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SZK ポーランド 装甲車 "KRESOWIEC"・中編

晩に食ったこくまろバターチキンカレーがうまかった、という死ぬほどどうでもいい情報しか書くことが思いつかなかった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。今回紹介するのはポーランドのブランドSZKからの新製品、ポーランド 装甲車 "KRESOWIEC"だ。

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相変わらず、どうみてもわけわかんない形しているが、前回まるまる一回、本題と全然関係ないタルノブジェク共和国に費やした上に、今回もまた、こいつのところまで話が進まないのであった。

なんとなく建国してなんとなく消滅したタルノブジェク共和国とは別に、ガリツィアのウクライナ人たちは1918年10月18日(つまり、第一次大戦の停戦前)、オーストリア=ハンガリー帝国の役人を捕縛して独自の国家、「西ウクライナ人民共和国」(現在のウクライナの前身に当たる「ウクライナ人民共和国」とは別の国)の建国を宣言する。
なんで、ウクライナの一部じゃなくて、別のウクライナ人国家として独立を宣言してしまったのか、資料を読んでもよくわからなかったのだが、どうも本家ウクライナの方はポーランドと「反ロシア同盟」を組みたかったけど、ガリツィアはポーランドも領有を主張することが予想されていたので西ウクライナはポーランドとは敵対することになる事情が背景にあったようだ。

あっちのウクライナはポーランドと仲良くしたくって、こっちのウクライナはポーランドと敵対してて、もう、なにがなんだかわからない混乱っぷりなのだが、まじめに経緯を追っかけようとすると、ウクライナとか、西ウクライナとか、ロシア白衛軍とか、ソビエト赤軍とか、ポーランドとか、どさくさにまぎれて蜂起したアナーキスト勢力(タルノブジェク共和国みたいな連中だ)とかが、そりゃもうぐっちゃぐちゃに入り乱れて全然理解できないので、まぁ、そういうもんなのか、と納得していただくしかない。

結局の所、18世紀末から19世紀初頭の、「いままで色々あったけど、今日から国境線で囲った内側のお前ら全員、我が国の国民な」と宣言される国民国家成立、という大事なイベントをロシア帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の一部としてすっ飛ばした人々に対し、なんの覚悟も、なんの定義もされないままに「民族自決の原則」とか言われたって、そりゃ混乱するに決まってる。
とは言え、今晩あたり、ウッドロー・ウィルソンが枕元に立って、ちょっとキレ気味に「じゃあどうすれば良かったんだよ」って言われても、「すみません、ちょっとわかりません」としか言いようがないので、困ってしまうのである。

さて、てっきり、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したら、ガリツィアはロシア帝国から独立する予定のポーランド共和国に統合されるもんだとばっかり思っていたポーランド人住民は「いや、おれたちウクライナ人になるつもりないんですけど」と、これに反発、直ちに抵抗組織が編成される。

西ウクライナ人民共和国独立時、オーストリア=ハンガリー帝国がガリツィアに配置していたウクライナ人部隊「ウクライナ・シーチ銃兵隊(Українські Січові Стрільці)」がそのまま西ウクライナ軍になったので、西ウクライナはそこそこ装備が行き届いた約1200人の兵力を擁していた。

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Wikipediaからの引用で、真ん中が西ウクライナ軍司令官、ミハイル・ヴォローシン(Михайло Волошин)、のはずなのだが、なぜか同じ写真の同じ人物が同じく西ウクライナ軍将校だったディミトリー・ヴィトフスキー(Дми́трий Вито́вский)とされていることもあり、どっちが正しいのかわからない。軍装はオーストリア=ハンガリー帝国のものだろうか。
なお、左側はイワン・ボベルスキー(Іва́н Бобе́рський)、右側はロンヒン・ツェヘルスキー(Лонги́н Цеге́льський)。ボベルスキーとツェヘルスキーは宣伝や外交を担当しており、いわゆる「将軍」ではない。

ガリツィア最大の都市であり、西ウクライナ人民共和国首都であるリヴィウで当初立ち上がったポーランド系住民は高校生を主力とした約200人。武器は旧式ライフル64丁。数の上でも質の上でもポーランド側は圧倒的に不利だったが、彼らは学校を拠点に西ウクライナ軍との戦いを開始する。
ポーランド側には志願兵が相次ぎ、すぐに兵力は数千まで膨れ上がった。よそから来たウクライナ人に対して、ガリツィア住民からなるポーランド軍は奇襲や待ち伏せのゲリラ戦で有利で、ポーランド軍は西ウクライナ軍を各所で撃退、リヴィウ市街地を確保する。
西ウクライナ軍はガリツィア各地から兵力をリヴィウへ送り込もうとするも、ポーランド軍はゲリラ戦でこれを阻止。さらにポーランド軍は西ウクライナ軍の補給列車を奇襲し、軍需品を賄った。

1918年11月11日、第一次大戦が停戦となり、ポーランド共和国(第二共和国)が建国されると、ポーランドはただちにガリツィアに正規軍を送る。
ポーランド軍到着前にリヴィウを奪還したい西ウクライナ軍は激しい攻撃をポーランド軍守備隊に加えたが、ポーランド軍守備隊はこれを撃退、21日、ついにポーランド正規軍1200人が西ウクライナ軍の包囲を破ってリヴィウ守備隊と合流、リヴィウを確保する。
この後も西ウクライナ軍はリヴィウへの攻撃を続け、この戦いは1919年5月まで続く。
このころには、なぜか西ウクライナ軍はオーストリア=ハンガリー帝国の復活を企んでいる、という勝手な動機づけがされてしまっていて、そうはさせじとハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキアなどの各国がポーランド側で参戦。
1919年7月にはポーランド軍がガリツィア全域を確保し、西ウクライナ軍はウクライナへ脱出。西ウクライナ人民共和国は消滅した。
この、ガリツィアをめぐるポーランドと西ウクライナの戦いは「ウクライナ・ポーランド戦争」と呼ばれている。

リヴィウの戦いは双方が市街への損害を出したがらなかったため、病院、水道施設、発電所などの重要施設は中立非武装とする協定が双方で結ばれていたという。
なにかと理由をつけて、頻繁に一時休戦が行われ、互いの兵士が一緒に食事をしたりサッカーを楽しんだりしていたそうである。
Bolesław Szwarcenberg-Czerny中尉(当時)の回想によると、ある日、ウクライナ軍の士官が一時休戦を結ぶためにポーランド軍司令部へやってきた。無事、一時休戦となったので、良かった良かった、と酒盛りをしたら、翌朝寝過ごしてしまい、寝ている間に休戦が終わってしまっていた。これでは自軍へ戻れないので、すぐにもう一度休戦を結んだそうである(なお、Szwarcenberg-Czerny中尉はのちに大佐まで昇進し、カティンの森で処刑された)。
他にも、民間人が通るんで対峙していた両軍が一時射撃を止めたとか、夜になって焚き火をしていたら敵の兵士も火に当たりに来た、みたいな冗談みたいな話も残っているそうだ。

このリヴィウの戦いで市街を守り通した勇敢な守備隊は、Orlęta lwowskie(リヴィウの鷲)と呼ばれた。
14歳で戦死したJerzy Bitschanを含む守備隊の死者は現在、リヴィウ守備隊墓地に葬られている。

Orleta_Eaglets_defending_the_Łyczaków_Cemetery_during_the_Siege_of_Lwów

Wikipediaからの引用で、ヴォイチェフ・コサック(Wojciech Kossak)画、「Orlęta lwowskie」1926年。
ヴォイチェフ・コサックは戦間期ポーランドを代表する画家だった。1939年にドイツ軍がポーランドを占領したあともポーランドに留まったが、ドイツ軍将校が「ポーランド総督、ハンス・フランクの肖像画を描いてほしい」とアトリエに訪ねてきた時に、「わしはもう老齢で、絵はやめましたのじゃ」(80歳を過ぎていた)と、どうみても完成間近や完成直後の絵が大量に置いてあるアトリエでのうのうと言ってのけてドイツ軍将校を追い返したという武勇伝の持ち主。多作で知られる彼は文字通り死ぬまで絵を書き続け、亡くなった1942年7月29日の朝にも、家人にパレットに絵の具を出すように言っていたという。
(後編へ続く)

表紙画像はSZK公式ページから引用


参考ページは後編にまとめて掲載予定。


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SZK ポーランド 装甲車 "KRESOWIEC"・前編

なんだかんだで無事連休に入った筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。でも、一回休日出勤するとなかなか調子が戻ってこないのは歳のせいなのか。
それはそれとして、今回紹介するのはポーランドのブランドSZKからの新製品、ポーランド 装甲車 "KRESOWIEC"だ。

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………………なにこれ?

これは、あのー、あれですか。フィールドキッチンですか。へー、ポーランド軍てフィールドキッチンを装甲して機銃も積んでたんですか。へー。

この何がなんだかわからないもの、実は装甲車である。
筆者が4週間も費やして「カードモデルで辿るポーランド軍戦前装甲車史」なんて企画をやった事に対する、ポーランドメーカーからの返答ということだろうか。

この車両、写真が存在するので実在したことは間違いないのだが、細かいことはほとんどわかっていない。
例えば、大抵の資料には「Wilhelm Aleksander Lutzke - Birk」という人物が制作を主導した、とはっきり書いてあるのだが、この人物、どうも、リヴィウ防衛の責任者だったようなのに、どういうわけかこの車両の記事にしか名前が出てこない。
ちなみに技術サポートを行ったとされるリヴィウ工科大学(現ウクライナ領)のエンジニア、Witold Aulich はWikipediaにも記事がある実在の人物。

で、この車両、一言で説明すると、「ウクライナ・ポーランド戦争でリヴィウ守備隊が作った応急装甲車」なのだが、まず「ウクライナ・ポーランド戦争」ってなんなのよ、「ソビエト・ポーランド戦争」とは違うのか、ってところから。

現在、ウクライナ領となっているガリツィア地方(ウクライナ名「ハルィチナー」)は11世紀にはハールィチ公国という一つの国だったのだが、その後、国境がいったり来たりしているうちにポーランド人とウクライナ人が入り混じって住むようになっていた。
18世紀にはポーランド・リトアニア共和国に領有されていたが、略してポリ共はこの時代にはすっかり弱体化しており、1772年の第一次ポーランド分割で国土と人口の3分の1を失う。
ガリツィアも分割の対象となり、ポーランド人とウクライナ人が住むこの地はオーストリア=ハンガリー帝国の領有となった。厳密には、ガリツィアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部である「ガリツィア・ロドメリア王国」という、なんかオレが転生してチートで無双する感じのファンタジーな名前の国になったのだが、しかし、この国の君主はオーストリア帝国皇帝なので、まぁ、別に覚えておかなくても構わない。ちなみにガリツィア・ロドメリア王国の正式名称は「ガリツィア・ロドメリア王国およびクラカウ大公国・アウシュヴィッツ公国・ザトル公国」という、なんかもうヤケクソ気味な名前だった。

1918年、第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ガリツィア西部の町、タルノブジェクに住むTomasz Dąbalという共産主義活動家と、ローマカトリックの司祭Eugeniusz Okońが、「王国とか帝国とかもう古い! これからは共和国!」と意気投合して、1918年11月6日タルノブジェク共和国の建国を宣言する。
まさかの共産主義とローマカトリックのタッグ! これは世界最強やで! と思ったけど、もちろんそんなことはなくって、1919年になると新設されたポーランド軍が進駐してきてタルノブジェク共和国はなかったことになった。

なお、このTomasz Dąbalという人物、タルノブジェク共和国を建国する前はポーランド下院議員だった。下院議員が勝手に町を独立させちゃいかんだろう、と思うのだが、そもそもロシア帝国崩壊前に「ポーランド議会」って存在したの? と思ったら、ポーランドは決してロシア帝国に吸収合併されて消滅したわけではなく、あくまでも「ポーランド立憲王国」っていう国があって、その国の王様をロシア皇帝が兼任してるよ、という前提だった(と、いうことが1815年、「ウィーン会議」で決まった)。立憲王国なんで、ポーランドにはロシア帝国属領時代にもちゃんと上院と下院からなる議会があったのだが、まぁ、おおかたの予想通りこんなものは完全なお飾りで、なんの実権もなかった。

ついでに付記しておくと、Tomasz Dąbalはタルノブジェク共和国崩壊後、そのまま議員に戻っている。どうやら議員の不逮捕特権があるかららしいのだが、さすがにそれはどうなのよ、というわけで1921年に議員資格が剥奪され反国家煽動罪で逮捕、6年の懲役となった。意外と軽いな。
その後、彼はポーランド人政治犯との交換でソビエトに引き渡され、ベラルーシ共産党の中心的人物となる。この辺の、「ソビエトに共産主義者あげるから、非共産主義者を返して」っていう感じは、ちょっと現代日本人の感覚ではピンとこない。そんな「カタンの開拓者たち」の資源カードみたいなノリでほいほい国民を交換しちゃっていいんだろうか。
とにかく、ソビエトで頑張っていたTomasz Dąbalだが、1937年、大粛清のさなかに逮捕され、「ソビエトを転覆するためのポーランド人反革命部隊」を組織したと「自白」して処刑された(1956年に名誉回復されている)。

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Wikipediaからの引用で、Tomasz Dąbal。1937年、NKVD(内務人民委員部)が逮捕後に撮影した写真。

一緒にタルノブジェク共和国を夢見た相棒の司祭のEugeniusz Okońも逮捕されたが、その後(服役したのか、釈放されたのかは資料からではわからない)は教会からも破門されているにも関わらず、法衣を脱がずに勝手に説法を行い、4度も裁判所に引っ張り出されている。どういう理屈かわからないが、裁判は全て無罪になり、最後に修道院にちょっと入って「反省してまーす」と反省文を書いたら聖職に復帰した、というので、もう、なにがなんだかわからない。
1939年、第二次大戦が始まりポーランドが占領されると、Eugeniusz Okońはいわゆるポーランド国内軍の従軍牧師として戦い、ドイツ軍からも指名手配されていたという。大戦を生き抜いた彼は戦後、教区司祭となり、1949年に死去した。

Eugeniusz_Okoń

これもWikipediaからの引用で、Eugeniusz Okoń。1928年撮影。ポーランド公文書館所蔵の写真で、撮影の背景などは不明。
Eugeniusz Okońは、なんというか、今で言う「ポピュリズム」的な人物だったようで、タルノブジェク共和国建国前、民衆の支持を集めるためにとある町で「我々なら、この町に立派な鉄の橋をかけることだってできるだろう!」とぶちあげたものの、民衆から困惑気味に「でも、この町に川はありませんが?」と尋ねられ、平然と「川を見つけることだってできるだろう!」と続けたという逸話が残っているが、さすがにこれは少々誇張されたもののようだ。

調べてる最中におもしろくなっていろいろ書いてしまったが、よく考えたらこのタルノブジェク共和国の話、まるまるキットと全く関係なかった。
(中編へ続く)

表紙画像はSZK公式ページから引用


参考ページは後編にまとめて掲載予定。

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引き続き本業多忙のため、本日更新を休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。
来週には通常化できるかと……

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DrafModel ドイツ帝国 潜水艦 UB-16・後編

またぞろ本業の方が追い込みで、また来週あたりから休日出勤になったりならなかったりしそうな筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。今回もポーランドDrafModelの新製品、ドイツ帝国 潜水艦 UB-16の続き。

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「目」のペイントについてもう少し。

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Wikipediaからの引用で、UB-I 型潜水艦 UB-4。船体に「目」だけではなく、「蛇」が描かれているのがわかる。前回の写真でUB-2とUB-16には「目」しか描かれていないように見えたが、船体が真っ白に写っているので露出オーバーで白っぽい色の蛇のペイントはとんでしまっただけかもしれない。
なお、UB-4は1915年8月15日、釣り船に3ポンド砲(資料によっては6ポンド砲)1門を積んだ仮装商船、いわゆるQシップHM Armed Smack Inverlyon (排水量59トン)をただの釣り船だと思って接近したところ、砲撃され沈没した。

さて、いよいよ今回キット化されたUB-16の戦歴について。
1915年にAG ヴェーザーで建造され就航したUB-16は2月に各セクションが完成し、8両の貨車に積まれてベルギーへ運ばれた。アントワープで組み建てられたUB-16は4月26日に組み立てが完了、テストを受け5月12日に就航する。

小さすぎていろいろと問題のあったUB-I 型潜水艦だったが、UB-16は就航直後からイギリス近海で積極的にイギリス船を襲い、6月には小型漁船3隻(各60トン前後)、貨物船1隻(Leuctra、約3千トン)、汽船1隻(Tunisiana 、約4千トン)を沈めた。これらの合計、7432トンはフランダース艦隊全体の6月の戦果中、約半分に達している。
なお、これらの攻撃で沈んだ船に犠牲者は1名もいなかったそうだ(漁船は乗員を避難させたあとで自沈、汽船と貨物船は魚雷で沈めているが、無警告では被害者ゼロというのは難しいと思うので警告後に空になった船を撃沈したのだろう)。
さらにUB-16は7月に2隻、9月に3隻を沈めているが、このタイミングでルシタニア号撃沈で国際世論が激ヤバになったのでしばらく潜水艦の行動は制限されることとなった(1915年9月18日に無制限潜水艦作戦は中止となった)。

しかし、海上封鎖によりドイツの生活物資は不足するようになり、世界大戦はイギリスとの根比べの様相を示し始めた。
1916年からフランダース艦隊は行動を再開し、UB-16は1月に3隻、3月に2隻、4月に3隻を沈めている。
(これ以外に4月3日に中立国オランダの帆船をうっかり攻撃してしまい、破損させている)

この後、ドイツ帝国潜水艦隊はイギリス海軍の戦力を削るための対艦隊戦に投入されたが、低性能なUB-I 型潜水艦にそんな大それたことができるはずもなく、UB-16はこの時期に戦果は上げていない。
結局、対艦隊戦ではUB-I 型潜水艦は役に立たないことがわかり、UB-16は再度商船攻撃に戻る。
1916年8月にUB-16は2隻のノルウェー汽船を撃沈。ノルウェーは第一次大戦では中立国だったが、イギリス向け物資を積んでいたので撃沈されたようだ。

1916年から1917年にかけての冬には、いよいよドイツ帝国における銃後の生活は困窮し、いわゆる「カブラの冬」を体験。ドイツ帝国は英国を早期に講和のテーブルにつかせるため、無制限潜水艦作戦を再開した。
4月、UB-16はオランダの小型船舶1隻を撃沈、8月にはついにイギリス海軍R級駆逐艦 HMSリクルート(約千トン)を撃沈する。
ちなみに英海軍はR級駆逐艦 HMSリクルートの前に、C級駆逐艦 HMSリクルートという艦を保有していたが、この先代リクルートが1915年5月1日に撃沈されたので1916年12月に新リクルートが就航、一年ももたずに撃沈されてしまったことになる。なお、先代のC級駆逐艦 HMSリクルートを撃沈したのはUB-16と同型艦のUB-6だった。

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直接は関係ないけど、これもWikipediaからの引用で1917年3月、再開された無制限潜水艦作戦に出撃したものの、針路を誤りオランダ領海に入り込んで座礁、鹵獲されたUB-6。ヘレヴートスライスの港で撮影。UB-6は写真左側に写っているが、その背後の船(船名不明)の横っ腹にでっかく「NEDERLAND」と描かれているのが面白い。第一次大戦でオランダは中立国だったので、誤って攻撃されるのを避けるためだろう。

この後、UB-16の戦果は一旦途絶えるが、小型で扱いにくいUB-I 型潜水艦はこの時期、魚雷発射管を撤去し機雷敷設艦に改装されており、UB-16も同様の改装を受けたものと推測される。
なお、1918年3月に1隻、4月にもう1隻の撃沈が記録されているが、魚雷発射艦を撤去したUB-16がどうやって敵船を撃沈したのかよくわからない。資料には「沈没」としか書かれていないので、乗り移ったUB-16乗員が英国人船員を退避させた後で自沈させたのかもしれない(3月13日に撃沈されたLisette(約9百トン)は「魚雷により撃沈」と書かれている資料もあるが、このタイミングでUB-16が改装前だったというのは考えにくい)。

1918年5月6日、UB-16は哨戒のためにゼーブルッヘを出港した。
5月10日18時50分、UB-16はイギリス海軍E級潜水艦HMS E34に発見された。
E34は潜航し、距離約350メートルで魚雷2発を発射、1発はUB-16の艦首に命中したが不発、もう1発が船体中央に命中して爆発し、UB-16は撃沈された。UB-16の乗員、16人のうち、E34に収容された生存者は艦長のVicco von der Lüheだけだった。

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残念ながら完成見本はないので、公式サイトからの引用で展開図、組み立て説明図を見てみよう。
テクスチャは汚しのないあっさりしたタッチ。もちろん、艦首にはガッツリ見開いた迫力のある「目」のペイント。ちくしょう。まるで「ねじ式」の眼医者の看板みたいではないか。

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潜水艦なので本体はあっさりとした構造だが、艦橋の細かいディティールはなかなか手強そうだ。8ミリ機銃は甲板と艦橋に2丁描かれているが、資料では定数は1丁となっており、このように2丁積んでいることもあったのかはわからない。
こんな細かい機関銃を2丁も組むのはやってられん、と言うモデラーは、公式オプションパーツを購入してもいいだろう。

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レジン製UB-16用8ミリ機銃2丁セット。お値段は16ポーランドズロチ(約500円)とお手頃価格。

DrafModelからリリースされたドイツ帝国 潜水艦 UB-16は小艦艇スケール100分の1でのリリース。小型なので完成全長も約28センチしかなく、展示スペースに苦労しているモデラーにもおすすめだ。難易度は書いてないからわかんない。そして、定価は20ズロチ(約700円)となっている。これぐらいのお値段なら、20冊購入してUB-I 型コンプを目指すのもいいだろうかと思ったけど、よく考えたらこのキットはAG ヴェーザー建造型だから、ゲルマニア造船所型8隻は組み立てられないや。
第一次大戦潜水艦ファンのモデラーなら、このキットは見逃すことのできない一品だろう。

最後に、第一次大戦の凄惨さを表すエピソードを付記しておこう。
UB-16を撃沈したE34はUB-16撃沈の二ヶ月後、1918年7月20日に機雷に触れ沈没。乗員31名に生存者はいなかった。その4ヶ月後、1918年11月11日に第一次大戦は休戦する。
Vicco von der Lühe艦長はUB-16唯一の生存者だったが、ドイツに帰国することは叶わず、1919年3月1日に英軍捕虜収容所で死亡した。死因は「インフルエンザ」としか記載されていないが、おそらくスペイン風邪だろう。


キット画像はDrafModel公式ショップページから引用

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。


参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/German_Type_UB_I_submarine
https://ja.wikipedia.org/wiki/UボートUB型
UB-I 型潜水艦の記事が独立しているのは英語版のみ。日本語版、ドイツ語版はUB-I 型よりも大型のUB-II型、UB-III型とまとめた記事になっている。

https://en.wikipedia.org/wiki/SM_UB-16
UB-16の記事はなぜか英語版しか存在しないので、英語版を参考とした

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