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MODELIK ポーランド ディーゼル機関車 S200・その2

合成ゴム系接着剤のGクリヤーを密閉できる別容器に移してエナメルシンナーで薄めたものを工作に使っているのだが、使っているとだんだん接着剤が濃くなってくるのでシンナーを注ぎ足し注ぎ足し秘伝のタレの如く使っていたら先日突如として容器の中身全部がプルプルのグミ状になってしまい、どんだけシンナーを注ぎ足しても液状にならずにどんどん注ぎ足していったら結局接着力のまったくないただのエナメルシンナーになってしまった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。あれはいったいどいいう現象なんだろう。ちなみにプラモデルやってたころ、プラモデル接着剤にラッカーシンナー足しながら使っていたら突然全部白く濁って使えなくなったこともある。
それはそれとして、今回はポーランドの名門MODELIK社の新製品、ポーランド ディーゼル機関車 S200の2回目。

S200 okladka

前回はソビエトが1922年に世界初の実用ディーゼル・エレクトリック機関車を開発し、世はまさに大ディーゼル時代! とぶち上げたはいいものの量産型ディーゼル機関車Ээлを45輛作っただけですっかり燻っていた、というところまで。
よく考えたら、上の一文で説明できたことをわざわざ前回一回分費やして説明したのかと思うとどんだけ話がクドいのかと驚くが、まだまだこのコッテリペースが続くので心していただきたい。
あと、「ディーゼルと言ってもアメリカのプロレスラー、ケビン・ナッシュのことではない」とどっかに書こうと思ってすっかり忘れていたのでここに書いておこう。

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本題と全然関係ないけど見た目がオモロかったのでついでに紹介。Wikipediaからの引用で(この項、キット表紙写真以外全て同様)ТП1ディーゼル・スチームハイブリッド機関車「スターリネッツ」。
ディーゼル・スチームハイブリッドというのは、どうやら石炭を不完全燃焼させて得た可燃性ガス(木炭自動車のガス発生器と同じ原理)を燃焼させて発電し、さらにその熱で蒸気も発生して1粒で2度おいしい機関車を目指したっぽいのだが、いくら説明を読んでもさっぱりシステムが理解できなかったので全く違うかもしれない。
ТП1はなんか覆面つけたマスク・ド・機関車みたいな見た目だが、この見た目は全然ディーゼル・スチームハイブリッドとは関係なくて、運転士が前を見やすくなるようにボイラーの前に運転台を置いてるだけ。これとは別にボイラーの面倒見るためのキャビンが機関車後方(普通の場所)にある。前後の運転台の間でどうやってコミュニケーション取っていたのかは謎だ。
あと、シリンダー部がないように見えるが、実は第3動輪の上にシリンダーがあって、こっから前後にピストンロッドが出てるという摩訶不思議な構造。なんで一つでも斬新な機構を3つもぶち込んでしまうのか。こんな無茶なことをするもんだからТП1は大方の予想通りうまく動かないうちに戦争が始まって、無事にみんなから忘れ去られた。当ブログはこういう余計な寄り道するから話が全然進まないのである。

さて、大粛清だ、大祖国防衛戦争だ、と内的外的に国が無茶苦茶になってしまったソビエトでは「とにかく作り慣れてるものをどんどん作れ」とディーゼル機関車の開発は完全にストップ。じゃあЭэлを大量生産するのかと言えば、ディーゼル燃料は戦車やトラックに回さないといけないのでディーゼル機関車の生産も完全にストップ。石炭で蒸気機関車は動かせても戦車は動かせないから仕方ないね。

冷戦中に流布されたイメージにより、ひたすら膨大な物量で前線を隙間なく兵員で埋め尽くしていたと思われがちなソビエト軍だが、実際にはいくらソビエト軍といえども独ソ戦の長大な戦線全てをカバーすることなどできるわけもなく、コンピューターも電卓もない時代に手作業の計算だけで膨大な兵力とそれを支える物資を適切な箇所へ移動させることができた巨大官僚組織こそがソビエト軍の強さの源であり、それを支えていたのがロシア広軌を驀進するバカデカい蒸気機関車の大群であった。

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ソビエトの巨人機関車の究極、全長33メートル7軸14動輪(4-14-4)の怪物АА20「アンドレイ・アンドレーエフ」。やったぜ。
1935年に1輛だけ作ってはみたものの、あまりにも全長が長いのでカーブではレールを壊し、ポイントでは脱線し、規格外の車体は既存のターンテーブルで回せなくってトホホだったので25年間倉庫に隠しておいて後でこっそりスクラップになった。

そんなわけで全ソビエト鉄道職員の皆さんの影の努力もあってソビエト軍はなんとかモスクワをドイツ軍の攻撃から守りきることに成功し、日本軍の真珠湾攻撃で正式に第二次世界大戦に参戦したアメリカからはドカドカと物資の搬入が始まった。
アメリカさんの送りつけてくるべらぼうな量の物資はソビエトにとって貴重な戦略リソースとなったが、ここで大きな問題が発生した。ソビエトが物資を受け取ることのできるルートが非常に限られていたのである。
ロシアは南の黒海、西のバルト海、北のバレンツ海、東の太平洋に面している。しかし、黒海は最重要軍港セバストポリがドイツ軍の攻撃にさらされており(1942年7月に陥落)寄港できない。バルト海は入ろうと思ったらドイツ占領下のデンマークとノルウェーの間を通過しなければならず、これも不可能。太平洋はシベリア鉄道東端のウラジオストクが日本海にありアメリカ船が近づけない。
残るは北のバレンツ海だが、当然ドイツ軍もそれは把握しておりバレンツ海は大量のUボートがうろうろするわ、ノルウェーやフィンランドから爆撃機は飛んでくるわ、さらには最新鋭戦艦ティルピッツが出没するという噂まである危険な海であった。

そこで枢軸軍の手が届かない新たなルートとして「ペルシャ回廊」に連合軍は着目した。これは中東ペルシャ湾に入った貨物船からイランで物資を陸揚げし、ペルシャを縦断してカスピ海、もしくはコーカサス山脈を経由してロシア中央まで物資を届けるという壮大なものであった。
「遠回りだけど、バレンツ海の漁礁になるよりはいいか」と連合軍輸送船が続々とペルシャ湾に集まってきたが、問題はこのルートの要となるイラン縦貫鉄道の貧弱さだった。
この路線は独ソ開戦直前に開通したものだったが、まぁ、当然のごとくアメリカで大量生産された物資を世界有数の規模を誇るソビエト軍に流し込むなんていう事のために作られた鉄道ではなかったので路盤は脆弱、機関車も貧弱だった。

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イラン縦貫鉄道が標高5千メートル級の山が連なるアルボルズ山脈を横切るために建設されたヴァリスク橋。この橋はイタリア人技術者ジャコモ・ディ・マルコ(Giacomo Di Marco)の指揮で建設されたが、イラン側に「こんな華奢な橋を機関車が通れるとは思えない」と言われてカチンときたんでエンジニア達は家族と一緒に一番列車が通過するヴァリスク橋の下に立って安全を保証して見せたそうだ。

ペルシャ回廊ルートを増強するため連合軍は「路線が貧弱なら強化すればいいじゃない」のマリー・アントワネット精神でイラン縦貫鉄道の強化に着手する。
枢軸軍がこういう事を言い出すと間違いなく経済を混乱させて物資を浪費するだけで結局戦争に間に合わずに終わるもんだが、太平洋と大西洋の2つの戦場で大戦争しながらまだ余力が余りに余ってて「もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな」状態のアメリカが手伝ったおかげでホイホイと補強は完成。
さらにアメリカはアメリカン・ロコモティブ社(ALCO)に命じてイラン縦貫鉄道のためのRSD-1ディーゼル機関車を144輛生産する(メキシコ国鉄向けにも6輛生産された)。これは支線用の多目的機関車、RS-1を4軸から6軸に改良したものだった。
なんでソビエトがやっと45輛のЭэлを作ってるうちに、アメリカは2つ返事で144輛のRS-1をホイホイ作れるようなディーゼル機関車大国になっていたのかはまた興味深いのだが、そっちに迷い込むとまた帰ってこれるまで時間かかりそうなんで「アメリカってのはすごい国なんだ」ってことでここは押し切ろう。

イラン縦貫鉄道で走り回るRSD-1ディーゼル機関車を見たソビエト側が「それいいね」と言ったところ、アメリカは「そうかい、じゃあ分けてやるぜ HAHAHA!」とご機嫌で70輛のRSD-1がレンドリースでソビエトに供与されることとなった(一部の機関車はバレンツ海経由でソビエトに送られたが、その途上で2輛が海没した)。
ソビエトがRSD-1を「ДА」型と名づけて使ってみたら、これがまぁ国産ディーゼル機関車よりもずっと性能がいいし、信頼性も高くって、「元祖ディーゼル・エレクトリック」のメンツは丸つぶれになってしまったのであった。

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アメリカで製造され、今はサンクトペテルブルグのロシア鉄道博物館で展示品になっているДа20-09。ターンテーブルで向きを変えずに逆進運転できるようヘッドライトや排障器もついているが、基本的には手前が車体後ろになる。

なお、手間をかけて整備した南回りルートだったが、最終的にこのルートでアメリカからソビエトに送られた物資は全体の2パーセント強に過ぎなかったようだ。
(その3に続く)

キット表紙画像はMODELIK社サイトからの引用。



参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルコRSD-1形ディーゼル機関車
英語、ロシア語ページも参考とした

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。
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MODELIK ポーランド ディーゼル機関車 S200・その1

今年は豊作の庭のミカンを一つまた一つと皮だけにしていく野鳥達と、どちらが多くのミカンを接収できるか仁義なき戦いを繰り広げている筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。今回はポーランドの名門MODELIK社の新製品、ポーランド ディーゼル機関車 S200だ。

S200 okladka

MODELIKはかつては年に20タイトル以上をリリースし、GPMと共にポーランドカードモデル界を牽引してきた中心的ブランドだったのだが、ここ数年はリリースのペースがめっきり落ちてしまい今年はこのキットが唯一のリリースとなりそうだ。果たしてこの状態は一時的なものなのか、それともこのまま消えていってしまうのかわからないが一人のカードモデルファンとしてはMODEL-CARDから続く名門ブランドの復活を願うばかりである。

さて、今回MODELIKからリリースされたディーゼル機関車 S200は表題では国籍表示を「ポーランド」としたが、実はこの機関車はポーランドで生産された機関車ではなく(「S200」はポーランドでの名称)、チェコスロバキアのスコダ社で開発された車両(チェコスロバキア名称「T669」)。で、さらに複雑なのが、T669はチェコスロバアで必要だから作られたわけではなく、ソビエトからの依頼で生産された機関車だった(ソビエト名称「ЧМЭ3」)。

ディーゼルエンジンはドイツ人のルドルフ・ディーゼル(Rudolf Christian Karl Diesel)が19世紀に開発したもので、ガソリンエンジンより低速・大馬力で威力を発揮しやすい特徴を持つ。その半面、大型となりやすい欠点があるが、これは逆にガソリン機関よりも大容量の巨大エンジンが作れるという利点と言い換えることも可能で、1912年に世界初の実用ディーゼル船「MS Selandia」が建造されると船舶はこれ以降次々にディーゼル化が進んでいくこととなった。
大型、大馬力のディーゼルエンジンを自動車に積むのにはまだ問題も多かったが、それよりもずっと重く、ずっと大きい鉄道車両ならディーゼルエンジン大歓迎じゃん!? と思ったが、やってみたらこれが全然うまくいかない。なぜなら、まだ当時は数百馬力というパワーを受け止めるトランスミッションを作ることができず(船舶は基本的にエンジンとスクリューが直結)、やむを得ずディーゼルエンジンと車軸を直結した機関車を作ったら走り出しではガラガラ車輪が空回りするし、走り出したらウンウンうなるばっかりで全然速度出ないしで、てんで使い物にならなかったのだ。

この問題を解決する手段としては、ディーゼルで発電してその電気でモーターを回す「ディーゼル・エレクトリック」方式があり、現代のディーゼル機関車のほとんどがこのシステムで走っているが、意外にもディーゼル・エレクトリック方式の機関車を世界で初めて実用化したのはソビエトであった。
1922年、ウラジミール・レーニンはソビエト労働・防衛評議会で「ソビエトはディーゼル機関車を製造しなければならない」と言い出した。なんか唐突だが、これは帝政ロシア時代から鉄道技術の権威として知られていたユーリ・ロモノソフ(Юрий Владимирович Ломоносов)の意見を取り入れたものだったようだ。
そんなことをいきなり言われても困ってしまうのだが、レーニンが「やる」と言ったからにはやらねばならないわけで、ソビエトの技術者はわずか2年後の1924年に2種類のディーゼル機関車を完成させる。やればなんとかなるもんだ。

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まずはこちら、Wikipediaからの引用で(この項、キット表紙写真以外全て同様)サンクトペテルブルクのロシア鉄道博物館に保存されている世界初の実用ディーゼル・エレクトリック機関車「Щэл1」。
Щэл1はバルト海に面したプチロフ兵器廠で製造された車両で1000馬力のエンジンを積んでいたが、このエンジンは1919年にバルト海で沈没したイギリス潜水艦のビッカース製エンジンを再利用していたらしい。
設計したのは1910年5月24日に200メートルの飛行に成功したロシア帝国初の完全国産機「ガッケル3(Гаккель-III)」の設計・開発者であったヤコブ・ガッケル(Яков Модестович Гаккель。彼の息子も「ヤコブ・ガッケル(Яков Яковлевич Гаккель)」だが、そちらは海洋学者)だったが、いざЩэл1をクルスク-モスクワ間で実際に使ってみたらあんまりにも故障が多いもんで、1927年にははやばやと引き上げられその後は移動発電所として使用された。とほほん。

一方ガッケルの機関車とほとんど同時に完成したのがユーリ・ロモノソフ設計の「Ээл2」である。

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1928年に撮影されたЭэл2。人物と比較するとわかるが超デカい。こちらはドイツのホーエンツォレルン工廠で完成した車両で、MAN社の1200馬力潜水艦用ディーゼルエンジンを搭載していた。なんでソビエトのディーゼル機関車をドイツで作っていたのかというと、当時のドイツとソビエトは第一次大戦戦勝国にハブられたボッチ国家同士で「ラッパロ条約」という相互協力の協定を結んでいたからだ。
ロモノソフはソビエト政府からの指示で鉄道車両の買い付けも手配しており、最初はアメリカへ行ったのだが「共産政権に売る機関車なんてねーな」と邪険にされたのでスウェーデン、及びドイツを迂回して機関車を購入するためにドイツに留まっていたのであった。
しかし、ロモノソフは優秀な技術者だったが商人ではないので、結果的には足元を見られ相場よりもかなり高い価格で機関車を買わされてしまった。そのためソビエトから差額を着服したんではないかと疑われ、身の危険を感じたロモノソフは帰国せずに1927年にソビエトから亡命している。

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Э型蒸気機関車の前に立つロモノソフ。ロシア帝国で開発されたЭ型蒸気機関車も1920年代にドイツで700輛が製造されている。撮影時期は1930年ごろということなのでロモノソフは亡命した後の写真のようだが、そう言われてみると体格も帽子もすっかりドイツ風だ。

パッと見すっきりしていたЩэл1に比べてなんだか屋根の周りがゴチャゴチャしていて不思議な形のЭэл2だが、ロモノソフの設計+ドイツの技術力という当時最強の組み合わせだけあって性能はこちらの方が良くて、手直しをしながら1954年に破損するまで使用され続けた。しかし基本的には試作車両であり、Ээл2は1輛だけの製造に終わった。

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で、これがより不思議なカタチに進化した、Ээл2の次の試作車両「Эмх3」。
Эмх3は「ドイツの技術力ならディーゼル機関車をトランスミッション駆動できるかもしれん」と思ってやってみたのだが、やってみたらやっぱりダメでギヤの歯車があっという間に吹っ飛んだ。
そんなわけでЭмх3も1輛で終わり、次のЭэлシリーズ(Ээл5、Ээл9、Ээл12のサブタイプにわかれるらしいが、Ээл5がドイツ製、それ以外がソビエト製な他は何がどう違うのか誰にもわからない)はディーゼル・エレクトリックに戻って量産型として45輛が生産され、主に蒸気機関車に必要な大量の水を確保することが難しかったソビエト南部、中央アジアで1960年代まで使用された(ただし、ここでも約半数は牽引に使われず、移動発電所として使用された)。

ソビエトが開発したЩэл1とЭэл2は、おそらく世界初の本格的な長距離実用ディーゼル・エレクトリック機関車だと考えられている。
しかし、大粛清とドイツ軍の侵攻で国全体がそれどころではなくなっているうちにソビエトのディーゼル機関車開発技術はすっかり他国に追い越されてしまうこととなるのであった。
(その2に続く)

キット表紙画像はMODELIK社サイトからの引用。



参考ページ:
https://ru.wikipedia.org/wiki/Щэл1
https://ru.wikipedia.org/wiki/Ээл2
https://ru.wikipedia.org/wiki/Эмх3
https://ru.wikipedia.org/wiki/Ээл

https://ru.wikipedia.org/wiki/Ломоносов,_Юрий_Владимирович
https://ru.wikipedia.org/wiki/Гаккель,_Яков_Модестович
それぞれの日本語、英語、ドイツ語ページも参考とした

その他の参考ページは最終回にまとめて掲載予定。

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Z-Art スロバキア古城 Čachtický hrad・後編

いよいよ世間は忘年会シーズン。勢いに任せて木曜は現プロジェクトの親睦会、金曜は前プロジェクトの慰労会と2日連続で飲んで帰って体重がレッドゾーンに突入した筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。しかし、忘年会本番はまだ2周間後だったりする上に正月はゴロゴロしながらモチを食う予定なので限界突破確定なのである。そんなこんなで本日はチェコ Z-Art ブランドの新商品、スロバキア古城 Čachtický hrad 紹介の続き。

Čachtický hrad(チェイテ城)城主、女伯爵バートリ・エルジェーベトは1610年12月30日、年の瀬の忙しい時期に多数の女性を残虐な拷問の末に殺したとして逮捕された。言い伝えでは『エルジェーベトはまさに拷問真っ最中に踏み込まれて血まみれのまま逮捕された』とされることもあるが、逮捕に当たったトゥルゾ・ジョルジ(Thurzó György)は実際には客人としてチェイテ城に入ってからおもむろにエルジェーベトを逮捕したらしい。また、エルジェーベトの凶行を手伝っていた4人の召使い(Semtész Dorotya、Jó Ilona、Benická Katarína、Újváry János。それぞれの詳細は不明)も同時に捕らえられている。

1611年2月に始まったエルジェーベトの裁判で、召使いのある者は「40人近く殺した」と言い、また別の者は「50人以上だった」と証言した。トゥルゾの部下は「いや、城には100や200は死体があった」と語ったとされるが、これは出典が曖昧だ。
そんな中、とある証人の女性が突然「エルジェーベトは自分が殺した650人の記録を持っている」と言い出したが、これは現物が見つかっていない。しかし、その数字のショッキングさから、今日エルジェーベトは一般的に「650人の少女を殺し生き血を浴びた吸血伯爵夫人」として記憶されている。最終的に公式に裁判で認められた犠牲者数は80人だった(もちろん80人だって大変な数だ)。

東欧の超名門バートリ家との関係もあり当初、トゥルゾ・ジョルジはエルジェーベトを修道院へ入れることで事態を収集しようと考えていたようだ(なお、トゥルゾ・ジョルジはフェレンツニ世が亡くなったときに後事を託したその人である)。しかし、国王マーチャーシュ2世の怒りは強く、断固死刑にするように、とのお達しであった。トゥルゾは貴族を処刑することは得策ではないとし、最終的にエルジェーベトは居城チェイテ城に監禁されることとなった。
食事を差し入れるわずかな隙間を残して全ての開口部が塞がれた塔の一室に閉じ込められたエルジェーベトは、その後3年間を生きた。
1614年8月21日の夜、エルジェーベトは看守に「手が冷たい」と訴えたが、看守は「なんでもないでしょう、寝てしまいなさい」と取り合わなかった。翌朝、エルジェーベトは死んでいたという。

11月25日、エルジェーベトはチェイテ城の建つチャフティツェ村の教会に埋葬された。しかし、一説には村人の反感を恐れたバートリ家は遺体を掘り起こし、彼女の生地に改葬したともいう。どちらにせよ、彼女のものとわかる墓は現在確認されていない。
残された子どもたちは資料によっては「追放され、ポーランドへ逃れた」とされているが、成人した4人のうち3人の女性はそれぞれ別の貴族の家に嫁いでいるところを見るとそんなにひどい扱いは受けなかったようにも取れるがどうだろうか。なお、子どもたちは全員ナーダジュディ姓を名乗っている。

城主エルジェーベトの死後、チェイテ城はしばらく放置されていたが1622年に生まれたフェレンツ三世(エルジェーベトの孫)が思い出したように相続した。しかし、フェレンツ三世はハンガリーからハプスブルグ家の影響を排除しようと企てられた「ヴェシェレーニ陰謀(「マグナート陰謀」とも呼ばれる)」に関与していたために斬首された。
なお、このヴェシェレーニ陰謀にはエルジェーベトの娘、アンナが嫁いだニコラ・ズリンスキの甥が重要な役割を果たしており「ズリンスキ=フランコパン陰謀」とも言われるそうだ。
城はオーストリア勢力に没収されたが、激しさを増す反ハプスブルグ闘争の中で焼き払われ、完全に廃墟となった。

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Wikipediaからの引用で、2010年に撮影されたチェイテ城。もはや廃墟というより残骸と言ったほうがいいような状態で、塔が一つと城壁しか残っていない。
今回、Z-Artがキット化したのは現在の廃墟状態のチェイテ城ではなく、エルジェーベトが居城としていた時代を再現したものとなっている。
それでは、長い長い前置きを終えて公式ページの完成見本写真を見てみよう。

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北側(上の写真では右側)からみたチェイテ城。果たしてエルジェーベトが幽閉されたのは手前の塔か、それとも奥の塔か。
キットは城壁、台座が含まれる贅沢な内容だが、仕上がりサイズは40センチx60センチとそれほど大きくはない。

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あんまり写真のクオリティが高くないがぐっとクローズアップ。厚紙補強をしないチェコ式のカードモデルは平面がヘニョりやすいので、面積の広い面は0.5ミリほどの厚紙で裏打ちをすると仕上がりがピリっと引き締まる。鉄道模型用の樹木などでディテールアップするのも面白そうだ(300分の1なので、Zゲージ用でもオーバースケールとなってしまうが、樹木ならそれほど気にはならないだろう)。

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塔の足元。こういう薄くて背が高い城壁は砲撃に弱いので16世紀末にはすでに廃れつつあった。
壁に描いてあるのは左側の赤いのがバートリ家の紋章。表紙画像で細かいディティールがわかるが、どういうわけかこの写真と左右が裏返しになっている(どうやら表紙の方が正しいようだ)。右側の青いのはエルジェーベトの夫であるナーダシュディ家の紋章。

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画像ちっちゃいけど、ナーダシュディ家の紋章のディティールはこんなん。由来はわからなかった。

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奥の塔へ向かう通路を拡大。両側から迫ってくる城壁が不安を煽る。
チェイテ城は無人となってから長らく放置されており、この奥の塔も1980年台に崩れ落ちたようだ。
この荒廃しきった情景と陰惨なバックグラウンドは映画人の想像力を刺激し、世界初の吸血鬼映画「ノスフェラトゥ(1922年)」の撮影ではオラヴァ城の他にチェイテ城も使われているらしい。
また、1996年の映画「ドラゴンハート」(デニス・クエイド主演)のロケ地としても使われたそうだ。

たまに映画の背景に使われる以外は好事家が訪れるだけで無人となっていたチェイテ城だったが、2014年にエルジェーベト死後400年を節目に修復された。
現在は観光地として整備が進んでおり、城内はチェコ文化の博物館となっている。入場料は大人2.5ユーロ(約300円)、6歳から15歳1ユーロ(約120円)、6歳以下無料とお手軽価格なのでスロバキアへ行く機会があれば是非スケジュールにチェイテ城見学を加えたい。なお開館は朝10時だが閉館は季節によって異なり、夏季でも午後6時、冬季には午後3時に閉まってしまうので注意が必要だ。

悪名高い「血の伯爵夫人」居城、スロバキア古城 Čachtický hradはスケール300分の1でのリリース。難易度は5段階評価の「4」(やや難しい)、定価は298チェココルナ(約1500円)となっている。当キットは東欧お城ファンのモデラーにとっては見逃すことのできない一品と言っていいだろう。また、怪奇映画好きのモデラーにとっても、同社のオラヴァ城と共に必携のキットであると言っても過言ではないだろう。 Z-Artには、今後も「へー、そーなんだー」って感じの古城キットのリリースに期待したいところである。

キット写真はZ-Art公式ページからの引用。

http://www.zartmodely.cz/Euni2.php?obsah=33
商品直リン

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。



参考ページ:
https://cachtickyhrad.eu/
チェイテ城の公式ページ。正直、ちょっと見づらいのです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Čachtice
https://hu.wikipedia.org/wiki/Csejtei_vár
https://ja.wikipedia.org/wiki/バートリ・エルジェーベト
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナーダシュディ・フェレンツ2世
それぞれの日本語、英語、ハンガリー語、スロバキア語版を参考とした。

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本日更新休止のお報せ。

本日、体調不良のため更新休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。

いや、別に「血の伯爵夫人」に呪われたわけじゃなくて、単に風邪引いただけです。ミカン食べて温かくしてますー。

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Z-Art スロバキア古城 Čachtický hrad・中編

庭の柿が豊作だったのを見て一念発起、一ヶ月弱に渡る連日の練習でなんとか人並みに包丁で皮むきができるようになった筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。本日はチェコ Z-Art ブランドの新商品、スロバキア古城 Čachtický hrad 紹介の続き。

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Čachtický hrad(チェイテ城)のあったチャフティツェ村を領有していたナーダシュディ家フェレンツニ世男爵は1575年5月8日、5歳年下のバートリ家エルジェーベト女伯爵と結婚、晴れてナーダシュディ・フェレンツ伯爵となる。なお、前回の記事で「ナーダュディ」と書いていたのは間違いなのでこっそり全部なおした。
フェレンツニ世はこの逆玉結婚が嬉しかったのか、結婚記念にチャフティツェを含む13の村(資料によっては18)をドーンと奥さんにプレゼントした。豪華さで知られる名古屋の嫁入りでもここまで派手にはなかなかやらないだろう。いや、あれは嫁入りだから逆か。

それはそうとして、勘違いしがちだがエルジェーベトはチェイテ城をもらってすぐにこの城に住んだわけではない。考えてみりゃ当たり前で、亭主のフェレンツニ世は別に居城があるんだからそっちで一緒に暮らしてた。

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Wikipediaからの引用で(この項、キット表紙写真以外全て同様)ハンガリーの町サヴァールに残るフェレンツニ世の居城、サヴァール城(「ナーダジュディ城」と表記されることもある)。五角形の構造が特徴的だがこちらの城はキット化されていないようだ。ちなみにハンガリー語での表記は「Sárvári vár」。中世には水を張った堀(ほり)が周囲を囲んでいたが、現在は埋められている。
サヴァールはハンガリー西部、スロバキアと国境を接するヴァシュ県にある街で、城は博物館として公開されているのでスロバキア東部、あるいはハンガリー西部を訪れる機会があったら足を伸ばして見学するのもいいだろう。

オスマン=トルコとの間で長く続く戦争の影響でフェレンツニ世は居城を留守にしがちであったが、二人の間に大きなトラブルはなかったようだ。
29年の間続いた結婚生活で2人には5人の子供、アンナ(Anna)、オルショリャ(Orsolya) 、カタリン(Katalin)、アンドラーシュ(András)、パール(Pál)が生まれている(アンドラーシュは7歳ほどで夭折している)。
もうひとり、ミクロシュ(Miklós)という息子がいて子供は6人だったとする資料もあるが裏付けはないらしい。また、その息子の名をジェルジ(György)としている資料もあるそうだ。
なにしろ新生児の死亡率が非常に高かった中世のことなので、あるいは生まれてすぐに死んでしまった子供がいたのかもしれない。

豊かな財力を背景に十分な教育を受けていた(ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語、ハンガリー語を自在に使えた)エルジェーベトは身寄りのない子供を集め、教育を施していた。また、トルコとの戦争で負傷した軍人や戦死者の未亡人の面倒も見ていたようだ。
なんだ、エルジェーベトさん、いい人じゃない。と思ったが、この後がいけなかった。非常にいけなかった。

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現在、同時代に描かれたエルジェーベトの肖像画は2枚が現存する。上の画像は彼女が25歳の時に描かれたものとされているが、作者は不明。見るからに状態が悪く、またタッチそのものも素人っぽい感じがある。由来のはっきりしない絵で、Wikipediaの情報では「1990年代に所在がわからなくなった」としか書かれていない(ハンガリー民主化の混乱の中で売り払われてしまったのかもしれない)。

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もう一枚は現在ブダペストのハンガリー国立博物館が所蔵しているもの。ただし、描かれたのは彼女の死後の1630年である。博物館に寄贈される以前はこの絵はナーダシュディ家が所有しており、第二次大戦中にはドイツ軍の接収を免れるために偽物の壁の後ろに隠されたという。こちらも作者は不明。

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もう一枚、オランダの画家アンソニー・ブロックランド(Anthonie Blocklandt van Montfoort)という人が1580年に描いた絵でモデルが不明の絵があり、これがエルジェーベトの肖像画ではないかという説がある。しかし、オランダの画家がどうしてハンガリーの貴族の肖像画を描けるのか、どこにも説明がないので良くわからない。
なお、3枚とも同じポーズで描かれているが、同時代の女性の肖像で似たようなポーズの絵は時々あるので(モデルがくたびれないように支えの台を置いたのかもしれない)、あまり深い意味はないだろう。

1604年、フェレンツニ世が48歳で死亡する。死因ははっきりしないが1601年ごろからひどい足の痛みに悩まされており、どうやら病死だったようだ(戦地ではなく、居城で亡くなった)。
未亡人となったエルジェーベトは居城をチェイテ城へ移すが、このころから召使いに対する虐待行為が激しくなる。
もともと、貧困層出身の召使いに人権などなかった時代だ。ちょいと腹がたった、なんだか気に入らない、といった程度の理由で打ち据えられ、それがエスカレートして殺されしまう、そしてそれがなんの問題にもならない、なんてことはそれこそ無数に行われていたことだろう(夫の存命中はむしろフェレンツニ世の方がそういった行いに積極的だったともいう)。しかし、エルジェーベトの場合はその程度が常軌を逸していた。

エルジェーベトがどのような行為を被害者に対して行っていたのか、あまり詳細を詳しく書くと年齢制限なしの当ブログがアカウント停止になってしまうのでやめておこう。
一説には彼女は生き血を浴びることで若返りできると信じていたと言われているが、それならもっとシステマチックにホイサホイサと事を進めりゃ良さそうなものを必要以上に対象を傷つけ苦しめているところを見ると、やはり性格的に破綻しているところがあったようだ。
なお、実際には人間の血液は体外に出ると急速に凝固してしまうのでそれを浴びたり、ましてや浸かったりするのは不可能だとのことである(輸血用の血液は抗凝固薬が混ぜられている)。

最初のうちは農民の娘など、身分の低い犠牲者を誘い出したり誘拐したりしていたエルジェーベトだが、農民に警戒されるようになったのか、あるいは単にどうでも良くなったのか、対象は位の低い貴族の令嬢にまで及ぶようになった。
こうなっては、「うちの領主はちょいとおイタが過ぎますな」では済まされなくなる。
牧師、イシュトヴァン・マジャーリ(István Magyari)はまだフェレンツニ世が存命中の1602年ごろから「あの夫婦はなんかおかしいぞ」との告発を国王に行っていたが、ハンガリー王は名門バートリ家、ナーダジュディ家におもねって数々の告発を無視していた。チマタで大流行中のナウい流行語で言うところの忖度(オランダ語で「休日」の意味)である。
しかし、いよいよ貴族の娘までが姿を消すようになってはこれを放置することはできず、ハンガリー王で焼豚を薦めてるような名前のマーチャーシュ2世(後のローマ皇帝マティアス)は捜査を命令、1610年12月30日にエルジェーベトは逮捕された。

544px-Lucas_van_Valckenborch_-_Emperor_Matthias_as_Archduke,_with_baton

ハンガリー王マーチャーシュ2世。データが正しければまだハンガリー王になる前、しばらく出張してたオランダから帰って一息ついてた25歳ごろ、お抱え絵師だったルーカス・ヴァルケンボルク (Lucas van Valckenborch)が1583年に描いたもの(おや、ここでも「オランダ」が出てきたぞ?)。
ちなみに「ドラキュラ伯爵」ヴラド三世の義兄(奥さん(名前不明)の兄)はハンガリー王マーチャーシュ1世だった。
(後編に続く)


キット画像はZ-Art公式ページから引用。

参考ページは後編にまとめて掲載予定。


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