無人航空機斯く戦えり・その2

引き続き無人航空機の歴史を辿る旅。終着地点は決めてるものの、そこへ辿りつくのに何回費やすかは未定。なので、おもしろ新商品きたら一時中断しますんであらかじめ御了承くださいな。

前回は無人航空機の誕生ということで、まさかの気球から話がスタートしたが、今回も前回に負けず劣らずプリミティブな飛行デバイスの話から。
動力飛行機の発明以前に人類が保有していた飛行技術には、気球以外に「凧」がある。お正月に上げるあれだ。凧はもともと無人なんで改て「無人航空機」って言うのも変だが、無人航空機の軍事利用、つまり凧の軍事利用というのもあながち無関係ではないので一応触れておきたい。とは言っても、巡航ミサイル方面に進んでいくつもりである当記事では、糸で繋がれている凧はあまり本筋ではないので簡単に済まそう。もちろん、凧で爆撃したらよっぽど長い糸じゃないとあげてる自分が吹っ飛んじゃうんで、凧の軍事利用ってのは偵察用だ。

忍者が大凧に乗って敵の城に忍び込み、無音のうちに大名の首を掻き切る……タツジン! なんてのはさすがに講談かニンジャ・スレイヤーでしかありえないんで割愛。
ちゃんとした記録に残っている凧の軍事利用に道を開いたのは、気象学者で、凧の権威でもあったウィリアム・エディー(William Abner Eddy)。「エディー」というのはなんかエドワードの愛称のようだが本名だ。
エディーは十文字に組み合わせた骨と、変形四角形の布で作る「ダイヤ凧」(お線香の「青雲」のCMでおなじみのやつ)の改善策の考案者(ダイヤ凧そのものは以前からあったが、ダイヤ凧同士のつなぎ方を工夫することによって長い尻尾を省き「連凧」として上げることを容易とした)で、この改良で特許を取得している(US646375)。
この改良により多数の凧をつないでより高高度まで上げることが可能となり、エディーの死の翌年のことではあるが、このダイヤ凧を10枚つなげた連凧で高度7,128 mという当時の凧の高度記録が作られている。

Margaret_Eddy_with_her_fathers_kites.jpg

Wikipediaにはウィリアム・エディー本人のいい写真がなかったんで、御令嬢のマーガレット・エディー嬢とダイヤ凧の写真(1895年撮影)を引用。いかにも19世紀のお嬢様らしい白いドレスとブーツ。凧が意外なほど大きいことがわかる。

エディーは1895年、機械的なタイマーでシャッターが落ちるようにしたカメラを凧に積み、アメリカ初の空中写真の撮影に成功している。なお、世界初の空中写真は1858年にフランスの写真家ナダール(Nadar)が気球から撮影、また、凧からの空中写真は、これまたフランスの写真家アルトゥール・バトゥ(Arthur Batut)が1889年に成功している。
1898年、米西戦争に従軍したエディーは多数の偵察写真を撮影しており、これは戦史上最も初期の空中偵察写真ということができるだろう。
ちなみにエディーは後(1908年)に、買い置きのアイスがたびたびなくなってしまう怪現象を解決するために自宅上空に凧を上げて写真を撮ったところ、勝手口からアイスを失敬しに上がり込んでいる二人組がバッチリ写真に収められていたという。なんだか、凧を上げるよりも先にすべきことがあったような気もするがそれはさておき、これは世界でもおそらく初めての「空から撮られた証拠写真」と言えるだろう。

さて、エディーが凧あげして写真をパチリという、なんだかのんびりしたことをしている間にライト兄弟は動力飛行を成功させ、時代は飛行機全盛期へと突入していく。
1914年、第一次大戦勃発。いよいよ戦場では風船や凧ではなく飛行機が用いられることとなるが、記録に残る限りでは、無人航空機の軍事活用を最初に思いついたのは英国空軍だった。
イギリス空軍は1916年、英国本土へと高高度侵入してくるツェッペリン飛行船に対し、地上から無線誘導で体当たりを仕掛ける無人航空機の開発を開始した。また、この機体は随伴機からの無線操縦で敵陣に突っ込ませる飛行爆弾としての運用も考えられていた。なんだか急に一気に本格的になったぞ。
このプロジェクトを率いたのが後に「無線誘導技術の父」と呼ばれることになるアーチボルド・ロウ(Archibald Montgomery Low)だった。

Archibal-Low.jpg

「いかにも」といった感じのロウの写真(Wikipediaより引用)。出典は1920年のイギリスの科学雑誌らしい。

ロウは1888年生まれなので、プロジェクトを任された時はまだ30歳にもなっていない。
幼少のころロウは両親の都合で一時オーストラリアへ渡っており、そこでは各家庭に電話が備え付けられていることに大きな衝撃を受けたという。成長してからは10歳にもならないうちに自宅の実験室で発明、実験に打ち込み、悪臭やら爆発音やら煙やらが出るたびに両親は御近所の苦情に謝って回っていたようだ。偉大な科学者には偉大な両親が必要なのである。
11歳でロウはロンドンの名門、セント・ポールズ・スクールに入学するが、本人に言わせると「あんまりにも人がたくさんいて」うまく馴染めなかった。ロウの同級生に、後にイギリス軍機甲師団を率いてロンメルと戦うことになるバーナード・モントゴメリーがいたが、将軍の回想によると、「なんだかボンヤリしたやつ(rather dull)」だったらしい。
16歳でロウは中央技術学院(Central Technical College)へ進学。こちらはロウにとって本領を発揮できる場所で、在学中に様々なことに挑戦したロウは新型の製図板を開発し、これは商品化されている。

卒業したロウは叔父(あるいは伯父)の経営する「ロウ装飾・点火社(The Low Accessories and Ignition Company)」に入社した。この会社はエンジニア系の会社としては当時ロンドン市内で2番目に古い会社だったが、すでに運営は火の車だった。
だが、経営者のエドワードはロウ青年を規定の業務に縛り付けず、その奔放な発想・発明を支援し自由に開発をさせるという道を選んだ。その結果、ロウが次々に生み出す新しい機械、既存メカニズムの改善は会社の経営を次第に上向かせていったという。偉大な科学者には偉大な経営者も必要だ。
1914年には、ロウは電気信号で画像を転送する「テレ・ビスタ」の実験を公開している。言うまでもなく、これは後のテレビジョンへとつながっていく発明だが、使用したセレン受光器(写真機の露出計と同じ原理)は動画を電気信号に変換するにはあまりに感度が低く、あまりうまくいかなかったようだ。

第一次大戦の勃発でロウは軍に入隊、すでにテレ・ビスタの実験などで名前が知れていた彼は渡りに船とばかり、英国空軍の無線誘導無人機の開発部門へと送られた。

(その3に続く)

参考ページ:
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Abner_Eddy
https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Low
その1との重複は省略。
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無人航空機斯く戦えり・その1

開発室の引っ越しで、来週から勤務地が田町になる筆者のお送りする、カードモデルに関係あったりなかったりする情報。今回から数回は、とあるキットについて確認しようとしてすっかり泥沼にはまった無人航空機開発史について、ネット上で拾い集めてきたにわか知識で語ろうという趣向だ。

いろいろと定義はあるが、軍用の無人航空機で最初に実用化に達したのは第2次大戦中にドイツが実戦で使用したフィーゼラー Fi103、別名V1飛行爆弾であったと言えるだろう。
では、実用化に達しなかった無人航空機には、どんなもんがあったんだろう。
記録に残っている最初の軍用無人航空機は、おそらく1863年2月24日に米国特許(US 37771 A)が取得されたチャールズ・パーリーの「風船爆弾」だろう。

US37771-0.jpg
画像はGoogleの特許検索から(データ提供: IFI CLAIMS Patent Services)。

1863年……1863年!? 日本で言えば文久年間、ペリーが浦賀に来てまだ10年の1863年???
そう、タイプミスではなく、本当に1863年である。
映画「SF巨大生物の島」は南軍に囚われた北軍兵士が気球で脱出するシーンから始まるが、アメリカでは1861年から始まった南北戦争で、北軍が「陸軍気球軍団(Union Army Balloon Corps)」というのを編成し、敵情や弾着を觀測するのに用いていた(気球が軍事用に使用されたのは1794年、フランス革命中にフランス陸軍が弾着觀測に用いたのが最初)。
これに目をつけたのがニューヨーク在住の発明家、チャールズ・パーリー(Charles Perley)だ。
当時の火砲は平射する野砲だと射程だいたい1.5キロ、山なりの弾道で砲弾を放り込む迫撃砲だともっと短くなる。
射程がこれしかないんでは、守りを固めた要塞に砲弾が届くまで火砲を引っ張っていこうとすれば目標まで1キロぐらいまで近づかなければならず、当然防御側の砲火、さらに一部の腕の良い狙撃手が装備していたライフル銃の狙撃に晒されることとなる。
そこで、パーリーは気球で目標を爆撃することを思いついた。
すなわち、攻撃側はまず目標の風上に陣取り、そこで爆弾を積んだ無人の気球をふくらませる。気球には時計仕掛けで底が開くバスケットが吊るされており、その中に積まれた爆弾がふわふわ~~~~ひゅー、どかん、と目標を破壊するというわけだ。やったぜ。
なぜ、人が乗った気球で敵の上まで行って爆弾を投げ落とすのではいけないのかと言うと、当時の気球は水素で浮力を得ているために当然被弾に弱く、敵の真上まで行っては到底生還は望めない。しかし、無人なら撃ち落としたところでやっぱり爆弾は爆発し、結局は敵に損害を与えるのだからどんどん撃ち落としてくださいな、というわけだ。
もちろん、過去にも似たようなことを思いついた発明家はいただろうが、きちんと文書に残っているのは、このチャールズ・パーリーの特許が最初だと思われる。

なお、このチャールズ・パーリーという人物、1840年台中盤から1860年台中盤にかけていくつか特許を取得しているが、詳しい人物伝は見つけられなかった。風船爆弾以外の特許には船舶関係の機器の改良が多く、港湾関係者だったのかもしれない。
スミソニアンのアメリカ・ナショナル・ミュージアムにはチャールズ・パーリーの「教会・学校用折りたたみ椅子」の特許模型が収められている。

リンク

「特許模型」というのは、アメリカ特許庁が特許申請の際に提出を義務付けていた縮小模型だが、後に特許の出願が多くなると特許庁の倉庫が大変なことになったので1880年に廃止された。
ちなみにアメリカの特許で検索をかけると1870年台にもチャールズ・A・パーリーという人物がいくつか特許を取っている。こちらの人物は特許取得時にはマサチューセッツ在住だが、上記の折りたたみ椅子に”C. Perely and Sons”と刻んであるので、おそらく息子なのだろう。

さて、パーリーの「風船爆弾」は戦争の様相を一変させ、空をふわふわと埋め尽くす無人気球からの爆撃で南部の都市は軒並み焼け野原となり、南部連邦大統領ジェファーソン・デイヴィスも「ほんとすんませんでした」と謝った、のかと言えばもちろんそんなことはなくて、「SF巨大生物の島」でも気球が嵐で流されてでっかいカニがいる島に漂着したことでもわかる通り、パーリーの風船爆弾は文字通り「風まかせ」という大きな欠点があった。
時計仕掛けの投下装置も、そのタイミングで敵上空に差し掛かっている保証はなく、ヘタすりゃ上げた途端に風がなくなってどうしようかと見上げてるうちに気球から爆弾がコンニチワ!することになる。それでも、風船爆弾は特許が取得された北軍、またそれを模倣した南軍によって少量が実戦で投入されたようだが、あまりはっきりとした資料はない。

(その2に続く)

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/北軍気球司令部

http://www.pbs.org/wgbh/nova/spiesfly/uavs.html
https://sites.google.com/site/uavuni/
無人航空機の歴史。今回の記事のネタ元。

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本日更新休止のお報せ。

本日、本業その他で多忙のため更新休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。

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answer アメリカ 軽戦車 Ford 3-Ton M1918

対空戦車ケーリアンとか駆逐戦車アキリーズとか、気になるアイテムは多いのだが、なにしろ表紙画像一枚しか画像がないんでなかなか紹介できないポーランドのブランド、answerから意外な新製品の情報が飛び込んできた。
今回、いつもの週末更新の日程とは別に紹介するのはまさかまさかのリリースとなった、アメリカ 軽戦車 Ford 3-Ton M1918 だ。

ford-3t-m1918.jpg

同じじゃねーか!

ひと月ほどの間にフォード3トンのキットが3種リリースって、なんでこんなことになったんすか……

ちなみにお値段は28ポーランドズロチ(約900円)だ。

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Murph's Models カナダ 汎用機 Noorduyn "Norseman"・後編

カードモデルにハマって約10年、何も考えずにキットやら資料やら空き箱やらを積み重ね続けた作業台の周りがどうにもこうにも使いづらくなってきて、一念発起大掃除を始めた筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。先週に続きアメリカはアリゾナ州のブランド、Murph's Modelsからの新製品、カナダ 汎用機 Noorduyn "Norseman"の紹介。

murm_noorduyn_norseman_us_army_rescue-cover.jpg

前回は1935年にノースマン最初の一機が初飛行したところまでだったが、この一機、いわゆる「試作機」ではない。と、いうか、ノースマンには試作機といえるものが存在しない。どういうことかと言うと、最初に飛んだノースマンは性能に全く問題がなかったために、製品一号として後に民間航空会社に売却されているのだ。世の中には試作機を飛ばしてみたら山ほど問題が明らかになったとか、そもそも飛ばなかったとか、とんでもない飛行機が多い中、ノールダインがいかに緻密にアイデアを温めていたのかを物語るエピソードだと言えよう。
ちなみにこの最初のノースマン、後に映画会社のワーナー・ブラザースがチャーターし、ジェームズ・キャグニー主演の映画「 空軍の暴れん坊」(”Captains of the Clouds”、邦題は「大西洋の翼」となっていることもある)で元気に飛び回っている姿を見ることができる。しかも、1942年の映画なのにテクニカラーの総天然色だ。その後もこの機体は戦中戦後を通じて飛び回っていたが1952年に墜落し全損。その残骸は今日もカナダ不整地飛行機記念館(Canadian Bushplane Heritage Centre)に展示されている。

1935年から52年まで飛び続けた最初の一機の例でも分かる通り、ノースマンはノールダインの意図通りに頑丈で性能が良く、不整地での運用に非常に適していた。しかし、意外と売上は思うように伸びず、1940年までに売れたノースマンはわずか17機(主な納入先はカナダ王立騎馬警官隊)。
しかし、第二次大戦で状況は一変する。一機でも多くの航空機を必要とする連合軍のために、ノールダインは最初ハーバード練習機(アメリカのテキサン練習機のイギリス向け生産型)のライセンス生産を行っていたが、カナダ空軍からの要請に応じて無線・航法練習機として一気にノースマン38機の発注を受ける。やったぜ、売上倍増だ。

そして、文字通り「桁違い」のビッグチャンスがノールダインに飛び込んできた。
アメリカ陸軍航空隊は、追い詰められたイギリスを支援するために物資、兵器、そして航空機を空路ガンガン送りつけていたが、荷物を渡したらパイロットは帰ってこなければならない。英国への行き来には枢軸軍の手が届かないグリーンランド経由のルートが使われていたが、このルートに最適な汎用機としてパイロットの送迎に選ばれたのがノールダイン・ノースマンだった。
この過酷な任務のために約1000リットルの燃料タンクを胴体内に増設した軍用のノースマン、C-64/UC-64が749機が生産された(うち3機は海軍が購入している)。また、カナダ空軍もさらに長距離型ノースマンを34機追加購入している。
当然、騎馬警官にちょこちょこ飛行機を作っていたノールダインにこの大量発注に応じる能力はなく、受注したうちの約600機は軽飛行機をバリバリ生産していたエアロンカ社でライセンス生産されている。

まぁ、任務が任務なのでノースマンには戦史に残るような派手な活躍はないが、一度だけ戦時中の大きな事件に名前が出てきたことがある。1944年12月15日、ドイツ軍のアルデンヌ攻勢が始まる前日、伝説的ジャズ奏者として現在にもその名を轟かせているグレン・ミラーがフランスの連合軍慰問のためにイギリスからUC-64で飛び立ちそのまま消息を絶ったのである。
当時すでに英仏海峡の制空権は連合軍が完全に掌握しており、ドイツ軍機の奇襲という可能性はない。一時はドイツ空襲から帰還したアブロ・ランカスターの編隊が着陸前に正常投下できなかった爆弾を英仏海峡上で投機したのに巻き込まれたのではないかという説もあったが、これは当日のランカスター編隊の航路を検証するとあり得ないらしい。
となると、残る可能性は機体の異常である。2014年、アメリカの新聞シカゴ・トリニューン紙は「UC-64はキャブレターに欠陥があり、しばしば低温でキャブレターが凍結したことによる墜落事故を起こしていた」としてUC-64欠陥説を唱えたが、キャブレターの凍結は当時のエンジンに共通する弱点であり、寒冷地に特化してその頑丈さが評価されていたノースマンを名指しにした評価としてはいささか不適当ではないだろうか。
なお、UC-64では他に31機を撃墜したカナダ空軍きってのエースパイロット、ジョージ・フレデリック・バーリング(George Frederick Beurling)が戦後にイスラエル空軍に従軍しようとしてローマからUC-64で飛び立ち、エンジントラブルで墜落、死亡している。エンジントラブルが墜落に直結してしまうのは単発機の宿命だが、ノールダインが整備されていない空路に投入されるノースマンをあえて単発としたのは整備性を重視したのだろうか。

戦後、ノールダイン社はカナダ自動車工場社(Canadian Car & Foundry)に買い取られ一時消滅する。CCFではノースマンの民間向けバージョンを再生産し、さらに金属製の主翼とより容量の大きい胴体を装備した新型ノースマンの生産も準備していたが、朝鮮戦争向けに既存の機体の生産に忙しくなって試作機を倉庫に入れておいたら火事で倉庫ごと燃え尽きた。
1953年にノールダインはノースマンの製造権利と工作用の治具を買い取りノールダイン・ノースマン航空機会社(Noorduyn Norseman Aircraft Ltd.)を設立する。しかし、ここでは新しいノースマンの製造は基本的に行わず(3機だけ作った)、既存のノースマンの修理だけを請け負っていた。
ロバート・B・C・ノールダインは1959年2月22日、65歳で亡くなった。ノールダイン社はその後大手企業グループに買い取られたりしたようだが、現在はNORDUYN("O"が一つ少ない)のブランドで活動している。ただし、業務内容は旅客機の内装用機器がメインのようだ。
ノースマンは総計で903機が生産され、現在、カナダでは42機が登録されている。特殊な用途の機体のために転売が繰り返されており世界中では何機が現役として飛んでいるのかは誰にもわからない。これら現存機は「ノースマンの聖地」を自認するカナダ・オンタリオで毎年7月に開催される「ノースマン祭り」に集まり親睦を深めるそうだ。

ノールダインの夢見た究極の不整地用汎用機、カナダ 汎用機 Noorduyn "Norseman"はいつもの空モノ標準スケールよりちょっとだけ大きいヨーロッパスケール32分の1でのリリース。難易度表示はないがディティールよりもフォルムを大切にするMurph's Modelsの作品なので、それほど高い難易度ではないだろう。定価はEcardmodelsで4ドル(ダウンロード販売のみ)。またEcardmodelsではハンティングやトレッキングをサポートしている「Renfro Alaskan Adventures」(アラスカ)、「Chimo Air Service」(オンタリオ)という小航空会社の塗装2種も扱っている。Chimo Air Service機はフロートを装備した水上機仕様となっているが値段は全て変わらず4ドルだ。

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ノースマン好きのモデラーならダウンロード販売の利点を活かして様々なノースマンを自作し、一人ノースマン祭りを開催するのも面白そうだ。そして、ジャズ好きなモデラーならグレン・ミラーに敬意を評し、不滅の名曲ムーンライト・セレナーデを聞きながらゆったりとした気分でノースマンを製作するのもいいだろう。

画像はEcardmodelsからの引用。

https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_B.C._Noorduyn
https://ja.wikipedia.org/wiki/ノールダイン_ノースマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/グレン・ミラー

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