スミートンは世界初の「土木工学者 (civil engineer)」であったが、そもそもその言葉を考案したのがスミートン自身であった(兵種の「工兵(engineer)」と区別するために「civil」をつけた)。
最初、スミートンは父の法律事務所で働いていたが次第に計測に興味を示し計測器具などを考案、自作。さらには建築の道へと進み、風車、水車などを設計したが、その過程でスミートンは回転運動や流体の中での羽根の振る舞いについての論文を記している。
エディストン灯台の設計に際し、スミートンが留意したのは耐久性だった。初代、2代目のエディストン灯台は基礎こそ石造りだったものの、基本的には木造。当時はまだ電化されていないので木造建築の中で火をバンバン燃やすことになり、これはやっぱり危ない。しかし、石造りにはまた問題があった。石と石をつなぐ技術というのが、まだなかったのだ。
当時、大砲が戦場に姿を表し城や要塞の周りの高い塀や防衛用のタワーは姿を消しつつあった。なぜかと言えば、石を積んだだけ(間に充填されていたのはもろい漆喰)の塀に砲弾がドン、と当たると崩れてしまうからだ。灯台に砲弾は飛んでこないが、波濤が東映のロゴのようにドーンとぶつかってきたら、やっぱりヤバい。ちなみにあの映像(「荒磯に波」)は犬吠埼で撮影されたものだそうだ。なんとなく荒々しい海といったら日本海のイメージがあるのでこれは意外。
もちろん、アステカのピラミッドのように巨大な角錐の形にすれば石積みでも耐久性が得られるかもしれないが、海の上にそんなもん作れるわけがない。

この難問を解決するに当たり、スミートンが着目したのは古代ローマの遺跡であった。ローマ時代の遺跡は石積みなのに地震などで崩れることなく形を保っている。なぜか。
秘密は石と石の間に充填されたモルタルにあった。ローマ遺跡のモルタルはヨーロッパで当時使われていた漆喰に比べ、ぶっちゃけ色が汚く、いろいろと混ざっている。スミートンはこの不純物に着目しさまざまな鉱物を試した結果、焼成した石灰が水と反応して硬く固まることを発見する。現代の建築に欠かすことのできない「セメント」の発明であった(厳密には焼成温度が低いので現在のセメントとは異なる。また、正確にはスミートンが発見したのは強固な速乾性を発揮する成分割合でありセメントそのものではない)。
スミートンはこの技術を用いて花崗岩を組み合わせた3代目エディストン灯台を建設、灯台は1759年10月16日に点灯された。

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前回に引き続き、京都大学所蔵、「エディストン灯台再建に関する報告書」(この報告書そのものが3代目を建設した時の報告書)からの引用で、曲線のテーパーが美しいほっそりとしたスタイルの3代目エディストン灯台。この細さを実現したのがセメントを用いた新工法であった(花崗岩をつなぎ合わせるのに、大理石の「ピン」も使われている)。高さは22メートルで2代目より1メートル高くなった。

スミートンが建設した3代目エディストン灯台は、さすが「土木工学の父」の設計だけあって頑丈だった。どれぐらい頑丈だったかと言うと、1877年に使用が終了するまで100年、危なげなく海を照らし続けたぐらい頑丈だった。しかも、使用終了になった理由は「足元の岩礁が波に侵食されたから」で、基礎となる岩礁よりも灯台の方が頑丈という、それまでの灯台とは桁違いの頑丈さであった。
さて、そんなわけで3代目が使用終了となって、4代目はトリニティ・ハウスの灯台建築技師、ジェームズ・ニコラス・ダグラス(James Nicholas Douglass)の指揮で建築が始まる。ダグラスはスミートンの技術の後継者であり、基本的な設計は3代目灯台と大きな差はなかった。最も大きな変更が加えられたのは光源で、それまでのオイルランプに代わって電灯が採用されている。
工事は3時間半しかない干潮の間に基礎を建築するという困難なものだったが4代目スミートン灯台は1882年に無事点灯。そして、現在に至るまで運用中である。

それでは、今回PaperShipwrightからリリースされた4代目エディストン灯台の姿を公式ページの完成見本写真で見てみよう。

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3代目から受け継いだほっそりとしたテーパーは多段の円筒で表現されている。窓や入り口もテクスチャ表現となっており、難易度は控えめなようだ。なお4代目は3代目とパッと見は似ているが、4代目の高さは49メートルと倍以上になっている。
ライト部分は3代目と比べると赤い鳥かご状のものが被せられていて印象が大き異なっているが、これは頭の上のヘリポートを支えるための構造。エディストン灯台は1982年に完全自動化され、たまに維持管理のためにヘリが頭の上に止まる以外は無人となった。電源は太陽光発電で、鳥かごの周りに盾のようにパネルが並べてあるのが作例でもわかる。
ライトは2万6千200カンデラで、40キロ先を照射可能。回転は10秒で1回転(光源前後にレンズがあるので、1方向は1回転につき2回照らされることになる)。ちなみに設計者のダグラスはこのライトのレンズ形状が別の灯台技術者ジョン・リチャード・ウィガム(John Richardson Wigham、客船「モーリタニア」を建造したウィガム・リチャードソン造船会社の創設者とは別人)の特許を侵害してるとして怒られて罰金払った。

ところであまりに頑丈だった3代目が4代目完成後にどうなったかと言うと、土木建築史上の重要性を認められポーツマス市街南部に移築され、「スミートン・タワー」の名前で現在は観光名所となっている。

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入場料は3英ポンド(約400円)でライト部分まで登ることもできる。近くにはアメリカへ渡ったメイフラワー号を記念した博物館もあるので併せて見学したい。
ところで上の写真、なんだか上の図版と全体のバランスが違わない? と思ったら……

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基部は今でもエディストン岩礁の上に立っていた。どこまで頑丈なんだ、3代目。
(上写真2葉はWikipediaからの引用)

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展開図。あまり複雑なキットではないので、これで全部。それほど難易度の高いキットではないが、トラス部分の切り抜きはなかなか技術と根気が必要だろう(右ページ上部がトラスを切り抜く場合のパーツ。テクスチャで済ます場合は右下に簡単パーツが準備されている)。

近代灯台の歴史そのものとも言えるエディストン灯台の歴史を今に伝える4代目エディストン灯台、今回PaperShipwrightからリリースされたキットは250分の1スケールで完成全高約20センチ。難易度は5段階評価で「3」(普通)となっているが、東欧圏のカードモデルに慣れているモデラーにとっては「2」(やや易しい)でもいいだろう。定価は4.75イギリスポンド(約650円)となっている。
当キットは灯台ファンのモデラーにとって、まさしく見逃すことのできない一品と言えるだろう。



写真はPaperShipwright、HMVそれぞれのページから引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Lighthouse
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・スミートン
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Nicholas_Douglass

https://plymhearts.org/smeatons-tower/
プリマス市のページ。
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PaperShipwright イギリス 灯台 Eddystone Lighthouse・前編

年相応の下心を発揮して、「勉強や触れ合い、デートで美少女を自分の好みに成長させよう!」という内容のアプリをスマートフォンにインストールしたものの、仕事が終わって帰宅してからしか起動しないもんだからログインしたところで美少女が寝てるのを見てるだけなので「仕事が忙しいお父さんの悲哀体験アプリ」と化している筆者がお送りする世界のカードモデル最新情報。いや、別に叩き起こしてもペナルティないらしいんだけど、なんだか悪くってさぁ。
そんなこんなで今回紹介するのはイギリスのブランドPaperShipwrightからリリースされた イギリスの灯台 Eddystone Lighthouse だ。

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PaperShipwrightと協力関係にあるイギリスの灯台管理及び水先案内人協会である「トリニティ・ハウス」が管理する灯台、エディストン灯台。と、言われたところで「ふーん、そうですか」という感じだが、実はこの灯台、灯台史においては無視できない重要な灯台なのである。
まず、「エディストン」というのはイギリス西部の主要港、プリマス沖合にある岩礁だが、これがプリマス港から出港して大西洋に向かって何にも考えないで進むともれなくブチ当たるという絶妙な場所にあり、古くから英仏海峡の難所として知られていた。
17世紀末、英仏海峡の通行料は増しており、いよいよ航海の安全のためにこれをなんとかしなきゃいかん、と思ったもののさてどうしようか、というとどうしようもない。なにしろエディストン岩礁は最も近い岬から10キロ以上離れているので、岬に灯台建てて「ここから10キロ先に岩礁がありますよ」って言われても船乗りは混乱するだけだ。
そこでイギリスの技師、ヘンリー・ウィンスタンリー(Henry Winstanley)は世界で初めて(本土から離れた)沖合の岩礁に灯台を建設することを決意し、1696年に建設に着工した(単に陸から離れた場所に建設された灯台としてはフランスのCordouan灯台の方が先だが、そっちは「モン・サン・ミシェル修道院」のように遠浅の沖に建てられており、独立した岩礁に建設されたのはエディストン岩礁が世界初となる)。
工事は岩礁の岩に穴を穿ち、12本の支柱を立てることから始まったが、技術的な問題以外にも困難を抱えていた。当時、イギリスはフランスと「九年戦争」の真っ最中。と、言うか、イギリスは14世紀の百年戦争以来、ワーテルローでナポレオンが敗退するまで何度も中休みを挟みながらもフランスと500年の間ずっと戦争ばっかりしていた。少しは仲良くしろよ。当然、灯台の建設においてもフランスの妨害が予想され、イギリス艦隊はエディストン岩礁沖合に護衛の軍艦を派遣していたが、艦が交代する隙をついてフランスの私掠船が来寇。工事を指揮していたウィンスタンリーを始めとする建設要員を拉致し、建設途中の灯台基礎を破壊してしまった。
フランス私掠船は「ひゃっはー! こいつがいなけりゃ灯台は建てられねぇ! イギリス船は岩礁にぶち当たって沈むがいいZE!」と意気揚々フランスに引き上げたが、これを知ったフランス王ルイ14世(太陽王)は「我々が戦っているのはイギリスである。人道(倫理)に対して戦いを挑んでいるのではない」として、ウィンスタンリーの即時解放を命令した。
ルイ14世の英断でイギリスに戻ったウィンスタンリーは工事を再開、1698年11月14日に火が灯され初代エディストーン灯台の運用が開始された。

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図版は京都大学所蔵、「エディストン灯台再建に関する報告書(正式な標題は「A narrative of the building and a description of the construction of the Edystone Lighthouse with stone to which is subjoined, an appendix, giving some account of the lighthouse on the Spurn Point, built upon a sand」昔の書物はタイトルが長い!)」からの引用。なんだか可愛らしい灯台だわね。大げさな屋根飾りが時代を感じさせる。全高18メートル。八角形の建物だった。

完成したものの、最初の冬を乗り切っただけで灯台はかなりダメージを受けており全面的な補修が必要となっていた。そこでウィンスタンリーはエディストン灯台を大規模に改修することとし、灯台全体を包むようにして12角形の外壁を追加している。ちなみに12角形は英語で「ドデカゴン(dodecagon)」という、なんだかとっても強そうな単語になる。

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なんかごっちゃりした初代エディストン灯台・改。右側に釣りしてる人がいたりして、一気に楽しそうになった。なぜか土台の岩礁の形まで変わっていたりして、どう見ても「改修」っていうより別物のようだが、この「エディストン灯台再建に関する報告書」自体が灯台建設より100年も後の1813年に書かれたものであり、混乱があったのかもしれない。なので、資料によってはこの状態を初代・改ではなく、「2代目」としていることもある。

せっかく改修したエディストン灯台だったが、1703年に一帯を大災厄が襲った。
1703年11月27日、空前絶後の巨大サイクロンがイギリス沿岸に来襲。灯火が消えた(嵐との因果関係はよくわからない)ために、ウィンスタンリーはエディストン灯台に留まり修理を行なっていた。夜になりますます強まる暴風雨の中、プリマスの岬からエディストン灯台に明かりが灯るのが見えたが、再び明かりは消えてしまう。
翌日、ようやく静まった海に出た船乗り達は、エディストン灯台が基礎ごと根こそぎ吹き飛ばされ、なにもない岩礁へと戻っていることを発見した。ウィンスタンリーと五人の灯台守は見つからなかったという。
この1703年の大嵐(Great Storm of 1703)は今に至るもイギリスが体験した最大規模の嵐であり、この破滅的な現象は当時の科学力では予知することも備えることも不可能であった。後に「ロビンソン・クルーソー」を記すダニエル・デフォーがその激しさについてルポルタージュを残しているが、その書「The Storm」(1704年刊)によると、「あまりの風の強さに風車が激しく回転し、その摩擦で心棒が発火し多くの風車が炎上した」そうだ。ほんとかいな。
なお、灯台か失われるまでの5年間の間にエディストン岩礁で失われた船舶は1隻もなかったという。
またエディストン灯台の建設・維持費は航行する船舶から徴収するトン当たり1ペニーの通行料で賄われていた。

初代エディストン灯台破壊後、海軍軍人のジョン・ロベット(John Lovett)という人物が議会から岩礁の通行料徴収権を買い取った。ロベットはジョン・ルディアルド(John Rudyard)に二代目灯台の建設を依頼するが、この人、別に技術者ではなくてただの不動産屋だったらしい。また、「ルディアルド」という名前も資料によっては「ルディヤード(Rudyerd)」となっているが、本来の名前が「ルディアルド」で、「ルディヤード」の方は洗礼の時に間違えて書かれちゃったようだ。いい加減だな。なお、ルディアルドは灯台建設費を立て替える見返りとして通行料の一部(定額)を毎年、生涯受け取る契約をロベットと結んでいるが、途中で権利を破棄してしまっている。どうやらロベットとの間で金銭的なトラブルがあったようだ。
そんなゴタゴタはあったものの、灯台は1708年に点灯、1709年に完成した。

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初代よりもぐっと現代的になった2代目エディストン灯台。この画像も前掲の報告書からの引用。高さは21メートルになった。
2代目は巨大嵐に襲われることなく50年に渡って航行の安全を守ってきたが、1755年12月2日、光源の火が屋根に燃え移り炎上。3人の灯台守は必死に消化したものの、海で水を汲んで20メートルの階段駆け上がってぶっかけて、なんてテンポでは火は消えず灯台は全焼(5日間燃え続けた)。この火事では灯台守は救援の船に救われ(波が荒くボートが近寄れなかったために、投げられたロープを腰に結んで海に飛び込んだ)て直接の焼死者は出ていないが、ヘンリー・ホール(Henry Hall)という、なんと94歳の灯台守が屋根を覆う鉛が熱で溶け落ちた時にそれを浴びた上に飲み込んでしまい、二週間後に衰弱死している。なおホールの胃から死後摘出された鉛の小片(とは言っても、約200グラムもある)は、現在スコットランド国立博物館に収蔵されている。

(後編に続く)


表紙画像はPaperShipwrightサイトからの引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Lighthouse
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Winstanley
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Rudyard
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Hall_(lighthouse_keeper)

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/f05/f05cont.html
「エディストン灯台再建に関する報告書」
京都大学電子図書館貴重資料画像内のコンテンツ。非常に細密、かつ貴重な画像が公開されている。京都大学電子図書館にはこの報告書以外にも貴重な資料が多数ありそうだ。

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WAK ソビエト自走砲 SU-100(後)

最近、記事の書き方がちょっと雑じゃないだろうかと思う筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。書いてる方がそう思うんだから読まされる方はもっとそう思うことだろう。どうもすんません。
そんなわけで心を入れ替えた今回も、先週に続きポーランドWAK社からの新製品、ソビエト自走砲 SU-100 を紹介する。

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さて、前回めでたく第2次大戦は終結したが、それによりソビエトの怒りはおさまり全ての装甲車両は土くれに戻ったのでした。めでたしめでたし。
なんてファンタジックな展開にはならないのが現実ってやつの面倒なところで、9月の対日戦終結までに生産した2325輌のSU-100は終戦でほぼ全てが余剰になってしまった。しかもソビエトは戦後しばらく「ひょっとするとアメリカと戦争になるかもしれない」とか思ってSU-100をさらに900輌も作ってしまった。
1947年には同じ主砲を積んだ傑作中戦車T-54が登場し、砲塔がない上にバランスが前寄りで扱いにくいSU-100のいらない感は否が応でも高まってくる。

持て余したSU-100を手に、あーどうしようー、めちゃくちゃ強い自走砲が大量に余っちゃったなー。困ったわーまじ困ったわー(チラッチラッ)とぼやいていたソビエトに対し、「いらないんだったら、それください」と名乗りを上げたのが1952年に自由将校団のクーデターで成立したばかりのエジプト共和国だった。
イスラエルの一方的な独立宣言によって始まった1947年の第一次中東戦争で、エジプトを始めとしたアラブ諸国とイスラエルは共にオチキスH-35とかルノーR35とかM4シャーマンとかルノーFT17とか4号戦車とか、ドイツ軍や連合軍が捨てていった戦車をかき集めて戦ったが結果はアラブ側の敗北。イスラエルは米英からさらに新型戦車を供与されており、アラブ側も新型戦車の調達が急務となっていた。
エジプトはもともとイギリスの影響下からクーデターで独立しており、さらにアメリカが肩入れするイスラエルと敵対してるとくれば、ソビエトにとってもエジプトは「敵の敵」、すなわち味方。と、いうわけで両者の思惑が一致し、多数のSU-100がエジプトへと渡った(エジプトが購入したSU-100の総数ははっきりした数がわからないが、少なくとも100輌以上である。また、対価としてなにが、どれだけ支払われたのかもよくわからなかった)。なお、最終的にエジプトが購入したSU-100の大部分はソビエトで製造された車両ではなく、戦後にチェコスロバキアがライセンス生産した車両であったらしい。現場での評価は戦時中に女性や子供などの非熟練工がバタバタと組み立てたソビエト製の車両より、チェコスロバキア製車両の方が品質が良かったそうだ。

1956年、イギリス政府が筆頭株主であった「スエズ運河会社」の所有物であるスエズ運河を、エジプトは「これはエジプト人のもの!」と国有化を宣言する。もちろんイギリスは怒った。ついでにフランスも怒った。せっかくだからイスラエルも怒った。
そんなわけで1956年10月29日にイスラエルはエジプトへ侵攻、いわゆる「スエズ危機」、またの名を「第二次中東戦争」が始まった。
進撃してくるイスラエル軍戦車部隊(主力は75ミリ砲、もしくは76ミリ砲を装備したシャーマン戦車)に対し、T-34/85、SU-100、ついでにイギリス軍のアーチャー自走対戦車砲からなるエジプト軍装甲部隊がシナイ半島へ迎撃に向かう。

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写真(この項、キットの写真以外全て)はWikipediaからの引用。第二次中東戦争でのSU-100の引用できそうな写真がなかったんで、撃破されたエジプト軍のアーチャー対戦車自走砲。写真でわかる通り、駆逐戦車はせっかくダックインしても露出面積が大きいのが欠点。ちなみにアーチャーは筆者が知る限り、まだ25分の1でカードモデルキット化されていない。

イスラエル軍のシャーマン戦車にとって、エジプト軍のSU-100は非常に手強い相手だった。75ミリ砲は言うに及ばず、76ミリ砲が命中してもSU-100の傾斜した正面装甲は容易に跳ね返してしまい、SU-100の100ミリ砲はシャーマンの正面装甲を簡単に貫通した。
しかし、空ではエジプト軍は劣勢だった。優勢なイスラエル空軍にただでさえ押され気味だったエジプト空軍は戦場にイギリス軍のジェット機が登場するとなすすべもなく壊滅。フランス軍のF4Uコルセア、イスラエル軍のF51ムスタングが一方的にエジプト軍装甲部隊を襲撃した。
英仏は「これでエジプトをまた植民地化できますな、はっはっは」とご満悦だったが、アメリカは「19世紀じゃないんだから、今時植民地化はないわー」と激しく反発、エジプトを支援していたソビエトと足並みをそろえて米ソ2大国の主導により国連は停戦を勧告し、第二次中東戦争は終結。英仏の面目は丸つぶれとなりヨーロッパの凋落と米ソの超大国化が明らかとなった。
エジプトはこの戦いに100輌前後のSU-100を投入し、うち24輌が撃破され11輌が鹵獲された。なお、鹵獲されたSU-100のうち1輌は現在もボービントン戦車博物館で自走可能な状態が維持されている。

1967年6月、着々と戦力を整えているエジプト軍を叩きのめすため、イスラエル軍がエジプトに侵攻し第三次中東戦争が始まる。
再びT-34/85とSU-100のソビエトコンビが迎撃に向かうが、今度は相手が悪かった。イスラエル軍は10年の間に装甲戦力を増強、105ミリ砲と搭載したイギリス製センチュリオン戦車を購入し、さらにシャーマン戦車まで主砲をフランス製105ミリに換装するという魔改造を施していた。

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イスラエル軍のM51「スーパーシャーマン」。長過ぎる砲身を少し切り詰めて代わりに大型のマズルブレーキを追加、バランスを取るために砲塔も後ろに延長している。なんというか、無茶苦茶な感じだが意外にも有効だった。こいつも25分の1のキットはなかったはず。

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一方、アラブ連合軍代表として、イスラエル軍に鹵獲されて博物館で展示されているシリア軍の4号戦車。隣には3号突撃砲もちょっと見えているが、SU-100ならまだしも、さすがにこれじゃ相手にならなかった。

緒戦に大敗したアラブ連合は不利な停戦を受け入れるしかなく、第三次中東戦争はたった6日間(うち、本格的な戦闘が行われたのは4日間)で終わったが、この6日間でイスラエルは国土が4倍に広がった。
一方、エジプト軍は装甲戦力の3分の2を失いSU-100だけでも開戦時に保有していた約半数の51輌が撃破されている(さらに3輌がイスラエル軍に鹵獲された)。つまり、エジプト軍は第2次大戦でソビエトが失った全SU-100の4倍の数を4日間の戦闘で失ったのだ。
すでにSU-100が時代遅れであることは明らかだった。

1973年10月、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に併せ、第三次中東戦争の失地回復を狙ったアラブ連合軍の奇襲攻撃が開始され第四次中東戦争が勃発した。緒戦でエジプト軍はソビエトから供与された大量の対空ミサイルでイスラエル空軍の襲撃を封じ、戦いはアラブ側有利に進んだ。SU-100も攻撃に参加したものの、戦場の主役はT-55戦車とM48「パットン」戦車が殴り合う次の世代へと進んでおり、戦闘に参加したSU-100はほぼ何の活躍もしないままにイスラエル軍の反撃が始まると後退に伴い遺棄された。
第四次中東戦争の終結後、残余のエジプト軍SU-100は全車が予備になったと思われる。

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と、いうわけでやっと登場した、WAKがリリースしたSU-100。
まるでどこかの博物館の収蔵車両のようだが、れっきとした公式ページの完成見本写真だ。デザインは素晴らしい高クオリティで地味な車両をキット化することには定評のあるM. Rafalski氏。
塗装は第四次中東戦争時のエジプト軍装備車両。なんだってSU-100が一番パッとしなかった戦争の時を選ぶんだ。

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正面のクローズアップ。防盾の継ぎ目がなければカードモデルと気がつかない仕上がりだが、これじゃどこまでがキットのままなんだかわかりゃしない。
ちなみに車体向かって左側にある大型雑具箱は戦後型の特徴。

中東諸国のいくつかはエジプトと同様にSU-100をソビエトから購入している。例えば少なくともイラクは250輌、シリアは80輌のSU-100をソビエトから購入している(あるいは無償供与されたのかもしれない。中東諸国は損失を補うために互いに車両を融通しあっており、このことが各国が保有したSU-100の数を見極めることを難しくしている)。両国軍とも第四次中東戦争にSU-100を投入しているが、結果は悲惨なものだった。特にシリア軍は1973年10月6日から始まった「涙の谷」の戦いでわずか96時間で260輌の装甲車両を損失、これは全シリア軍装甲戦力の4分の1に当たる数であった。

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「涙の谷」前面の対戦車壕で壊滅したシリア軍戦車部隊。戦車はT-62とT-55。

なおイラク軍は1980年のイラン・イラク戦争にもSU-100を投入している。また、第一次・第二次湾岸戦争時にもまだSU-100を保有しているが多国籍軍がSU-100と戦闘を行った記録はない(2003年にアメリカ軍は遺棄された2輌SU-100を発見しているらしい)。
いくらなんでも21世紀になってSU-100でもないだろう、と思ったら、イエメンでは2002年の時点で30輌のSU-100を保有しており、これらは現在も続く内戦で使用されている(2015年に撮影された写真がある)。しかし、サウジアラビア軍の空爆により現在は壊滅しているようだ。

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展開図と組み立て説明書のサンプル。テクスチャは軽い汚しが入っており、このまま(塗らずに)組み立ててもなかなかの雰囲気が楽しめそうだ。組み立て説明書はライン表現。しかし、どうしようもないとはいえ、この防盾の展開図は……あと、履帯もすごいことになってそう。

第2次大戦の車両のイメージがあるが、実は戦後の方が出番の多かったソビエト自走砲 SU-100、WAKのキットは25分の1の陸モノ標準スケールでのリリース(完成全長約38センチ)。難易度は5段階評価の「4」(難しい)って、本気ですか。そして価格は45ポーランドズロチ(約1500円)となっている。
今回のキットはエジプト陸軍ファンのモデラーにとっては、正に待ちかねていた一品と言えるだろう。
なお、WAKは去年SU-85もリリースしている(正確にはSU-100の車体に85ミリ砲を積んだ「SU-85M」)。

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こちらも定価は45ズロチ。ソビエト軍装甲車両ファンのモデラーなら、両者を作り比べて違いを確認するのもいいだろう。



キットの写真はWAK社ショップサイトからの引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2016/07/03/su-100-tank-destroyer-post-wwii-use-in-the-middle-east/
小火器から艦船まで、第2次大戦中に生産され、戦後に使用された装備品についてのサイト「wwiiafterwwii」内のエントリ。2015年に撮影されたイエメンのSU-100など貴重な写真が多い。このエントリ以外にも戦後フランス領インドシナ軍が使用していたフロート付きの一式戦闘機「隼」など興味深い情報が多数紹介されている必見のサイト。

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WAK ソビエト自走砲 SU-100(前)

やっと洗濯機の排水ホースからの水漏れを止めたと思ったら、洗濯機動かした時に引っ張ったせいで新たに給水ホースから水漏れしてることに気づいた筆者がお送りする世界のカードモデル最新情報。ようするに水回りがもう寿命なんだな、あれは。
今回紹介するのはポーランドWAK社からの新製品、ソビエト自走砲 SU-100 だ。

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あれー、なんかソ連戦車にしてはやたら黄色くない? 背景もなんだか黄色くない? みたいな疑問は置いておいて、まずはSu-100の説明から。
戦車に関しては傑作戦車T-34を開発し、世界をリードしていたソビエト軍だったが、砲兵の自走化に関してはドイツ軍に対して遅れをとっていた。これは戦車を管理している「機甲総局」と火砲を管理している「砲兵総局」が別々に自走砲(機甲総局が開発していたのは「砲兵戦車」)を開発していたからで、それぞれが勝手に自走砲を開発するもんだから「うちの自走砲開発を優先するんであんたのところの砲兵戦車とやらには火砲を回せない」「じゃあ、お前んとこの自走砲にはうちの戦車のシャーシは回さない」という調子でさっぱり開発が進まなかった。
戦争初期はソビエト軍が防戦一方で火砲が機械化部隊に随伴していく必要がなかったため、両開発局の対立は放置されていたが、1942年の夏以降ソビエト軍が各所で反撃に転じるようになると牽引砲はあっという間に機械化部隊の前進に取り残されてしまうようになり、お前らバカやってないで早く火砲を自走化しろコンチクショーという声が前線から続々と届けられるようになった。
そんなわけで1943年春、赤軍自走砲開発局は砲兵総局から機甲総局へと移管となり、やっとこ自走砲開発の足並みが揃うこととなる。

そんなこんなでソビエト軍はT-34の車体を上方へ延長した戦闘室に直接122ミリ榴弾砲を搭載する「Su-122(キリル文字では”СУ-122”)」を開発する。
122ミリのパンチ力は大きく、ドイツ軍陣地をドッカンドッカン吹き飛ばす分には問題がなかったが、しばらくすると「Su-122で敵戦車と射ち合うと負ける」という苦情が戦線から届き始めた。
そりゃそうだ、Su-122は装甲されてるとは言っても敵陣地を破壊するための短砲身短射程の榴弾砲を積んだ自走砲で、敵戦車の装甲を撃ち抜くような貫通力も敵戦車の砲弾を跳ね返す正面装甲も持っちゃいない(一応、徹甲弾は準備されていた)。戦車には戦車で対抗してや、と鷹揚にかまえていたソビエト軍だったが、ドイツ軍がタイガー重戦車を投入したことで状況は一変する。
この重装甲の怪物は当時ソビエト軍戦車の主砲となっていた76.2ミリ砲(500メートルでの貫徹力約70ミリ)をえんどう豆のように弾き返した。小林源文先生がそう言うんだから間違いない。いや、あれはエレファント重駆逐戦車の話だったか。まぁいいや、とにかく76.2ミリ砲で歯が立たないタイガー重戦車を倒すため、ソビエト軍はより高初速、高破壊力の85ミリ高射砲を一刻も早く戦車へ搭載することを決定する。
KV-1重戦車の換装はそれほど問題なかった。ちょっと車体を改造しただけで当時開発中の次世代重戦車、JS-1の砲塔を載せることができ、KV砲塔よりも余裕のあるJS砲塔に85ミリ砲を積むことに大きな問題はなかった。
しかし、T-34はそうはいかなかった。さすがに中戦車に重戦車の砲塔を積むわけにはいかず、それまでのT-34の砲塔は85ミリ砲を積むには小さすぎる。T-34には85ミリ砲を搭載できる新砲塔の開発が必要であった。
そこで、T-34新型砲塔の完成までつなぎの対戦車戦力として、Su-122が改造されることとなる。
Su-122なら、もともと76.2ミリ砲より大きい122ミリ砲を積んでいるのだから85ミリ砲を積むのに問題はない。ドイツ軍だって最初は対陣地用支援車両であった三号突撃砲に長砲身対戦車砲を積んで駆逐戦車化してる。
こうして開発されたのが「Su-85」で、クルスク戦の後、ドニエプル渡河作戦のころから戦場に登場し、大型の新型砲塔を積んだT-34、「T-34/85」が登場する1944年までのつなぎの役目を果たした。

さて、T-34/85が登場すると当然ながらSu-85の存在意義は薄れた。同じ火砲積んでるんだったら、T-34の方が砲塔を回して戦えるんだから、車体回さなきゃいけないSu-85よりも使いやすいに決まってる。あと、この点は忘れられがちだが、車体を地形の起伏に隠して砲塔だけを出せるT-34に対して、車体の上半分を曝露しなければいけないSu-85は待ち伏せでも不利だった。
だったら、Su-85はさらに次世代の戦車の主砲を積めばいいんじゃね? というわかりやすい発想で1944年夏、T-34のシャーシに100ミリ砲を搭載したSu-100が登場する。
艦砲から開発された100ミリ砲の貫徹力は500メートルで190ミリ。これは85ミリ砲の500メートル120ミリよりもかなり強力で、当たりどころが良ければ2キロ以上離れていてもタイガー戦車の車体正面装甲を撃ち抜くことができた(85ミリ砲では1キロ前後まで近づかなければならない)。
同砲の改良型は戦後の主力戦車T-54/55の主砲として採用され、細い砲弾をカートリッジに入れて発射するAPFSDS(Armor-Piercing Fin-Stabilized Discarding Sabot)や砲身内から発射する対戦車ミサイルの開発でさらに破壊力を増している。9M117”バスティオン(Бастион)”ミサイルに至っては4キロ先で60センチの装甲をブチ抜くって、一体なにと戦うつもりなんだ。
ただし、これだけ大きな火砲を搭載するのはさすがに無理があり、車体の重心が前よりとなってしまったために第1転輪のサスペンション用コイルスプリングは一回り太いものに換装されている。また、長すぎる砲身は気をつけないと起伏を越えた際に地面に砲口を叩きつけて破損させてしまう恐れがあった。

タイガー戦車を串刺しにできるSu-100は強力だったが、いささかその登場は遅すぎた。
Su-100がまとまった数で投入された最初の戦いは1945年3月のハンガリー方面バラトン湖の戦い(「春の目覚め」作戦)で、戦うはずだったドイツ戦車軍団はすでに壊滅状態。「春の目覚め」作戦主力であったはずの第6SS戦車軍司令官、ゼップ・ディートリヒは「吾輩の部隊がなぜ第6戦車軍というのか教えてやろう。戦車が6両しかないからだ」と不貞腐れる始末だった(ただし、この発言は原典がはっきりしない)。
当然、この状態ではSu-100が一人戦車戦をするわけにもいかず、主に支援砲撃に使われたSu-100の戦時中の戦闘による損失は十数輌程度だったといわれる。

と、いうわけで戦時中だけで千輌以上作られたSu-100は特に活躍せずに第2次大戦はおしまい! 使えるんだか使えないんだかよくわからないままSu-100の話もおしまい! めだたしめでたし。
とはいかなかった。第2次大戦は終わったが、Su-100の戦いは始まったばかりだったのだ。
戦後、大量に余ったSu-100はT-34/85と一緒に中東へと売却されていき、そこで壮絶な戦いを体験することとなる。

(後編に続く)




表紙画像はWAK社ショップサイトからの引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/SU-122
https://en.wikipedia.org/wiki/SU-85
https://en.wikipedia.org/wiki/SU-100
それぞれのロシア語版、日本語版も参考とした。

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本日、本業多忙と洗濯機の排水ホースの取り付け方を間違えてて床が水浸しになったため更新休止させていただきます。
なお本業の方が納期に向けての追込期間に入り、休みがあったりなかったりするためにしばらくの間更新頻度が落ちる見込みです。予めご了承ください。
来週更新時間が取れた場合にはポーランドWAK社の新製品、ソビエト自走砲 SU-100 を紹介する予定です。

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