W.M.C.Models ロシア帝国 Ф・Блиновトラクター・その2
今年はやたらと豊作の庭のミカンを毎日もいだり食べたりもいだり食べたりしてる筆者のお送りする世界のカードモデル情報、今回は前回に引き続きリトアニアのW.M.C.Modelsからリリースされたロシア帝国 Ф・Блиновトラクターの紹介だ。

前回はブランドの説明しただけで話が終わったので、今回からは、なんかこのよくわかんない車両を作った人について。
この車両を作ったのはフョードル・A・ブリノフ(Фёдор Абрамович Блинов)。1831年、ヴォルガ川下流サラトフ州の生まれ。
資料によっては「鍛冶屋の息子」という記述もあるのだが、どうもブリノフは農奴の生まれらしい。
ロシアの農奴といったら、よくて中世、悪くて原始時代レベルの生活を強要される非人道的な扱いを想像しがちだが、土地と一緒にブリノフ家を所有していたセルゲイ・S・ウヴァーロフ(Серге́й Семёнович Ува́ров)伯爵は1818年から1855に亡くなるまでロシア科学アカデミーの会長も努めた聡明な人物で、早くから創意工夫の才能を示していたブリノフ君を気に入って、農作業がない時は村の鍛冶屋に出入りすることを許していたという。

Wikipediaからの引用で、セルゲイ・ウヴァーロフ伯爵、オレスト・キプレンスキー画、1815年。19世紀の人はみんな首周りが大げさ。
1840年代、サラトフ州を干魃が襲い農民がやることがなくなってしまう(もちろん、そのままでは年貢が払えなくなる)と、ブリノフはいわゆる「ヴォルガの船曳き」の一員となる。
ヴォルガの船曳きは当時、この地方の農奴の副業として一般的なもので、ヴォルガ川河口まで下ってきた川船を、人力で引っ張って上流まで戻すという、そりゃもう、ほんとうに過酷な労働であった。
_-_Volga_Boatmen_(1870-1873)s.jpg)
これもWikipediaからの引用で、イリヤ・レーピン画、『ヴォルガの船曳き』。1870年ごろ。見るからに大変な労働であることが伝わってくる。
あれ? ブリノフは1831年生まれだから、1840年代ってことは未成年じゃね? とか言ってはいけない、未成年どころか子供でも肉体労働させられるのが19世紀までの常識なのである。
そんなわけで、若きブリノフもえーこら、えーこら、もひとつえーこら、と船を引っ張っていたのだが、鍛冶屋での修行が功を奏したのか1850年、当時登場したての新しい動力、蒸気船の火夫(缶炊き、蒸気機関車でいう機関助士)に雇われた。
細かい経緯はわからないが、すぐに運転助手、さらに運転手と昇格したブリノフは普段は村の鍛冶屋で働き、要請に応じて蒸気船運転手として船に乗り込むという生活を続ける。
もうこれ、農奴じゃないじゃん、て思うのだが、ブリノフ家を所有するウヴァーロフ伯爵はそれを許した上に、若きブリノフが金銭を納めることでブリノフ家の労働を免除していた。もうこうなると農奴と主人の関係というより、ただの大家と店子だ。サンキュー、伯爵。
ブリノフはさらに意欲に燃え、空き時間には様々な書物で知識を補強していたというが、農奴が文字を読むことができて、当時は現代よりも高級品であったはずの書物に触れることができた、というのも、ウヴァーロフ伯爵の支援があったということは想像に難くない。いよいよもって伯爵には感謝だ。
ブリノフの運転していた蒸気船は両舷側に車輪のある外輪船だったが、ある時、この回転軸が破損してしまった。
すでにエンジニアとしても才能を発揮していたブリノフはこれを自分で修理するが、さらにこの際に左右の外輪をシャフトでつながずに、片方だけを回転させることができるように改修を加えたという。
これによって、この船は片方の外輪だけ回すことでその場で旋回することができるようになった。このアイデアは後でまた登場するので覚えておこう。
1861年3月、農奴解放令が発布されブリノフ家は正式に奴隷から平民になる。
農奴解放令は農奴は解放するが土地は領主が持ったままで、新たに平民になった農民は自分で土地を購入しなければならず、資本のない農民は農地を耕すために借金をせざるを得ず、結局借金を背負ってなんも解放されないというパターンが多かったのだが、アイデアと技術が資本のエンジニアであったブリノフは土地を所有する必要がなく、これで本当に自由になったことになる。
(その3に続く)
各キット表紙画像はW.M.C.Models公式ページからの引用。
参考ページは最終回後に掲載予定。

前回はブランドの説明しただけで話が終わったので、今回からは、なんかこのよくわかんない車両を作った人について。
この車両を作ったのはフョードル・A・ブリノフ(Фёдор Абрамович Блинов)。1831年、ヴォルガ川下流サラトフ州の生まれ。
資料によっては「鍛冶屋の息子」という記述もあるのだが、どうもブリノフは農奴の生まれらしい。
ロシアの農奴といったら、よくて中世、悪くて原始時代レベルの生活を強要される非人道的な扱いを想像しがちだが、土地と一緒にブリノフ家を所有していたセルゲイ・S・ウヴァーロフ(Серге́й Семёнович Ува́ров)伯爵は1818年から1855に亡くなるまでロシア科学アカデミーの会長も努めた聡明な人物で、早くから創意工夫の才能を示していたブリノフ君を気に入って、農作業がない時は村の鍛冶屋に出入りすることを許していたという。

Wikipediaからの引用で、セルゲイ・ウヴァーロフ伯爵、オレスト・キプレンスキー画、1815年。19世紀の人はみんな首周りが大げさ。
1840年代、サラトフ州を干魃が襲い農民がやることがなくなってしまう(もちろん、そのままでは年貢が払えなくなる)と、ブリノフはいわゆる「ヴォルガの船曳き」の一員となる。
ヴォルガの船曳きは当時、この地方の農奴の副業として一般的なもので、ヴォルガ川河口まで下ってきた川船を、人力で引っ張って上流まで戻すという、そりゃもう、ほんとうに過酷な労働であった。
_-_Volga_Boatmen_(1870-1873)s.jpg)
これもWikipediaからの引用で、イリヤ・レーピン画、『ヴォルガの船曳き』。1870年ごろ。見るからに大変な労働であることが伝わってくる。
あれ? ブリノフは1831年生まれだから、1840年代ってことは未成年じゃね? とか言ってはいけない、未成年どころか子供でも肉体労働させられるのが19世紀までの常識なのである。
そんなわけで、若きブリノフもえーこら、えーこら、もひとつえーこら、と船を引っ張っていたのだが、鍛冶屋での修行が功を奏したのか1850年、当時登場したての新しい動力、蒸気船の火夫(缶炊き、蒸気機関車でいう機関助士)に雇われた。
細かい経緯はわからないが、すぐに運転助手、さらに運転手と昇格したブリノフは普段は村の鍛冶屋で働き、要請に応じて蒸気船運転手として船に乗り込むという生活を続ける。
もうこれ、農奴じゃないじゃん、て思うのだが、ブリノフ家を所有するウヴァーロフ伯爵はそれを許した上に、若きブリノフが金銭を納めることでブリノフ家の労働を免除していた。もうこうなると農奴と主人の関係というより、ただの大家と店子だ。サンキュー、伯爵。
ブリノフはさらに意欲に燃え、空き時間には様々な書物で知識を補強していたというが、農奴が文字を読むことができて、当時は現代よりも高級品であったはずの書物に触れることができた、というのも、ウヴァーロフ伯爵の支援があったということは想像に難くない。いよいよもって伯爵には感謝だ。
ブリノフの運転していた蒸気船は両舷側に車輪のある外輪船だったが、ある時、この回転軸が破損してしまった。
すでにエンジニアとしても才能を発揮していたブリノフはこれを自分で修理するが、さらにこの際に左右の外輪をシャフトでつながずに、片方だけを回転させることができるように改修を加えたという。
これによって、この船は片方の外輪だけ回すことでその場で旋回することができるようになった。このアイデアは後でまた登場するので覚えておこう。
1861年3月、農奴解放令が発布されブリノフ家は正式に奴隷から平民になる。
農奴解放令は農奴は解放するが土地は領主が持ったままで、新たに平民になった農民は自分で土地を購入しなければならず、資本のない農民は農地を耕すために借金をせざるを得ず、結局借金を背負ってなんも解放されないというパターンが多かったのだが、アイデアと技術が資本のエンジニアであったブリノフは土地を所有する必要がなく、これで本当に自由になったことになる。
(その3に続く)
各キット表紙画像はW.M.C.Models公式ページからの引用。
参考ページは最終回後に掲載予定。
スポンサーサイト
W.M.C.Models ロシア帝国 Ф・Блиновトラクター・その1
まさかの5ヶ月休止を挟んで帰ってきた『カードモデル始めました』!
いや、『帰ってきた』って、どっか行ってたんか、って話だけど、まぁ、全然別人が来たのに『帰ってきた』って言われてた人もいるから、まぁいいだろう。
実はひどい夏風邪を引いて、その後メンタルがなかなか回復しなかったのだが、検査受けたわけじゃないけど、あれ、コロナだったんじゃないかな。
まぁ、そんなこんなでやっと回復したんだが、回復初っ端からどうでもいいことを延々と綴ってるとまた風邪ひきそうだから短めにサクっといこう。
そんなわけで今回紹介するのはリトアニアのW.M.C.Modelsからリリースされたロシア帝国 Ф・Блиновトラクターだ。

まぁまぁまぁまぁ、言いたいことが色々あるだろうけれど、ちょいとお待ちくれなんし。
まずは「W.M.C.Models」というブランドについて。
「W.M.C」というのは、表紙画像のロゴマークに小さく書いてある通り「World Modelist Club」の略で、『世界・模型愛好者・倶楽部』のことだ。わざわざ日本語で書くようなことでもなかった。
と、いうことはW.M.C.Modelsって、『世界・模型愛好者・倶楽部・模型』ってことで、なんか座りが悪い気もする。
本作で第55作目となるW.M.C.Modelsは、どうもロシア語圏のデザイナー達が自作キットを販売するための組合的ブランドらしいのだが、以前はホームページがあったりなかったりして、どうにも正体のよくわからないブランドだったが、さっき検索したらホームページが素知らぬ顔してあった。
たぶん、普段はロシア語SNSの「VK」とかで活動してんじゃないのかな。
W.M.C.Modelsは、過去にはドイツ軍鹵獲改修型のKV-2戦車(ドイツ軍型のキューポラがついてる。あと、同製品の自分が持ってる版は履帯のパーツがページからはみ出ててそのままじゃ組み上がらなくってトホホ)やドイツ軍の水陸両用トラクター、「ラントワッサシュレッパー」、馬車にマキシム機関銃を積んだ「タチャンカ」(キットは馬も超絶細かいパーツで同梱)など、なんでそれを模型化しようと思ったのか良くわからないアイテムをリリースしている。

もちろん、色物だけではなく、過去に静岡ホビーショー併設モデラーズクラブ合同作品展を訪れた方なら紙製スーパークオリティのルクス8輪装甲車を覚えている読者もいると思うが、あれもW.M.C.Modelsの製品だ。
2017年のモデラーズクラブ合同作品展に展示されたW.M.C.Modelsのルクス。制作はkami-mokei.comの店長さん。撮影は筆者。

前述の通りW.M.C.Modelsは多数のデザイナーの集まりなので内容にはキットごとに差が予想され、ハズレを引きたくない方は先行して組んでいるモデラーの作例など見ながら、慎重に購入を検討したい。
またベテランモデラーなら、何も考えずに買ってみて中身を確認してトホホとなるのもまたカードモデルの楽しみの一つ、と鷹揚に構えるのもいいだろう。
さて、そんなW.M.C.Modelsがリリースしたキットは、レニングラードで包囲されたソビエト軍が急遽廃材から組み立てたガントラクターじゃなくて、ロシア人以外は知らない装軌車両黎明期の車両である。

ちょっと、表紙の画像がガビガビすぎてわけわかんないから、もうちょっとシャープな画像を出しておこう。
Wikipediaからの引用で、2021年、ロシア郵政が発行した記念切手での画像。額面24ルーブル、左上には『F・A・ブリノフのトラクター(1896年)』。ええっ? 1896年????
そう、なんとこの車両、19世紀の車両なのである。
と、いったところで、あんまたくさん文字書くと知恵熱出ちゃうから今回はこれぐらいにしておこう。
復帰しました『カードモデル始めました』、よろしければまた覗きに来てみてくださいな。
(その2に続く)
各キット表紙画像はW.M.C.Models公式ページからの引用。
参考ページは最終回後に掲載予定。
いや、『帰ってきた』って、どっか行ってたんか、って話だけど、まぁ、全然別人が来たのに『帰ってきた』って言われてた人もいるから、まぁいいだろう。
実はひどい夏風邪を引いて、その後メンタルがなかなか回復しなかったのだが、検査受けたわけじゃないけど、あれ、コロナだったんじゃないかな。
まぁ、そんなこんなでやっと回復したんだが、回復初っ端からどうでもいいことを延々と綴ってるとまた風邪ひきそうだから短めにサクっといこう。
そんなわけで今回紹介するのはリトアニアのW.M.C.Modelsからリリースされたロシア帝国 Ф・Блиновトラクターだ。

まぁまぁまぁまぁ、言いたいことが色々あるだろうけれど、ちょいとお待ちくれなんし。
まずは「W.M.C.Models」というブランドについて。
「W.M.C」というのは、表紙画像のロゴマークに小さく書いてある通り「World Modelist Club」の略で、『世界・模型愛好者・倶楽部』のことだ。わざわざ日本語で書くようなことでもなかった。
と、いうことはW.M.C.Modelsって、『世界・模型愛好者・倶楽部・模型』ってことで、なんか座りが悪い気もする。
本作で第55作目となるW.M.C.Modelsは、どうもロシア語圏のデザイナー達が自作キットを販売するための組合的ブランドらしいのだが、以前はホームページがあったりなかったりして、どうにも正体のよくわからないブランドだったが、さっき検索したらホームページが素知らぬ顔してあった。
たぶん、普段はロシア語SNSの「VK」とかで活動してんじゃないのかな。
W.M.C.Modelsは、過去にはドイツ軍鹵獲改修型のKV-2戦車(ドイツ軍型のキューポラがついてる。あと、同製品の自分が持ってる版は履帯のパーツがページからはみ出ててそのままじゃ組み上がらなくってトホホ)やドイツ軍の水陸両用トラクター、「ラントワッサシュレッパー」、馬車にマキシム機関銃を積んだ「タチャンカ」(キットは馬も超絶細かいパーツで同梱)など、なんでそれを模型化しようと思ったのか良くわからないアイテムをリリースしている。



もちろん、色物だけではなく、過去に静岡ホビーショー併設モデラーズクラブ合同作品展を訪れた方なら紙製スーパークオリティのルクス8輪装甲車を覚えている読者もいると思うが、あれもW.M.C.Modelsの製品だ。
2017年のモデラーズクラブ合同作品展に展示されたW.M.C.Modelsのルクス。制作はkami-mokei.comの店長さん。撮影は筆者。

前述の通りW.M.C.Modelsは多数のデザイナーの集まりなので内容にはキットごとに差が予想され、ハズレを引きたくない方は先行して組んでいるモデラーの作例など見ながら、慎重に購入を検討したい。
またベテランモデラーなら、何も考えずに買ってみて中身を確認してトホホとなるのもまたカードモデルの楽しみの一つ、と鷹揚に構えるのもいいだろう。
さて、そんなW.M.C.Modelsがリリースしたキットは、レニングラードで包囲されたソビエト軍が急遽廃材から組み立てたガントラクターじゃなくて、ロシア人以外は知らない装軌車両黎明期の車両である。

ちょっと、表紙の画像がガビガビすぎてわけわかんないから、もうちょっとシャープな画像を出しておこう。
Wikipediaからの引用で、2021年、ロシア郵政が発行した記念切手での画像。額面24ルーブル、左上には『F・A・ブリノフのトラクター(1896年)』。ええっ? 1896年????
そう、なんとこの車両、19世紀の車両なのである。
と、いったところで、あんまたくさん文字書くと知恵熱出ちゃうから今回はこれぐらいにしておこう。
復帰しました『カードモデル始めました』、よろしければまた覗きに来てみてくださいな。
(その2に続く)
各キット表紙画像はW.M.C.Models公式ページからの引用。
参考ページは最終回後に掲載予定。
MPModel ドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167A・その12
次プロジェクトに異動する前に有給消化でこの週末は連休を自作した筆者のお送りする世界のカードモデル情報。今回は、前回でもう終わったと思わせておいて、ポーランドMPModelのドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167Aの紹介続きだ。

前回で本題のFi 167の説明が終わったんでここで終わってもいいんだけれど、せっかくだからもうちょっとだけ。
今では聞かないフィーゼラーという会社がこの後、どうなったのかを。
Fi 167の次のFi 168は、オモシロ飛行機デザイナーの、エーリッヒ・バッヘム(Erich Bachem)がまたフィーゼラーにいたころのアイデアで、どうやら高翼の双胴双発の機体に操縦席のある短い胴体を吊るす、というレイアウトの地上攻撃機ようなのだが、説明を聞いてもよくわからないし、モックアップの写真を見ても、やっぱりよくわからない。

Wikipediaからの引用(以下この項同様)で、1939年に撮影されたFi 168のモックアップ。外翼は取り外されている。か、もしくは最初っから作ってない。
エーリッヒ・バッヘムは自信満々でFi 168を「パンツァー・シュトルヒ(Panzer-Storch)」と称していたが、なにが「パンツァー」(装甲)なのかもよくわからない。あるいは、「空飛ぶ戦車」と言いたかったのか。
けっきょく、Fi 168はなにがなんだかよくわからないので、1939年9月、戦争に突入してこんなオモシロ飛行機作ってる場合じゃないと気がついたドイツ航空省は、このプロジェクトをキャンセルした。
もう一機種、フィーゼラーは戦前にFi 253「スパッツ(Spatz、雀)」という軽スポーツ機を開発している。
開戦前、航空省から「戦争が近いから、今後中小の航空機メーカーの軍用機は(大量生産の手配がつかないから)採用は難しいだろう」との通達が出たようで、じゃあ中小メーカーはどうすりゃいいんですか、という当然の疑問に航空省は「連絡とかに使う軽飛行機ならそんなに数必要ないから、ワンチャンあるかも?」と返答した。
なんだ、じゃあうちはいつも通りだ、とフィーゼラーが開発したのがFi 253だったが、よく考えたらシュトルヒがあるからもうそういう飛行機いらないや、というわけでFi 253は6機試作しただけで終わった。

とっても地味なFi 253。エンジンにツェンダップの4気筒50馬力エンジン(Zündapp 9-092)なんていう珍しいものを積んでいる。
フィーゼラーは戦争中に一機種だけ機体番号をもらっていて、1942年に輸送機Fi 333を航空省に提案している。
これは長くトレッドの広い固定脚の大型機で、脚の間にいろんなものを抱えて飛べるんですよ、というサンダーバード的なコンセプトだったが、もちろん1942年のドイツにそんなものを作ってる余裕はなくって、いつのまにかプロジェクトも終わってた(3機の試作機が作られた、とする資料もあるが写真が一枚もみつからないのでかなり怪しい)。

1939年に撮影されたFi 333の模型。一番上は人員輸送用のキャビンモジュールを取り付けた状態、真ん中が空荷の状態、下は他の機体の胴体を輸送している状態。まぁ、オモロイけどわざわざ機体作るほどの需要はなさそう。
結局、フィーゼラーの飛行機と工場はシュトルヒの開発と生産以外、ほとんど貢献しないで戦争は終わった。
戦後一時期、フィーゼラーは米軍に拘留されていたようだがこれはおそらく、フィーゼラー工場で強制労働が行われていたことに対する戦争犯罪の疑いをかけられていたのだろう。
しかし、フィーゼラーは1944年3月29日(1943年とする資料もある)に生産実績が空軍からの要求に満たないことを理由に工場の監督から外されており、強制労働には実質関与していないようだ。
そのため米軍からもじきに解放されているが、ナチ協力者として財産は差し押さえられており公職に就くこともできなかった。
1949年にドイツ国内法で公式に戦争犯罪に関与してないことが認められ、財産を返還されたフィーゼラーは焼け残っていた工場を再建、自動車部品の製造を始めたが、一旦ナチ協力者としてのレッテルを貼られたために世間の風当たりは強かったようで、これも数年で終了している。
1970年ごろに大病で声を出せなくなったこともあり、その後は資産運用で引退生活を送ったようだ。
1980 年 10 月 17 日にフィーゼラーは「ゲルハルト フィーゼラー財団(Gerhard-Fieseler-Stiftung)」を設立。これは芸術や文化、福祉、スポーツなどの分野で既存の非営利団体を支援することを目的としており、現在も存続している。
フィーゼラーは1987年9月1日、91歳で死去。遺産は全て財団に寄付された。
表紙画像はAnswerのショップページから引用
参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲルハルト・フィーゼラー
https://de.wikipedia.org/wiki/Gerhard-Fieseler-Werke
それぞれ日本語、ドイツ語、英語版を参考とした。
https://www.fieseler-storch-kassel.de/
フィーゼラー社とシュトルヒの情報収集を目的として設立された「フィーゼラー シュトルヒ協会」のページ。
ゲルハルト・フィーゼラーの個人史などについて詳しい。

前回で本題のFi 167の説明が終わったんでここで終わってもいいんだけれど、せっかくだからもうちょっとだけ。
今では聞かないフィーゼラーという会社がこの後、どうなったのかを。
Fi 167の次のFi 168は、オモシロ飛行機デザイナーの、エーリッヒ・バッヘム(Erich Bachem)がまたフィーゼラーにいたころのアイデアで、どうやら高翼の双胴双発の機体に操縦席のある短い胴体を吊るす、というレイアウトの地上攻撃機ようなのだが、説明を聞いてもよくわからないし、モックアップの写真を見ても、やっぱりよくわからない。

Wikipediaからの引用(以下この項同様)で、1939年に撮影されたFi 168のモックアップ。外翼は取り外されている。か、もしくは最初っから作ってない。
エーリッヒ・バッヘムは自信満々でFi 168を「パンツァー・シュトルヒ(Panzer-Storch)」と称していたが、なにが「パンツァー」(装甲)なのかもよくわからない。あるいは、「空飛ぶ戦車」と言いたかったのか。
けっきょく、Fi 168はなにがなんだかよくわからないので、1939年9月、戦争に突入してこんなオモシロ飛行機作ってる場合じゃないと気がついたドイツ航空省は、このプロジェクトをキャンセルした。
もう一機種、フィーゼラーは戦前にFi 253「スパッツ(Spatz、雀)」という軽スポーツ機を開発している。
開戦前、航空省から「戦争が近いから、今後中小の航空機メーカーの軍用機は(大量生産の手配がつかないから)採用は難しいだろう」との通達が出たようで、じゃあ中小メーカーはどうすりゃいいんですか、という当然の疑問に航空省は「連絡とかに使う軽飛行機ならそんなに数必要ないから、ワンチャンあるかも?」と返答した。
なんだ、じゃあうちはいつも通りだ、とフィーゼラーが開発したのがFi 253だったが、よく考えたらシュトルヒがあるからもうそういう飛行機いらないや、というわけでFi 253は6機試作しただけで終わった。

とっても地味なFi 253。エンジンにツェンダップの4気筒50馬力エンジン(Zündapp 9-092)なんていう珍しいものを積んでいる。
フィーゼラーは戦争中に一機種だけ機体番号をもらっていて、1942年に輸送機Fi 333を航空省に提案している。
これは長くトレッドの広い固定脚の大型機で、脚の間にいろんなものを抱えて飛べるんですよ、というサンダーバード的なコンセプトだったが、もちろん1942年のドイツにそんなものを作ってる余裕はなくって、いつのまにかプロジェクトも終わってた(3機の試作機が作られた、とする資料もあるが写真が一枚もみつからないのでかなり怪しい)。

1939年に撮影されたFi 333の模型。一番上は人員輸送用のキャビンモジュールを取り付けた状態、真ん中が空荷の状態、下は他の機体の胴体を輸送している状態。まぁ、オモロイけどわざわざ機体作るほどの需要はなさそう。
結局、フィーゼラーの飛行機と工場はシュトルヒの開発と生産以外、ほとんど貢献しないで戦争は終わった。
戦後一時期、フィーゼラーは米軍に拘留されていたようだがこれはおそらく、フィーゼラー工場で強制労働が行われていたことに対する戦争犯罪の疑いをかけられていたのだろう。
しかし、フィーゼラーは1944年3月29日(1943年とする資料もある)に生産実績が空軍からの要求に満たないことを理由に工場の監督から外されており、強制労働には実質関与していないようだ。
そのため米軍からもじきに解放されているが、ナチ協力者として財産は差し押さえられており公職に就くこともできなかった。
1949年にドイツ国内法で公式に戦争犯罪に関与してないことが認められ、財産を返還されたフィーゼラーは焼け残っていた工場を再建、自動車部品の製造を始めたが、一旦ナチ協力者としてのレッテルを貼られたために世間の風当たりは強かったようで、これも数年で終了している。
1970年ごろに大病で声を出せなくなったこともあり、その後は資産運用で引退生活を送ったようだ。
1980 年 10 月 17 日にフィーゼラーは「ゲルハルト フィーゼラー財団(Gerhard-Fieseler-Stiftung)」を設立。これは芸術や文化、福祉、スポーツなどの分野で既存の非営利団体を支援することを目的としており、現在も存続している。
フィーゼラーは1987年9月1日、91歳で死去。遺産は全て財団に寄付された。
表紙画像はAnswerのショップページから引用
参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲルハルト・フィーゼラー
https://de.wikipedia.org/wiki/Gerhard-Fieseler-Werke
それぞれ日本語、ドイツ語、英語版を参考とした。
https://www.fieseler-storch-kassel.de/
フィーゼラー社とシュトルヒの情報収集を目的として設立された「フィーゼラー シュトルヒ協会」のページ。
ゲルハルト・フィーゼラーの個人史などについて詳しい。
MPModel ドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167A・その11
こないだ所属する開発チームが集まって「これから一緒に頑張ろう!」っていう場があって、会社のお金で飯食ってきたんですけど、来月から別チームに異動することが決まってなんだか座りが悪い筆者のお送りする世界の最新だったはずのカードモデル情報。今回もポーランドMPModelのドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167Aの紹介続きだ。ここまで長い長い前置きを経て、今回ついにキットの紹介。

前回のあらすじ:
やっとFi 167の話になった
向かい風なら空中停止もできるという、異次元の低失速速度を発揮したFi167は、これなら発着艦訓練にあんまり時間取れない我がドイツ海軍の空母でも運用できるかも知れへん、ということでただちに先行量産型、A型12機が発注されたが、まぁ、空母グラーフ・ツェッペリンが完成する前に艦載機だけ完成してもしょうがないよ、って言われてたんで生産はのんびりと行われた。
そんなこんなでゆっくり作ったA型12機が完成した1940年、ドイツは占領範囲がすっごい広がっちゃって、とりあえず連合軍の反攻を阻止するための沿岸要塞の建造が優先され、グラーフ・ツェッペリンの建造は中断されてしまった。
乗せる空母が完成する見込みがなくなって完全に行き場を失ったFi 167は、最高時速325キロの複葉攻撃機では使い道ないし、もしかすると空母建造も再開されるかもしれないから使い潰すわけにもいかないし、ということで「第167実験飛行隊」(Erprobungsgruppe 167)っていう、「戦場ロマン・シリーズ」だったら、絶対なんかデカい仕事を成し遂げてくれそうな部隊に編成されたが、現実は非情で別にロマンチックなことは何も起こらなかった。

Wikipediaからの引用で、Fi167実機の写真二葉。撮影時期など詳細はいまいちはっきりしない。右側、煽りの写真では尾輪の前の着艦フックに注目。
こうやって見ると、「複葉スツーカ」といった感じで、割とカッチョよく感じるが、スツーカのエンジンはJumo、Fi167のエンジンはDB601で異なる。
大きな垂直尾翼と動翼の広い水平尾翼が操縦性の良さを感じさせる。
1942年、ドイツ軍は突如として「やっぱりグラーフ・ツェッペリンを完成させよう!」と思い立った。
グラーフ・ツェッペリンはすでにカタパルトの一部なんかをイタリア海軍が建造していた空母アクィラにあげちゃったりして、建造中止時点よりも状態が悪化していていたが、さぁ、これで第167実験飛行隊、出動だぜ! と思ったら、さすがにFi 167は時代遅れで、ドイツ軍はグラーフ・ツェッペリンが完成したら艦載機にJu87スツーカの艦載型を積むことに決定していた(けっきょく完成しなかった)。
そんなわけでまたもや行き場を失ったFi 167はその後、なんとなく一時期占領下のオランダ沿岸防衛に送られたが、オランダでも使い道がなかったのか1943年になんとなく全機ドイツに帰ってきた。
でもドイツでもやっぱり使い道がなかったんで、今度はユーゴスラビアの民族主義者、アンテ・パヴェリッチがユーゴスラビアから分離独立して建国したクロアチア独立国に売りつられける。
そんなもん、クロアチア独立国でもいらねーだろ、と思ったら、チトー率いるユーゴパルチザンと支配地域がクロアチア国章のように入り乱れまくって、もうシッチャカメッチャカになってたクロアチアでは、Fi 167の極端に短い離着陸距離と十分な積載量を利用してパルチザンにかこまれた拠点へ補給するのに重宝されたという。
そんな、クロアチア空軍のFi 167のうちの一機、ボジダル・バルトゥロビッチ(Božidar Bartulović、8機撃墜のエース)乗機は1944年10月1日、ザグレブ郡マルティンスカ・ヴェスで英国空軍第213飛行隊のマスタング Mk III、5機に囲まれてしまった。
次々に襲来するマスタングの機銃弾を浴び機体が炎上する中、 後席の銃手メイト・ジュルコビッチ(Mate Jurkovic)は果敢に応戦。ムスタングのうち1機に被弾を与え、この機は不時着、大破した(Fi 167の二人は墜落する機体から脱出、バルトゥロビッチは頭部を負傷した)。
この戦果はおそらく、第二次世界大戦における最後の複葉機による撃破記録と考えられている。

そんなわけで、表紙絵みたいに勇ましく敵艦に突っ込んでいきながら魚雷を投下する、なんてシーンは訓練でもあったのかなかったのかはっきりしないFi-167Aの展開図サンプル。
完成見本写真はないが、展開図は軽く質感表現が入った美しいもので制作意欲を刺激される。
作者のMarek Pacyński氏は第二次大戦機の航空機キットを多数デザインしており組立てやすさは筆者の中で定評がある。
MPModel からリリースされたドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167Aは空モノ標準スケールの33分の1で完成全幅は約40センチ。難易度表示はないが、5段階表示の「3」(普通)といったところではないだろうか。
そして、定価は49ポーランドズロチ(約1600円)となっている。
また、このキットとおそらく同一の内容がデジタル版でZarkov Modelsから発売されている(Zarkov Modelsではスケール表記がヨーロッパスケールの32分の1となっており縮尺が異なるか、おそらく同一だろう)。
こちらは定価6.65ユーロ(約1100円)でMPModelの印刷版よりお手軽な値段となっているが、デジタル版はたいてい質感表示のないベタ塗り表現となっているので、印刷版とデジタル版それぞれ、モデラー自身が良質なプリンタを所持しているか、リトライの手軽さ、テクスチャの質感表現、ヨーロッパの紙質など、どの要素を優先するかで購入選択を行いたい。
そして艦船模型も手掛けるモデラーなら、ポーランドJSCからリリースされている400分の1、グラーフ・ツェッペリンと一緒に飾り、幻に終わったドイツ海軍空母航空隊の活躍に思いを馳せるのもいいだろう。

こちらはJSCスタンダードの400分の1ウォーターラインキット。全長262メートルのグラーフ・ツェッペリンは完成全長約65センチの堂々たるサイズに仕上がる。
こちらも難易度表示はないが、JSCのキットなら5段階評価の「4」(やや難しい)といったところではないだろうか。
定価も50.8ズロチ(約1600円)と、意外とお手頃価格だ。
もちろんキットには艦載機も含まれており、メッサーシュミットBf109の艦載型12機、ユンカースJu87「スツーカ」の艦載型30機を甲板に並べ、ドイツ海軍空母攻撃隊の出撃シーンに思いを馳せることが可能だ。
…………Fi 167ないじゃん
(次回最終回へ続く)
参考ページは最終回に掲載予定。
画像はそれぞれAnswer、JSCのショップページから引用

前回のあらすじ:
やっとFi 167の話になった
向かい風なら空中停止もできるという、異次元の低失速速度を発揮したFi167は、これなら発着艦訓練にあんまり時間取れない我がドイツ海軍の空母でも運用できるかも知れへん、ということでただちに先行量産型、A型12機が発注されたが、まぁ、空母グラーフ・ツェッペリンが完成する前に艦載機だけ完成してもしょうがないよ、って言われてたんで生産はのんびりと行われた。
そんなこんなでゆっくり作ったA型12機が完成した1940年、ドイツは占領範囲がすっごい広がっちゃって、とりあえず連合軍の反攻を阻止するための沿岸要塞の建造が優先され、グラーフ・ツェッペリンの建造は中断されてしまった。
乗せる空母が完成する見込みがなくなって完全に行き場を失ったFi 167は、最高時速325キロの複葉攻撃機では使い道ないし、もしかすると空母建造も再開されるかもしれないから使い潰すわけにもいかないし、ということで「第167実験飛行隊」(Erprobungsgruppe 167)っていう、「戦場ロマン・シリーズ」だったら、絶対なんかデカい仕事を成し遂げてくれそうな部隊に編成されたが、現実は非情で別にロマンチックなことは何も起こらなかった。


Wikipediaからの引用で、Fi167実機の写真二葉。撮影時期など詳細はいまいちはっきりしない。右側、煽りの写真では尾輪の前の着艦フックに注目。
こうやって見ると、「複葉スツーカ」といった感じで、割とカッチョよく感じるが、スツーカのエンジンはJumo、Fi167のエンジンはDB601で異なる。
大きな垂直尾翼と動翼の広い水平尾翼が操縦性の良さを感じさせる。
1942年、ドイツ軍は突如として「やっぱりグラーフ・ツェッペリンを完成させよう!」と思い立った。
グラーフ・ツェッペリンはすでにカタパルトの一部なんかをイタリア海軍が建造していた空母アクィラにあげちゃったりして、建造中止時点よりも状態が悪化していていたが、さぁ、これで第167実験飛行隊、出動だぜ! と思ったら、さすがにFi 167は時代遅れで、ドイツ軍はグラーフ・ツェッペリンが完成したら艦載機にJu87スツーカの艦載型を積むことに決定していた(けっきょく完成しなかった)。
そんなわけでまたもや行き場を失ったFi 167はその後、なんとなく一時期占領下のオランダ沿岸防衛に送られたが、オランダでも使い道がなかったのか1943年になんとなく全機ドイツに帰ってきた。
でもドイツでもやっぱり使い道がなかったんで、今度はユーゴスラビアの民族主義者、アンテ・パヴェリッチがユーゴスラビアから分離独立して建国したクロアチア独立国に売りつられける。
そんなもん、クロアチア独立国でもいらねーだろ、と思ったら、チトー率いるユーゴパルチザンと支配地域がクロアチア国章のように入り乱れまくって、もうシッチャカメッチャカになってたクロアチアでは、Fi 167の極端に短い離着陸距離と十分な積載量を利用してパルチザンにかこまれた拠点へ補給するのに重宝されたという。
そんな、クロアチア空軍のFi 167のうちの一機、ボジダル・バルトゥロビッチ(Božidar Bartulović、8機撃墜のエース)乗機は1944年10月1日、ザグレブ郡マルティンスカ・ヴェスで英国空軍第213飛行隊のマスタング Mk III、5機に囲まれてしまった。
次々に襲来するマスタングの機銃弾を浴び機体が炎上する中、 後席の銃手メイト・ジュルコビッチ(Mate Jurkovic)は果敢に応戦。ムスタングのうち1機に被弾を与え、この機は不時着、大破した(Fi 167の二人は墜落する機体から脱出、バルトゥロビッチは頭部を負傷した)。
この戦果はおそらく、第二次世界大戦における最後の複葉機による撃破記録と考えられている。



そんなわけで、表紙絵みたいに勇ましく敵艦に突っ込んでいきながら魚雷を投下する、なんてシーンは訓練でもあったのかなかったのかはっきりしないFi-167Aの展開図サンプル。
完成見本写真はないが、展開図は軽く質感表現が入った美しいもので制作意欲を刺激される。
作者のMarek Pacyński氏は第二次大戦機の航空機キットを多数デザインしており組立てやすさは筆者の中で定評がある。
MPModel からリリースされたドイツ艦載雷撃機 Fieseler Fi-167Aは空モノ標準スケールの33分の1で完成全幅は約40センチ。難易度表示はないが、5段階表示の「3」(普通)といったところではないだろうか。
そして、定価は49ポーランドズロチ(約1600円)となっている。
また、このキットとおそらく同一の内容がデジタル版でZarkov Modelsから発売されている(Zarkov Modelsではスケール表記がヨーロッパスケールの32分の1となっており縮尺が異なるか、おそらく同一だろう)。
こちらは定価6.65ユーロ(約1100円)でMPModelの印刷版よりお手軽な値段となっているが、デジタル版はたいてい質感表示のないベタ塗り表現となっているので、印刷版とデジタル版それぞれ、モデラー自身が良質なプリンタを所持しているか、リトライの手軽さ、テクスチャの質感表現、ヨーロッパの紙質など、どの要素を優先するかで購入選択を行いたい。
そして艦船模型も手掛けるモデラーなら、ポーランドJSCからリリースされている400分の1、グラーフ・ツェッペリンと一緒に飾り、幻に終わったドイツ海軍空母航空隊の活躍に思いを馳せるのもいいだろう。



こちらはJSCスタンダードの400分の1ウォーターラインキット。全長262メートルのグラーフ・ツェッペリンは完成全長約65センチの堂々たるサイズに仕上がる。
こちらも難易度表示はないが、JSCのキットなら5段階評価の「4」(やや難しい)といったところではないだろうか。
定価も50.8ズロチ(約1600円)と、意外とお手頃価格だ。
もちろんキットには艦載機も含まれており、メッサーシュミットBf109の艦載型12機、ユンカースJu87「スツーカ」の艦載型30機を甲板に並べ、ドイツ海軍空母攻撃隊の出撃シーンに思いを馳せることが可能だ。
…………Fi 167ないじゃん
(次回最終回へ続く)
参考ページは最終回に掲載予定。
画像はそれぞれAnswer、JSCのショップページから引用