本日更新休止のお報せ。と、通勤中に見かけたすごい船。

恐れながら今週も引き続き、本業多忙のため更新休止とさせていただきます。
一応、予定では次の週末で納品なんでいよいよゆっくりできる予定。でもなに紹介するかはまだ未定(韻を踏んだ)。

2週連続で「休止します」で話が終わっちゃつまらんので、通勤途中に見かけた船の写真を。

第八十八大栄号

どーん。
大分の「株式会社 ティ-・シ-ジャパン」が保有する「第八十八大栄号」。
でかい! とにかくでかい!
一見、クレーン船のように見えるけど(というか、実際クレーン船ですけど)本業は基礎の杭打ち。排水量3千トン、クレーンの腕(ジブ)は全部伸ばすと70メートル、吊り下げ荷重550トンという海の怪物。旋回式のクレーン部分が戦艦の主砲塔っぽくてこれまた大迫力ですが、よくみると青いクレーン操作室の前に、灰色の階段を登っていく作業員(白いヘルメット着用。前を行く一人は蛍光オレンジのベストを着ている)がいて、その大きさがわかります。
第八十八大栄号は去年の3月に就航したばっかりの新造船で、公式ページも「日本最大級の先進的最新鋭の杭打船」「世界無双の杭打船」と興奮気味。
後ろに写ってるタワーは船の科学館の旧展望レストラン(スマホのパノラマ機能で撮ったんでちょっと歪んじゃいました)。第八十八大栄号は新客船ターミナルの基礎工事のために召喚されたようです。
太っ腹なことに、公式ページでは第八十八大栄号のCADデータを公開しているのでカードモデル化も可能! 杭打船ファンのモデラーなら展開図作成に挑戦してみてはどうでしょう。このトラスのジブを作るだけで悟りが開けそうだ。
さぁ、オモロイもん見た勢いでラストもう一週間頑張ります!

*Jさん(Zさん?)、先日もコメントありがとうございます。
 大変励みになっております。

*3月21日
今日も(通勤ルートだからあたりまえながら)近くを通ったので撮り足してきました。

第八十八大栄号2

せっかくなんて、一段低い位置から。右側に並んでるのが基礎用の杭かな? 中空なのね。

第八十八大栄号3

南極観測船「宗谷」とのツーショット。画面左端の建物は警視庁湾岸署。
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本日更新休止のお報せ。

本日本業多忙のため、更新j休止させていただきます。
またのお越しを心よりお待ちしております。

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GPM ドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN・後編

生来の後送り体質のためにまだ確定申告を提出しておらず、今現在も『面倒だし来週でもいいかなー』と囁く悪魔と『期日ギリギリに提出が集中すると処理が大変なんです!』と真っ向対決する脳内税理士が激しい戦いを繰り広げている筆者のお送りする世界のカードモデル最新情報。確定申告は覚えてたら後でやるとして、今回は先週に引き続きポーランドGPM社からリリースされたドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN だ。

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前回の続きに入る前に、見落としてた情報の補足を少々。まず、ドイツ帝国タンガニーカ湖艦隊の一隻、武装汽船の「Kingani」は前回「由来不詳」としたが、Kingani川の名前からの命名だそうだ(Kingani川は現在の世界地図では「Ruvu川」と表記されている)。あと、タンガニーカ湖西岸のベルギー領コンゴもタンガニーカ湖に汽船航路を通そうとゲッツェンとほぼ同じ大きさの汽船「Baron Dhanis」をベルギーから持ち込んでいたが、こちらはまだ未組立で、そんなもんをトンテンカンと作ってたら間違いなくゲッツェンがぶっ壊しにくるんで組み立てられず、このベルギー船はこの後話に出てこない。
それと、前回の最初に書くつもりで完全に忘れていたが、船名のカナ表記が「ゴッツェン」じゃなくて「ゲッツェン」なのは、船名の由来となった総督の名前がウムラウトのつく「Gustav Adolf von Götzen」だからだ。ごっつぁんです。

さて、いざ戦争が始まってみると、ゲッツェンは連合軍にとって実に頭の痛い存在であった。なにしろゲッツェンは1500トンというタンガニーカ湖では格段に大きい船なので、数百人の兵士を一気に運搬することができる。つまり、連合軍はドイツ軍の上陸に備えて長さ670キロの西岸全てに警戒部隊を張り付けておかなければならない。
ゲッツェンに対抗できる船舶を持たないイギリス軍は、これに対処するためにイギリス本土から新たな戦力を湖に持ち込むこととした。しかし、大柄な船は(ベルギー船のように)持ち込んでも組み立てることができない。そこでイギリス軍は大きさに「機動力」で対抗することを企てる。
イギリス軍はなぜかギリシャ空軍のために建造中だった2隻のモーターボートを徴発。この船は100馬力ガソリンエンジンと2軸スクリューで長さ12メートルの船体を最大時速19ノットですっ飛ばすことができた。
そして、このイギリス海軍タンガニーカ湖艦隊を率いることになったのが、ジェフリー・スパイサー=シムソン(Geoffrey Spicer-Simson)であった。

1876年に生まれのシムソン(スパイサー=シムソンは二重姓なんで、本当は省略しちゃいけい)は14歳で英国海軍に入隊。1905年には当時新兵器の潜水艦への対抗策として「2隻の船の間の低い位置にケーブルを張ってですね、潜水艦の両脇を通過するんですよ。そうすると潜望鏡が折れるでしょ? 水が入ってハイ、おしまい」というアイデアを思いつき、実際にケーブルを張った船を走らせて関係ない小舟を引っ掛けて沈めた。
開戦時には少佐になっており掃海艇HMS Nigerを旗艦とする小艦隊の指揮官に任命されたが、妻の友人が近くまで来たのを港のホテルに歓待しに行って帰ってきたら、HMS Nigerは真っ昼間だってのにドイツ軍潜水艦U-12の雷撃食らった沈没してた。
と、まぁ問題児なシムソンがタンガニーカ湖の任務に選ばれたのは、父親が貿易商であったために幼少をフランスで過ごしフランス語はペラペラ、ついでにドイツ語も堪能ということが評価されたのだろう(行動拠点となるコンゴがベルギー(フランス語圏)領だったから)。

シムソンは任務を説明され、2隻のモーターボートを受け取ると、それぞれ「HMS Cat」と「HMS Dog」と名付けようとしたが海軍省から「真面目にやれ」と怒られた。仕方ないので、今度は「HMS Mimi」と「HMS Toutou」で申請したら今度は通った。意味はそれぞれのフランス語でネコの鳴き声と犬の鳴き声なので、日本語に直訳すると「ニャーニャー号」と「ワンワン号」である。悪化してるぞ。
シムソンはさらに速度を増すためにボートを少し切り詰め、武装を強化するために3ポンドホチキス速射砲とマキシム機関銃を搭載(オリジナルの武装は不明。なぜヴィッカース機関銃じゃなくてマキシムなんだ)、防御のためにガソリンタンクに防弾板を追加した。
1915年6月8日にテムズ川でMimiが行った3ポンド砲の発射実験では、的に命中弾を与えることには成功したが、取り付けが不十分だった3ポンド砲は船体から外れて砲員もろとも川に飛び込んだ。

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話の流れと全然関係ないけど、長くなりそうなんでここらで公式ページの完成見本写真。
ゲッツェン船首の88ミリ砲。八卦炉みたいな後付砲座が水平になるように苦労した後が見て取れる。でも手すりもなんにもないから砲員は脚を滑らせると下のデッキに落ちちゃう。

6月15日、ワンワン号とニャーニャー号はシムソンが選抜した27人のチーム(海軍が現役を回してくれなかったのか、全て海軍予備人員とシムソンの知り合いで編成)と共に汽船「SS Llanstephen Castle」に積み込まれ、アフリカへと出発した。
タンガニーカ湖東岸はドイツ領タンザニア、西岸のベルギー領コンゴは内陸国で海岸線がない。なので、イギリス軍タンガニーカ湖艦隊はイギリス連邦南アフリカに到着してから2000メートル級の山脈を越え、5000キロを縦断してタンガニーカ湖までたどり着かなければならなかった。とは言っても、距離こそ長いものの基本的に鉄道が使えるので途中までの移動はそれほど困難ではなかった。問題は7月26日に到達した鉄道終着点から湖までで、艦隊はボートをキャリアーに載せ、蒸気トラクター、牛、現地住民が距離240キロを引っ張って引っ張って、そこからはタンガニーカ湖に流れ込む川を陽気に下って、最後はベルギー人が敷いた軽便鉄道にちょっと乗って、10月末についに2隻のモーターボートはタンガニーカ湖に浮かんだ。

ドイツ側はイギリス艦隊の到着を把握していなかった。そのため、12月26日に連合軍側の様子を探りに来たドイツ軍武装汽船Kingani は2隻のモーターボートに奇襲を受けることとなる。Kingani は武装として6ポンド砲を積んでいたが、この砲は船首に前向きに装備されていた。それに対し、英軍のモーターボートは自由自在に周囲を走り回り3ポンド砲を立て続けに打ち込んでくる。11分間の戦闘でドイツ側は士官が次々に死傷し、戦闘旗を降ろし投降した。
スコットランド出身でもないのにキルト(スカート)を履いて、少佐なのに自分の小屋に海軍大将旗を掲げた(これはさすがに未遂かもしれない)シムソンはKingani を修復、「HMS Fifi」として艦隊に加える。Fifiというのはフランス語での鳥の鳴き声、つまり「ピヨピヨ号」である。もう突っ込む気も起きない。一応フォローしておくと、シムソン曰く『「Fifi」はとあるベルギー人士官の小鳥を飼っている奥方から提案されたもの』だそうだ。なお、改装に際しシムソンはFifiの6ポンド砲を船尾に移動し船首には12ポンド野砲を追加している。テムズ川と違ってタンガニーカ湖は砲が吹っ飛んだら回収できないぞ。

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船体中央部。2つの小型キャビンは1等船室と2等船室か。後方キャビンの後面に、オープンカフェみたいなスペースがそのまま残っているのにも注目。

Kingani は無線を搭載していなかったようで、ドイツ軍はKingani の損失理由を把握していなかった。
そのため、1916年1月になってドイツ艦隊のHedwig von Wissmannが捜索のために派遣された。
2月8日、H.V.Wissmannをイギリス艦隊が発見。ワンワン、ニャーニャー、ピヨピヨが直ちに出動する。ここはまんが日本昔話か。
H.V.Wissmannは最初、向かってくるのをベルギーの汽船と勘違いしたが、英国海軍戦闘旗に気づきゲッツェンの停泊してる方へ逃走を開始した。あるいは、英軍をゲッツェンの射程範囲内へ引きずり込もうとしたのかもしれない。
H.V.Wissmannの砲座は射界が広く、3ポンド砲よりも射程が長いためにモーターボートが近づくのは危険だった。従って、英軍の攻撃はFifi(シムソン自身が座乗していた)の12ポンド砲がメインとなる。
FifiがH.V.Wissmannを捉え、バコン、と12ポンド砲を発射した途端に反動で機関が止まった。続いてもう1発、発射しようとしたら今度は砲がジャムった。
20分かけて不発弾を取り除く間、モーターボート2隻がH.V.Wissmannの周りをぐるぐる回って威嚇を続ける。
やっと発射した3発目の12ポンド砲弾が機関室に飛び込みボイラーを爆発させ、H.V.Wissmannは撃沈された。

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Wikipediaからの引用で、Kinganiを鹵獲した直後に撮影された写真。左端で一人だけスカート履いてるのがシムソン。あと、よく見ると右端にワンコがいるが、その周りが不自然にモヤモヤっとしてるので、なにか修正されているのかもしれない。

出撃するたびに1隻、また1隻と船が消えている状況では個艦となったゲッツェンの動きも鈍くならざるを得なかった。また陸上での戦闘も連合軍有利に進み、港へも敵が迫っている。
1916年7月、背後に浸透した連合軍によって鉄道が遮断されドイツ軍はタンガニーカ湖からの撤退を決定した。すでに火砲を降ろし、ダミーとして丸太を積んでいたゲッツェンにも自沈が命じられる。
ゲッツェンを組み立てた技術者3人がまだ現地に留まっていたので、彼等に自沈処理が命じられた。
この3人の技術者の名前は伝わっていない。だが、彼等は苦労して組み立てたゲッツェンを沈めることが忍びなかったらしい。取り外し可能な部品は陸上の倉庫にしまい、取り外しができない部品には念入りにコッテリとグリースを塗ることで水を遮断。また、自沈のためのバラストとして撤去が用意な砂袋を使用した。

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船尾の105ミリ砲。砲座の前にあるのは自衛用の37ミリリボルバーカノン。砲を撤去されたゲッツェンだったが、連合軍がショート・タイプ827で行った爆撃に対抗するためにリボルバーカノンは残された。

港を占領した連合軍は沈んでいるゲッツェンを移動しようとしたが嵐で失敗。しかし、1924年にイギリスが再浮揚に成功した。
8年間も沈んでいたにしては船は驚くほど状態が良く、グリスを取り除き多少整備するだけでゲッツェンは再び航行可能となった。
1927年5月16日、ゲッツェンは船名を「Liemba」に変更し、本来の任務であったタンガニーカ湖の定期航路に就航する。
その後、リエンバは何度かのオーバーホールを挟みながらも稼働を続けている。1976年から79年のオーバーホールではオリジナルの蒸気機関が取り外され、ディーゼル機関に換装された(1993年にデンマーク政府の資金援助でもう一度換装している)。
リエンバはまた、1997年のコンゴ、2015年のブルンジでの紛争から逃れる難民を運ぶために国連によってチャーターされた。
現在は毎週木曜に北側から出発し金曜に南側へ到着。金曜のうちに折り返し土曜に出発地した北側に戻ってくる。なお、南北2箇所の港以外にも立ち寄るが桟橋がないので、そこでは小舟での乗り降りとなる。船室はVIPルーム2部屋、1等船室10、2等船室18。これ以外に座席だけの3等船室もある。
動画はYoutubeなどで「Liemba」で検索すれば、ハゲチョロ、ベコベコの船体で頑張る姿を見ることができる。

イギリス軍タンガニーカ湖艦隊を率いたジェフリー・スパイサー=シムソンはタンガニーカ湖の戦いが終わった後、療養のために本国へと帰った。1919年のベルサイユ講和会議には海軍の通訳部長として同行している。
1921年に発足した国際水路機関(International Hydrographic Organization)の初代事務総長に選出され、37年までこの職を勤めた。その後はカナダのブリティッシュ・コロンビアに転居し、過去の冒険について講演を行ったりナショナル・ジオグラフィック誌の記事を書きながら晩年を過ごし、1947年1月29日に71歳で死亡した。

GPMからリリースされた、おそらく世界最古の実働船である「MV Liemba」の前身「SMS GOETZEN」。今回は小型船スケールである100分の1でのリリースなので完成全長は約70センチ。難易度は3段階評価の「2」(普通)。そして定価は300ポーランドズロチ(約1万円)となっている。また、近々250分の1バージョンの発売もアナウンスされている。

当キットはタンガニーカ湖ファン、ドイツ領東アフリカファン、そしてスパイサー=シムソンファンのモデラーなら見逃すことのできない一品と言えるだろう。




画像はGPM社サイトからの引用。


*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/グラーフ・フォン・ゲッツェン_(砲艦)
https://en.wikipedia.org/wiki/MV_Liemba
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Mimi_and_HMS_Toutou
https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Fifi
https://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_Spicer-Simson
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_for_Lake_Tanganyika
シムソン伝説についてはなぜかBattle_for_Lake_Tanganyikaの記事の方が詳しく書かれている。

http://lakeshoretz.com/liemba/
http://www.bbc.com/news/world-africa-14677418

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GPM ドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN・前編

帰りの電車の中でハッと目覚めたら降りる駅を2つも過ぎていた筆者がお送りする世界の最新カードモデル情報、本日紹介するのはポーランドGPM社からリリースされたドイツ帝国仮装砲艦 SMS GOETZEN だ。

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よく見ると「2015年18号」と書いてあるが、カタログに出てきたのが最近なんで新作ってことでここは一つお願いしたい。

当コーナーではよく、やたらと長持ちした装甲艦の話題が出て来るが、では逆に2017年現在、現役で最も古い船はなんだろう。
イギリスの戦列艦、HMS”ヴィクトリー”(1765年)は現役として登録されている船としては最も古いものだが、あの船はいわば名誉永久現役艦で、ここ100年はずっと乾ドックに入りっぱなしだ。アメリカの帆走フリゲート艦”コンスティチューション”(1794年)は時々航海に出てるが、あれだって普段は飾ってある「航行可能な記念艦」にすぎない。
ここで話題にしたいのは、もっとこう、毎日毎日普通に普通に使われていて、使ってる人たちも記念艦だなんて思っていないような「普通の船」として最古の船の話である。
この問に応えるのはなかなか難しい。どこか田舎の湖で、はるか昔に作られた汽船がいまでも渡し船として頑張っているかもしれないからだ。しかし、一般的に知られている範囲内での「世界最高齢の、普通に現役の船」は、おそらくアフリカ南東部、タンザニアとコンゴに挟まれた細長い湖「タンガニーカ湖」で週に一度貨客を載せて湖を行き来している「MV Liemba」(「リエンバ」現地古来のタンガニーカ湖の呼び名)であろう。

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ちっちゃい写真だが、2003年に撮影されたリエンバ。Wikipediaからの引用。
なんてことない普通の船だが、この船こそ現役最高齢の普通の船にして、ドイツ帝国海軍唯一の現存艦なのである。

ドイツは1871年に諸侯が統一し「ドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)」となったが、帝国ならやっぱり帝国らしく帝国主義に邁進したい。19世紀型帝国のトレンドはなんといっても「植民地経営」で、帝国たるもの植民地の一つも持ってないと、列強クラブでは相手にされないZO☆ という雰囲気だった。
そんなわけでドイツ帝国もアフリカに、アジアに、オセアニアに探検隊を派遣して勝手に旗を建て、「ふむふむ、つまり君たちはドイツ帝国の庇護を欲しているわけだね!」とドイツ語が通じない現地の人々から快く了承を得て植民地を獲得していった。
もっとも、植民地獲得競争にドイツ帝国が遅れて参加したころには世界地図の目ぼしいところはイギリス、フランス、スペイン、ポルトガルといった数百年早く世界へ飛び出していった連中によって押さえられていたが、探せば「空白地」ってのはけっこうあるもんで、ドイツ帝国は19世紀末までにニューギニア、西アフリカ(現在のナミビア)、東アフリカ(現在のタンザニア)、オセアニアのサモア、中国の青島などを占領していた。
しかしまぁ、そんな一方的身勝手な話が「めでたしめでたし」に終わるわけはなく、ドイツ帝国領東アフリカでは換金作物として綿花の栽培をドイツが推進し、無茶苦茶なノルマを課したことに対する反発をきっかけに1905年、極めて大規模な反乱が発生している。
この反乱に際し、現地軍は近代兵器で武装したドイツ帝国軍に立ち向かうために「不死身になる魔法の水」を祈祷師から分け与えられ、その効果を頼みにライフル銃火へと突っ込んでいった。このため、この反乱は現地で使われるスワヒリ語で「水」を意味する「マジ」から「マジ・マジ反乱」と呼ばれている。名前はオモロイが、3年に及ぶ反乱でドイツ人15人、帝国側アフリカ人兵士382人、そして反乱軍25万から30万人(反乱地域の人口の約3分の1)が死傷したとあっては、ちょっとネタにはできない。
反乱はあまりにも大きな流血を伴ったが、その結果としてドイツ本国は植民地経営者の怠惰、腐敗、無能力、そして現地住民に対する無理解によって植民地経営が破綻しつつあることを知り、これ以降ドイツ帝国領植民地の経営は大きく改善され、現地住民との軋轢も(比較的ではあるが)少なくなっていく。
タンガニーカ湖対岸のベルギー領コンゴではベルギー王レオポルド2世が「コンゴで天然ゴム作るよ! ノルマ達成できないやつは手首切断するよ!」とメチャクチャな事を言い出して、その統治下で人口が3000万人から900万人まで減ったというから、結果的には反乱はタンザニアの人々の命を救ったことになったのだと思いたい(もちろん、コンゴとの比較で「ドイツ人に感謝しろ」と言うつもりはない)。

さて、マジ・マジ反乱の惨禍からやっと東アフリカが回復しつつあった1913年、ドイツは東アフリカで鉄道建設を進めていた。やっぱり鉄道があれば移動も輸送も格段に楽になる。あと、反乱が起こったら鎮圧部隊の移動も楽になる。とは言え、なにしろドイツ本国から遠く離れた東アフリカの地ではレール1本だって調達には手間と時間がかかるので、できるだけレールを敷く距離は短くしたい。そこで、着目されたのが南北に長いタンガニーカ湖だ。タンガニーカ湖は一言で「湖」と言っても、なにしろスケールの大きいアフリカのこと、なんと南北の長さが670キロもある。湖の南端、北端に鉄道を接続し、湖では汽船に貨客を積み替えることとすれば、670キロ(日本で言えば東京-広島間の直線距離にほぼ等しい)の鉄道建設の手間が省けるんだからこりゃお得だ。
しかし、問題はタンガニーカ湖には当然造船所なんてないことだった。
仕方がないので、ドイツ植民地省は汽船をドイツ本国のマイヤー・ヴェルフト造船所(厳密には「ヴェルフト」は造船所のことなんで、「マイヤー造船所」)で建造した汽船を5000のパーツに分割して梱包、ハンブルグ港から船便で東アフリカに送りつけた。
東アフリカの主要港、ダルエスサラームで荷物を受け取った植民地側は5000の荷物をホイサホイサと鉄道に載せてどんどんタンガニーカ湖へと送り出す。鉄道はまだ建設中でタンガニーカ湖の約50キロ手前で終わっていたので、最後の50キロは現地労働者を雇って人力で運んだそうだ。単純計算で一箱300キロもあるけどね!(船体の竜骨なんか、どうやって運んだんだろう?)
タンガニーカ湖では3人のドイツ人技術者と現地労働者が13ヶ月の時間を費やして汽船を再度組み上げた。船は全長70メートル排水量約1500トン、上客にはシングルのベッドにソファーもある1等船室が7室と、2人相部屋の2等船室が5室準備してある。電気照明と空調完備で、さらに時間あたり3キロの氷を作る製氷機まで備え付けたなかなか豪華なものであった。いくら全パーツが工作済の状態で送られてきたとはいえ、これだけの船を大した工作設備もない状態で組み上げたのだからその苦労たるや相当なものだっただろう。
誰がつけたのかわからないが、汽船は「Graf von Goetzen」と名付けられた。マジ・マジ反乱を鎮圧した当時の東アフリカ総督の名前である。

さぁ、汽船も就航したし、これで東アフリカの旅もずいぶん快適になりますよ。よかったよかった。
と、思ったら、全然良くなかった。
G.V.ゲッツェンが就航したのは1915年2月5日。すでにこの半年前、ドイツ帝国は第一次大戦に突入し、タンガニーカ湖対岸のコンゴを支配するベルギー、タンザニア南北に国境を接するザンビア、ウガンダ、ケニアを領有するイギリスと開戦していた。
ドイツ軍はタンザニア西方から連合軍がタンガニーカ湖を渡ってくるのを防ぐため、軽巡ケーニヒスベルク(初代。開戦時にダルエスサラームに寄港していたが石炭不足で動けなくなっており、1915年7月11日に英軍の攻撃を受け自沈した。)から105ミリ砲1門、88ミリ砲1門をG.V.ゲッツェンに移し、仮装砲艦「SMS(Seine Majestät Schiff、「皇帝陛下の艦」) ゲッツェン」に改装した。

と、いうわけでGPM公式ページの完成見本写真でSMSゲッツェンの姿を見てみよう。

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「仮装砲艦」とは言ったものの、ほんとにただの船に艦砲乗っけただけだ。
もちろん装甲なんてないが、全然それでも構わない。どうせ敵対するイギリス、ベルギーはタンガニーカ湖に艦船らしい艦船を保有しておらず、ゲッツェンはこの時点でタンガニーカ湖最大の船舶であった。
このSMSゲッツェンと、他に長さ20メートル排水量60トンの「Hedwig von Wissmann」(ゲッツェンよりも前の東アフリカ総督、ヘルマン・フォン・ヴィスマンの奥方の名前)と排水量45トンの「Kingani」(由来不詳)という小さい小さい蒸気船に47ミリ砲や37ミリ砲を積んだ、まぁなんというか、いないよりはいたほうが幾分ましな程度の船2隻を合わせた3隻でドイツ帝国東アフリカ軍は長さ670キロのタンガニーカ湖を守ることとなった。


(後編に続く)

参考ページ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/タンガニーカ湖
https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツ領東アフリカ
https://ja.wikipedia.org/wiki/マジ・マジ反乱

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Model-KOM ソビエト試作戦闘機 Su-15(1) ・後編

カッターマットは同じところばっかり使うもんだから、一箇所ボロボロ、後は新品ってことになりがちである。上下ひっくり返せば長持ち二倍だが、それにも限度がある。ボロボロの2箇所のためにピカピカの残り部分を捨てるのもモッタイナイと悩んだ結果、カッターマットの手前数センチ部分にカッターで深く切り込み入れてから折り曲げて割り、最後はハサミで切るという力技で切断して新品部分を使えるようにしてご機嫌な筆者がお送りする世界のカードモデル情報。本日はポーランドModel-KOMの新製品、ソビエト試作戦闘機 Su-15(1) の後編。

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斬新なタンデムツインジェットエンジンで単発の空気抵抗と双発の出力を狙ったSu-15(初代)だったが、時速800キロに達すると異様な振動が始まるという現象に悩まされていた。
42回、トータルで20時間の試験飛行が行われたが振動は不規則に発生し、一旦始まると速度を時速600キロ以下まで落としても止むことがなかった。現在では、Su-15の主翼はテーパーをつけない矩形翼を後退させている上に脚収納用の切り欠きを作ったために主翼付け根での強度が不足し、主翼がバタつくフラッター現象が発生していたものと推測されているが、当時の技術力では振動の原因を解明することはできなかった。

1949年6月、Su-15はどこまで速度が出せるかを試すこととなった。謎の振動がおさまらないままそんなテストしていいのかと思うんだが、もしかすると返って高速だと振動がおさまるかも? 的な希望的観測もあったのかも知れない。
この危険な飛行のテストパイロットに選ばれたのは、これまで4回Su-15で飛んでいるセルゲイ・アノヒン(Сергей Николаевич Анохин)。
アノヒンはこの手の危険な試験飛行のエキスパートだった。

セルゲイ・アノヒンは1910年モスクワの生まれ。学校を卒業してからは鉄道技術者を経てバスの運転士となったらしい。
1929年、アノヒンはレニングラードの赤軍グライダー学校に入学する。一説には、兄レオニードが抽選で当てたモスクワ遊覧飛行のチケットを譲ってもらい初めて空を飛んだ事に大きな感銘を受けたためだという。
1931年にグライダー学校を卒業したアノヒンはさらに高レベルの航空学校へ進み、ここでも非常に優秀な成績をおさめる。33年までにアノヒンはグライダーのスペシャリストとして数部門でグライダーの国内記録を保有、さらについでに習得したパラシュート降下でも高い技能を示していた。

1934年、アノヒンは彼のキャリアを決定づける実験に参加することとなる。
中央航空流体力学研究所、ЦАГИ(ツアギ)ではグライダーの翼の特性を調べるために同じ機体に違う翼を取り付けた4機のグライダーを製作したが、機体強度について製作した技術者(詳細不明。アントノフの弟子らしい)は「時速300キロまでいけますよ!」と豪語していたが、ツアギの技術者たちは「いや、これ時速220キロ越えたら分解するよ……たぶん……」と主張。両者の意見は平行線を辿り、最終的に「じゃあ、300まで実際に出してみようじゃないか」となった。とはいえ、当時は便利な自動操縦装置があるわけじゃなし、誰かが乗って飛ばなければならない。
この危険な試験の操縦士に選ばれたのがグライダー操縦に長けていて緊急時にはパラシュート脱出もできるセルゲイ・アノヒンだった。
10月2日、アノヒンの乗った実験グライダー「Рот Фронт-1」は曳航機に引かれて飛び立ち……時速220キロで空中分解した。アノヒンは崩壊する機体から無事に脱出、怪我一つなく地上に降り立ったばかりか、2週間後の18日には国内グライダー航続時間記録を11時間32分で更新しているのだから、飛ぶことに対する恐怖感を全然感じないタイプだったのだろう。
アノヒンの恐怖感に対する興味深いエピソードがもう一つある。1935年に正式にモスクワのパラシュート学校を卒業したアノヒンは1935年から1940年まで、トルコに派遣されパラシュート降下の教官を勤めた。その際に、一人の訓練生のパラシュート(ソ連製)が開かずに墜落するという事故が発生。訓練生達の間に動揺が広がるの見たアノヒンは事故で開かなかったパラシュートを背負い、無事にパラシュート降下してみせたという。

1941年、ドイツ軍の侵攻で戦争が始まると9月にアノヒンは陸軍に呼び出されグライダー部隊の指揮官に任命される。「赤軍グライダー部隊」なんて全然戦史に出てこない部隊だが、主な任務はパルチザン部隊への補給であった。
作戦はドイツ軍戦線後方に確保したスペースにグライダーと曳航機が着陸。グライダーと物資を残してグライダー操縦士は曳航機に便乗して基地に戻る(グライダーは現地でパルチザンが解体する)という危険なもの。
アノヒンはこの困難な任務をなんと200回成功させた上に、1943年3月17日にはパルチザンが比較的良好な広場を確保していたために、着陸したグライダーを曳航機につなぎ直し、グライダーに負傷しているパルチザンを載せて離陸、基地へ帰還している。これは第2次大戦において唯一の敵後方からのグライダー離陸であり、この功績でアノヒンは赤旗勲章を授与された。

例のグライダー空中分解実験の功績もあり、アノヒンは戦闘任務の合間には新型グライダーのテストにも呼び出されていた。彼のテストしたグライダーの中でも特に有名なのが、”空飛ぶ戦車”A-40だろう。これは、軽量化したT-60軽戦車に翼を取り付けて直接グライダー化し、敵陣に戦車を送り込むという画期的というか斬新というかドリーミーなアイデアだった。

AntonovA40.jpg
画像はWikipediaからの引用(この項、キット表紙写真以外全て)。たぶん、想像図。

古い資料には「T-60のギヤをニュートラルにして牽引しても抵抗が大きすぎて離陸速度が出せず、失敗に終わった」と書いてあることが多いが、東側の資料では「離陸、着陸、翼の離脱と自走での帰還に成功」と書かれている。単に抵抗が大きいのならドイツ軍のロケット戦闘機みたいにドリーに乗せて引っ張ればいいんだから、たぶん、飛んだのだろう。しかし、飛行は安定せず、曳航中の高度は数十メートルしか取れないという状態では実用化できずに計画は破棄されている。

1945年5月、戦争は終わったが、アノヒンは「Yak-3で限界を越えた無理な機動したらどうなるのっと」というスレに応えるためにYak-3戦闘機を空中分解させ負傷、片目を失明してしまった。

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1950年代のセルゲイ・アノヒンの写真。よく見ると左目は義眼であることがわかる。
アノヒンはYak-3の事故の半年後にはテスト飛行の仕事に復帰していた。

この、ソビエト航空界切っての危険任務男、セルゲイ・アノヒンがSU-15に乗り込んだ。
1949年6月3日、アノヒンが乗り込んだSU-15は速度を時速870キロまで上げる。途端に凄まじい振動が発生した。さらに、あまりの振動の激しさに電装系がどこかイカれたらしく、コンソールがモクモクと煙を吐き始める。
こうなっては、さすがのアノヒンでもできることはない。やむを得ず、射出座席の動作レバーを引いたが、電装系がイカれてるんでこれも不発。しかし、アノヒンは持ち前の冷静さを発揮、キャノピーを開け自力で脱出した(射出座席はちゃんと動作したとする資料もある)。

双発と単発のいいとこどりを狙ったスホーイの挑戦は終わった。
スホーイはSu-15を常識的な単発形式として、無難にMiG-15のパクリみたいなスタイルにしたSu-17(初代、Су-17 «Р»)を試作したが、ツアギは「これ、振動起こした主翼の平面形は何にも変わってないよね?」と飛行許可を与えず、Su-17試作機は射撃訓練の的となって消滅、スホーイ設計局もオモシロ兵器でソビエトの国力を浪費したサボタージュの罪で解散となった(1955年に再建)。Su-15の試作認可与えた方は責任とらないんでいいんですかね。

セルゲイ・アノヒンはその後も危険なテストパイロットを続けた。1960年12月にはTu-16のテスト飛行中に機体が炎上、クルーの脱出を確認したアノヒンは最後に射出座席のレバーを引いたが、これがまた不発だった(連動して開くはずのハッチが凍結していたらしい)。数日後、気温マイナス30度の森林に遺体を探しに来た捜索隊が発見したのは炎上するジェット爆撃機から自力でパラシュート脱出した後、手近な小屋で手持ちのアルコールをチビチビやってしのいでたアノヒンだったという武勇伝を残している。

彼はそのキャリアからイケイケで破天荒な人物を想像されがちだが、同僚に言わせると物静かで控えめな、おとなしい人物だったらしい。1966年からアノヒンは宇宙部門に移動し、宇宙飛行士の訓練、指導に当っていたが、生徒だったゲンナジー・ストレカロフ(Генна́дий Миха́йлович Стрека́лов。総宇宙滞在期間268日22時間22分)に言わせると「彼は父であり、友であった」ということだ。
1986年4月15日、アノヒンは胃がん(資料よっては動脈瘤破裂)によって死亡した。飛ばした機種200種類、うち30機はテスト機、生涯に6回の緊急脱出を経験した偉大な飛行士であった。

768px-Могила_Героя_Советского_Союза_Сергея_Анохина

モスクワにあるセルゲイ・アノヒンの墓標。左下にあるのは彼の妻、 Маргаритаのお墓。彼女もまた優秀なグライダーパイロットだった(二人は飛行士学校で知り合ったそうだ)。
アノヒンは宇宙部門に移動した時点ですでに高齢であり、また隻眼であったこともあり宇宙飛行士にはなれなかったが、1996年4月、小惑星(4109)にその名前”Anokhin”が付されている。

スホーイ設計局を閉鎖させ、ついでにセルゲイ・アノヒンも殺しかけた迷惑飛行機Su-15(1)は空モノ標準スケールの25分の133分の1で完成全長約50センチ。難易度は4段階評価の「3」(難しい)、定価は39ポーランドズロチ(約1300円)となっている。
極初期ジェット機ファンのモデラーなら、こんな二度とキット化されない感じの機体を手に入れるまたとない機会である今回を見逃すべきではないだろう。また、セルゲイ・アノヒンのファンであるモデラーも、アノヒンが乗った機体コレクション(アノコレ)の一角として是非確保しておきたいキットである。
*2月20日訂正
スケールまちがえているのをコメント欄で御指摘いただきました。ありがとうござます!





キット表紙画像はModel-KOM社サイトからの引用。

*定価はあくまでも現地で購入する場合の値段です。日本国内で購入する場合には輸送費などを考慮し、2倍~3倍程度になるとお考えください。


参考ページ:
https://ru.wikipedia.org/wiki/Анохин, Сергей Николаевич
http://aviapanorama.ru/2010/06/eto-byl-dejstvitelno-chelovek-ptica/
http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=418

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