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JSC イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"・2

結局のところ、綿アメなんてものは穴開けた容器に溶けたザラメを入れてブン回せばできるんじゃろ? と思いたち電動消しゴム(リューターみたいなやつ)と空き缶で綿アメ製造機を自作したものの、ザラメ入れてコンロで炙って回転させたら糸状ベッコウ飴が量産されてションボリしている筆者のお送りする世界のカードモデル情報。前回に続き、ポーランドJSC社からリリースされた、イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"の2隻セットの紹介。

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説明するの忘れてたけど、表紙絵で奥にいるのがアンドレア・ドーリアで、手前の舳先がストックホルム。

前回は1953年1月23日、イタリア・ラインの新型客船アンドレア・ドーリアは処女航海を終えてニューヨークへ寄港したところまで。
この豪華な客船は就航すると、たちまち激戦区大西洋航路でも人気の客船となった。東廻りも西廻りも乗客は毎回満員で、1956年までにアンドレア・ドーリアは100回大西洋を横断していた。
なお、イタリア・ラインは1953年にほぼ同型のSS クリストフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンブスのイタリア名)を就航させているが、C・コロンボの方がちょっとだけ大きかったので「イタリア最大」の座は譲ることとなった。

1956年7月17日、アンドレア・ドーリアは51回目の西廻り大西洋横断の旅へ母港ジェノアを出発する。予定では航海は9日間。
大西洋に出る前に、A・ドーリアはイタリア・ラインが客船ターミナルを持つナポリ、カンヌ、ジブラルタルに寄港し乗客を拾った。
ジブラルタルを出港したときの乗客数はほぼ満員の1134人(1等190人、2等267人、3等677人)。これに乗員572人(定員より9人多いが理由は不明)が加わり総計1706人が乗船していた。

船長はピエトロ・カラマイ(Piero Calamai)。1897年生まれで第一次大戦では士官として駆逐艦に勤務。一次大戦後に一旦は海軍を辞するも第二次大戦前に復帰し、タラント港を英軍雷撃隊が襲撃した際には魚雷1発を受け大浸水した戦艦カイオ・ドゥイリオ艦内で人命救助に尽力したというベテラン。

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Wikipediaからの引用でピエトロ・カラマイ。1956年撮影なのでアンドレア・ドーリア船長時代の写真。
カラマイは両大戦間にも大西洋航路の客船に乗り組んでおり、1932年には士官として乗り組んでいた”Conte Grande”(戦後にアメリカからイタリア・ラインに返還された4隻のうちの1隻)から乗客が海へ転落した際に、大西洋のど真ん中であるにも関わらず救助のために躊躇せず海へ飛び込んだ勇気を讃えValor civile章(「勇敢民間人章」)2級を受勲している。
世界大戦後に二回とも軍を退役して客船船員に転身しているところを見ると、もともと海軍よりも客船船員が志望だったのかもしれない。

アンドレア・ドーリアが出港した1週間後、7月25日正午少し前にスウェーデンの客船「MS ストックホルム」がニューヨーク港から103回目の東廻り大西洋横断の旅に出発した。
この船を所有するのはスウェーデンの「スウェーデン=アメリカ・ライン(Svenska Amerika Linien)」。1914年に設立された会社で、まぁ大方の予想通りにスウェーデンとアメリカを結ぶ大西洋航路の定期便を運営する旅客会社である。東京都八王子市と群馬県高崎市を結ぶから「八高線」みたいなもんだ。
MS ストックホルムは1948年に完成した船だが、A・ドーリアよりずっと小さい1万2千トン160メートル。この大きさは就航当時の大西洋航路では最小クラスだった。

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JSCショップサイトからの引用(以下、キット写真は全て同様)で、MS ストックホルムの姿。氷の浮かぶバルト海の荒海でも航行できるように船首が鋭く尖り、乾舷も高い。
あまり豪華客船らしくないクレーン状の装備が甲板上にいくつか見えるが、貨客混載だったのだろうか。ストックホルムの詳細な資料はネット上に意外なほど少なく、あまり詳しいことはわからなかった。

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上から見たストックホルム。ずらりと救命艇を並べたアンドレア・ドーリアに比べると少し救命艇が少ないように見えるが、アンドレア・ドーリアに対してストックホルムは全長こそ4分の3あるのに対して定員は4割しかないためだろう。ちなみに排水量で見ると、どちらも定員1人あたり16トン半ばとなっており、アンドレア・ドーリアが多すぎるとか、ストックホルムが少なすぎるとかいうわけではないようだ。

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細部ディティールを拡大。広々とした後部デッキは航海中の社交の場となっていたことだろう。腕に覚えのあるモデラーなら甲板の板張り表現や各所のトラスを自作することでディティールアップを行うのもよさそうだ。

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マストにはアンドレア・ドーリアと同じくレーダーを装備。
ストックホルムはもちろん内装もA・ドーリアに負けずとも劣らない豪華なもので、2等に別れた船室に395人の旅客を収容できた。
S=Aラインが、なんてこんな小さい豪華客船を運用していたのかというと、「たぶん、戦後の旅客業は航空機が優勢になるだろう。だから豪華客船は一部の富裕層のために、小さく、豪華にするのがいい」という見通しによるものだった。おお、なかなか鋭い。
この見通しは間違っていなかったが、いささか時期を見誤った。イタリア・ラインの復活でもわかるように戦後、欧州各国は想像以上に早期に豪華客船を復活させ、1950年台序盤には大西洋航路は活況を呈していた(大西洋旅客飛行が盛況になるのは大型ジェット旅客機、シュド・カラベルやボーイン707が就航する50年台終盤から)。
仕方ないのでS=AラインはMSストックホルムに153人分の船室を増築し、1956年7月25日には乗客534人、乗員208人の合計742人を乗せてスウェーデンのヨーテボリを向かっていた。

なお、一部資料には「MS STOCKHOLM IV」という表記もあるが、これはS=Aラインは以前にも「MSストックホルム」という名前の船を保有していたからで、創業時にオランダ=アメリカ・ラインから購入した初代ストックホルムは1929年にノルウェーに売却された後、なんとクジラ加工船に改装されている。その後、ドイツ軍のノルウェー侵攻時に鹵獲され、1944年にシェルブール港の入り口を閉塞するため自沈、戦後スクラップとなった。ちなみにS=Aラインが購入する前の名前は「ポツダム」で、1900年にハンブルグのブローム・ウント・フォス造船所で建造された船。しかし、ドイツで建造されたからって、どうしてオランダ=アメリカ・ラインはドイツの地名である「ポツダム」を船名にしていたのだろう(しかも、ポツダムは当時オランダ=アメリカ・ラインが保有する最大の船だった)。
2代目ストックホルムは1938年、イタリアで建造中に原因不明の火事で全損。3代目ストックホルムも2代目に続いてイタリアで建造されたが完成したのが1941年だったのでスウェーデンに引き渡すことが不可能でイタリア政府に売却。「MS サバウディア(Sabaudia)」に名前を変えた後、イタリア降伏でドイツに接収され1944年7月に連合軍の空襲で沈没、戦後解体された。

(その3に続く)

キット画像はJSCショップサイトからの引用。

参考ページは最後の回にまとめて掲載予定。

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JSC イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"・その1

7月最後の週は地元の神社の3年に一度の大祭で、2日目の土曜は各地区の山車が集合し舞を披露するとともにお菓子が振る舞われる日程だったのが台風で中止となり、けっこうガッカリしている筆者のお送りする世界のカードモデル最新っぽい情報。今回紹介するのはポーランドJSC社からリリースされた、イタリア客船 "ANDREA DORIA"、 スウェーデン客船 "STOCKHOLM"の2隻セットだ。

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この2隻の名前が並んでいるのを見ただけで「おいおい……やべぇキットが来ちまったぜ……」と悟った読者は海難史に詳しい方だろう。
逆に、表紙の客船を見て「あれ? アンドレア・ドーリアって、カイオ・ドゥイリオ級の戦艦じゃなかったっけ?」と思った読者もいるかも知れないが、今回のキットはあれとは同名で別の船。
名前の由来は15世紀の海の英雄にちなむものだが、なぜ客船にトルコ軍と戦った海軍提督の名前をつけてしまうのか。村上水軍にあやかって、瀬戸内海の遊覧船に「村上丸」と名付けてしまうようなものか。うむ、全然有りだな。
ちなみに和歌山県印南港を母港としている「村上丸」という釣り船が実在しているが、船長さんの名字由来だそうだ。
「アンドレア・ドーリア」はイタリア人お気に入りの名前のようで、カイオ・ドゥイリオ級戦艦と今回の客船の他にも19世紀の装甲艦、戦後建造されたヘリコプター巡洋艦にも同名の艦があり、現在は2007年就航の駆逐艦「アンドレア・ドーリア」が現役である。

戦前、豪華客船での旅 華やかなりしころ、アメリカ、フランス、イギリス、各国の旅客会社が名だたる豪華客船を次々に大西洋航路に就航させていたが、もちろん海洋国家イタリアも大西洋に豪華客船を保有していた。
イタリアを代表する客船会社だったのがジェノバ、トリノ、トリエストの三大港湾都市をそれぞれ拠点としていた3つの客船会社が1932年に合併した「イタリア・ライン(Italian Line、ただしこれは通称。正式名称は時期によってコロコロ変わる)」。そして、イタリア・ラインの中でも排水量5万トン、全長270メートル、最速で大西洋を横断した船舶に与えられる「ブルーリボン賞(西廻り)」を1933年8月に獲得している豪華客船SS レックス(SS Rex)はイタリア旅客船団のフラグシップであった。なお西廻りブルーリボン賞は1935年6月にフランスのSSノルマンディーによって更新されている(SSノルマンディーはJSCから400分の1でキット化されている)。

しかし、華やかな時代も長くは続かない。
1939年、第二次大戦が勃発すると英仏独は大西洋旅客航路を停止。そのため、順位が繰り上がってイタリア・ラインは大西洋最大の客船運行会社となったが半年後にはイタリアも参戦し、旅客航路を停止する。
戦時下のイギリスでは海軍が客船を徴用し、世界中の英軍に物資、兵員を送り届けるために迷彩色に塗り変えて毎日あっちへこっちへと働いていたことが知られているが、制海権のないイタリアがそれをやるとたちまち沈められてしまうのでイタリア客船は基本的に港でボンヤリとしていただけだった(イタリア・ラインのSS ローマとMSアウグストゥスは航空母艦に改装しようとしたけどゴチャゴチャやってるうちに戦争が終わった)。
結局、イタリアの主要な客船は全て連合軍の空襲で撃沈されるか、イタリア本土に上陸した連合軍に接収されてしまう。
ブルーリボン賞を獲得した豪華客船SS レックスも例外ではなく、連合軍の港湾攻撃を避けるためにジェノバ、トリエステ、そしてカポディストリア湾(現スロベニア領コペル湾)と追い立てられ、最後は1944年9月8日に英国空軍の空襲を受け沈没した。

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Wikipediaからの引用で、英国空軍第272航空隊のボーファイターから撮影された、攻撃下のSSレックス。
この攻撃で12機のボーファイターから発射された多数のロケット弾を被弾、さらに英国空軍第39航空隊、南アフリカ空軍第16航空隊のボーファイターによる追撃を受け総計100発以上のロケット弾を受け炎上したSSレックスは4日間燃え続け、横転沈没した。

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同じくWikipediaからの引用でまだ煙を上げているSSレックス。
目立たないようにせめて戦時塗装にするぐらいはしてやればよかった(煙突の三色塗装は消されているようだ)ような気もするが、それどころではなかったのだろう。
もうローマも占領されたこの時期にわざわざイタリア客船を攻撃しなくても良さそうなもんだが、接収したドイツ軍が黒海経由で東部戦線の戦力を移動させるのを防ぐためだったのだろうか。

戦後、イタリアラインには連合軍から”Conte Biancamano(約2万4千トン)”、” Conte Grande(約2万6千トン)”、” Saturnia(約2万4千トン)”、”Vulcania(約2万4千トン)”の4隻が返還され(接収された船の残りは戦争賠償金となった)、1947年から大西洋航路の運行が再開されるが、この4隻はどれも建造が1920年台中盤で、いささか旧式化していた。
やはり、旅客航路の激戦区、大西洋航路でやっていくにはSS レックスのようなイタリア旅客船団を代表するアイコンが欲しくなる(SS レックスを再浮揚、修復する案もあったが損傷が激しく、また沈んでいる湾がユーゴスラビア領となっていたため再生は断念され、スクラップとなった)。

そんなわけでイタリアラインは1950年2月9日、ジェノアのアンサルド造船所で新豪華客船、「アンドレア・ドーリア」の建造に着手する。日独みたいに主要都市が焼け野原となったわけではないが、それでも戦後5年で豪華客船建造に着手とは、イタリア人もなかなかたくましい。

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JSCショップサイトからの引用(以下、キット写真は全て同様)で、新型客船アンドレア・ドーリアの姿。これみよがしに煙突が林立する戦前の客船と違って煙突は1本にまとめられており、あまり大きな船には見えないがこれでも排水量約3万トン、全長約213メートルの大型船であった。
この大きさは戦前のレックスほどの大きさはないが、戦争からの回復期にあったイタリアでは、この船は最大、最速(最高速度26ノット、巡航速度23ノット)の船であった。
ちなみに当時の世界最大の大型客船は”RMS クイーン・エリザベス”、世界最速の大型客船は”SS ユナイテッド・ステーツ”である。
(ユナイテッド・ステーツJSCから400分の1でキット化されている)。

定員は乗客約1241人、乗員563人。客室は3等に別れており、1等船室(ファーストクラス)218人、2等船室(キャビンクラス)320人、3等船室(ツーリストクラス)703人となっていたが、それぞれのクラスに1つづつプールを備えていた(3等にまでプールがある客船は当時アンドレア・ドーリアだけであった)。もちろん、それぞれのクラスは厳密に区切られており、食堂、ラウンジ、甲板スペースも各クラスごとに用意されている。

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キットの細部をクローズアップ。もちろん3つのプールも再現されている。船室は一番上の階層が1等、その下が2等、その下3層が3等客室であった。
内装は著名な建築家ジュリオ・ミノレッティ(Giulio Minoletti)が手がけた豪華なもの。もちろん、安全性にも十分に配慮されており船内は11の防水区画に区切られており、これらのうち2つが満水となっても船は沈まない設計となっていた。
救命艇は当然、全乗客乗員を乗せるのに十分な数が準備されており、58人乗りの非常用連絡艇2隻、無線設備を備えた70人乗りのモーターボート2隻、146人が乗れるボート12隻を積んでおり単純計算で2000人が避難できる設計だった。

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上から見たアンドレア・ドーリア。定員を満たす救命艇をしっかりと載せると、どうしても舷側は救命艇で一杯になってしまい、なんだか「救命艇運搬船」みたいな見た目になってしまう。もちろんこれは仕方のないことなのだが、戦前の船舶が救命艇をケチって大惨事を繰り返した理由もちょっと分かる気がする。

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艦橋周辺とマストのクローズアップ。マストには当時まだ最新設備であったレーダーが装備されていているのが見える。

1951年6月16日。アンドレア・ドーリアはジェノア大司教、ジュゼッペ・シーリという、なんかiPhoneの中でボイパやってそうな名前の枢機卿から祝福を受けて進水。
審査で機械的な問題が発見され、処女航海は1952年年末から53年始めまでずれこんだ上に、処女航海では嵐に遭遇し最大28度というひどい傾斜を記録したものの1953年1月23日、市長を含む大歓迎の中をイタリア期待の新型豪華客船アンドレア・ドーリアは予定より数分遅れでニューヨークに接岸した。

(その2に続く)

キット画像はJSCショップサイトからの引用。

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_Line
https://ja.wikipedia.org/wiki/レックス_(客船)
それぞれの英語、日本語、イタリア語版を参考とした。

その他の参考ページは最後の回にまとめて掲載予定。

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ルーマニア国産対戦車砲レシツァ75ミリ砲についての補足・後編

先日、道を歩いていたら向こうから来る人が大きい蝶ネクタイをつけているように見えて、今どき蝶ネクタイ? チャーチルのコスプレ?? それとも実は腹話術の人形で、後ろにいる人に操られてる??? と大混乱したのだが、すれ違う時によく見たら単にヘッドフォンを首にかけてるだけだった筆者がお送りする、カードモデルに関係ありそうで実際そうでもないマイナーアイテム情報。
今回は前回に続き、ルーマニア国産対戦車砲レシツァ75ミリ砲について。

まず前回の補足。
ルーマニア軍はプチロフ76.2ミリ砲を75ミリにリサイズしてたらしいが、ベルギー軍も第一次大戦終戦時に接収したドイツ軍の7.7cm FK 16に内筒を入れて75ミリ砲として使ってたらしいので、無理ではないのだろう。しかし、77ミリを75ミリにする内筒って、ライフリングはどうなってたんだろう。あと、7.7cm FK 16はドイツ軍も7.5cm FK 16 nAとして75ミリ砲弾を撃てるように改修した砲を第二次大戦で使用しているが、これは1930年台に砲身そのもの交換したものであったそうだ。

さて、ノリで対ソ戦に参加してみたらソビエト戦車にひどい目にあわされたルーマニア軍は、なんとかしようと手元にある対戦車砲のおいしい所を組み合わせたおいしい対戦車砲の開発を開始した、ってのが前回の流れ。
こういうおいしい話は大抵大失敗すると相場は決まっているのだが、1943年9月に完成した新型対戦車砲はどういうわけか非常に良好な性能だった。
この砲はマズルブレーキと駐退機はZiS-3、砲身と砲弾、薬莢はビッカース対空砲、砲尾はPak.40のデザインを拝借していた(他にも様々な組み合わせの試作砲が数門作られた)が、そこまでするんだったら、いっそビッカース対空砲の75ミリ砲弾撃てるようにしたZiS-3をコピー生産しちゃった方が早かったような気もするが、まぁ、いろいろと事情があるのだろう。
試験で良好な成績をおさめた新型対戦車砲はただちに「DT-UDR Nr. 26, caliber 75 mm, Model 1943」の名前で正式採用となった。なお、あんまりにも名前が長いんで後で制式名は「Tac-75-Nr.26」に改められた。相変わらずルーマニア軍の火砲は不思議な名前をしている。不思議な上に「数字とアルファベットだけの名前じゃキットが売れない」と田宮俊作御大も言っているので、この砲は一般的には開発工場の名前を取り「Reşiţa(レシツァ) Model 1943」と呼ばれている。

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Wikipediaからの引用で、後ろから見たレシツァ75ミリ砲。防盾は厚さ6ミリの装甲板2枚が2センチの間を置いて設置されているが、これもPak40から拝借したアイデアであろう。

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参考として、Pak40の砲尾(こちらもWikipediaからの引用)。たしかに閉鎖機がよく似ているが、まぁ火砲の尻なんてどれも似たようなもんなんで、許容範囲だろう。一方、足回りはZiS-3の簡素な砲架そのまんまだ。
ルーマニアのお世辞にも潤沢とは言えない工業リソースにとって生産が容易であることは国産兵器の絶対条件であり、その点でもレシツァはパーツ数で見るとPak.40の部品数1200に比べ部品数680となっており、格段の簡素化が図られていた。ちなみにZiS-3が部品数610、ビッカース対空砲はなんと驚きの5200だったそうだ。

性能的にもレシツァ対戦車砲は500メートルで約100ミリの装甲板を貫くことが可能で、これはPak.40とほぼ同等の貫徹力である。
また、野砲として使う場合には射程12キロ、毎分20発を発射する速射能力もあった。Pak.40は野砲としての使用が考慮されておらず、最大射程が8キロしかなかったのでこれは便利だ。
カタログ通りならすごい砲である。もう、この設計図供与してドイツ軍もレシツァ砲の生産を直ちに開始した方がいいぐらいだ。
しかし、このカタログスペックで不思議なのが、「砲口初速秒速1030メートル」という記述である。これは砲身長(2501ミリ。Pak.40は3450ミリ)の割に異様に速い。
Pak.40もタングステン芯の高速徹甲弾を使えば初速990メートル/秒を出せるが、この砲弾は重量が4.1キロしかない。レシツァ対戦車砲の場合、重量6.6キロの通常徹甲弾(この重さはPak.40の通常徹甲弾、重さ6.8キロと大差ない)で初速1030メートル/秒を出したとされており、どうやったらそんなことができるのかちょっとわからない。
逆に、砲口初速が1030メートル/秒もあったとしたら今度は500メートルでの貫徹力が100ミリというのは非力すぎる。少なくとも+20~30ミリは撃ち抜けるはずだ。
新型対戦車砲が完成したことが嬉しすぎて担当者が気前よく砲口初速の数字をモリモリに盛ってしまったのでなければ、やはり砲口初速1030メートル/秒は高速徹甲弾を発射した時の数値で、重量6.6キロの通常徹甲弾を発射した時はもっと遅かったのが、どこかで情報が混ざったのではないかと推測するがどうだろうか。
なお、資料によるとレシツァ対戦車砲は砲身の寿命が極端に短いという欠点があり、およそ500発ほどで交換が必要となったそうだ(Pak.40は6000発で交換)。こんなに砲身命数が短いということは、やはり恒常的に1030メートル/秒で徹甲弾を発射してたということなのだろうか……謎である。それにしても砲身命数500発って、全力で25分砲撃したら砲身交換になっちゃうぞ。

そんな謎なスペックのレシツァ対戦車砲だが、とにかくソビエト戦車には対抗できる能力はあるので1943年12月10日、まず1000門が発注された。ルーマニ人って、必要となったらすぐに1000個発注しちゃうな。
そして1944年春、最初の24門が第1装甲師団「România Mare(大ルーマニア)」の2個独立対戦車連隊に36門づつ配備された。その後も生産は続き、1944年の夏ごろからは歩兵師団にも少しづつ配備されていたようだ。
なお、ルーマニア軍はレシツァ対戦車砲の牽引用にRSOトラクター100輛をドイツから購入している。また、スターリネッツトラクターをコピーしたT-1トラクターをこれまた1000輛作って牽引にあてるつもりだったが、マレシャル駆逐戦車作る準備に忙しくてプロトタイプ5輛作ったところで戦争が終わった。

レシツァ対戦車砲はスペック的には優秀な対戦車砲だったが、配備された時点ですでにソビエト軍はさらに重装甲のスターリン重戦車を切っ先として東ヨーロッパになだれ込んでおり、仮に注文された1000門全てが前線に届いたとしてもすでに戦局をひっくり返すには遅すぎた。
結局、ルーマニアはソビエト軍に飲み込まれ1944年9月に停戦する(対独戦がもう少しだけ続く)。
戦後ルーマニアは共産圏に組み込まれたが、75ミリという口径は東側にはないのでレシツァ対戦車砲は訓練用となり、公式に廃止されたのは1998年だった。

1000門の生産が予定されていたレシツァ対戦車砲だが実際の生産数ははっきりせず、資料によって216門、342門、372門とバラバラな数値が載っている。有力なのは372門説のようだが、どういうわけかトランシルヴァニアの都市オラデアに現存する砲の砲尾に「394」のシリアルが刻まれており、これは途中で番号が跳んでいるのか、実際には400門程度が整備されたのか、あるいはあっという間に使えなくなる砲身交換用に砲身と砲尾のセットだけが余計に作られたのかははっきりしない(あるいは戦後に追加生産された分が生産数に含まれていないのか)。
正確な数字がいくつであったにせよ、多くても400門しか少数されなかった砲にしては意外と生き残っており1945年2月の時点でまだ各師団6門から12門を保有していたようだ。
現在、戦前のルーマニア王国、戦後のルーマニア社会主義共和国、そして1989年の民主革命後のルーマニアという3つの時代を生き残ったレシツァ対戦車砲がブカレスト、オラデア、デジ各市の軍事博物館に1門づつ、そしてティミショアラの革命広場に2門飾られている。



参考ページ:
https://ro.wikipedia.org/wiki/75_mm_Reșița_Model_1943

https://en.wikipedia.org/wiki/Canon_de_75_modèle_1897
https://en.wikipedia.org/wiki/7.7_cm_FK_96_n.A.
https://en.wikipedia.org/wiki/7.7_cm_FK_16
https://en.wikipedia.org/wiki/76_mm_divisional_gun_M1902

https://ro.wikipedia.org/wiki/Vickers_Model_1931
https://en.wikipedia.org/wiki/7.5_cm_Pak_40
https://en.wikipedia.org/wiki/76_mm_divisional_gun_M1942_(ZiS-3)

https://en.wikipedia.org/wiki/T-1_tractor
それぞれのルーマニア語、英語、日本語のページを参考とした。

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ルーマニア国産対戦車砲レシツァ75ミリ砲についての補足・前編

いやはや暑いのなんのって。あまりの暑さに、チマチマと進めているソーシャルゲームをほんの十数分ほど遊んだだけでスマホが持てないぐらい熱くなり、おまけに画面の動きがカクカクしだしてこれマジでヤバいんじゃない? と思ったり思わなかったりしている筆者がお送りする世界のカードモデルにまつわるちょっとどうでもいい話。
今回は、こないだルーマニア 駆逐戦車 "MAREŞAL"の記事を書いた時にざっと確認したんだけど、場所の都合で書けなかったルーマニア国産対戦車砲、レシツァ75ミリ砲について。

第一次大戦後、ルーマニア軍は野砲としてクルップ75ミリ砲、シュナイダー75ミリ砲、プチロフ76.2ミリ砲の3種類を装備していた。と、資料に書いてあるのだが、ドイツ軍が制式採用していた野砲は77ミリ砲(7.7 cm FK 96 n.A.)で、ルーマニア語Wikipediaにのみ「75ミリ砲は1904年から生産が始まった77ミリ砲の近代化バージョン」と不思議な事が書いてあるが、実際どうなのかはちょっとわからない。「第一次大戦におけるルーマニア軍歩兵連隊の一般的な野砲だった」という記述もあるので、77ミリ砲のルーマニア向け輸出バージョンが75ミリだったのかもしれない。
77ミリか75ミリかはともかく、似たような口径で3種類も野砲があったら面倒なので1930年台に新型砲を導入して野砲を統一しようとルーマニア軍はスコダ製の新野砲の試作品を購入したが、この砲は「野砲としては重すぎる」として、というかまぁぶっちゃけ予算の都合もあって不採用となった。

とは言え、このままでは3種類の野砲の砲弾を適切に届けなければならない補給担当者が過労でぶっ倒れてしまうので、ルーマニア軍は3種類の砲を改修し、全て共通の75ミリ砲弾を撃てるようにするという荒業でなんとか乗り切った。クルップとシュナイダーは(クルップが75ミリだったとすれば)ともかく、76.2ミリのプチロフ砲を75ミリに修正するってどうやるんだ。もうそれ、砲架を利用した別の砲じゃないか。
結局、ルーマニア軍はこれら共通化した”1902/36 tubat amovibil FF-KF-RF”というなんか変な名前(たぶん、最後のFF-KF-RFは「フランス野砲-クルップ野砲-ロシア野砲」の略だろう)の砲で対ソ戦に突入する。

開戦当初こそ、公式の戦闘報告にも「ロシア軍はこの砲の早く、正確な射撃を恐れ『機関銃』と呼称した」なんていうご機嫌な文章が見られたが、ソビエト軍が戦車を投入してくるとたちまちこの「機関銃」はおとなしくなってしまう。
ルーマニア軍は対戦車砲としてオチキス25ミリ砲、ボフォース37ミリ砲、オーストリアのベーラー47ミリ砲とそのライセンス生産品であるブレダ47ミリ砲という、これまた雑多な砲を装備していたが、ソビエト戦車はその砲弾をどれもエンドウ豆みたいに弾いた。びっくりしたルーマニア兵は1902/36野砲を水平撃ちでぶち込んだがこれも効果なし。
ドイツ軍からは「これを使うといいよ」と37ミリ、50ミリ、75ミリ対戦車砲が少しだけ送られてきたが、これらも似たり寄ったりで、重戦車KV-1には唯一75ミリ対戦車砲PaK 40だけが有効だった。

この対戦車戦力の貧弱さは早急になんとかしなければいけなかったが、そうは言ってもなんともならないうちにルーマニア軍は1942年、スターリングラードの戦いに参加することとなる。
この戦いで、ルーマニア軍はやっぱりソビエト戦車に蹂躙されてひどい目に合うのだが、その過程においてルーマニア軍は飛行場に突入したソビエト戦車を高射砲の水平撃ちで撃破に成功している。結局飛行場は奪われたけどね。
高射砲で戦車を撃破、というと「ああ、ドイツ軍にもらった88ミリ砲が置いてあったのね」と早合点しがちだが、この時ソビエト戦車を撃破したのは18世紀に製鉄所が作られたルーマニア最古の工業地帯、ルーマニア西部のレシツァで作られたVickers-Reșița Model 1936対空砲であった。
この砲は名前でわかる通り、戦前にイギリスのビッカース兵器廠が「これからの対空砲はこれだーっ!」と自社開発したものの、これまたお約束の「予算無いです」で英軍が不採用としたので仕方ないんで世界中のいろんな国に売りまくった砲のライセンス生産品である。

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Wikipediaからの引用でブカレストの国立軍事博物館に展示されているビッカース=レシツァ・モデル1936。
もちろんこれは輸送状態で脚は折り畳まれている。一見2脚砲架に見えるが手前で真ん中から折って上に跳ね上げてある2脚とは別に、写真奥にトラベリングロックのついた別の脚がある。こちらも2脚がまとめてあって、射撃時には両方を開いて十字砲架になるという、なんか無駄に凝った作りだった。

800px-Bungescu_M1938_FCS.jpg

この写真もWikipediaからの引用。
おもしろいのはこの砲には専用の射撃管制システムがあることで、これで数門をリンクしてさらに防空力を高めるという目論見だったが肝心の計算機が1930年台の航空機にしか対応しておらず、高性能化した第二次大戦中の航空機には追いつけなかったらしい。

ルーマニアは1935年に始まった陸軍の近代化計画の一環としてビッカースからこの砲100門分のライセンス生産権を購入し、最初の8門が見本としてイギリスで制作された以外はルーマニアで国産化された(射撃管制装置は全てイギリスで作られた)。また、対ソ戦突入後は、もうイギリスも敵になっちゃったことだし、無許可でもう100門ほどを追加生産している。
なお、ルーマニア軍はさらにフランスに90ミリ対空砲の開発を打診していたが、これはフランス側に熱意がなかったようで試作品しか完成しなかった。

ソビエト戦車に悩まされていたルーマニア軍は、「ひょっとしてこの砲を大量生産すればソビエト戦車を全滅させられんじゃね?」と思いついたが、なにしろこの砲は平時の設計で凝った作りだったので1942年10月の段階で生産数は月産5門という目も当てられない状態だった。しかも、完成した砲はアメリカ空軍重爆隊が連日ブンブン飛んでくるプロエシュテ油田の精油施設を守るために持っていかれてしまって対戦車用に回す余裕はない。

そこでルーマニア軍は1942年6月2日、対戦車砲として有効なドイツ軍のPAK40対戦車砲、かっぱらって使ってみたら具合が良かったソビエト軍のZiS-3野砲、そしてビッカース高射砲の3種類からいいとこ取りで野砲/対戦車砲として使えるおいしい新型砲の開発を開始した。
(後編に続く)


参考ページは後編にまとめて掲載予定。

*今回からTwitter、Facebookのリンクボタン置いてみました。というか、こういう機能があることに今日になって気が付きました。

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